2025年10月18日土曜日

幸せの流儀(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人は幸せを追い求める事に
暇も果ても無いです。
けれども、実際のところそれは
物凄く無駄な努力とも言えます。

何を以てして幸せなのか。
自分の幸せとは何なのか。

物が沢山あれば幸せなのか。
お金を沢山持っていれば幸せなのか。

好きな事が出来れば幸せなのか。
好きな人と居れたら幸せなのか。

言い出したらキリが無い上に、
個々人での差も開き過ぎる内容ですね。

人によって違うものですから
どれもが正解とも言えますし、
どれもが違うとも言えます。

では、
本来のスピリチュアルの観点からすると
どうなのかと云う話なのですが、
その「大元」を目指します。




大元とは何なのか。
結論から言ってしまえば、

「動ける」という幸せであり、
「健康である」という幸せです。

あまりにも単純で
あまりにも身近過ぎる事ですから
ピンと来ないかも知れませんが、

ここが幸せの大元であり
全ての幸せの根源です。

この、動けるという事と
健康であるという事が如何に幸せなのか

この真実に対して
自身が気が付ける様になれるか。
目を向けられる様になれるか。

これが幸せを得る上で
最大のポイントとなります。
また、このポイントには
想いも念も詰まっています。

そして、その反応もダイレクトです。

あまりに近過ぎて視えない事なので
相当に意識をしないと決して視えず、
その瞬間瞬間の想念によっても理解が及ばない。




動けているから理解が出来ず
健康だから意識にも昇らない。

そんな単純で近いものが根源ですから、
実際に動けなくなったり
健康を害した時でないと分からないのですね。

仮にそれが自身に及ぶ事でもそうですし、
家族に何かがあった場合でもそうです。

そんな根源を如何に知れるか。
動ける状態の時に、健康な状態の時に
いの一番で知る事が出来るか。
理解が出来るか。

また、
その認識を常に己の内に秘める事が出来るか。

これが本来のスピリチュアルでの
幸せの根源の一つです。

ここからの派生が、
先に話した内容云々となるのです。
つまり、

「幸せは既に足りている」

と、いう事なのですね。




この概念が理解出来なかったり
理解をしようとしなかったりするから、
後になって塞込んだり
困り果てたりしてしまうのです。

足るを知っていれば、
そこから先の動きには制約を設けます。

無理をすれば反動が起きて
派生した幸せすらも
御釈迦となってしまうからです。

今、ここを観ている時点で
貴方の幸せは既に足りていて、

それ以上のものは
「一体何を目的としている幸せなのか」を
考えなくてはいけません。

他所様よりも裕福になりたいとか
幸せをひけらかしたいとか
そんなものは
実にくだらない俗欲に過ぎませんし、
目的ではなく手段です。

今もこの先も生活が出来ればそれでいい。
自身や家族や大切な人が
決して困窮しない程度に日々の努力を重ねる。

それが本来のスピリチュアルに於ける
幸せの在り方であり、
幸せの流儀なのですね。

例え、自身が家族が大切な人が
病気などであってもそれは変わりません。

伏して何もしないのではなくて、
動けるのであれば動いて、
動ける事に幸せを見出す。

健康であればその健康を維持する努力をする。
何かに罹患していたりするならば、
現時点での状態を認めた上で
回復に向かって健康を意識したり、

健康を目指せる事に幸せなのですから。

僕も指定難病の家族を抱えています。
医師からは治る事は無いと言われていますが、
この考え方は病が発覚する以前から
ずっとずっと若い頃から
何も変わっていませんからね。

動けて健康である事。
これが何よりも幸せだという真実を
足るを知るという考え方を
皆さんも理解が出来れば、
生きるのがとても愉しくなりますよ。

欲を搔けば
果ては無いんやで
幸せの形ってのは
人それぞれで
ええんやで