皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
本来のスピリチュアルを
実戦で使うという点を考える時、
お化けつまり霊の事ですが
彼等の事が視えないから使えないし、
使う努力すら出来ない。
と、考えられる方も居るでしょう。
けれど、
それはかなり視野が狭いです。
霊とは何かを思考すれば
答えは必ず出てくるものです。
霊とは
「肉体を得ていない存在」です。
生きている者が
死去した後の存在のみと思いがちですが、
元々肉体を得ていない存在も居ます。
自然霊がここに該当します。
皆さんが大好きな龍神などですね。
要は、幽体と霊体のみで構成される存在が
霊という事になります。
今回の話は本来のスピリチュアルを
実戦で使う、若しくは使う努力をする
という話ですので、
分かり易い様に人に絞ります。
人でいう場合の霊とは、
端的に言うと死後の姿となります。
生まれてくる前の姿とも言えますが、
ここでは敢えて死後に限定します。
スピリチュアル=霊的
だからと言って、霊でなければいけない
という思考がそもそも間違いなのだと
気付けない様では、お話になりません。
単に肉体の有無が霊との
表現的な境目なだけであって、
存在としては人=霊という事になります。
なので、本来のスピリチュアルを
使う、ないし使う努力をするのであれば、
生きている人に対して
行えば良いだけの話です。
総ての存在は生きている間から
霊となった後の姿や、
その片鱗を必ず表します。
それを踏まえますと、
善い霊の場合も悪い霊となる場合も
様々な特徴が何かしら表れているので、
それを如何にキャッチするのかが
本来のスピリチュアルにとって
重要な点となるのですね。
如何に縷々行われている人の業を観察して、
自身に転嫁させる事が出来るか。
自身への戒めへと繋げる事が出来るか。
手始めは人だったとしても、
総ての存在に該当する訳ですから
人以外の存在を観察しても同じ事が可能です。
受肉している存在でこれらを反復反芻して
学習を積み重ねていきながら、
目に視えない存在の事を意識の中に登らせていく。
己を含めた眼の前に居る存在にすら出来ない者が
目に視えない存在に対してなど
何も出来る事はありません。
視える存在の想いを受け取る。
感じ取る。
これが使う努力の指標における最低限度です。
なので、
いくら自分で努力していると
自己評価しても、
ただの独りよがりの自分本位ですから、
努力しているという事には
決して繋がらないのですね。
本来のスピは
使い熟せない
ものやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
恐らくですが、
効率良く理解をする為に
人は何かにつけて
種類を分けたり、
種別を講じたりするのだと
思うのですが、
以前にも話しましたが
人と霊に於いても
同様の事が言えると思います。
人が生きていれば「人」
人が死んでいれば「霊」
確かに分かり易いですね。
ですが、あにきはこの分け方に対して
非常に違和感を覚えます。
どちらも「人」で良いと思うし、
どちらも「霊」で良いとも思います。
いちいち分ける必要があるのかと
切に考えるのですね。
現世を基準にした場合が
「人」であるならば
死んでいても別に「人」で
良いと思うのです。
逆に向こうの世界を基準にすれば
生きていようが死んでいようが
肉体の無い状態が基準ですから
どっちも「霊」で良いと思います。
どこを基準に置いて話をしているのか
どの視点で視ているのかで
決めているだけですから、
至極、下らない事だと思うのですね。
死して肉体を喪失しただけで、
霊と呼び畏怖の念を抱いたり
それだけで恐怖の対象とさせてしまう。
けれども、死んだだけですよ。
ついさっきまで肉体を持っていて
人と呼ばれていて
そこには家族もいたかも知れないし
仮に身寄りなく
天涯孤独であったとしても、
その存在を認知していた人くらいは
居たであろうれっきとした人です。
何の目線で捉えるのか
どの視点で視ているのか
自分は生きているのだから
死者に対しても人として接する
その真摯な思い遣りが大切だと
あにきは考えていますし、
それが普通だと認識しています。
何故ならば、
その亡くなった方にも
存命の御身内がいたりする訳でして
その御存命の方々の顔に泥を塗る様な
非礼且つ無礼な行為は
人として決して許されるものではないと
思っているからです。
あにきが除霊や浄霊を執り行ったり
何かしらの理由で、
そこらにいる亡くなった方々の事を
人に話したりする場合は、
必ずその方々の名前や出で立ち、
生い立ちや逝去に至るまでの事を
かなり細かくお話をしています。
それは、
そこにご遺族やお知り合いが居らずとも
話を聴く相手に、亡くなった方の
人としての存在を知らしめる事で
思い遣りという形を通じて
御存命の方々に対して
敬意を表する事に繋がると
確信しているからです。
人視点で視る、接するというのは
そういう事になります。
その想いの分別が付けられないのは
とても悲しい事だと感じてしまいます。
大切な大切な
爺ちゃん婆ちゃんを
悪霊扱いされたら
気分が良いとは
言えへんやろ
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、視えない存在への
基本的な考え方について
お話をしたいと思います。
視えない存在、
ここでは霊的な存在としますが、
このジャンルを語る時に
どういう訳か無視されているのが
「基本的な考え方」
そのものです。
基本的な考え方というのは
何なのかというと、
視えない存在を語る上で
何を中心として捉えて話しているのか?
という事ですね。
多くの場合は「人中心」で
語っているのではないかと思います。
それはそれで良いのですが、
あにきとしては疑問が湧きます。
と言いますのも、例えば
「私、見えます」系の方々などは
人様の前でよくこう言います。
「あそこに誰かいる...」
「男の子が立っている...」
みたいな台詞ですね。
こういう自慢げな言葉を聞く度に
あにきは思う訳です。
(もっと他に視えないのかと…)
どうして「人」しか見えてないのかと。
この星には、人しか住んでない?
そうでないのは誰もが知っていますよね。
様々な生物が居て、物質が存在しています。
死した者が見えるのは結構ですが、
何ゆえに人だけしか言わないのか?
人よりも個体数が圧倒的に多い存在が
地球上には幾らでも居ます。
それら万物の全てに霊体は宿っていて
死の概念や死後の行き先は人と違えど、
狭間と呼ばれる空間には、
人のみならずそれら全てが存在しています。
にも拘らず、人しか見えていないのは
「人中心」つまり、
「自分中心」でしか考えていないからです。
そもそも霊的な事を考える時、触れる時に
決して忘れてはいけないのは、
「全ての中に自分は居る」
という思考です。
こういう場面で「全て」と言うと、
どういう訳か大自然と捉えがちですが
そうではなくて、
ここには自然もあれば人工物もある。
生きているもの死んでいるもの
見えるもの視えないもの
生物のみならず、鉱物や空気に至るまで
これら全ての中に自分が居るという
考え方です。
これが、視えない存在への
基本的な考え方となります。
この考え方捉え方ですと、
人は人という様な、カテゴリー分けをして
考える事はありません。
分けて考えてはいけないのです。
視え方も
感じ方も
聞き方も
触れ方も
どんな存在に対しても
同じ接し方とせねばいけないのが、
本来の視えない存在に対する考え方。
視えない存在とは意識で繋がります。
意識というと漠然としていますので、
言い換えますと、
想いや念です。
そこへ、感情や気持ちも加わります。
言葉というよりも、
これらの意識がダイレクトに届いたり
触れたりする事の方が多いです。
要するに、
見えると自慢をしたいのであれば
人以外の存在の想いや念、
果ては姿に至るまで視えないといけない。
それが出来ていない段階で、
存在のカテゴライズをしてしまっていて、
「万物に対する想い遣りや優しさ」
という、
愛情の概念にも反してしまっている。
だから、
恐怖心やエゴ(欲)から抜けられないし、
逆にそれらへ溺れていってしまう。
実際に、こんな風に言ってくる人って
自分の事しか考えていないというのが、
表情に出ている人が多いと思いますよ。
詰まるところ、
「愛情の理解度が低い人」という事です。
物の目線、
概念そのものを変えて視ないといけません。
同時にこれは、
生きている存在全てに対しても
行える考え方なんですよ。
何故ならば、
皆さんの中にも霊体が存在しているのですから。