今回は動き方について
お話をしたいと思います。
生活をしていて、
なかなか調子が上がらなかったり
倦怠感が拭い去れない状態ですとか
過度のモヤモヤが続いていたりとか
とにかく疲れが取れない、
取れにくい...
そういう時があると思います。
病院へ行ってもテキトーな事を言われ
検査をしても何も出て来ない。
この手の場合の時、
必ずしもとは言いませんが
「会話不足」の場合が多いです。
誰との会話かというと、
「気の置けない相手」です。
要は、気兼ねなく表も裏も無く
何でも話せる人。
友人かも知れないし、
子供かも知れないし、
それは人によって変わります。
何故にそういう会話が不足すると
肉体へ影響が出てくるのか。
普段、我々の生活というのは、
想像以上に緊張感に溢れています。
会話という一点に絞ってもそうですが
日々様々な人との会話というのは
一言で表わせば
「探り合い」です。
ご近所さんやお知り合い、
職場の人や取引先の人、ご親族、
どれもこれも探り合いです。
当たり障りない会話をしながら
当たり障りのない着地点で納める。
それが人間の社会通念ですので
これそのものは問題ではないのですが、
気にしない内に緊張感は
溜まっていきます。
例えば、
楽しそうに話してた井戸端会議の後で
何やかんやと見苦しい文句を言うのは
この緊張感の反動です。
こうした日頃の緊張感は
日常レベルであればちょっとした
リラクゼーションで解れます。
お風呂に浸かるとか、趣味とか
好きな事をするとかアロマとか
人ぞれぞれ色々あるでしょ。
ですが、色々な事情で
それらが出来ない叶わない場合が
生じたりします。
そうした場合にその緊張感は
解消される事無く蓄積を続けます。
そして、ある一定の量を超えると
小手先のリラクゼーションでは
どうにも解消が出来なくなる。
そもそもリラクゼーションすら
しなくなります。怠くて。
そうなると、肉体に影響が出てきて
病気や怪我を引き起こします。
この流れの中で、
気の置けない相手が存在している人は
ほぼ必ずその人との会話を
日頃から愉しんでいます。
寧ろ、それがリラクゼーション
だったりする事もあると思います。
日常の中で何かしら会話をしていて
それが緊張感を
増幅させているにも関わらず
気の置けない相手との会話であれば
例えどんな会話であっても
リラックスが出来る。
何故かというと、
余計な事を考えなくていい程に
相手の事を想っているからです。
「(互いを)信じ切っている」
という意味ですね。
これを「想いの力場」と言います。
そういう人は身の回りに
多くは存在しません。
精々多くても2人くらいです。
では、もし、その人達との会話が
愉しめない状況に陥ったとしたら。
まぁ、結末は視えてきますよね。
先述の通り、肉体を壊します。
ですから、
どうにも具合が上向かない場合は、
少し目線を変えて
会話をしているかどうかを
考えてみて下さい。
恐らくですが、話していない事に
気が付ける筈ですよ。
尚、貧乏神という存在の場合は
この真逆でして
綺麗事の中でしか安らぎを得られません。
なので、気の置けない相手
という存在そのものが
居ない存在なのです。
信じるという事を放棄した存在が
貧乏神ですから
想いよりも「念」の中でしか
生きられないのですね。
これを「念の力場」と言います。
つまり、貧乏神は会話で緊張感を
緩和するのではなく、
自身の自尊心を振り撒く事で
誤魔化すのです。
会話で緊張して会話で解す
人は何とも不完全な生き物ですよね。
不完全なんやから
完璧主義が
貧乏神の入口
言うんも何となく
分かるやろ





