今回は考え方について
お話をしたいと思います。
これから話す事は
皆さんにとってしてみれば
もはや当たり前の事なので
何を今更と煩わしさすら
感じられるかも知れません。
何かしらの業の達成を目指す際に
目的を以て動き相手に対して
想いを抱えて行動をしていると思いますが、
この「想い」というものは
一方通行で決するものではありません。
出だしに関してはどうしても
片道となってしまいますが、
これは仕方ありませんね。
ですが、その後に達成となる際には
相手からの想いを受け止めて
初めて成り立ちます。
要は、相互通行でないと
達せないという事ですね。
この時に想いを動きに「載せる」事で
思い遣りを発生させ、
相手からの想いを受け取る事で
「愉しみ」が完遂します。
これらの総合的な事象が
「業(おこない)」
なのですね。
当たり前の事を当たり前に進める。
今回の話に関しても当たり前過ぎる話です。
ですから、
真新しさの欠片も無い話なので
飛ばしてもらっても結構ですよ。
こうして当たり前と思しき動きを
連綿と日々続けていると、
とりわけ日頃の業を始めとした
継続や努力というのは
とても地味な動きですから
何時しかその当たり前の意義や
意味を見失ってしまうんですね。
「想いは相互作用で成り立っている」
と、いう理解している筈の基本概念を
知らぬ間に忘れ始めてしまい、
それのみに留まらずあろうことか
「これだけ自分は想っているのに」
と、云う承認欲求を強く抱いたり、
「どうせ自分なんか」
と、自己憐憫に溺れてしまう様な事が
間々起きるものなのです。
想いの対局に位置していて
相互作用を引き起こしているのは
「念」です。
ですから、
前項で述べた様な状態となるのは
特段恥ずる事でもないですし、
必至な事象とも言えます。
かと言って、そのまま放置をして
反省をしないという選択肢は存在しないので、
ここで思考しないといけないのは
「何を忘れてしまったのか」という点です。
そう。貴方は想いも、
想いを載せる事もちゃんと覚えていた筈です。
ですが、その先の「紡ぐ」という
最終工程を忘れてしまっていたのですね。
想いは「送る」「受ける」だけでなく、
「紡ぐ」を行って初めて完遂となります。
想いを「糸」だと想像すれば分かり易いです。
一本の糸先を相手に渡し、今度は
その糸先を相手が貴方に持ってきてくれる。
そのままではただの返却となってしまうから
糸先を「結わいて紡ぐ」のです。
肝心なここの部分を忘れていたから
念に溺れてしまったりするのですね。
想いは紐で終わらすのではなく、
「結び糸」
に、しないといけないのですよ。
付き物なんやで
想いは紡いで
なんぼやからね



