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2026年6月3日水曜日

想いを使い熟す(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




想いによって形成される場の事を
「想いの力場」と、云います。

見た目の感じですが、
自身や対象を包む淡い色をした
限りなく透明な柔らかくて堅い球体

みたいなものだとイメージしてもらえれば
良いかなと思います。

想いの力場自体を発生させるのは
誰でも可能です。
但し、幾つか条件があります。

1:
自身並びに対象の中の「念」が想いを
バランス的に上回っていない事

2:
自身から対象への想いが薄れる
または消えないこと。

この二つが想いの力場の
発生及び維持に関する最大の要件となります。

1は、基軸に関する話です。
想いの力場なのですから
基本的には「想い基軸」でないと発生させたり
維持させたりする事が出来ません。

ですが、例外として、
自身の想いの総量が対象を
大幅に上回っている場合のみ、
ほぼ単独で想いの力場を形成させる事が出来ます。

しかし、この場合の想いの力場は
必然的に薄めとなりますので、

維持をする事に関して支障が出て来ますから
対象への現状の説明や解説というのが
必須となってきます。

2は、想いの総量に関する話です。

力場形成後に想いを保持する事が出来ない場合や
出来なくなった場合などは、
当然に力場の維持は困難となります。

一方もしくは互いに、想いを薄れさせる

例えば、
幻滅を含んだ意味での
自身や対象を嫌悪するとか
想いの種類に変化が生じるなど

こういった場合に「想いの総量」は薄れます。




ここで注意しなくてはいけない点は、
想いの保持が出来ない若しくは出来なくなった
と、いうものに「死は含まれない」という点です。

仮に自身か対象が亡くなったとしても
それは肉体が機能しなくなっただけですので、
想いや念というのは引続き保持されます。

但し、死後に生前の想念の保持や
基軸維持をするのは当人の器のサイズ、
霊体や幽体の状態や霊格の高さによって
往々にして変わってきます。

話を戻しますが、

力場の維持はこれらの要件の保持が
鍵となってくるのですね。

維持する為には何はともあれ
想いの保持が必要なのですから、

想いを阻害するものを
制御するしか方法がありません。
想いと対を成すのは念ですね。
つまり、「俗欲の制御」をする外ないという事です。

想いを増幅させるという方法では駄目なのかと
頭の切れる方々は考えると思います。
ですが、
以前からお話をしている通り

それに関しても「俗欲の制御」が一番の方法です。
何故なら想いを阻害する要素を制御する訳ですから
それは必然的に想いの増幅を意味します。

俗欲の制御という動きの最たるものは
「日頃の業」となります。

要するに、日々の努力そのものが
想いの保持へと繋がるという事ですね。




そして、想いの力場が形成されていると
それまで発生してきた嫌な事や
不可思議な出来事や難点、

様々な問題点の発生数が減衰したり
無くなったりします。

これは想いの力場形成と伴に
正の螺旋へと転じる事によって
「幽体の整い作用」があるからです。

幽体が整うと肉体や見た目への変化が生じます。
それは個々体では雰囲気として出たりするので
とても感じ取り易くなります。
人によっては視認する事も可能です。

早い話が、善くなっていて
非常にエネルギッシュな状態となりますから、
念主体の存在からすると近寄り難くなるのですね。

念主体の存在というのは、
貧乏神を含む生きている念基軸主体の存在や
既に死んでいる悪霊など全ての存在を指します。

結果として、それまでの災厄や忌み事を
どんどんと退ける様な流れとなり、
善い方向へと進んでいくという訳です。

最後に気を付けてほしい事は、
それまでの災厄が減るのであって
善い事が増えたり出てくる訳ではありません。

嫌な事が減るのですから、
事実上の善い事が増えたという事になりますよね。
この理屈を決して忘れてはいけません。

俗欲の制御を行う上で、
想いの力場の維持をする上で、
最上位で重要な「事実」ですからね。

自分のために善い事を増やそう
なんて思考だと、

何を先鋭化させて何を失うのかを考えられれば
こんなの言われるまでも無く分かる「真実」です。

あにきバリアーの
保持力は
伊達じゃないんやで
とは言えそれは
支え合いがあっての
ものやからね

2025年10月4日土曜日

幸せの実感(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




不思議なもので、
人は幸せだとその実感を
得ようとしません。

逆に、不幸であると認識している時は
幸せを着飾ったり
不幸自慢をしたりなど
真逆の方向へと自身を進めます。

幸せなら幸せだと
ハッキリ言えばいい。
何で幸せなのかも言えば良い。

個的思考であればそれが可能です。
幸せを感じている内容が多ではなく、
あくまでも自身でありますから
厭味なくこれが可能となります。

ですが、多的思考の場合ですと、
物質的価値が標準値となりますので
周りの目線や意図を気にします。

物質的価値とは、早い話が
“金”“地位”“権力”ですね。

ここに固執している間は
幸せを幸せだとはハッキリ言えない。
いつでも敵だらけの状態ですからね。

けれども、幸せを享受させるには
その幸せをハッキリと話せる事が
1つの達成点となります。




周りには無価値でも
自身にとっては幸せだと言い切れる事。
これを信じ切れる状態、
信に徹している状態となれるかが
鍵となるのです。

この視点で理解をしてみると
自身の幸せを聞いて小馬鹿にする人が
如何に堕ちているのか
念、俗欲に溺れているのかが分かります。

心や感情を司るのは幽体です。
幽体が狭小化したり
狭隘状態となっていると

肉体の動きは鈍くなり、
果ては霊体萎縮が起きてしまいます。

その流れを作ってしまうのが
念や俗欲へと溺れる事、
つまり念基軸状態です。

例えば、
「何の問題も無く五体満足=幸せ」
となるのか、逆に
「五体不満足=不幸」
となるのか

自身の思考が個的なのか多的なのかで
その中身は全てが変わります。

自身の価値基準を他に当て嵌めようと
必死になるからおかしくなるのです。
自分は自分、他者は他者です。

「私は動けて幸せです」
「私は動けないですが幸せです」

これを当たり前の状態として
笑顔で会話が出来るのが
個的思考同士の世界。

個的思考は多的思考の意図を理解出来ますが
多的思考は個的思考の意図を
理解しようとしません。

理解出来ないのではなく
理解しようとしない。

この思考の絶対数が逆転して
個>多となった時がフェーズ4の世界です。

己の幸せの実感を
共感は出来ても共有は不可能である。

それを正面から認識する事が
個的思考の基礎となります。

あえて纏まりなく
めちゃめちゃに
書いているんやで
個的思考は
そこの理解が
肝なんやで

2025年10月3日金曜日

現世に居るのを忘れるな(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




想いを主軸とした動きを行います。
これが所謂「徳積み」です。

徳積みは「善きな事」「善行」と
捉えがちですが、
それで合っています。

但し、俗に言う善行とは
少し違いまして、

善行を行っている際の意識は
何処へ向かっているのか

を、しっかりと考えなくてはいけません。

ただ単にやるのは善行ではあっても
業ではないという意味ですね。
(陰徳陽徳の関係性)

その後、何らかの結果が出ます。

結果が出た際、
そのままにしておいたり
己惚れてしまったりするのではなく、

しっかりと自戒をする。
要は反省ですね。

ここでのポイントは、
失敗したから反省ではなくて
成功をしても反省をする事です。

あくまでも自戒です。
自身を戒める事が必須となります。
その結果、修正点や変更点、
改訂すべき事項が見えてくると同時に

客観的視点という独特の目線が
持てる様になってきます。

また、反省に至る際も
己の俗欲を満たす為なのか
それとも想いの為なのかを
芯に問い続ける事が大切です。

そして、また次へと繋げていき、
ここに時間軸という座標を組み込んだのが

「正の螺旋」です。




想念やスピリチュアルにも
時間の概念を組み込まないといけません。
僕らは現世に生きているのですから、
これは必須であり絶対です。

この座標を組み込まずに
空間や思想だけで捉えてしまうから
整合性が脆弱化しているのです。

本来のスピリチュアルでは
ここを教えています。

時間を座標に入れなければ、
それはループとなりサークルに過ぎません。
ですが、実際にループというのは
存在し得ません。

100%同じ事って起きないでしょ。
固体別に捉えても何もかもが
違うのですから。

で、このサイクルに時間の軸を
座標として加えると、
進行方向への推進力が生まれます。

これを二次元化させると
サークル(円)ではなくて
スパイラルになる

つまり、螺旋です。

こういう思考回路の構築が
本来のスピリチュアルで教えている
本質であり皆さんが理解して
ステップアップに必要な

領域の超越の基礎となります。

難しく捉えない
かと言って
簡単に考え過ぎない
分かった振りが
最低で最悪やで

2025年9月15日月曜日

あやかりと念(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




神社仏閣やパワースポットへ
出向かれる方が多いと思います。

今までも何度か
ここで投稿をしましたが、

神聖な場というのは
総じて念が強く渦巻いている様な
場合が多いです。

ご利益にあやかりたいという
気持ちが強すぎてしまい、
俗欲の制御が出来ていない。

そこを管轄している神さんや仏さん
自然霊などの霊体の姿を
想像すらもせずに、
自己の願望要望を最優先に捉えて
お願いをしてしまっている。

色々とお願いをしたい気持ちは
理解が出来ますが、
それは
「人の結びしエゴ」であって
神さん達の本質とは違います。

彼等の望みは「想い」であって

「想いの力場」の構築と
「想いの遣り取り」をする事が

全てなんですね。




ですから、
それとは正反対にある
「願い」という俗欲を
剥き出しにしている状態で
相対するとなると、

それ相応のリスクを背負う
覚悟をしないと厳しいです。

普段から想いを軽視しておきながら
都合よくご利益にあやかりたくて
神さん達に手を合わせたとしても、

そこには
念の力場しか発生しませんから
思っている様な効果は
決して生まれないのが現実です。

あやかりは一切棄て去って
挨拶と感謝のみに注力をする。

建物や敷地の絢爛さや荘厳さなどに
惑わされる事無く
単に
神さん達との触れ合いを愉しむ

そうするとね、
人の領域と神さん達の領域の違いが
分かってくるものですよ。

だから普段から
想いを大切にして
真摯に向き合う事が
重要になって
くるんやで

2025年6月8日日曜日

気を入れる(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




普段の生活の中で病気や怪我
それに限らず縷々様々な理由で

「元気が無くなったり」
「気が滅入ってしまったり」
「何だかヤル気が出ない」

などという時や、
特に理由も何も無いけれど
消化的な意味合いで

「とりあえずやる」

みたいな時が間々あると思います。
これらの状況でついぞ忘れてしまうのが

何のためにという思考
つまり、「目的」です。

この目的というものを失念してしまうと
動きや業の軸となる柱が
消えてしまっている状態となりますので、

全般的に"冴え"が無くなります。
この冴えというのが「活力」です。




何故、この状態だと活力がなくなるのか。

万物というのは、
「何のため」という目的を持って動きます。

知らず知らずの内でもこれは例外無く
働いている行動概念です。

人ほど複雑ではないにしろ
動物も植物もその他万物は
この概念に沿って行動をしています。

にも関わらず、
単に自身の為に動くという
「自分本位状態」に陥ると

前述した概念の破綻を自身で起こします。
これを「概念崩壊」と、言います。

この概念の芯に据えられている要素が

「思い遣り」であり、
「想いの力場」です。

自分の為にと思考した瞬間から
これら要素が薄れていき、
同時に念を主軸とした「念の力場」の
構築が始まります。

行動の礎となる概念が崩壊し、
不活化する要素の「念」が増幅していくので
「活力」が薄れてしまうのですね。




どうにもこうにもヤル気が出ない時や
気が載らない時というのは、

自身でも気付かぬ内に

「自分本位に陥っている」

というサインなのですね。

こういう時に「気を入れる」のが
非常に重要となるのですが、

単に気合いを入れたところでは
何の解決もしません。
空回りしてしまうのが関の山です。

では、どうするのか。

周りの存在のためという目的を有して
想いの力場を発生させるのですから

ハッキリと何のための先にある
「相手」を意識する事が必要となります。

ただ漠然とした想像や
自身のみで完結させる様な気合いでは
念を発生させるだけとなるので、
行動が続かなくなるのです。

応援されると
力が湧くやろ
あの原動力を
考えれば
分かる事やで

2025年6月2日月曜日

ユメユメ蓄縮タルナカレ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




普段の生活を当たり前に過ごしていると
その一瞬一瞬の

「価値」

と、いうのを
人はとても軽んじてしまいます。

いつも同じで何も変わらないと、
勝手に解釈をしてしまうから

その場の時間もただ過ごすだけで
そこに在する「価値」を見出そうとしない。

一分一秒先の将来でさえ
何も保障されているものでは
ないのにも関わらずです。

結果、
危機感の欠如を招いてしまい
自身の本気度を著しく低下させるから

一毛不抜な動きをしてしまったりして
大切な事を伝えられないどころか

二度と逢えなくなったりしてしまう。

そうなっては元も子もないです。
どんな時でも常に全力で愉しんで
出し惜しむ事無く時間を使う。




今、貴方の隣にいる人が
数分先にも存在するとは限らないのです。

例え、存在そのものが消えなくても
怪我や病気などで
逢えなくなる可能性は幾つもありますよね。

それは貴方側の場合かも知れません。

特に何も問題なく会えるのであれば
可能な限り話をして
全力で意思を伝える努力をする。

何かの助言やアドバイスを
聴きたい場合も同様ですし、
それを教える側も同様です。

そこで黙って手を拱いていても
何一つ変わりはしないですし、
寧ろチャンスは減る一方です。

自身の本気度を高めないと
思い遣りなんぞ遥か遠くのものですし、

ましてや、想いの力場の構築などは
到底出来るものではありません。

貴方のその脚も手も思考も
全ては前に向かう為にあるのですから、

今という「時」に甘えすぎないで
臆する事無く自身から踏み出さなければ

耐え難き辛さを味わいますからね。
勇を用いましょう。

堕情という
俗欲に溺れると
一生の後悔を
身に纏う事に
なるんやで

2025年4月26日土曜日

姿勢の保持(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




教える側は

「コンセプトの維持」
「コンテクストの把握と生成」が、

主だった姿勢の堅持となります。
コンセプトは方針で
コンテクストは簡単に言えば相互性ですね。

これらを教える側の姿勢として保持をする
そこに教える側の責任が生じてきます。

その先生によって方針は違いますが、
ここをお客さんや生徒さん等への
忖度などによってブレる様になってしまうと
意味が無い結果となります。

また、コンテクストについても同様で
教える側自身と教わる側との
立ち位置や考え方の把握や

教える側自身を中心とした
新たな相互性の生成を理解していないと
無駄な時間を過ごす様になります。




例えばですが、

教える側と教わる側とは立場が違います。
ここを教わる側とフルフラットで考えると
教える側は自由に動けなくなります。

余計な同情を施してしまったり
強く説明をする事が不可能となっていくからです。

同時に、教わる側の怠慢が始まります。

「どうせ叱られない」とか
「どうせ相手をしてくれる」などですね。

要するに、ナメられてしまう訳です。

これらのエラーが起きない様に
立場はしっかりと教える側を一段高く設けます。

その上で、教わる側に寄り添う姿勢を
設けてあげて教導するのが教える側の責務であり

教わる側との「想いの遣り取り」であり、
確固たる「想いの力場」を生成する事に繋がります。




ここを勘違いして、
平等という俗欲に溺れてしまうと
前述した様な結果にもなりますし、
いずれは自身のコンセプトすら維持が
出来なくなっていきます。

これでは教える側に立っているのに
俗欲に溺れた自分本位となるので
貧乏神という方向へと邁進してしまうのですね。

思い遣りとは程遠い動きをしているのですから
当然の結末を迎えます。

また、教える側と言っても
お金儲けを芯に据えてる人も
これらと同様の動き方をしています。

目的が目的ですから分かり易いのですが、
見せ掛けだけで聴こえの良いコンセプトを
設定するので、
普段より綺麗事に溺れている人等は
あっという間に騙されます。

これらはスピリチュアル業界だけでなく
ありとあらゆる業界業種に該当します。

こういった目線での人の見極めを
常に実戦で使い熟し、
生活や愉しみへと変換するのが
本来のスピリチュアルとなります。

様々な先生方が
意識しなければ
いけない点やで

2025年4月25日金曜日

姿勢の堅持(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




どの様な物事に於いても

「教える側」と「教わる側」という

明確な立場の違いが存在します。
どちらの立場にしても

その「姿勢の堅持」というのが
非常に重要となってきます。

教える側としては、

「コンセプトの維持」
「コンテクストの把握と生成」

方針や事象の相互性に関する事が
主だった堅持内容となり

教わる側としては前回記述をしました、

「本気度の濃さ」「素直さ度の高さ」

それに伴う純度の高さや
「理の三原則の把握」等が
主な堅持内容となります。

理の三原則とは、
「信に徹する」「伝に務める」「勇を用いる」
を指します。




互いの立場の中での姿勢の堅持は
想いの遣り取りに繋がります。

ここでの想いの遣り取りとは、
1つの目標の為に前に進んで行く事であり

その双方の想いが「想いの力場」を発生させ
運気を上げる事に一役買う流れへと繋がります。

ここで注意すべきなのが自身の俗欲であり
その最たるものが「自己満足」です。

例えば、教わる側に焦点を当てます。

教わるというのは、とても良い事ですが
その効果を発揮させるのは

「教わった事を使用もしくは使用後」となります。

その手前段階で終えてしまうと
教わるという行為に納得しただけの
自己満足となります。

前回記述した"何かの努力"をする訳でもなければ
教える側の想いにも反する姿勢です。

詰まるところ、
想いではなく自己満足という
「念基軸」での行動となり「念想の齟齬」が
発生する訳ですね。




これは自分本位な思考を以て
相手の想いを無碍にする事ですから
向こうの世界の八罪の一つである

「他への辱め」となります。

と、同時に理の三原則の把握にも
遵じていないという事にも繋がります。

教える側と教わる側は
決してフラットではありません。
そこには明確な立場の差が生じます。

その差を理解した上で、
双方の想いを歩み寄せる相互性が
「姿勢の堅持」です。

そして、立場の無理解と相互性の放棄は
教わる側より発生をします。

何かを教わり前を向いていこう
進んで行こうとするのは
教わる側の目標であり目的です。

にも関わらず、教わった事を使いもせずに
自己満足という俗欲に溺れたり
不努力を棚に上げた身勝手な言い訳をして
その指針すらも自ら放棄する。

姿勢を理解しない人は
運気を上げる事など無理に等しいです。

ここを掌握せずに自分本位を貫いた存在が
貧乏神でありその眷属です。

運気は自らの手で
努力し掴むもの
決して他力本願で
楽して得られる様な
モノではないんやで

2025年3月13日木曜日

有意義な会話(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




個々人に於いて様々な場面で

「会話」

と、いう業が繰り広げられます。

この会話というものは、
誰もが触れ得る事の出来る
動きの一つです。

最初に伝えておきますが、
スピリチュアルの立場では
口頭や文面のみならず
目くばせなどのジェスチャーによる
コミュニケーションや

心内での遣り取りなども
「会話」となります。

例えば、
病床の方への遣り取りや
墓前などで御先祖さんとの遣り取り、
動物や植物等との遣り取り
夢の中での遣り取りなど

物質的側面や物理的側面だけでなく
非科学的側面や精神的側面の遣り取りも

全て紛う事無き「会話」
と、するのが本来のスピリチュアルです。




さて、皆さんこの会話の中で、
相手によって意義の有無を感じられる事が
あると思います。

心の充実感の有無と言った方が
分かり易いかも知れません。

これは何故に起きるのでしょうか。

幾つか要因がありまして
その代表格と言えるのが、

「基軸」と「格」です。

「基軸」と、いうのは
自分達が何を芯に据えて会話をしているか
という根幹部分の要因となります。

平たく言うと、
「想い」なのか「俗欲」なのかです。

「格」と、いうのは所謂「霊格」です。
霊体のレベルですとかリテラシーであると
思って頂いて構いません。

これらが複雑に絡み合って
会話の意義の有無を決定付けます。

同じ会話でも人によって感覚の受取りが
大きく異なってしまうのは、

本来のスピリチュアル的に言うと
この為です。




この中でも

「有意義な会話」

と、いうものを幾つ発生させ、
幾つ消化出来るかが、生き易くする上で
現実を愉しむ上で、
必須の構成要素となってきます。

敢えて俗な言い方をするならば、
運気を上昇させる上でという意味ですね。

有意義な会話は、

「個々人の性格や感情」が土台となり
その上で
「双方の格の高さのバランス」と
「想いの力場」の構築を触媒にして発生します。

ここの中身が少しずれていたり力場の構築が
負の力が中心の「念の力場」となると
そのサイズによって意義性に欠けたりします。

にも関わらず、勇を用いて切り上げたり
転進など何らかの改善策を行わずに

遅疑逡巡でいたりすると、
高確率で宜しくない方向へと進む訳です。




もし、何だか色々と上手くいかないと
思われている方がいらっしゃったら、

日頃の会話を見直してみて下さい。

格は自己判断が出来ずとも、
その相手は何を基軸としているのか。

自分は勇を用いてハッキリとした物言いを
相手にしているかどうか。

そして、その無意義な会話の数が
有意義な会話数と比較すると
勝っているのではないか。

この辺を自身にて鑑みるだけでも
状況改善に繋がります。

そして、会話とは
肉体を越えて幽体の繋がりを
実感出来る非常に簡単な業の一つです。

貧乏神に踊らされたり、
自身の俗欲に振り回されていたりして
苦しみからの脱却を図りたいのであれば

こういったセルフチェックを実行する事が
幸せへの道標となりますからね。

思考停止して他力本願となると、
善い自分は遠退くだけですよ。

ギスギスした時や
関係改善を
したい時なんかも
有意義な会話を
目指すのが
近道になるんやで

2024年10月26日土曜日

会話をする(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。





生活をしていて、
なかなか調子が上がらなかったり
倦怠感が拭い去れない状態ですとか
過度のモヤモヤが続いていたりとか
とにかく疲れが取れない、
取れにくい...

そういう時があると思います。
病院へ行ってもテキトーな事を言われ
検査をしても何も出て来ない。

この手の場合の時、
必ずしもとは言いませんが

「会話不足」の場合が多いです。

誰との会話かというと、
「気の置けない相手」です。

要は、気兼ねなく表も裏も無く
何でも話せる人。
友人かも知れないし、
子供かも知れないし、
それは人によって変わります。





何故にそういう会話が不足すると
肉体へ影響が出てくるのか。

普段、我々の生活というのは、
想像以上に緊張感に溢れています。

会話という一点に絞ってもそうですが
日々様々な人との会話というのは
一言で表わせば

「探り合い」です。

ご近所さんやお知り合い、
職場の人や取引先の人、ご親族、
どれもこれも探り合いです。

当たり障りない会話をしながら
当たり障りのない着地点で納める。

それが人間の社会通念ですので
これそのものは問題ではないのですが、

気にしない内に緊張感は
溜まっていきます。

例えば、
楽しそうに話してた井戸端会議の後で
何やかんやと見苦しい文句を言うのは
この緊張感の反動です。





こうした日頃の緊張感は
日常レベルであればちょっとした
リラクゼーションで解れます。

お風呂に浸かるとか、趣味とか
好きな事をするとかアロマとか
人ぞれぞれ色々あるでしょ。

ですが、色々な事情で
それらが出来ない叶わない場合が
生じたりします。

そうした場合にその緊張感は
解消される事無く蓄積を続けます。

そして、ある一定の量を超えると
小手先のリラクゼーションでは
どうにも解消が出来なくなる。

そもそもリラクゼーションすら
しなくなります。怠くて。

そうなると、肉体に影響が出てきて
病気や怪我を引き起こします。





この流れの中で、
気の置けない相手が存在している人は
ほぼ必ずその人との会話を
日頃から愉しんでいます。

寧ろ、それがリラクゼーション
だったりする事もあると思います。

日常の中で何かしら会話をしていて
それが緊張感を
増幅させているにも関わらず

気の置けない相手との会話であれば
例えどんな会話であっても
リラックスが出来る。

何故かというと、
余計な事を考えなくていい程に
相手の事を想っているからです。

「(互いを)信じ切っている」

という意味ですね。
これを「想いの力場」と言います。

そういう人は身の回りに
多くは存在しません。
精々多くても2人くらいです。

では、もし、その人達との会話が
愉しめない状況に陥ったとしたら。

まぁ、結末は視えてきますよね。
先述の通り、肉体を壊します。





ですから、
どうにも具合が上向かない場合は、
少し目線を変えて
会話をしているかどうかを
考えてみて下さい。

恐らくですが、話していない事に
気が付ける筈ですよ。

尚、貧乏神という存在の場合は
この真逆でして
綺麗事の中でしか安らぎを得られません。

なので、気の置けない相手
という存在そのものが
居ない存在なのです。

信じるという事を放棄した存在が
貧乏神ですから
想いよりも「念」の中でしか
生きられないのですね。

これを「念の力場」と言います。

つまり、貧乏神は会話で緊張感を
緩和するのではなく、
自身の自尊心を振り撒く事で
誤魔化すのです。

会話で緊張して会話で解す
人は何とも不完全な生き物ですよね。

こんなに
不完全なんやから
完璧主義が
貧乏神の入口
言うんも何となく
分かるやろ