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2026年7月4日土曜日

完璧主義の思考形態(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




日常の中にほんの少しで良いので
変化を付けてみましょう。

同じ様な動きの中でも、
僅かな違いを設けるだけで
ルーティン化は避ける事が出来ます。

ですが、
そのわずかな違いや少しの変化ですら、
気軽に設けられないタイプの人も
存在するのですね。

その人達が陥ってるのが
「完璧主義」です。

「ちゃんとやらないといけない」
「間違える事は悪」

これが完璧主義の基礎部分です。

ちなみにですが、
その基礎に沿っていたとしても、

それが単に事前に調べるとか
知識を得るというものであって
そのレベルで留まる事が出来るのであれば、
完璧主義にはなる事はありません。

何もかもパーフェクトに拘るのだから
完璧主義な訳です。

しかし、悲しいかなその反動で
完璧を目指すあまり
冒険というものを拒絶する様になります。

つまり、
「失敗を恐れる様になる」

極度なまでに失敗を恐れるから、
安全パイを狙う様になる。
この段階で、完璧には程遠いという事に
当の本人は気が付きません。

安全パイを狙うあまり、
小さい変化すら恐れる様になる。

その小さい変化はとても簡単で
誰でも可能なことだと
頭では理解をしていても、

やらない理由、やれない理由を
別に探し始めて言い訳で塗り固める。

その言い訳の中で、
自身が原因だとは決して言えないので、
人や物に縋る様になる。

何故かと云うと、
失敗した時に文句を付けるためです。

自分は悪くない。
あれが悪いこれが悪いと、
さっきまで縋ってきた存在を悪と断じて
それらの所為にして自身の不出来を隠すのです。

そういった思考形態を是としている結果、
冒頭でお話をした様な少しの変化すら
自身で設ける事が出来ない。

どんなに小さな失敗でも
恐くて怖くて仕方がないから、
いつも同じ動きや同じ考え方に頼って
どこまでも「楽」をする様になるのです。




そして、
それが「楽」だと分かっていながら
周りから断じられるのも怖いので、

努力をしている人と同じ事を
自身もやっているのだと
見様見真似の虚勢を張る様になるのですね。

けれど、その虚勢はまさに虚ろなものですし、
その本質などは理解をしていないし
しようともしていない。

そういう状況だから、

益々立場や社会的なステータスに頼った
物言いをしてくる様になる。
完璧主義の人がやたらと上から目線だったり

お殿様気質、お姫様気質なのはこの為です。

何をどう云う風に装っても
ハリボテの作り物となってしまうのが
完璧主義の恐ろしいところです。

また、その依存性はとても高く、
脱するにはそれ相応の苦痛が必要です。

何をすれば良いのかは難しくありません。
小さな変化を設けるところから始めれば良い。

ですがね、いくらハリボテとは言え
自身のアイデンティティーとして
それまで維持してきた部分を否定する訳ですから、
一筋縄ではいかないのですね。

これとは逆に
苦しみや悲しみ、辛さなどに対して

幼少期から向き合ってきた人達や、
今この瞬間や直近でそういった経験をして
人の想いに触れる事が出来た人達からすれば、
何にも難しくない事だとしても、

完璧主義の人にしてみたら
超高難度の挑戦となるのです。

なので、生暖かい目で見守りましょう。

     ではなくて

ガンガンに叱咤激励してあげないと
いけないのですよ。

これまでクソほど楽をしてきた訳ですし、
直ぐに楽へ逃避する癖があるのですから
その悪癖を上書きしてあげないと
完璧主義からの脱却は難しいのです。

「優しさを履き違えずに厳しさを出す」

苦痛に対して真摯に向き合ってきた
貴方達ならば優しさとして出来る筈です。

他者に対しても、自身に対してもね。

心苦しくも
叱った後に
潰れてしまうのは
貴方が原因ではなくて
相手の勝手です。
真摯に向き合わない
相手がバカなだけやで

2026年6月27日土曜日

決して楽にはなれぬ現実(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




悪霊と云う存在がいます。
死してなお俗欲に執着を
続ける存在の総称になるのですが、

この悪霊とは、
どの様にして生まれるのでしょうか。

端的に云うと、
何かしらの執着を切り離せない場合に
死後悪霊と化します。

生への執着かも知れませんし、
やりたい事への執着かも知れません。

単に生前の思考を
肉体が無い状態で続けようとする執着
と、いう場合もあります。

強い恨みなどで悪霊化してしまう様な
ケースもあります。

この「恨み」という部分は、
言い難いのですが殺害されてしまった等の
悲しいケースも含まれます。

ただ、
1つ誤解の無い様にして頂きたいのは、

「悲惨な死を遂げたからと言って
必ず悪霊と化す訳ではない」

と、いう点です。

悪霊と化すのは俗欲への執着が基本です。
仮に悲しくも
非業の死を遂げてしまったとして

亡くなった方がどんな形でも
それを受入れているのであれば、
悪霊と化す事は無いのです。




寧ろ、俗欲への執着という点で云うならば、
手を下した人間の方が悪霊化し易いです。
何故ならば、俗欲に溺れた結果
手を下した訳ですからね。

また、恨みの連鎖や負の螺旋という
影響力が働きますから、
亡くなられたご遺族などの方が死後に
悪霊化してしまうという事も少なくないです。

これらはどんな形であれとても悲痛な事です。
出来る事なら悪霊化は防止したい。
僕がずっと胸に秘めている
原動力たる想いです。

その中に、
貧乏神化防止というものがあります。

生前に貧乏神と化してしまうと、
その存在は死後確実に悪霊と化します。

貧乏神という存在は、
現世に於ける社会の中での善悪は
まるで関係の無い存在です。

つまり、
普通の人でも貧乏神にはなるのです。

本来のスピリチュアルは、
ここを可能な限り防ぐためにあるものです。
ですが、それは当人に
委ねられるものですので

自ずと限界点が生じてしまいます。

人らしく生き、俗欲に溺れずに制御する。
失敗を恐れずに人間味を大切にして、
前へ向かって進む過程で
向こうの世界の理を護る努力をする。

早い話が、「想い」を軸とした
考え方や動き方をしようねってやつです。

悪霊と化した存在の末路は悲惨ですからね。

哀しみどころか
世代を超えて
連綿とした
恨みの連鎖を
生んでしまうのが
貧乏神や悪霊化です
ええこと無いんやで

2026年6月19日金曜日

差を知って使い熟す(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自身の中での価値観というのは
人に合わせて作るものではないです。

自分の中で確固たるものがあれば
それで充分なのですね。
但し、
その中身に至っては少し考えようで

常識的な一面というのも必要になります。

価値を決める上での常識というのは
一般教養の事を指します。
ここの教養という部分には
所謂、知識や学問が当て嵌まりますが、

常識的範疇での流行りやムーヴメントも
価値を決める上では必要になります。

「自身の中での確かな価値」
「一般的な価値」

これらを己の中で共存させる事で
世間と自身の「差」を知ることが出来ます。

ここの「差」の部分が特定の存在にとっては
愉しみに繋がる部分でもあり、
一般的な話となった場合には
全く理解されない部分という点となります。

つまり、この「差」を理解しておかないと
何かこれと言って特段非常識な事を
している訳でも無いのに、

結構な数の恨みや念を引取る事に繋がります。




何故かと云うと、
話が通じなくなるからです。

ここでの話とは深い部分での話ではなく、
表面上の浅い部分での話です。

自身と特定の存在のみでしたら、
この「差」というのは考えなくても
価値の共感が可能になります。

然しながら、鑑みなくてはいけないのは
この現世で生きるという現実です。

我々は自身と特定の存在だけで
現世を生きているのではなく、
縷々様々な存在を介して生きています。

詰まるところ、この「差」を理解する事で
「相手のため」という奉仕の精神、
思い遣りに繋がるポイントを
手にする事が可能となってきます。

全ての存在がスタンドアローンで
何の繋がりも無く独立独歩で生きているならば
こういった「差」を鑑みる事は不要ですが、

それこそ現実ではなく幻想です。

「自分だけが善ければいい」に
自動的に繋がってしまうのが、
この「差」を理解しないという怖さです。

自身が好きだの嫌いだのではなく、
自分以外の存在や支えてくれる存在に対する
思い遣りとしてこの「差」を理解する。

決して深くなくて良いんです。
すごく浅くて構いません。

世間との窓口を自身に設けておかないと
現実の中に居ながら幻想へ逃避する
そんな結果となってしまいますからね。




世間との差を理解しておかないと
結果として、人に苦痛や辛さを与えます。

これは実体験ですが、
僕は子供の頃に両親がこの「差」を
理解していなかったが為に、

狭い子供の世界の中での流行りや愉しみに
乗ったり付いていく事が出来なかったので、

周囲から疎外されていました。
家では虐待、外では虐め。
中々にヘビーでしたよ。

自身の価値観を持つ事は大切ですが、
それの保持や維持には「差」が必須です。

ましてや、価値観そのものを
押し付けてしまったり「差」を忌避する事は
自身の価値観ではなく特殊な価値観と変貌し

世間や社会、コミュニティからの
乖離を意味します。

それは、我々の生活環境からすれば
死活問題でしかありません。
現に僕の両親は結果として何もかもを失いました。

人や子が望むから必ずそれを与えたり
自身もその中身に乗るという意味ではなく、

節度を以て「差」を理解した上で、
適確に判別をする事が大切になってくるのです。

知らぬ存ぜぬで個として生きていけるほど
現世というものは甘くないですし、
自身の価値観だけを突き詰めるだけというのは

好きな事だけをやるという意味と同意義ですから
それは楽をしているのと
何が違うんでしょうかね。

差を知らないとね
自分勝手に生きて
自分中心で居るのと
何ら変わらない
人の善し悪しは
関係無しに
堕ちるんやで

2026年5月30日土曜日

渇望するが故の(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いや思い遣りというのは
自分のみで確認ができる代物ではありません。

何故かと云うと、
相手が存在する事と
相手へ向けてのものだという事と、
相手共感して初めて成り立つものだからです。

また、「想い」は相手の受取り方次第で
どうとでもその内容が変わってしまいます。

自身が善しとする事であったとしても
それは貴方自身にとっての事であって
相手も同じとは限らないからですね。

この点をしっかり理解をすると
無闇矢鱈と「想いを...」などと云う台詞を
吐く様な真似はしませんし、

口にする事自体を忘れます。

例えば、
教える側の存在が
純粋に教える事を目的として
「想い」という台詞を言う場合はあります。

言わないと分かりませんからね。

それともう一つは、
お互いがお互いの想いを理解し合っていて、
その価値観を高度に共感している場合です。

これらの事例以外で口にしている場合は
基本的に想いというのを
理解していないから発しているか、

それっぽい言葉を吐き出して
何か不埒な事を画策しているか、

このどちらかとなります。
なので、
人を視る時の一つの指標となるのですね。




想いで相手に接して、それを想いとして
受け止めてもらえた場合の行為のことを

「思い遣り」と、云います。

同じ事をしても相手が想いとして
受取らなかった若しくは
受け止められなかった時は、

思い遣りとしては不成立となります。
下手をすると念に変わります。

例に出すと、
「余計なお世話」というのが分かり易いですね。

そのくらい、本来のスピリチュアルでは
思い遣りと云うのはハードルが高い代物です。
意図的に確立させようとして
出来る様なものではないという事なのですね。

それを理解した上で、
決して蓄縮せずに積極的に自身から
行動する事が出来るか否かが重要となります。

そこで失敗を恐れてしまい
己の中の完璧主義を壊す事が出来ないでいると
思い遣りどころか想いを喪失して
全ては「念」へと帰依するようになります。

その成れの果てが「貧乏神」という事になります。

これを防止する為、日頃から
「何のためなのか」「誰のためなのか」を意識して
行動する事が大切になってくるのです。

意識が自身の
内側へと向き過ぎると
念が増していき
想いを渇望するので
「想い」
という台詞を
多用するんやで

2026年3月25日水曜日

自分本位のコントロール(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




自分本位というものは
いつ何時も場所や状態を問わずに
出てこようとします。

何なら形を変えて思い遣りに擬態したり
想いそのものに擬態したり、

ありとあらゆる方法で
出現しようとしますし、
自分本位そのものに
溺れさせようともしてきます。

かと言って、自分本位そのものが
「悪」かと云うとそうではないのです。

自分という個別の存在を護るための
自衛手段でもあり防衛本能でもありますし、

俗欲や欲自体に影響力を与えたり
与えられたりする思考ですから、

何かの行動を始める場合の原動力ともなります。

つまり、
生きる為に必須のものでありつつ
重篤な害を成す事もある劇物なのですね。

自分本位を「完全悪」や「絶対悪」と
決め付けてしまう事が
著しく危険な行為だという意味は

生きる為に必須なモノだからです。

嫌な思いや辛い経験をしたからと云って
脊髄反射的に
自分本位を忌み嫌う人が居ますが、

そんな事をしても改善を目指すのであれば
全くの無意味ですし

そもそも我々という存在の
構成要素の一つなのですから、
消そうとしても消せません。

消そうとしたり抑え込もうとする事自体が
馬鹿げている行動なのですね。

忌み嫌って消そうとする動きや
抑え込む動きをすればするほど、
自分本位は指数関数的に威力や効果範囲、
影響範囲やその出現方法が増していきます。




こうなってしまうと、
最早自身ではどうする事も叶いません。
自分本位に流されてしまって支配されます。

そうならない様に、こんな自分本位も
「自分なのだと」認めてあげるのです。

忌み嫌うから否定をするというのは、
嫌なものには蓋をしたり
目に入らない位置に遠ざけたりする事を指します。

それですと実態解明へ向けた
一切の行動や業を放棄するのと同じ事です。
同時に、野放しにする事にもなります。

野放しにしてしまったら、
もう何が何だか分からなくなります。
それを避ける為にも「勇を用いて」
認めてあげるのです。

そして、自分本位を事前に自分本位だと
認識する事はほぼ不可能です。
全ては事後で確立されます。

要は、やっちまった後でなければ
分からないという意味です。
如何にやっちまってからの最速最短で
気が付く事が出来るかが勝負となります。

そこへ結び付ける為のチェッカーとして
「意識の方向の認識」が存在します。

簡単に云えば、何かの業ごとに
「何のために」「誰のために」
と、云うクエスチョンを
常に頭の片隅へ留めておく思考です。

我々は常に楽をしようとする存在です。

その楽こそが自分本位の具現化した姿ですが、
絶対に「楽をしては駄目」なのではなくて
ここの楽には意味があるのかという疑義を持つ。

動きの楽、思考の楽、感情の楽、心的な楽、

何処にでもあって何処にでも生まれるのが「楽」。
便利と手抜きや思考停止との狭間で
成長要素としての「苦労苦心」を棄てていないか。

そこへ目を向けてあげる事が
「認める」という業です。

これが出来なければ
自分本位のコントロールなど不可能と言えます。

ありのままの姿を
ありのままの姿で
認めてあげる事が
運気アップや
貧乏神化防止に
繋がるんやで

2026年3月4日水曜日

己と思考と教える理由(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




ここを読んでくれていると云う事は、
流されない様に流されない様にと
毎日毎日頑張っているのだと思います。

然しながら、人ってのは
結構簡単に流されるものです。

どんなに気を付けていても流されます。
寧ろ、
100%流されないという方が
不自然なのですね。

では、流されても良いのかというと
そういう意味ではありません。

自身の維持をしたいのであれば、
なるべく流されない方が善いです。
ですが、何の対策もしなければ
あっという間に流されてしまうので、

この流されないパーセンテージを
上げる努力をする事が大切です。

常々お話をしている通り、
流そうとしてくる相手は様々です。

「人のみならず」
「生き死にも問わず」
「肉体の有無も問わず」
「自他も問わず」

ここの理解を深めずに
目に見える存在のみで固定してしまうから
ひょいっと流されてしまうのです。




それと、知識の欠落や枯渇、
そこに伴う思考の停止や不活性です。

知識というのが足りていない状態や
思考をそもそも停止させていたり、
思考停止はせずとも
率先して使っていなかったりすると、

眼前の分かり易い事実にのみ縋ろうとします。
仮にそれが偽りや欺きだったとしても
いとも簡単に信じ込んでしまう。

このメカニズムは割と簡単でして、
早い話が選択肢が少な過ぎるのです。

知識不足かつ思考が追い付かないと
仮説を立てる事が困難となりますし、
立てれたとしてもその数も質も
陳腐なものや稚拙なものとなります。

簡単な内容の上に簡単な選択肢のみ
イエスノークイズみたいなものです。

あまりの知識不足が故に
楽に楽を重ねる内容しか思考出来ないので、

最小単位の選択肢しか作れず
おまけに先や後という点も
目先に毛の生えた程度でしか考えられない。

そうなると、そもそも普段から率先して
知識を集めようとせず、
剰え思考する事も怠けていれば

聴こえの良い言葉に縋ってしまうのは
必定とも言える流れなのですね。




自分を維持して運気を制御し
なるべくであれば善くしたいのであれば、

縷々様々な知識を率先して掴む事。
率先して思考をする事。
思考の方法を身に付ける事。

思考とは簡単に云えば
「時間と空間を使った予測や内観」です。

こうすればこうなる(未来→未来)
こうやったからこうなるかも(過去→未来)
こうやったからこうなった(過去→過去)
こうしてるからこうなるかも(現在→未来)
こうしてるからこうなったのかも(現在→過去)

この様に思考の中での時間軸は
三次元的ではなく多次元的に進みます。
一般性の過去→現在→未来ではないのです。

そこに空間が関与します。
空間というのは「場」ですから、
そこにはモノ等も入ります。

当然、人も含まれます。

僕らはこの複雑な演算を意識もせずに
日々行っているのですが、
意識をしないから数が乏しくなり

率先していないから
やり方すら分からなくなるのです。
故に楽をする選択を取る訳です。

言い換えれば、
自分が今何をすべきなのかを
今何をしているのかを
きちんと意識して動く事が出来れば、

少なくとも怠惰には陥らないですし
堕落の回廊を歩まずに済んで
貧乏神化を防止出来るのですね。

この一連の考え方や
考え方に繋がるきっかけを
僕みたいな存在が教えている訳です。

せっかくなら堕ちないでほしいですからね。

助け合い
支え合いながら
自らの脚で歩んで
自分の手で掴むのが
幸せなんやで

2025年12月24日水曜日

運気の維持の必須条件(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




この現世には色んな人が居ます。

同じ国で同じ地域で、
同じ言葉を使って
同じ様な仕事をしていたり
同じ様な環境に置かれていても

皆それぞれ全てが違っており、

基本的には共感も共有も
何もかもが出来ないというのが
この現世なのですね。

そういったバラバラな存在である
我々を繋ぎ留めているのが、

社会通念や一般常識といった
規範や文化などです。

ですが、
それは表立っているだけのもので
これらのみですと人というのを

この厳しい現実の中で繋ぎ留めたり
人同士での共感を得たりするのは、
非常に困難なものとなります。

実際に、社会通念や一般常識には
個々人に於ける

「性格」や「認識」「理解」

というのは、
反映されませんからね。

では、
人同士を実際に繋ぎ留めているのは
何なのでしょうか。

それが「想い」や「念」といった
想念となります。




想いを使う人は想いを使う人と
念を纏う人は念を纏う人と

類は友を呼んだり
同じ穴の狢であったり

言い方は様々ですが、
同じ類という部分での想念が
個々人を繋ぎ留めているのですね。

そこには
表面上のみの思い遣りもあれば
卑屈な意地汚さもあります。

然しながら、
本当の繋がりというのは
この二種ではないのです。

これではどちらも念であり
本当の想いとは言えないのですね。

では、何をどうすれば良いのか。

実際に大切になってくるのは、
想念への理解力です。

想いも念も理解する。
その為に努力をする事が出来る、
相手との違いを理解する事が出来る力。

規範や文化を上手く利用しつつ、
他者との
コンセンサス(一致)を求めるのではなく
置かれている
コンテクスト(状況・背景)を理解する。
その為に自身の基準で
カテゴライズ(選別)をしない。

多数協調性を保持はしつつも
個別による共感の困難さを知る。

こうして生まれるのが
想いにも念にも偏らない
フラットに矛盾を理解し使える
ニュートラルな第三の選択肢である

「想念を理解する人」となります。

想念を理解する人は想念を理解する人と
繋がる事が可能です。

本当の思い遣りというのは、
ここから生じます。

言葉の上だけでの「思い遣り」に
うんざりしている人というのは、
ここへの架け橋が掛けられている状態です。

個別の正義を
貫くのではなく
個別の違いを
認めるんやで
貴方の正義も
対岸から見れば
悪と成り得ます

2025年11月8日土曜日

真面目さは使いようですよ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




これと言って特別な問題も無く
至って平穏無事な生活を
営んでいる人に限って

大変というものに憧れます。

仕事が大変、生活が大変、
あれが大変これが大変、

その割には何も困っておらず
人の見ていない場所では
贅の限りを尽くしている。

そういう人に限って
ちょっと体調に変化があった場合や
ほんの少しの疼痛などでも

まるで大病を患ったかの様な
不治の病に冒されたかの如き
反応をします。

これを「大変だ病」と言います。




勿論これは病気でもなければ
何でもありません。
単なる面倒臭い構ってちゃんです。

大変だ病を発動させている
ザンネンな人は結構多いです。

その手の輩へのアドバイスは
いつも決まっておりまして、

「全肯定」に徹します。

大変だ病の人は、
自分の意に沿う内容以外は
決して受入れません。

相手さんが全力で
間違っている事を話していたとして
それを否定しても
都合の悪い言葉は耳に入りません。

それなのに否定をしても
仕方がないので全肯定します。

それで大丈夫なのです。
どうせ大して聞いてもいませんから。

その代わり、二度と会わない。
お願いをされても
二度と会わなければ良いのです。




もし、それが出来ない様な
距離感の人であるならば、
終始テキトーな返事をしていれば
全然大丈夫です。

まともに受け合う必要なんて
全くの皆無なのですから。

そういった
どうしようもない人が
貴方の周りにも一定数存在する筈です。

貴方からすれば魑魅魍魎にも等しい様な
禍々しい存在に対してまで
真面目に相対する必要など無いのですよ。

相手がテキトーかましているのなら
自分もテキトーかましてやる。

これが「真摯に向き合う」という業です。

そんな輩にまで
貴方の「真面目さ」を使って
一体何が生まれますか。

ハッキリ言って、ストレスを触媒とした
縷々数多な念しか生まれてこないですし、
この種のハードルは
乗り越えるべきものではなくて

あの手この手を使って
ただ避ければ善いだけの事です。

あれよあれよと出てくる碌でも無い問題に
正面切って全てを体当たりで
処理していける程、
貴方は暇人ではない筈ですよね。

そう考えれば自身の真面目さが
仇となってしまう意味も
よく理解出来るんじゃないですかね。

貴方自身が
真面目さを
売りにするなら
真面目にテキトー
かましてごらんな
視野も広くなるで

2025年9月29日月曜日

building a thought process(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




興味が無いから知らない
興味が無いから分からない

人と接していると
何気によく耳にする台詞ではないですか。

小生意気にスカして言う奴も居れば、
真面目にそう答える人も居ます。
では、逆に興味のある事を
どれだけ持っているのかを聞くと、

大した数は持っていない。

つまり、そういう人達は
何も知らない事だらけの中で生きていて、
困った何だと慌てふためくのです。

そして、その何も知らないというのは、

「自分が知ろうとしていない」
「自分から知る様に
動こうとしていない」

と、いった怠惰の中での結果なのですね。

知らなくても直ぐにググって
分かるから良くね。

みたいな動きが一般的となって久しいですが、
そんな超特急で調べる状況で
出てくる様な情報などは、

大抵の場合、誰かしら何かしらの意図や
資金が投入されている情報ですし、

仮に正しい情報だったとしても、
それは分かったのではなく
「見ただけ」であり「読んだだけ」なので

その身に落とし込む事が出来ませんから
述懐したり使い熟す事は無理ですね。

どうなるかというと、
ほぼ確実に足元を掬われる結果となります。




これを回避させるには、
日頃から色々なものに興味を持って
調べたり頭に叩き込んだりして

使う努力を当然に行って
その身に覚えさせていく

そして、間違っていたら適宜改訂する
合っていたら大丈夫。

という様な、思考回路の構築が
必要となってきます。

では、これをどのように作るのか。
そもそも興味を持つには
どうすれば良いのか。

無理に興味を持つ事は出来ません。
どうせ飽きてしまって
それ以上には進めないです。

ならば、興味が無いからこそ
調べるという考え方に切り替えれば良い。

「いつかどこかで誰かの為に活かせる」

と、いう想いを基軸とした思考で
やってみれば良い。




想いというのは不思議なもので、
誰かの為にというベクトルの力が加わると
良い意味での外側へ向く作用が働きます。

すると、途端に興味自体が
湧いてきたりするものなのですね。

「あの人のために」「この人の為に」

という具合です。

ひけらかす為に興味を持つのではなく、
誰かとの話の「きっかけ」を得るための知識。
その為の興味。

ですから、
自分が調べる際には知識の深さは要らなくて
寧ろ、「広さ」が必要なのです。

「深さ」は、誰かと話した際に
教えてもらって深くしたり、
または深くするきっかけを得て
その後に自身で深くすればいいだけ。

誰しも最初から
興味を持っている訳ではないです。
どんなカテゴリーでもそれは同じです。
最初は「無」からのスタートです。

それすらも忌避する事が思考停止ですし、
「考えない楽」となりますから
怠惰へと繋がるのですね。

それと、興味が無いならば
興味が無い理由を論的に話せなければ
意味が無いですからね。

どうして?
何時?何処で?
どれが?何が?何故?
これらが何も無いのは
理由がある筈やろ

2025年9月27日土曜日

闇を知り光を得る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




善い状態を維持したいから、
善い事ばかりに注力をする。

こういった思考や動きを
してしまいがちですが、
非常に安直な行動であり

これでは決して善くもならなければ
維持も出来ません。

それどころか、
確実に貧乏神へと堕ちていきます。

では、どうすれば良いのか。

「善い」を伸ばすのであれば
「悪い」を理解する

善くなりたいからと
「想い」ばかりを得ようとするのは
良いとこ取りであり、

俗欲塗れの念基軸状態です。

そうではなくて、
想いを真に得るためにこそ
「念」を理解しないといけません。




想いと念は表裏一体の相互関係です。

想いの裏には常に念が存在し
念の裏には想いが必ず存在します。

単純な善悪ではないけれども、
善い状態の真の価値を知り得るには
その逆の状態を理解していないと
本質を得る事は出来ません。

「喧嘩する状態を理解するからこそ
平穏無事な状態の価値が分かる様に」

「生活が苦しい状態を知っているからこそ
足るを知る事が出来る様に」

「独りよがりの惨めさが分かるから
人の有難さが理解出来る様に」

念の状態を理解しているからこそ
想いの本質を述懐する事が出来るのです。

光の本質は闇を知らないと理解出来ない。

想いというのは、
その中に埋もれていると本質が視えません。

住みやすい場所に居る人は
それが普通だから漠然とした住み易さしか
理解出来ないし口にもしないですよね。

想いを得たいのならば
必ず念を理解し認めてあげないと
その先にある維持には繋がりません。

よくよく考えてみれば分かりますが、
貧乏神って必要以上に
験を担いだり想いを重視しているものです。

そして、自分には念など無いと
思っていますからね。

汚い部分に
目を向けられて
直視出来てこそ
想いの意味は
理解出来るんやで