皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人は幸せを追い求める事に
暇も果ても無いです。
けれども、実際のところそれは
物凄く無駄な努力とも言えます。
何を以てして幸せなのか。
自分の幸せとは何なのか。
物が沢山あれば幸せなのか。
お金を沢山持っていれば幸せなのか。
好きな事が出来れば幸せなのか。
好きな人と居れたら幸せなのか。
言い出したらキリが無い上に、
個々人での差も開き過ぎる内容ですね。
人によって違うものですから
どれもが正解とも言えますし、
どれもが違うとも言えます。
では、
本来のスピリチュアルの観点からすると
どうなのかと云う話なのですが、
その「大元」を目指します。
大元とは何なのか。
結論から言ってしまえば、
「動ける」という幸せであり、
「健康である」という幸せです。
あまりにも単純で
あまりにも身近過ぎる事ですから
ピンと来ないかも知れませんが、
ここが幸せの大元であり
全ての幸せの根源です。
この、動けるという事と
健康であるという事が如何に幸せなのか
この真実に対して
自身が気が付ける様になれるか。
目を向けられる様になれるか。
これが幸せを得る上で
最大のポイントとなります。
また、このポイントには
想いも念も詰まっています。
そして、その反応もダイレクトです。
あまりに近過ぎて視えない事なので
相当に意識をしないと決して視えず、
その瞬間瞬間の想念によっても理解が及ばない。
動けているから理解が出来ず
健康だから意識にも昇らない。
そんな単純で近いものが根源ですから、
実際に動けなくなったり
健康を害した時でないと分からないのですね。
仮にそれが自身に及ぶ事でもそうですし、
家族に何かがあった場合でもそうです。
そんな根源を如何に知れるか。
動ける状態の時に、健康な状態の時に
いの一番で知る事が出来るか。
理解が出来るか。
また、
その認識を常に己の内に秘める事が出来るか。
これが本来のスピリチュアルでの
幸せの根源の一つです。
ここからの派生が、
先に話した内容云々となるのです。
つまり、
「幸せは既に足りている」
と、いう事なのですね。
この概念が理解出来なかったり
理解をしようとしなかったりするから、
後になって塞込んだり
困り果てたりしてしまうのです。
足るを知っていれば、
そこから先の動きには制約を設けます。
無理をすれば反動が起きて
派生した幸せすらも
御釈迦となってしまうからです。
今、ここを観ている時点で
貴方の幸せは既に足りていて、
それ以上のものは
「一体何を目的としている幸せなのか」を
考えなくてはいけません。
他所様よりも裕福になりたいとか
幸せをひけらかしたいとか
そんなものは
実にくだらない俗欲に過ぎませんし、
目的ではなく手段です。
今もこの先も生活が出来ればそれでいい。
自身や家族や大切な人が
決して困窮しない程度に日々の努力を重ねる。
それが本来のスピリチュアルに於ける
幸せの在り方であり、
幸せの流儀なのですね。
例え、自身が家族が大切な人が
病気などであってもそれは変わりません。
伏して何もしないのではなくて、
動けるのであれば動いて、
動ける事に幸せを見出す。
健康であればその健康を維持する努力をする。
何かに罹患していたりするならば、
現時点での状態を認めた上で
回復に向かって健康を意識したり、
健康を目指せる事に幸せなのですから。
僕も指定難病の家族を抱えています。
医師からは治る事は無いと言われていますが、
この考え方は病が発覚する以前から
ずっとずっと若い頃から
何も変わっていませんからね。
動けて健康である事。
これが何よりも幸せだという真実を
足るを知るという考え方を
皆さんも理解が出来れば、
生きるのがとても愉しくなりますよ。
幸せの形ってのは
人それぞれで
ええんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は大切な考え方について
お話をしたいと思います。
日頃の生活の中で、
嫌な事というのはどんなに小さい事でも
記憶に残ります。
例えば、
今朝から今の今に至るまでの間でも
キレたりムカついたり
純粋に嫌だと思う事の方が
頭の中を占めている人が多いと思います。
ですが、
少し疑問に思いませんか?
本当に嫌な事ばかりでしたか?
善い事なんて一つも無かったですか?
嫌な事は覚えているのに
善い事は覚えていない?
そんなに嫌な事だらけでしょうか?
半々とかならいざ知らず
全く覚えていない
全くないというのは、
普通に考えておかしいと思いませんか?
ぶっちゃけた話、
1(嫌な事):9(善い事)の割合で
実際には善い事の方が多いです。
では、どうして善い事というのは
覚えていないと錯覚するのか。
それは、善い事があまりにも小さいのと
本当の意味での善い事というのは
俗欲に属さない事だからです。
あまりにも小さくてあまりにも多いから
感覚がバグっていて視えなくなっている。
森の中に居ながら
「木はどこにある?」と、
間抜け面して探している様なものです。
普段の生活の中で、
特段の嫌な事が無い状態が普通なのに、
どういう訳か嫌な事を作ろうとする。
少なくとも自分には善い事尽くめだなと
思う事が出来るのなら、
ほんの少しの嫌な事などは
気にも留めない筈です。
ですが、気に留めるどころか
気になって仕方ないレベルまで
嫌な事を記憶してしまうのは、
思っている以上に善い事に
囲まれているから。
善い事というのは想像以上に小さいです。
当たり前の事が当たり前に行える。
それが本当の意味での善い事の典型。
この理の中に属しながら
この理屈が理解出来ない。
だからこそ、
(欲を芯に据えた)
自分にとっての善い事
皆が羨むような善い事
を探そうとする。
けれども、それは欲中心ですから
善い事ではなく嫌な事の方に
属するものなのですね。
つまり、
善い事=小さい幸せ
という事に気が付けないと、
嫌な事を忌避すると言いつつ
嫌な事を望む様になっていき
本当に嫌な事が重なっていって
貧乏神の入口に立ち、
やがては地獄堕ちする。
欲と言うのは消せません。
寧ろ、この現世で生きていくのに
必須のものです。
欲は手段でありきっかけです。
決して目的とするものではないのです。
だから、制御をしなければいけないし、
欲というものを理解しないといけない。
自分は幸せな環境にいる
というのを理解しないで、
もっともっと moer and more と
あれやこれや欲し続ける。
結果、善い事が分からなくなって
嫌な事ばかりが目に付いていく。
もっと周りを視て、
もっと自分を覗いてみましょう。
足るを知る事に注力すれば
善い事の数や輝きがハッキリと視えますよ。
善い事を決して忘れる事はありませんからね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、幸せの度合いについて
お話をしたいと思います。
皆さんが感じる幸せというのは
多岐に渡ると思いますが、
これは基準をどこにセットするのかで
度合いというものが変わります。
例えば、
自分の身の回りだけで思考した場合ですと
当たり前の所作や事象について
幸せを感じる基準が高くなります。
何故かと言うと、
ここは日本です。
物と人と情報に溢れています。
余程自分が下手を打たない限り、
何も思考しなくても
ボケっとしていても生きていけます。
そういう環境の下に生きています。
蛇口を捻れば飲める水が出てくるし
ふらっと出かける事も出来れば、
命懸けで買い物をする事も無いです。
ですが、
地球上には日本での当たり前が
須らく異常
という様な場所が多々あります。
便利というのが当たり前になると、
そこへの幸せは、ほぼ皆無です。
幸せを感じ様にも感じられない。
つまり、幸せの基準が高い
という事になります。
誤解をしてほしくないのですが、
これそのものが悪いとか良いとか
そういう問題ではありません。
何も無理に不便さに興じろ!
という意味でもありません。
ここでの問題は
当たり前という目隠しに
覆われてしまって
幸せを感じにくくなっている
という点です。
本来であれば、
相当高度な幸せを得ているにも関わらず、
普通過ぎてしまって
その意味が理解できない。
結果として、
更に高度な幸せを望む様になって、
無理をしたり、
物に頼ったり人に頼ったり、
心よりも見てくれ重視な
張りぼての幸せへと傾倒する様になります。
苦労や労苦が無いというのは、
当然にこういう結果を招きます。
なればこそ、
そこへ焦点を合わせないといけません。
実際に経験するのも難しいですから、
せめて意識下でそれを認識する様に心掛ける。
これが幸せの基準を下げる事に繋がり、
幸せの度合いを高める事に繋がる。
小さい幸せを見付ける努力というのは、
こういう点へと繋がるのですね。
また、恒常的な楽というのは、
人の中に傲慢や怠慢を産みます。
これらは人の心をかなりの勢いで蝕みます。
心と言うと曖昧な表現なので
ハッキリと言いますね。
愛や愛情を蝕むのです。
愛や愛情を欠落させるという事は、
人のみならず
物や他の生き物、自然に対しても
思い遣りや優しさが薄れるという事です。
大切にしたり大事に使ったり、
心を込めるという事が出来なくなる
という意味です。
総じて、幸せの度合いも低くなります。
逆に幸せの基準はインフレを起こすので、
どんどんと高くなっていきます。
ですから、
ちょっとやそっとの事では
幸せを感じられないですし、
周りを貶める様な行為をする様になり、
反面、自分を異常に守る様になりますから、
尚の事、周りの心に触れなくなっていく。
こうしてループし完成するのが貧乏神です。
「足るを知る」
老子の有名な言葉ですが、
餓鬼の如く欲に塗れる貧乏神へと
変貌しない為にも、
自身のステップアップに必要な
幸せの度合いの向上の為にも、
自分に甘えずに
他力本願とならずに、
敢えて、幸せの基準を下げる努力が
実は必要なのです。
これ程迄に恵まれている土地に
根を張っているのが我々なのですから、
当然と言えば当然ですよね。