今回は考え方について
お話をしたいと思います。
別に僕みたいな存在で無くとも
人から何かしらの助言を
求められる事はあると思います。
その時に、
意識がどちらへ向いているか。
完全に相手なのか
一部のみ相手なのか
全て自分なのか
こういった意識の方向を考えて
助言というものは行われます。
また、その際に聞く側も同様でして
意識の方向はどこへ向いているのか。
上記と同じ問い掛けをする事が
大切になってきます。
助言をする側も聴く側も
意識の方向が自分自身へと向いていれば
助言の中身は薄っぺらくなりますし、
聞く姿勢も整わなくなります。
何故かと云うと、お互いがお互いにとって
都合の良い内容であり、都合の良い解釈を
連綿と続ける事になるからです。
所謂、綺麗事のオンパレードです。
当り障りの無い内容や
痛みの生じぬ薄愛な言葉の綴りです。
相手のためを想えば想うほど、
厳しい事実も口にする事が出来ます。
但し、そこには想いが存在するので、
相手にとってなるべく傷が浅くなる様に
気配りや気遣いは必ず行います。
言葉のチョイスというやつです。
例えるなら、手術みたいなものです。
切開をしないと治せないにしても、
最小限度の傷口で治めようとしますよね。
肉体の中にある傷付いた幽体を整える為に、
言葉を用いて響かせないといけません。
なのに、その言葉で傷の上塗りを
させる訳にはいきませんからね。
そこで、
今一度気に留めてほしいのですが、
厳しい事を口にするというのは
「決して伊達や粋狂でやっている訳ではない」
と、いう点です。
まして、相手のためを考えていれば、
助言する側が痛みを感じずに遊び半分や
余興程度で考えて出来るものではないのです。
相手の辛さや苦しさを
真剣に捉えれば捉える程、
相手に対して真摯に向き合えば向き合うほど、
助言する側の痛みは指数関数的に増加します。
しかし、その痛みは必定的なものとして
相手の辛さを分かち合える為の痛みとして
心内に留めながらお話をする訳ですね。
これは意識の方向をちゃんと相手に対して
定めている人であれば、
誰だって同じだと僕は考えます。
聴く側となった際にこれと同じベクトルで
聴く事が出来る人であれば、
何の疑いも懐疑もする事無く今この瞬間に
理解する事が出来る筈です。
教える側の抱えている内なる痛みを理解せずに
自身の痛みだけに溺れている様な人は、
恐らく一生、死んだ後でも本当の意味での
思い遣りというものを実感する事は難しいです。
相手に与えるとなれば皆無でしょうね。
気張ってやるけど
何度話しても
無理なのであれば
切るしかないんやで
身が持たんさかい


