今回は考え方について
お話をしたいと思います。
前回のお話しの中で、
対象を感覚的にイメージする際に
こちら側の「想い」が必要。
と、記載をしましたが、
ここの部分をもう少し深堀します。
想いと念は相互作用の間側にあります。
どちらを基軸とするか
又、割合の違いは有れども基本的には
「誰でも両方を保持している」
と、いう意味です。
その中に
「感知作用」というものがあります。
感知をする際の反応を示す作用ですが、
想いと念ではこれが異なります。
想いは想いと念を捉える事が出来ますが、
念は念を捉えるのみとなります。
厳密には念も想いを感知するのですが、
感覚的にイメージを構築する術としての
基軸とさせるには弊害が多すぎるのですね。
念というのは、言わずもがな「俗欲」に
カテゴライズされる代物です。
俗欲というのは、業のきっかけとなる
非常に重要な要素の一つですが、
同時に
「自己の判断を阻害させる」
要因の一つでもあります。
重要となるのは、ここでの目的です。
「対象を感覚的にイメージさせる」
と、いうのが目的である以上、
自身の中で
「信に徹する」必要が出てきます。
ですが、念つまり俗欲を
基軸としてしまうと、
・信に徹する事自体が揺らいでしまう
・俗欲基軸の対象のみを捉えやすい
これらの点が突出してしまい、
正常なイメージ構築が
成し難くなるのです。
例えば、
「私は凄いんだ」という様な
自己顕示欲や承認欲求が強めの人が
相手を捉えようとしても、
自身の基軸たる念を否定する様な相手は
最初から排除してしまいますから
とても冷静なイメージ構築など
成すことが出来ません。
都合の良い相手のみを選ぶという
貧乏神の特性を思い出せば理解出来ます。
逆に、想いを基軸としている場合は
仮に相手が念を基軸としていても、
その距離感の掴み方を理解しているので
想いを基軸としている相手と同様に
冷静なイメージ構築が出来ます。
(実際に距離を取るのはこの後です)
霊視とは、
自身の全感覚を使用して
如何に具体性のある
「構築」や「分析」を行えるか。
それが総てとなる業です。
ご都合主義の俗欲を基軸として行える程
軽薄なものではありません。
感覚1つを得るにしても、
それは同様の事が言えます。
自身の栄誉や名誉の為の行いなど
単なる妄想や愚行であるとしか
言いようがありません。
これを回避させる為には
どう考えても想いを基軸とする以外に
方法が無いのですね。
この流れを肌身で理解出来ると
感覚もちゃんと掴めます。
基軸の造り
なんやで
何事も基礎が
重要や