2025年7月16日水曜日

弱き心は多へ集う(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




どうしても落ち込んでしまうとか
ストレスを溜め込んでしまうとか

この手の状態に陥りがちな人は
結構多いです。

特に、ある一定の期間で
ネガティブの渦に堕ちてしまう人は
“何か”に頼りがちですし、

依存癖があります。
最も身近な依存はお酒とかですね。

こういった方の特徴として
本来のスピリチュアル目線から
総じて言える点が一つあります。

それは、過去から現在に至るまでの

「自分を認めていない」

と、いう点です。




自分というのは善いも悪いも
同数を持ち合わせています。

その表現型が業なのですが、
これが善い方へバロメータが偏っているか
悪い方へ偏っているかの

バランスの違いで業が変わります。

「自分を認められない」

という特徴は、
このバランスが「悪い」に
偏り過ぎているのです。

何故に悪いへ偏るのかと言うと、
自分を考える際に
「善い部分しか認めない」からです。

過去から現在に至るまで、
善い部分しか認めていない。

悪しき部分は認めずに蓋をし続けるから
詰まるところ、心中でオーバーブローを
生じさせてしまうのです。

想念で表わすと、念への偏りです。
幽体深くに隠れた念は肉体へと創出します。

結果として、
業の殆どが念基軸となりますから
どこまでもネガティブ思考となるのですね。




逆にとても前向きな人は、
自身の悪い部分を「それも自分」として
隠す事無くちゃんと認めているので、

想いの噴き出しとなりますから
業が想い基軸となるのですね。

「裏で隠せば表に出るし
裏で認めれば表では隠れる」

つまりは相互作用なのですよ。

そして、このネガティブ状態の念基軸の人は
何につけても「依存」を欲します。

それが物だろうが人だろうが
思想だろうが信仰だろうが

結局は、悪しき自分を認めないから
それを隠し切ろうとする為の補完として
依存へと走るのですね。

ともなれば、
そこからの回復を施すとなると
如何に「悪しき自身を認めさせるか」
の、一択となる訳です。

では、どういう点から攻めるのか。




ここまでの流れからすると、
自分の業を吐露させたりするのが
先決と判断してしまいそうですが、

そんなものは無駄骨に終わります。

何故ならば、散々っぱら悪しき自分を
隠遁して認めていない人が
容易に表に出す筈もないからです。

出てくるのは、それっぽく擬態させた
「余所行きの悪しき自分」だけとなります。

要は、綺麗事の塊ですね。
なので、無駄骨ですし意味すら無い。

ですから、余所行きを想定しつつ
その綺麗事の苗床たる思考の破壊を優先する。

早い話が、「世間体からの乖離」を目指します。

念基軸とは「過度の俗欲依存」です。
俗欲とは他者と自身を比べたりした際に
愛を極小化させてエゴを優先させると最大化します。

で、あるならば他者との比較自体が
無駄な事で情けなくて格好悪くて

全く理にそぐわないものだと認識させる事が
優先順位の第一位となるのです。

他者の価値観と自身の価値観は同一であらず。

「他所は他所、うちはうち」

これの徹底です。

誰にでも凹凸は存在してて、
その凹凸の本質たる価値は
自分自身にしか分からない。

それを認めずに他者の価値観へと
丸投げしてしまうのが、
過度の俗欲依存の正体なのですね。

他者から見れば変なとこでも
自分の中では善い部分なんてのは
結構あるものですよ。

この思考を再起動させてあげるのです。

ちなみにですが、
念基軸に陥り過ぎてて貧乏神気質が
強く出ている人には効きません。

言うなれば、
これをやって変わらない人
思考を変えられない人ってのは、
貧乏神だと断定出来るという事ですね。

大人だけやなくて
子供の様子を
確認する時や
無理しがちな奴の
変化を見抜く
最善策なんやで