皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人には、
「動く人」と「動かない人」が居ます。
「動く人」というのは、
黙っていても動きます。
当然に目的をしっかりと定めますが、
その目的は、物などで無くても平気で
気持ちや想いという類の「相手への心情」でも
自身を突き動かせます。
「動かない人」というのは、
黙っていると動く事はありません。
動く為の目的を求めますが、
利害を第一に思考します。
ですので、
金品などの物質が優先となり易いです。
相手への心情を目的にする事もありますが、
その心情は想いや気持ちなどではなく
自身の利益になるかどうかの
「見返り」という点でのみ作用します。
動く人と動かない人とでは、
意見の一致が非常に困難となります。
差しさわりの無い表面上の話や
データをベースとした様な話であれば
一定の一致は叶いますが、
経験則から得た話などの場合ですと、
根本的に合う事が無いと考えた方が良いです。
これは、行動理念の不一致が原因です。
先述した通り、動く人と動かない人とでは
行動理念がまるで異なります。
前者は心情のみでも行動可能なのに対し、
後者は利害と見返りのみで行動を起こします。
前者の方は動く過程の中で
利害行動を重視した動きも経験しますが、
後者の方に至っては心情では動けないので
非常に偏った経験のみとなります。
また、原則として「動かない」訳ですから、
経験値自体が乏しくなります。
全ての動きに於いて当て嵌める事は不可能ですが、
基本的な部分での思考の乖離で
関係性を逡巡してしまっている方は
この考え方を念頭に入れて見極めると
後々の選択や考察時に有用となる。
と、本来のスピリチュアルでは考えます。
善い事ばかりではなく
動き過ぎてしまう
という悪癖がある
何でもやり過ぎは
善くないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
物事を思考し動く際に
ニュートラルという概念が
非常に重要となってきます。
どちらにも属さないのではなく
どちらも理解する様にする。
ここでの注意点は、
完全に分かる必要はないという点。
理解する努力が必要なだけです。
その上で、「違う」と断ずれば
別にそれで結構。
何も、常に真ん中に居る事が
ニュートラルではありません。
そして、良いとこ取りでもありません。
その時々の最適解を手にして実行する。
これだけ聞くと良いとこ取りだと
思うかも知れませんが、
それは「最適解=良い」と
自動解釈しているからです。
誰もそんな事は言っていません。
あくまでも最適解であって、
それに対し皆が良しとするものではない。
その時の自身の状況や状態に於いての
誰のための解答なのか
何のための選択なのか
ここが重要となってきます。
なので、決して善しとはなりません。
痛みを伴う事もあれば、
断腸の想いとなることだってある。
善し悪しという一元的で単細胞な判別ではなく
全体を見通して多元的な視点で判別をする。
さしずめ、
自身を核に据えた球体のイメージです。
このニュートラルの概念を実践していくと
話をしながらでもリアルタイムで
あるイメージが出来る様になっていきます。
自身の後方上空より周りを見渡す
というイメージです。
自身を解放する
肉体は無理でも
幽体なら可能
どちらも
自分自身なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
普段の会話の中で
人に何かを話したり伝えたりする際、
時系列を無視する人が居ます。
順を追って説明するよりも
「その場の感情」や
「自身の感情に流されてしまい」
まともな説明が出来ないという意味です。
物事には順序というものが存在していて
その流れに沿うからこそ
事象というものが成立するのですが、
その重要点を自身の感情等を軸として
ガッツリと無視してしまう。
例えば、
自分が可哀想な思いをした、
辛い思いをした、
ムカつく思いをした、
面白かった、
これらの感情を元手として
同意を得たい、共感してほしいという
気持ちが先走ってしまい、
いつ(when)という大切な要素を
どこかへ置き去ってしまう。
「仕事で失礼な事を言われたの
本当にムカつく」
みたいな会話があったとして、
これだけを聞くと当日中の話かと
思ってしまいますよね。
しかし、実際は数日前の話だったりする。
これが時系列の軽視。
おまけに、時系列を軽視すると
「前後の欠損」というオプションも
もれなく付いてきます。
何かというと、
先述した例えで失礼な事を言われた点。
ここの失礼な事というのが、
そもそも当人が発端であったりする。
早い話が、
自分が原因で自分がいけないのに
その汚点を見せたくないし
認めたくないが一心で
ムカつくという点に絞って、
相手の同意を誘って満足する。
という、一から十まで自分本位な行為。
つまり、時系列を軽視する人は
自分本位の比率が高い事が多いのです。
なので、老若男女問わずに人の話は
よく聴かないといけません。
文字であるならば、
よく視ないといけない。
そして、よく考えて
お返事をしてあげないと駄目です。
「それはいつの話で、誰と誰が居て
前後の状況を教えてくれないと
意見も言えなければ同意も出来ないよ」と。
また、自身の話をする際に
出来るだけ固有名詞を出す事が
相手に対して物凄く丁寧な対応となります。
「こういう人が居てね...」
ではなくて、
「〇〇さんという人が居てね...」
という感じの話し方です。
話す相手が分かり易い様に
人だけでなく固有名詞は
出来るだけ教えてあげる。
(相手のためという業ですね)
聞く側だった場合は、
単刀直入に名前を聞くのも大切です。
「それは誰さんなの」と。
話し手が言いたくない場合もありますが、
これは聞いてる側の権利ですから
気にせずに聞きましょう。
名前すらも言いたくないのか
名前を言うのが都合悪いのか
聞く事によって話し手側のスタンスが
透けて視えますからね。大切な事です。
これらを踏まえた上で
自身の周りで起きてる会話を
今一度、思い返してみましょう。
貴方自身が良い様に
利用されていたかも知れませんよ。
くだらん話に
付き合っているほど
無駄な時間は
無いんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
日頃から何かにつけて
「反省」をされていると思います。
自分を正の螺旋という流れへ
進ませる為にも必要な業ですし、
反省つまり「自戒」の事ですが
これをやらないと
何を正すのかが分からないですからね。
然しながら、
この反省という業ですが、
何を以てして反省なのかを
よく理解しないで使われる事が
多いのも確かです。
最も多いのが
反省という「単語のみの独り歩き」。
例えば、話の中などで出てくる
「私も反省しています...」
「あの人も反省しているのだから...」
みたいなやつですね。
反省という「単語」が
話の中で散見していますから
どことなく「反省している」様に感じますが、
聞く側がこれを真に受けると
確実に失敗します。
話す側にとっても「反省」という
単語のみの使い方をすると手痛い目に遭います。
事、本来のスピリチュアルという立場としての
話をさせて頂きますと、
元来の反省というのは
想いを軸とした「正の螺旋」に於ける業であって
反省に宿るのは「相手のため」という様な
想いに他なりません。
という事は、
もし、反省という「業」を会話の中で
使うのであれば
誰が(who)、何を(what)、
どこで(where)、なぜ(why)、
どれを(which)、どうして(how)、
という様な5W1Hに則して
反じて省みたその内容そのものを
当事者へ「詳細」に伝えなければ、
想いとしての機能は果たせません。
その逆として、
先述した様な「反省」という
「単語の独り歩き」をした場合はどうなるのか。
相手には「念」が伝わり、
相手からも「念」が返ってきます。
実際に、
「反省」をこの様な使い方をする場合は、
その当事者とは全く向き合わずに
「逃げの言葉」として使うパターンが主です。
(話をしたくない)
(そぶりを見せて誤魔化したい)
(自身の意見だけ通したい)
(そもそも面倒臭い)
(自分は悪くない)
こういった思考がメインの時に
使ってしまうのが、
「反省という単語の独り歩き」です。
ね、想いとは程遠い内容でしょ。
もし、本来のスピリチュアルを
理解している人や
理解する努力をされている人が、
会話の中で
反省という単語のみを耳にすると
確実に違和感を覚えます。
強烈な違和感を覚えるので、
その内容を必ず相手に尋ねたり
「詳細は」とか、「詳細を」とか、
何かしら相手さんがこちら側へ伝える為の
促しをしてくれる筈です。
何故かと言うと、
「よく視てよく聴いてよく考える」
と、いう実戦形式での行動原理に沿って
皆さんは動いている訳ですから、
反省というワードはただの「単語」であって
その内容を口にしてもらわないと
意味が無いというのを知っているからです。
その内容にこそ、
想いが詰まっているのだから
それを言葉や文章として伝えてほしいし、
伝えられる様に動いてあげようという
奉仕の精神に基いた動きとなりますから、
上記の様な促しをするのですね。
また、単語のみの使用は
「狡さ」という念を基とした動き
だというのも知っていますから、
確認の意味もあるのですね。
言うなればディフェンスラインです。
態々、率先して
念を受け取る必要はありませんからね。
どこか使い勝手の良い単語なので
安直に利用してしまいがちですが、
運気の維持や安泰安寧を望むのであれば
真摯に向き合って反省の内容を
述べた方が身の為ですからね。
覚えておきましょう。
「反省という業は、逃げの言葉ではない」
日頃の業なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
それまで
視えなかったものが視える様になる。
聴こえなかった事が聴こえる様になる。
これが何の話かと言うと、
僕とのセッション等を通じて
状況改善が進んだ方々が
必ず手にする"感覚"の話です。
別にお化けが視える様になるなんて
一言も言ってないですし、
死者の声が聴こえる様になる
とも話していません。
ただ、視えなかったものが
視える様になって
聴こえなかった事が聴こえる様になる。
それは、そこに居る人の姿であり
人の声でもあり、
生き物の姿であり、
生き物の鳴き声でもあり、
植物や動物を問わずに
万物の姿でもあり、万物の声でもある。
何とも怪しげな術者が口にしそうな
台詞のオンパレードとなっていますが、
これらを適確に表している言葉を
僕らは日常的に使っています。
それは「雰囲気」です。
それまで
視えなかった雰囲気が視えて
聴こえなかった雰囲気の音が聴こえる
あら不思議、
さっきと比べると意味が格段に
分かる様になってきたでしょ。
エネルギー、気、霊気、霊感、
よく分からなくて不一致な
紛らわしい言葉を態々使わなくとも
普段使いの言葉で表現は充分に事足ります。
それらの言葉には
回復や改善のイニシアチブは何一つ無く
それらの言葉を使って満たされるのは
話している人の自尊心だけですからね。
んなもん使って自身の立場の建立をせずに
素人さんの目線に立って話せば良いんです。
それが思い遣りですね。
話が少し飛びましたが、
自身の状況が悪化や増悪している時とは
感ずるべき雰囲気を
感じられていない状態です。
つまり、
意識が内側へと向いている状態であり
これが「思考的視野狭窄」となります。
口語的に云うと、自分本位状態ですね。
なので、
よく視れば分かるものも
視えなくなる程に「俯いて」いて、
耳を澄ませば聴こえる事も
聴こえなくなる程に
「塞いで」しまっている。
そこから首を上向きにさせたり
塞いでる手を外してあげたりして
回復をさせれば
視えたり聴こえたりする
準備が整います。
その先で、
視野の動かし方や音の聴き取り方を
説明して解説して落とし込んでいく。
すると、それまで華麗にスルーしていた
「雰囲気」が露骨に視える様になるし、
「雰囲気」の音が聴こえる様になる。
こうして、皆さんが言うところの
「不思議な力(笑)」や「霊感(笑)」の
基礎が出来上がるのです。
何のこたぁない、
神秘的でも無ければ超自然的でも無いし、
とても現実的な話でしょ。
ですから、誰でも出来るし
その権利や能力自体は端から持っていると
言ってるのですよ。
これが
「本来のスピリチュアルの基礎」です。
ここから、想いや念が分かる様になるし、
人の見極めが出来る様に繋がっていくのです。
まぁ確かに、更にその先へ進む為には
努力の積み重ねが必定ですから、
貧乏神気質の人には無理ですけどね。
違うで
雰囲気を
感じ取るんや
所謂空気ってのは
念想の事やさかい
全くの別物やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
季節の変化や移ろいを感じるというのは
とても気持ちが良いものです。
どの季節にも言える事ではあるのですが、
特に木々の彩りが美しい秋は
何かと癒されるものですよね。
そういう時に、
ちゃんと思考しているのかを
意識してみて下さい。
お花や紅葉の美しさばかりに
気を取られていると
足を滑らせたり
運転を誤ったりして、
事故に繋がったり
怪我をしてしまったり
善い事とは程遠い結果となります。
何で美しいものを視ているのか
それは本当に自分の意思なのか
周りがやっているから
そうしているだけなのではないか
普段は気にしていないのに
流行りの波に乗っているだけとか
癖になっているだけではないか
本当に自己の意思かどうかを
問いかけてみるんです、自分に。
何を目的としているのかを
よく考えてみる事で、
その動きの本質を捉える事が出来ます。
何の為に誰の為にどういう理屈で
自分は動いているのだろうかを
しっかりと思考する。
運気というのは、
どこまで行っても自身の動き次第で
変化するものです。
例え風光明媚な場所を観たとしても
身近な所で済ませていたとしても
目的を逸脱してしまうと
出てくる結果は崩れます。
貴方が実践する業の一つ一つが
運気の維持に繋がりますが、
どんなに素敵な業だとしても
貴方がそれに酔いしれていたら
そこまでの話です。
観て感じ取り結果を得る筈の目的が
いつしか
自身の動き自体の満足度が目的となる。
それは自分本位に他なりません。
小さい事でも大きい事でも
目的をちゃんと思考しながら
動いてみて下さい。
視るものすべてが変わりますから、
秋のレジャーもより一層堪能出来ますし
愉しみは数倍に膨れますよ。
堪能しまくれば
お腹はもっと
膨れるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
「運気が良くない」とか
「調子が良くない」とか
「何かと上手くいかない」とか
「もっと良くしたい」とか
理由は様々あれど運気UPを望む人の
殆どが俗欲をベースにしています。
ここまでの話を聴いて
「それは宜しくないな」
「私は違うわね」
などと、思った人は
そこそこに危険な状態です。
何故かと言うと、
何をするにしても俗欲をきっかけとして
人は動くものだからです。
俗欲に溺れる事が駄目なだけであって
俗欲そのものは決して悪では無いです。
そこから目を逸らして
最後まで話も聴かずに悪と断定するのは
自身の駄目な面をも視ないと、
宣言しているのと同じなのですね。
そういった状態の方がやらかし易いのが
「即効性の希求」です。
「辛さや苦しさから逃れたい目を背けたい」
確かにその気持ちは分かりますが、
大元の問題を理解する事と
その改善に目を向けなければ
例え一時的な快方を得たとしても、
いずれまた同じ状態に陥って
症状は見るからに増悪していきます。
自身の状態が芳しくないのは
貴方が長期間に渡って俗欲に溺れながら
周りに流されて好き勝手に動いてきたツケです。
云わば、俗欲や貧乏神といった毒沼の中に
どっぷりと浸かってきた訳です。
解毒自体の即効性は約束出来るものですが、
その後の改善という点や
予防などという点については
即効性など望める事は無いのです。
それなのに即効性ばかりを希求するから
おかしな事に繋がっていくのですね。
何事に於いてもですが、
改善というものには「急がば廻れの精神」が
重要なものとなってきます。
「持っているだけで幸せになれる」
「視るだけで運気アップ」
「聞くだけで霊力増強」などなど
断言できますが、
そんなの決して有り得ない事です。
運気UPや改善というのは
貴方自身の不断の努力が実を結ぶものです。
よく視てよく聴いてよく考えながら
失敗を恐れずに自ら動いて得るものです。
あにきみたいな存在は、
貴方の努力を開始させたり後押しをする為の
きっかけに過ぎません。
楽をしたいあまりに、
縷々響いてくる喧しいまでの綺麗事には
悦という名の毒素は有っても
即効性や回復効果はありませんからね。
純度を上げる
それには自身の
努力が不可欠やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分本位思考というのは
誰の中にでも存在します。
自分は気を付けているから大丈夫と
思っていても必ず存在します。
寧ろ、そう考えていると
制御が効かなくてエライ目に遭います。
それ程に身近なものであり、
切っても切れない俗欲が
自分本位というものです。
そんな自分の中の自分本位思考を
目で見て確認出来るのなら
これほど助かるものはないですね。
では、どうやってそれをやるのか。
難しく考える必要は全くありません。
ここを読めば良いのです。
ここというのは、
このクソブログ自体の事です。
難しいですよね。これ。
わざと難解に書いてる訳ではなくて
この方が「書き易い」だけです。
「読み易さ」という点に焦点を絞りこんだ
書き方も実際には出来ます。
ですが、最早その段階ではなくて
「濃い内容」に焦点を合わせた方が
皆さんの為になりますし、
濃くするのであれば投稿頻度も
増やす必要がありますから、
書き易さ重視にしているのですね。
こんな書き方が書き易いなんて
イカれてるとしか思えないでしょうけど、
昔取った杵柄としか言えないので
こればっかりは仕方ないです。
さて、何故この話が自分の中の自分本位に
繋がるのかと言いますと。
ここを最近初めて読んだ方の殆どが
難しいと思われた筈です。
実際、直接そういうお声も耳にしています。
ですが、それは最新の記事とかを
読まれているからに過ぎません。
バックナンバーを読めば分かりますが、
先程述べた通り直近の記事と比べると
段違いに読み易くなっています。
と、言いますか、
書き方そのものが今と違います。
とても入り易くなっています。
最初の記事から読めばいいのを
横着したのは何故ですかね。
こうして言われてみると
最初という基本を読みもしていないのに
難しいと断定するのは
些か違うのではないかと思いませんか。
そう思えたのであれば、
それが「貴方の中の自分本位」です。
書き手には書き手の思惑があります。
読み手はそこを読み取ってこその
読み手です。
これが書き物に於ける「気持ちの咀嚼」であり、
想いの遣り取りであり「思い遣り」です。
けれども、そこを横着という俗欲の型を
実行させたのは誰でもない貴方です。
「新しい情報が欲しい」
「気になるものだけ欲しい」
「全部読むのは面倒臭いから」
挙げたらキリがないですが、
横着の要因は概ねこんなところでしょう。
見事なまでの俗欲であり、
改めて言われてしまうと
呆れる程の自分本位思考ですよね。
敢えてディスった感じで話しましたが
この様に自分本位思考なんてものは、
誰でも抱えているものなのです。
ここでいちいちショックを受けるのではなく
はたとその事実のみを受け止める。
「私は大丈夫だった」とか
「そんな風には思っていない」とか
「書き方が悪い」とか
何やかんやと言い訳をして
「嫌な事実」から目を背けるのではなく
素直に「自分の中の自分本位」を受け止める。
このサイクルを日々繰り返す事が
駄目な自分の制御に繋がっていき、
愉しみを増やして運気を上げていくのです。
何事にも基本や基礎というものが存在します。
その土台なくして応用をする事は叶いません。
対人で言うところの、
「斜め読み」や「流し聞き」がこれに該当します。
ですから、
「よく視てよく聴いてよく考える」事が
大切になってくるのですからね。
これが理解出来ない
どうしても楽したい
自分は大丈夫
自分は悪くないと
思う人が
貧乏神になるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
「霊を感知する」
と、言いますと、大概の人は
悪霊などを想像するのかと思いますが、
それはあまりにも偏り過ぎてる思考です。
狭間の世界に滞在している霊の
凡そ8割が所謂「善い霊」です。
悪霊等は残りの2割なので
数で言うと少数派なのですね。
であるならば、
霊を感知すると考えるならば
「善い霊」を
真っ先に思い浮かべないとおかしい
という事になります。
これは本当の盲点でして
「霊=悪」
という先入観や間違った認識による
固定観念からの思い込みなのですね。
また、「悪霊だと思いたい」という
霊を悪者と決め付けてしまう
ご本人の問題でもあります。
悪霊に思いを馳せる人というのは
自身にもその気質があると
断言しても良い状態と言えます。
早い話が、
「自分本位で自己優位性重視の
貧乏神気質の人」
なのではないかという事です。
例えばですが、
「私は霊が視えるの」とか
「私は分かるのよ」系の人などが
貴方の身近な所にも居るかと思います。
この手の方々がこれらの台詞を
口にする際というのは、
殆どの場合が悪霊を指しています。
「肩が凝っている」とか
「嫌な事が続いている」とか
その手の話を耳にしたからとは言え、
相手の状況が悪い時だけ霊的文言を
吐くのは、おかしいと思いませんか。
本当に分かるのなら
相手さんの調子が善い時や
何でもない時にこそ
何かしらを伝えていないといけません。
霊=悪ではないのですから。
ちゃんとした意味で霊の感知が出来ると
善い霊の感知が圧倒的に増えます。
というよりも、それが普通です。
善い霊の感知が出来れば
悪い霊の感知はとても容易です。
何故ならば、
この場合ですと明朗な「違和感」として
貴方の感覚が検知するからです。
この「違和感」を人に利用します。
悪霊というのは生前から片鱗が出ます。
それが貧乏神であり貧乏神気質の人
という存在なのです。
霊は人であり人は霊です。
「生きて肉体を纏っているか」
「死んで肉体を失しているか」
端的に言えばこれだけの違いなのです。
一般的には視えない存在の善し悪しを
自己判断出来てしまえば、
肉体という殻を纏っている人が
幾ら表面上で誤魔化していても
その中身は筒抜けに近い状態となります。
こうして誰もが実生活の中での
実戦的有効活用を可能とさせるのが、
本来のスピリチュアルなのです。
総じて嫌な奴と
相場が決まって
いるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
一昨年辺りから2025年は
至る所で懸念が評されております。
ことスピリチュアル業界に至っては
危ないのは4月だの7月だのと、
色々と噂されている感じです。
現世では少なからず何かしら
起きるものですから
そこら辺を気にしても仕方ないですし、
それでも気にするのであれば
「その後」に目を向けないと
意味がありません。
また、あにき目線で言えばの話ですが、
巷で言われている予期や予言などは
かなりポイントがズレていると
以前より感じています。
ですので、
気にしていないという感じです。
それよりも身近な点での懸念については
既に然るべき場であにきも話しています。
これら世間を賑わす話に関して
何を目的として広めているのか。
その方々の思惑などを推測する事が
非常に重要となってきます。
日頃より話している「仮説の構築」です。
これは話をしている側の様子や
その背景をよく視る事で情報を
纏める事が可能です。
何かしらのステータスに頼っていないか。
組織的背景は見え隠れしていないか。
多的思考による戦略誘導を執っていないか。
このブログ内でお話しをしている見極め方や
あにきがお会いして直接お話しをしている
「視る方法」を駆使すれば、
自ずと理解が出来てくるものです。
要は、
「よく視てよく聴いてよく考える」ですね。
先を視る先を知る上で、
一番の御法度は
「恐怖の煽り」と「意識的誘導」です。
恐怖というのは周りへと伝播します。
そして、その無知蒙昧な恐怖は
人の冷静な判断を狂わせます。
その場面で残るのが「意識的誘導」です。
意識は具現化へと進展します。
内容が善くも悪しくも具現化するのです。
善いものであれば歓迎ですが、
悪しきであれば複雑です。
けれども、先述した恐怖の先にあるのは
どう考えても悪しきとなります。
然しながら、人というのは無知であったり
周囲に流される状況となれば
恐怖の煽りに対して途端に
信望を持つ様になります。
ここの誘導をしている方々の思惑を
ちゃんと見極めないと駄目ですよ。
と、いう話が今回の内容です。
持てる知識は表層を透かします。
ミクロを視るならマクロを知りましょう。
視野を広く保つ意味が分かると思いますよ。
まずはシステムを
理解するんやで
意外な事が
視えてくるはずや