今回は動き方について
お話をしたいと思います。
恐らくですが、
効率良く理解をする為に
人は何かにつけて
種類を分けたり、
種別を講じたりするのだと
思うのですが、
以前にも話しましたが
人と霊に於いても
同様の事が言えると思います。
人が生きていれば「人」
人が死んでいれば「霊」
確かに分かり易いですね。
ですが、あにきはこの分け方に対して
非常に違和感を覚えます。
どちらも「人」で良いと思うし、
どちらも「霊」で良いとも思います。
いちいち分ける必要があるのかと
切に考えるのですね。
現世を基準にした場合が
「人」であるならば
死んでいても別に「人」で
良いと思うのです。
逆に向こうの世界を基準にすれば
生きていようが死んでいようが
肉体の無い状態が基準ですから
どっちも「霊」で良いと思います。
どこを基準に置いて話をしているのか
どの視点で視ているのかで
決めているだけですから、
至極、下らない事だと思うのですね。
死して肉体を喪失しただけで、
霊と呼び畏怖の念を抱いたり
それだけで恐怖の対象とさせてしまう。
けれども、死んだだけですよ。
ついさっきまで肉体を持っていて
人と呼ばれていて
そこには家族もいたかも知れないし
仮に身寄りなく
天涯孤独であったとしても、
その存在を認知していた人くらいは
居たであろうれっきとした人です。
何の目線で捉えるのか
どの視点で視ているのか
自分は生きているのだから
死者に対しても人として接する
その真摯な思い遣りが大切だと
あにきは考えていますし、
それが普通だと認識しています。
何故ならば、
その亡くなった方にも
存命の御身内がいたりする訳でして
その御存命の方々の顔に泥を塗る様な
非礼且つ無礼な行為は
人として決して許されるものではないと
思っているからです。
あにきが除霊や浄霊を執り行ったり
何かしらの理由で、
そこらにいる亡くなった方々の事を
人に話したりする場合は、
必ずその方々の名前や出で立ち、
生い立ちや逝去に至るまでの事を
かなり細かくお話をしています。
それは、
そこにご遺族やお知り合いが居らずとも
話を聴く相手に、亡くなった方の
人としての存在を知らしめる事で
思い遣りという形を通じて
御存命の方々に対して
敬意を表する事に繋がると
確信しているからです。
人視点で視る、接するというのは
そういう事になります。
その想いの分別が付けられないのは
とても悲しい事だと感じてしまいます。
大切な大切な
爺ちゃん婆ちゃんを
悪霊扱いされたら
悪霊扱いされたら
気分が良いとは
言えへんやろ