皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
自身が自己憐憫に陥り易いかどうか
その境目となるのが
「支えられていると考えているか」
「支えていると思っているか」
この考え方の違いです。
「自身が周りから支えられている」と、
考えられるのであれば、
基本的な思考と動作や所作は
「相手のため」や「周りのため」
と、いうものに自然となっていきます。
この思考形態の場合ですと、
基準となるのが自分ではなくて
「自分以外のため」となりますから、
日常的に反省と考察を繰り返します。
次に繋げていく考え方が主となる感じです。
ですので、
憐憫とは距離を置く様な感覚に近いと
考える事が出来ます。
これとは逆に、
「自分が周りを支えている」
と、いう考え方の場合ですと、
基本的な思考や動作所作というのは
口先では、
「相手のため」や「周りのため」と
枕詞の様に付帯して行動しますが、
「自分のため」が主流となります。
一見すると、前者と似ている様に思えますが、
決定的な違いとして
「相手のため」等の言葉を口にする
という点が見受けられます。
一先ずは自分というのを置いておき、
自分以外のためにまず動くといった、
奉仕の精神での思考や行動が理解出来ないのと
周りには同様に考えている風に思われたいという
承認欲求が強い為です。
そして、反省や考察というものの
意味は理解をしていますが、
自身が失敗をした時にすべきものとの
認識が強いので、
日常の中での反省等は前者に比べると
極端に少ないのが特徴です。
自身の反省よりも人の失敗を見て楽しむ。
同時に極端に自身が失敗する事を忌避します。
結果として、失敗後も反省ではなく
言い訳や擦り付けが主となるので、
自身の失敗を目の当たりにした時に、
自分を「上手く出来ない被害者」
と、いう位置付けにしてしまいます。
ここが自己憐憫を加速させるポイントです。
反省よりも自身を善として
悪を構築させるのですね。
勿論これは逆恨みでもあり、
単なる我儘に過ぎません。
反省を日常的に利用していないので
使い方も理解していませんから、
思考は穿ったものとなり前進的な思慮よりも
停滞的な動きがメインとなります。
褒めると直ぐに調子に乗るという
分かり易い特徴も出てくるので
見極める事は容易いです。
相手のためを思考出来れば
反省も考察も
それすらも出来なく
なってしまうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
日頃から何かにつけて
「反省」をされていると思います。
自分を正の螺旋という流れへ
進ませる為にも必要な業ですし、
反省つまり「自戒」の事ですが
これをやらないと
何を正すのかが分からないですからね。
然しながら、
この反省という業ですが、
何を以てして反省なのかを
よく理解しないで使われる事が
多いのも確かです。
最も多いのが
反省という「単語のみの独り歩き」。
例えば、話の中などで出てくる
「私も反省しています...」
「あの人も反省しているのだから...」
みたいなやつですね。
反省という「単語」が
話の中で散見していますから
どことなく「反省している」様に感じますが、
聞く側がこれを真に受けると
確実に失敗します。
話す側にとっても「反省」という
単語のみの使い方をすると手痛い目に遭います。
事、本来のスピリチュアルという立場としての
話をさせて頂きますと、
元来の反省というのは
想いを軸とした「正の螺旋」に於ける業であって
反省に宿るのは「相手のため」という様な
想いに他なりません。
という事は、
もし、反省という「業」を会話の中で
使うのであれば
誰が(who)、何を(what)、
どこで(where)、なぜ(why)、
どれを(which)、どうして(how)、
という様な5W1Hに則して
反じて省みたその内容そのものを
当事者へ「詳細」に伝えなければ、
想いとしての機能は果たせません。
その逆として、
先述した様な「反省」という
「単語の独り歩き」をした場合はどうなるのか。
相手には「念」が伝わり、
相手からも「念」が返ってきます。
実際に、
「反省」をこの様な使い方をする場合は、
その当事者とは全く向き合わずに
「逃げの言葉」として使うパターンが主です。
(話をしたくない)
(そぶりを見せて誤魔化したい)
(自身の意見だけ通したい)
(そもそも面倒臭い)
(自分は悪くない)
こういった思考がメインの時に
使ってしまうのが、
「反省という単語の独り歩き」です。
ね、想いとは程遠い内容でしょ。
もし、本来のスピリチュアルを
理解している人や
理解する努力をされている人が、
会話の中で
反省という単語のみを耳にすると
確実に違和感を覚えます。
強烈な違和感を覚えるので、
その内容を必ず相手に尋ねたり
「詳細は」とか、「詳細を」とか、
何かしら相手さんがこちら側へ伝える為の
促しをしてくれる筈です。
何故かと言うと、
「よく視てよく聴いてよく考える」
と、いう実戦形式での行動原理に沿って
皆さんは動いている訳ですから、
反省というワードはただの「単語」であって
その内容を口にしてもらわないと
意味が無いというのを知っているからです。
その内容にこそ、
想いが詰まっているのだから
それを言葉や文章として伝えてほしいし、
伝えられる様に動いてあげようという
奉仕の精神に基いた動きとなりますから、
上記の様な促しをするのですね。
また、単語のみの使用は
「狡さ」という念を基とした動き
だというのも知っていますから、
確認の意味もあるのですね。
言うなればディフェンスラインです。
態々、率先して
念を受け取る必要はありませんからね。
どこか使い勝手の良い単語なので
安直に利用してしまいがちですが、
運気の維持や安泰安寧を望むのであれば
真摯に向き合って反省の内容を
述べた方が身の為ですからね。
覚えておきましょう。
「反省という業は、逃げの言葉ではない」
日頃の業なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
想いを主軸とした動きを行います。
これが所謂「徳積み」です。
徳積みは「善きな事」「善行」と
捉えがちですが、
それで合っています。
但し、俗に言う善行とは
少し違いまして、
善行を行っている際の意識は
何処へ向かっているのか
を、しっかりと考えなくてはいけません。
ただ単にやるのは善行ではあっても
業ではないという意味ですね。
(陰徳陽徳の関係性)
その後、何らかの結果が出ます。
結果が出た際、
そのままにしておいたり
己惚れてしまったりするのではなく、
しっかりと自戒をする。
要は反省ですね。
ここでのポイントは、
失敗したから反省ではなくて
成功をしても反省をする事です。
あくまでも自戒です。
自身を戒める事が必須となります。
その結果、修正点や変更点、
改訂すべき事項が見えてくると同時に
客観的視点という独特の目線が
持てる様になってきます。
また、反省に至る際も
己の俗欲を満たす為なのか
それとも想いの為なのかを
芯に問い続ける事が大切です。
そして、また次へと繋げていき、
ここに時間軸という座標を組み込んだのが
「正の螺旋」です。
想念やスピリチュアルにも
時間の概念を組み込まないといけません。
僕らは現世に生きているのですから、
これは必須であり絶対です。
この座標を組み込まずに
空間や思想だけで捉えてしまうから
整合性が脆弱化しているのです。
本来のスピリチュアルでは
ここを教えています。
時間を座標に入れなければ、
それはループとなりサークルに過ぎません。
ですが、実際にループというのは
存在し得ません。
100%同じ事って起きないでしょ。
固体別に捉えても何もかもが
違うのですから。
で、このサイクルに時間の軸を
座標として加えると、
進行方向への推進力が生まれます。
これを二次元化させると
サークル(円)ではなくて
スパイラルになる
つまり、螺旋です。
こういう思考回路の構築が
本来のスピリチュアルで教えている
本質であり皆さんが理解して
ステップアップに必要な
領域の超越の基礎となります。
簡単に考え過ぎない
分かった振りが
最低で最悪やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
これから話す事は
皆さんにとってしてみれば
もはや当たり前の事なので
何を今更と煩わしさすら
感じられるかも知れません。
何かしらの業の達成を目指す際に
目的を以て動き相手に対して
想いを抱えて行動をしていると思いますが、
この「想い」というものは
一方通行で決するものではありません。
出だしに関してはどうしても
片道となってしまいますが、
これは仕方ありませんね。
ですが、その後に達成となる際には
相手からの想いを受け止めて
初めて成り立ちます。
要は、相互通行でないと
達せないという事ですね。
この時に想いを動きに「載せる」事で
思い遣りを発生させ、
相手からの想いを受け取る事で
「愉しみ」が完遂します。
これらの総合的な事象が
「業(おこない)」
なのですね。
当たり前の事を当たり前に進める。
今回の話に関しても当たり前過ぎる話です。
ですから、
真新しさの欠片も無い話なので
飛ばしてもらっても結構ですよ。
こうして当たり前と思しき動きを
連綿と日々続けていると、
とりわけ日頃の業を始めとした
継続や努力というのは
とても地味な動きですから
何時しかその当たり前の意義や
意味を見失ってしまうんですね。
「想いは相互作用で成り立っている」
と、いう理解している筈の基本概念を
知らぬ間に忘れ始めてしまい、
それのみに留まらずあろうことか
「これだけ自分は想っているのに」
と、云う承認欲求を強く抱いたり、
「どうせ自分なんか」
と、自己憐憫に溺れてしまう様な事が
間々起きるものなのです。
想いの対局に位置していて
相互作用を引き起こしているのは
「念」です。
ですから、
前項で述べた様な状態となるのは
特段恥ずる事でもないですし、
必至な事象とも言えます。
かと言って、そのまま放置をして
反省をしないという選択肢は存在しないので、
ここで思考しないといけないのは
「何を忘れてしまったのか」という点です。
そう。貴方は想いも、
想いを載せる事もちゃんと覚えていた筈です。
ですが、その先の「紡ぐ」という
最終工程を忘れてしまっていたのですね。
想いは「送る」「受ける」だけでなく、
「紡ぐ」を行って初めて完遂となります。
想いを「糸」だと想像すれば分かり易いです。
一本の糸先を相手に渡し、今度は
その糸先を相手が貴方に持ってきてくれる。
そのままではただの返却となってしまうから
糸先を「結わいて紡ぐ」のです。
肝心なここの部分を忘れていたから
念に溺れてしまったりするのですね。
想いは紐で終わらすのではなく、
「結び糸」
に、しないといけないのですよ。
付き物なんやで
想いは紡いで
なんぼやからね
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「よく視る」
と、いう業を皆さん日頃から
鋭利努力されていると思いますが、
この業の際に、
一体何を視ていますか。
人を視ていますか。
善い点を視ていますか。
悪い点を視ていますか。
1つの物事や事象に絞り込んでいても
「よく視る」というのを
熟す事は不可能になります。
ありとあらゆる物事をよく視ます。
人、物、植物、動物、空気、水、
動き、流れ、事象そのものなど。
自分を含めたあらゆる面に
ピントを合わせて視る事でもありますし、
俯瞰で客観視する事でもあります。
そして、この業で大切な面は、
「よく視た後」となります。
視たその場で
何かを理解出来る事もありますが、
大半の場合は、
何一つ理解出来ないと思います。
特にやり始めですと尚更です。
けれども、
この積み重ねがデータとなって
後々に驚くべき効果を発揮します。
その時の為に、一つ一つの情報を
様々な角度から視て集積し、
自身の中で補完させていくのです。
都度答えを出したくなるものですが、
そうではなくて
自分なりの仮説を唱えていくのです。
何故なら、よく視たからと言って
その場で正答を出せる程
貴方は経験が豊富ではないですよね。
このよく視るという業は、
欲深き完璧主義を
「自身の中で制御するための業」
でもあるのです。
ですから、
よく視た後はデータの整理と
反省を必ず繰り返す事が必須となります。
その業自体が、
貧乏神化防止に繋がりますし、
思い遣りを理解し後々に
自身が使える様になる為の
楔となりますからね。
その後の動きを
思考しながら
精査せな
ただ見ているだけに
なるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
休息はとても大切です。
生きていれば
無理をしなきゃいけない時も
確かにありますが、
無理を続けていても
善い事というのが無いのは
御存知の通りです。
とは言え、無理をしてしまう。
真面目な人や責任感、
正義感が強い人ほど
自分を縛る傾向にあります。
逆に、自分本位な人はと言うと
常に無理はしません。
大義も無く
周りに無理を強いる事はありますが
自分が無理をする事はありません。
こういう点でも、
貧乏神やその一派を見抜く為の
きっかけを掴む事は出来ます。
少し目線を変えてみます。
大晦日ですからね。
貧乏神からは離れましょう。
皆さんの場合ですが、
恐らくはご自身の周りの人に対して、
「気を配ったり」
「心配したり」
と、休息を勧めていると思います。
これが「思い遣り」です。
想いを遣り取りするから、思い遣り。
以前にもお話をしましたが、
想い遣るというのは
自分から動かなければ
それが自身へ
返ってくる事は無いです。
普通に考えて
当然といえば当然ですし、
出来ている方も多いでしょう。
では、その「想い遣る」は
どこまで適用させていますか。
補助霊にもちゃんと適用して
お休みをあげていますか。
以前にも同様の話を書きましたが、
その時だけ分かったつもりになって
普段の休息は疎か、
こういった時期の長期休暇も
共有をする事なく
自分の気儘に話し掛けたり、
お願いをしてしまったり
していませんか。
浮かれてしまっていて、
ハッとした方も多いと思います。
これが「逆を忍ばせる」です。
そして、前文を読みながら
「私は出来ている」
と、思った方もいるでしょう。
そう思おうとした方もいるでしょう。
そんな自分本位思考では、
新年を迎えても貧乏神の手招きに
引き寄せられますよ。
一応、書き記しますが
本当に出来ている人は、
「出来ている」とは、
思いませんからね。
「どうだったろうか...」
「忘れてしまっていたかもな...」
と、思う人が出来てる人です。
これが「反省」です。
旧年中に自身の過ちに
気付けて良かったですね。
気付けた事を実行すれば
それが「禊(みそぎ)」です。
暮れも暮れの大晦日に
こんな事を書かないで、
もっと縁起の良くなりそうな話でも
してくれればいいのにと、
思われてしまうかも知れませんが、
心を鬼にしてでも教えるという
これがあにきの「想い遣る」です。
だけなんやろとか
思われると
哀しいんやで
図星やから
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回はお客さんより
お声を戴きましたのでご紹介します。
あにきさん、
インスタ、ブログ記事を
いつもありがとうございます。
『悪口陰口を失くす?』
が、分かりやすく
とても為になりました。
ありがとうございます。
色々と考えながら読みましたが、
ふと気が付いたのですが、
あにきさんのレクチャーと
セッションを受ける度に
家族、仕事場の人間関係が、
スムーズになってきていて
空回り、ミス、トラブル、誤解、
落ち込み、等が最近は、
ほとんどありません。
有り難いです。
陰口、悪口を言うより
相手に直接、
『今度このようにして下さいね』と
伝える方が多くなって来ました。
前は、本人に言えず陰で言ってました
(反省...)
だいぶかわりました。
ミスをしても本当に謝れるようになりました。
生きる事に、気持ちが楽になってきました。
これからも日々反省し、
物事をよく考えて陰徳を積んで
幸せを沢山見つけて
正しい生き方をしていきたいと思います。
ありがとうございます。
以上、函南町Tさんからのご感想でした。