皆さんこんにちは、あにきです^^
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に何かを話す際に単語の羅列で
済まそうとしてしまう人が居ます。
先月投稿したこの記事でも
触れましたが、
内容の説明を端折りつつ
それっぽい話をする。
適切簡潔に伝えるという
ビジネス会話を連想しがちですが、
実際はそうではなくて
単に説明をしていないだけであり
内容については話していないので
中身がありません。
何故その手の話し方をしてしまうのか。
内容の理解をするよりも
自分を理解してほしいという"願望"が
より強く出てしまうからです。
そして、
物事には相互作用が発生しますので
話すと同時に、聞くという動きが生じます。
つまり、内容の説明を端折る人は、
「相手の話をしっかりと聞けない」
という相互性も生まれます。
簡潔に済ませてほしい
手早く終わらせてほしい
要点だけ教えてほしい
ざっくり言うとこういった具合です。
また、自分の意見以外は認めたくない、
意に反する話や、非を認めたくない場合は
物理的に聞きたくないという行為を
無理矢理発動させる事もあります。
これを「遮断」と、言います。
話す場合にしろ聞く場合にしろ、
自分本位が軸となってしまうと
こういった流れの動き方となります。
これらの動きが指し示すのは、
「会話」という重要な業を
自身から放棄しているという点です。
自分からも言わなければ
相手の話も聞かない聞けない。
どちらにも共通しているのが
「自分の事だけは認めてほしい」
「理解してほしい」
という俗欲です。
同じ様な意味合いで、褒め言葉も存在します。
具体的に内容を褒めるのではなく
「賞賛する単語のみを羅列する」
という話し方です。
「何がどうでこういう点が素敵なものを
ありがとうございます。」
ではなくて、
「素敵なものをありがとうございます。」
所謂取って付けた感じの定型文ですね。
ビジネス的な意味合いですとか
簡易な挨拶文でしたら罷り通りますが、
自身の中で脚を向けられない程の
相手さんとかには決して使えないものです。
これを平気で多用してしまうのも、
自分本位が軸となってしまっている人に
よくある話し方です。
その上でこのタイプの人はこう言います、
「褒めたのに理解してもらえなかった」
当然ですね。
200%300%理解などされません。
説明を怠っている訳ですから。
逆ギレも甚だしい限りです。
思い遣りという単語の常習使用が
多いというのも特徴の一つです。
思い遣りというのは、
単語を発して示すものではなくて
動きで表わす「業」そのものです。
単語を発している内は、
思い遣り自体を発動はさせていません。
何故ならば、
言わずして自然に行う事が
本来あるべき思い遣りだからです。
言葉にして行うのは
思い遣りではなく「恩売り」です。
また、相手を基礎として行うのが
思い遣りなのですが、
それを自身を基礎として行うが故に、
こういった単語の羅列が発生するのですね。
つまりは、
自分本位が軸となっている形です。
周りのため相手のためという
本来のスピリチュアルに於ける
基本的概念を軸にした考え方や動き方を
日頃から行っていると凄まじく疲れますが、
上述してきた動き方を目にした際に、
非常に大きな違和感を覚えます。
これが「見極め」であり
対外的な「気付き」の一つです。
するほどに
視えてしまうのが
本性なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
善き事を喚び込みたいのであれば
暗く過ごすよりも
明るく過ごした方が
総合的には好結果となります。
ですが、
明るく過ごすというのは
ただ単にニコニコ笑顔で
過ごしていれば良い
と、いう意味ではありません。
それはただの造り笑顔です。
云うほどの効果は出ないと思った方が
善いでしょうね。
明るく過ごすというのは、
自身の感情をちゃんと維持して
会話を熟すという意味です。
単に笑顔を作っていたところで
「会話」を熟さなければ
まるで意味を成しませんし、
会話が無ければ
壁に向かって笑顔を作っているのと
同じ状態です。
「明るさ」は、
相手との惹き合いによって成立する
相対的な産物です。
けれども、自身が率先して
動かないと形とはならない。
相対的ではあるけれども、
初手は一極性という特殊な代物です。
その上、
「笑顔≠明るい」という特徴もあります。
以前に笑顔の種類について
お話をしましたが、
その点を理解し注意しないと
受け手となった場合に
大いに選択肢を誤る事に繋がります。
笑う門には福来るというのは、
ずっと笑顔でいる事ではなく
都度、会話を成り立たせる中で
相手の話を具に聴き取り
自身の感情を以て話し
結果として、
相手を自然体での笑顔にする
そこに発生する幸せを得るという意味。
そして、明るさというのは、
その過程の中で駆使する
感情そのものであって喜怒哀楽を指します。
決して、喜や楽だけでなく
怒や哀も確実に必要なのです。
なので、
「笑顔=明るさ」とはならないのが
本来のスピリチュアルでの実戦訓ですよ。
意味なんて直ぐに
理解出来るもんや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人の辛さはそれぞれです。
内容も大きさも感じるところも
全てが違います。
その中でも、
「分がる分がる」と
言い合える様な辛さというのは、
正確には辛さには入らない程度の
辛さです。
本当の辛さというのは、
共感し難いものを指します。
「話しても分からない」
「伝わらない」
それでも何とかしたいから
話すのだけども、
やはり理解も何も得られないから
自分の殻に閉じ籠る。
この様な流れになってしまい、
辛さは形となっていきます。
そして、この形と成る流れに乗ると
どんなに小さい辛さも、
あれよあれよとお化けサイズにまで
肥大化していきます。
どんな辛さでも
誰もが共感をしてくれる訳ではないです。
だからこそ、話し相手というのが
重要となってきます。
どんなに相手が出来ている人であっても
その人が聞き手一方に甘んじている様では
話し手は何も満足しません。
ストレスが満ちる事はあっても
達成感が満たされる事は無いのです。
何故かと言うと、
それは壁に向かって話しているのと
何ら変わらないから。
聞き手として重要なのは
立場を変える事無く
話し手と同じ目線に立つ事。
自身の持つ情報や話し難い話を出さずして
相手の話だけを聞くなど
ナンセンス以外の何物でもないですよね。
自分は痛手を被らない時点で
フェアでないのだから
その段階で同じ目線にもなっていなければ、
同じ土俵に立っていないのです。
これでは会話は成立しません。
親としての立場
先生としての立場
教える側としての立場
これらの立場は変わらずとも、
目線の高さは話し手に併せてあげる。
言い難い話をしているのだから、
同じ様なコンセプトの話をしてあげる。
決して感情論ではなくて、
論理的な観点からの話に注力をする。
話し手が間違っている時は叱咤し、
共感し得る事であれば激励をする。
会話をする上で聞き手の大切さを
理解しているのであれば、
話し手の需要を自らの手で創るのが
本当に上手な聞き手なのですね。
ただ話してくれるのを待っているのは
御門違いという事です。
相手の話し易い環境は聞き手が創る。
まさに思い遣りです。
そして、
その環境と云うのは場所でも無ければ
それっぽい雰囲気でも無くて、
同じ目線に立つ「話」そのものなのですね。
見てくれ重視の「場」を選んでいる様では
思い遣りとは程遠いものになりますよ。
見てくれの優しさより
思い遣りを以ての
会話が一番やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
不思議なもので、
人は幸せだとその実感を
得ようとしません。
逆に、不幸であると認識している時は
幸せを着飾ったり
不幸自慢をしたりなど
真逆の方向へと自身を進めます。
幸せなら幸せだと
ハッキリ言えばいい。
何で幸せなのかも言えば良い。
個的思考であればそれが可能です。
幸せを感じている内容が多ではなく、
あくまでも自身でありますから
厭味なくこれが可能となります。
ですが、多的思考の場合ですと、
物質的価値が標準値となりますので
周りの目線や意図を気にします。
物質的価値とは、早い話が
“金”“地位”“権力”ですね。
ここに固執している間は
幸せを幸せだとはハッキリ言えない。
いつでも敵だらけの状態ですからね。
けれども、幸せを享受させるには
その幸せをハッキリと話せる事が
1つの達成点となります。
周りには無価値でも
自身にとっては幸せだと言い切れる事。
これを信じ切れる状態、
信に徹している状態となれるかが
鍵となるのです。
この視点で理解をしてみると
自身の幸せを聞いて小馬鹿にする人が
如何に堕ちているのか
念、俗欲に溺れているのかが分かります。
心や感情を司るのは幽体です。
幽体が狭小化したり
狭隘状態となっていると
肉体の動きは鈍くなり、
果ては霊体萎縮が起きてしまいます。
その流れを作ってしまうのが
念や俗欲へと溺れる事、
つまり念基軸状態です。
例えば、
「何の問題も無く五体満足=幸せ」
となるのか、逆に
「五体不満足=不幸」
となるのか
自身の思考が個的なのか多的なのかで
その中身は全てが変わります。
自身の価値基準を他に当て嵌めようと
必死になるからおかしくなるのです。
自分は自分、他者は他者です。
「私は動けて幸せです」
「私は動けないですが幸せです」
これを当たり前の状態として
笑顔で会話が出来るのが
個的思考同士の世界。
個的思考は多的思考の意図を理解出来ますが
多的思考は個的思考の意図を
理解しようとしません。
理解出来ないのではなく
理解しようとしない。
この思考の絶対数が逆転して
個>多となった時がフェーズ4の世界です。
己の幸せの実感を
共感は出来ても共有は不可能である。
それを正面から認識する事が
個的思考の基礎となります。
書いているんやで
個的思考は
そこの理解が
肝なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
どなたにでも悩みはあります。
また、誰彼問わず
口にする事が出来るのは
悩みとは言いません。
おいそれと言えなかったり
そもそも言葉にする事自体
難しいものが悩みというやつです。
その悩みはどうしても
一人で抱えがちになってしまいます。
ですが、一人で抱えれば抱える程
状況が悪化していくのが悩みです。
言えない理由は縷々様々ありますね。
こればかりは千差万別です。
相談が出来ない理由も様々です。
相談する場所を知らない場合、
相談できる人を知らない場合、
一番多いのが、
「相談しても仕方ないからと
決め付けている場合」。
この手のタイプの人は、
悩みの解決をする為の動き方を
知りたいのではなく、
自分は動かずに解決をしてほしい
もしくは、
悩んでいる風の自分の姿に溺れている
だけです。
なので、悩んではいないですね。
本当に悩んでいる方というのは、
藁をも縋る思いですから
兎に角どうにかしたいと考えます。
一人で抱えてしまっている時は
確実に悪い方への想像をしてしまいます。
悪い方への想像に疲れると
現実逃避の方向へとシフトチェンジします。
現実逃避がスタートすると
楽を求めて走り回ります。
そして、悪い奴に騙されて悪化します。
こうなってしまっては
元も子もありません。
ですが、
悩み散らかしている方々の多くは
この流れに嵌り易いのも事実です。
また、解決の糸口を掴むための考え方や
それに伴う動き方自体が分からなくて、
悩みの中で更に悩みを増加させ
悩み続けてしまい、
思考迷路に陥ってしまっている方も
多く見受けられます。
悩みというのは、
最初期に如何に対処するかで
その後が決まります。
まずは、言葉に出してみる事。
言語化してみること。
面倒臭くても紙などに書く。
それを音読する。
アナログですが、
これは結構効き目があります。
自分の悩みを客観視出来るからです。
スマホなどのメモに書いたりするのは
お勧めしません。
ペンを使うよりも楽ですし
書いているという手間が無いからです。
ここまでやって
馬鹿馬鹿しくなる程度の悩みは
悩みの中でも限りなく自分本位に近い
どうしようもなく小さな問題なので、
自然と解決の糸口を見い出せる筈です。
逆に、全く馬鹿馬鹿しくならないとか
それでも悩み散らかしてしまう場合は、
貴方自身だけではもう
どうしようもない状態のサインですから
潔くどなたかに話をしましょう。
ここで貴方が悩みを話すべき相手は、
まずは、
貴方の中で一番信頼が置ける人
または、一番博識な人です。
単に友人だからとか
家族だからとかってのは、
あまりに危険極まりないので
止めておいた方が身の為です。
自分から動いて言葉を発し、
あらゆる場面で糸口を見付ける努力をする。
今まで自身がやってこなかった動きを
一生懸命にやってみるんです。
それでも自分に甘える場合は、
それまでだったという事です。
厳しい言い方ですが、
一人で悩みを抱えるというのは
そういうものですからね。
無碍にした数ほど
貴方が救われる
機会や回数は
減るんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
個々人に於いて様々な場面で
「会話」
と、いう業が繰り広げられます。
この会話というものは、
誰もが触れ得る事の出来る
動きの一つです。
最初に伝えておきますが、
スピリチュアルの立場では
口頭や文面のみならず
目くばせなどのジェスチャーによる
コミュニケーションや
心内での遣り取りなども
「会話」となります。
例えば、
病床の方への遣り取りや
墓前などで御先祖さんとの遣り取り、
動物や植物等との遣り取り
夢の中での遣り取りなど
物質的側面や物理的側面だけでなく
非科学的側面や精神的側面の遣り取りも
全て紛う事無き「会話」
と、するのが本来のスピリチュアルです。
さて、皆さんこの会話の中で、
相手によって意義の有無を感じられる事が
あると思います。
心の充実感の有無と言った方が
分かり易いかも知れません。
これは何故に起きるのでしょうか。
幾つか要因がありまして
その代表格と言えるのが、
「基軸」と「格」です。
「基軸」と、いうのは
自分達が何を芯に据えて会話をしているか
という根幹部分の要因となります。
平たく言うと、
「想い」なのか「俗欲」なのかです。
「格」と、いうのは所謂「霊格」です。
霊体のレベルですとかリテラシーであると
思って頂いて構いません。
これらが複雑に絡み合って
会話の意義の有無を決定付けます。
同じ会話でも人によって感覚の受取りが
大きく異なってしまうのは、
本来のスピリチュアル的に言うと
この為です。
この中でも
「有意義な会話」
と、いうものを幾つ発生させ、
幾つ消化出来るかが、生き易くする上で
現実を愉しむ上で、
必須の構成要素となってきます。
敢えて俗な言い方をするならば、
運気を上昇させる上でという意味ですね。
有意義な会話は、
「個々人の性格や感情」が土台となり
その上で
「双方の格の高さのバランス」と
「想いの力場」の構築を触媒にして発生します。
ここの中身が少しずれていたり力場の構築が
負の力が中心の「念の力場」となると
そのサイズによって意義性に欠けたりします。
にも関わらず、勇を用いて切り上げたり
転進など何らかの改善策を行わずに
遅疑逡巡でいたりすると、
高確率で宜しくない方向へと進む訳です。
もし、何だか色々と上手くいかないと
思われている方がいらっしゃったら、
日頃の会話を見直してみて下さい。
格は自己判断が出来ずとも、
その相手は何を基軸としているのか。
自分は勇を用いてハッキリとした物言いを
相手にしているかどうか。
そして、その無意義な会話の数が
有意義な会話数と比較すると
勝っているのではないか。
この辺を自身にて鑑みるだけでも
状況改善に繋がります。
そして、会話とは
肉体を越えて幽体の繋がりを
実感出来る非常に簡単な業の一つです。
貧乏神に踊らされたり、
自身の俗欲に振り回されていたりして
苦しみからの脱却を図りたいのであれば
こういったセルフチェックを実行する事が
幸せへの道標となりますからね。
思考停止して他力本願となると、
善い自分は遠退くだけですよ。
関係改善を
したい時なんかも
有意義な会話を
目指すのが
近道になるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
生活をしていて、
なかなか調子が上がらなかったり
倦怠感が拭い去れない状態ですとか
過度のモヤモヤが続いていたりとか
とにかく疲れが取れない、
取れにくい...
そういう時があると思います。
病院へ行ってもテキトーな事を言われ
検査をしても何も出て来ない。
この手の場合の時、
必ずしもとは言いませんが
「会話不足」の場合が多いです。
誰との会話かというと、
「気の置けない相手」です。
要は、気兼ねなく表も裏も無く
何でも話せる人。
友人かも知れないし、
子供かも知れないし、
それは人によって変わります。
何故にそういう会話が不足すると
肉体へ影響が出てくるのか。
普段、我々の生活というのは、
想像以上に緊張感に溢れています。
会話という一点に絞ってもそうですが
日々様々な人との会話というのは
一言で表わせば
「探り合い」です。
ご近所さんやお知り合い、
職場の人や取引先の人、ご親族、
どれもこれも探り合いです。
当たり障りない会話をしながら
当たり障りのない着地点で納める。
それが人間の社会通念ですので
これそのものは問題ではないのですが、
気にしない内に緊張感は
溜まっていきます。
例えば、
楽しそうに話してた井戸端会議の後で
何やかんやと見苦しい文句を言うのは
この緊張感の反動です。
こうした日頃の緊張感は
日常レベルであればちょっとした
リラクゼーションで解れます。
お風呂に浸かるとか、趣味とか
好きな事をするとかアロマとか
人ぞれぞれ色々あるでしょ。
ですが、色々な事情で
それらが出来ない叶わない場合が
生じたりします。
そうした場合にその緊張感は
解消される事無く蓄積を続けます。
そして、ある一定の量を超えると
小手先のリラクゼーションでは
どうにも解消が出来なくなる。
そもそもリラクゼーションすら
しなくなります。怠くて。
そうなると、肉体に影響が出てきて
病気や怪我を引き起こします。
この流れの中で、
気の置けない相手が存在している人は
ほぼ必ずその人との会話を
日頃から愉しんでいます。
寧ろ、それがリラクゼーション
だったりする事もあると思います。
日常の中で何かしら会話をしていて
それが緊張感を
増幅させているにも関わらず
気の置けない相手との会話であれば
例えどんな会話であっても
リラックスが出来る。
何故かというと、
余計な事を考えなくていい程に
相手の事を想っているからです。
「(互いを)信じ切っている」
という意味ですね。
これを「想いの力場」と言います。
そういう人は身の回りに
多くは存在しません。
精々多くても2人くらいです。
では、もし、その人達との会話が
愉しめない状況に陥ったとしたら。
まぁ、結末は視えてきますよね。
先述の通り、肉体を壊します。
ですから、
どうにも具合が上向かない場合は、
少し目線を変えて
会話をしているかどうかを
考えてみて下さい。
恐らくですが、話していない事に
気が付ける筈ですよ。
尚、貧乏神という存在の場合は
この真逆でして
綺麗事の中でしか安らぎを得られません。
なので、気の置けない相手
という存在そのものが
居ない存在なのです。
信じるという事を放棄した存在が
貧乏神ですから
想いよりも「念」の中でしか
生きられないのですね。
これを「念の力場」と言います。
つまり、貧乏神は会話で緊張感を
緩和するのではなく、
自身の自尊心を振り撒く事で
誤魔化すのです。
会話で緊張して会話で解す
人は何とも不完全な生き物ですよね。
不完全なんやから
完璧主義が
貧乏神の入口
言うんも何となく
分かるやろ
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回はコツの話をしたいと思います。
人は誰一人として同じではありません。
見た目も中身も何もかも、
同じという事は有り得ません。
その中で、意見が一致したり、
考え方が似ていたりするから、
ついつい自分との完全な同一視をしたり
言葉無くして察するという
意識下での同意に
重点を置いてしまいがちですが、
そもそもそれは偶然の産物で、
自身でコントロールして
培ったものではないのですよ。
そんなあやふやな物に頼るから
運気どころか、
人の思いも信じる事も信じられる事も
分からなくなってしまう。
それを自身でコントロールして、
意識下での同意が出来る様にすれば、
それは必然と変わります。
普通に考えてみて、
一年の内に人との言葉無き察しなんて、
どれだけありますか?
言って数回程度の事象を必然と言えますか?
冷静に考えれば、
そんな風には言えない事くらい
誰だって分かるものです。
そんな曖昧な副産物を
確固たるものへと変えられるとしたら、
話は変わってきますよね?
それに必要なコツがあります。
何かというと、「話す事」です。
会話です。単純に。
ただ話すのではなくて、
相手の意思や意図を汲み取る様に話す。
自分の意思や意図を明確に伝えられる様に
努力して話す。
変なところで、
「廉価版無言の境地」を使わない。
いつ何時誰と会おうが話そうが、
それが身内だろうが他人だろうが
自分と同じ感性や感覚や感情や気持ちを
持ち合わせているなどとは
考えもせずに話をしてみれば分かります。
振り返って考えた時に、
今まで生きてきて自分と全く同じ感性や
感覚、感情、気持ちを持ち合わせていた
人なんていましたか?
存在していたと言う人も
居るとは思いますが、
それは、常に同じでしたか?
一時的な場面での一過性のものでは
なかったですか?
貴方が合わせていたり、
合わせてもらってたりしただけでは?
善い部分だけでなく、
悪い部分も面と向かって話せましたか?
自分もそれを言われて
平気でいられましたか?
恐らく無かったと思いますよ。
それが普通ですから。
なのに、同一視をしてしまうのが、
人間の曖昧さであり、
のっぴきならない欠点の一つです。
ですが、欠点という事は、
言い換えれば補って正すことが可能
という事でもあります。
つまり、偶然の副産物を
必然の和合化が出来るという意味です。
その為に必要なものが、
先述した「会話」です。
言葉にして会話する。
文字にして会話する。
同じに見えて難易度は全然違います。
会って会話するのと
声だけで会話するのでも違います。
相手が窺い知れないと
同じニュアンスを伝えるにしても
その労力が変わります。
そこを省いて勝手な想像で補ったり
勝手な同一視をするから齟齬が産まれる。
その齟齬を取除くためには、
更に数倍の労力が必要となります。
相手との意思疎通を行う上で
最も大切な「気持ちの咀嚼」を怠るから
要らぬ恨みを買う羽目になり
運気の上下が激しくなるのです。
であるならば、
相手の気持ちを咀嚼するという一点に
焦点を当てて会話に興じれば、
自ずとコツの答えは見えてきます。
勝手な想像も同一視もせずに、
相手の気持ちを咀嚼する為には、
一体何が必要なのか?
そして、そこで得られるものは
何なのか?
考えてみて下さいな。
これが分かれば、
意図して無言の同意を得られたり、
危うい落とし穴を回避出来たりして
運気を上げて維持する事が可能になりますよ。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、
先ほどインスタのストーリーズに
載せた事の詳細となります。
瞬間瞬間を生きる、
瞬間瞬間を愉しむという事は、
その一瞬一瞬を意識するという事です。
何となく過ごすのではなくて、
ちゃんと意識をして過ごす。
要は、危機感を持って生きようよ!
という意味です。
危機感というと堅っ苦しいですが、
一口で表わすなら、
『悔いを残さない』こと。
あーしておけば良かった
こーしておけば良かった
などと思わなくても良い様に
大切に大切に過ごすという意味です。
当たり前に起床して当たり前に生活する。
いつからそれが当たり前だと思ってました?
それは全然当たり前ではないのですよ。
あまりにも平和だから
考えないのも無理はないですが、
人なんて簡単に死んでしまう生き物なんです。
かと言って、死を意識し続ける事は、
違った意味で動けない状況を作りますし、
今の日本では想像するのすら難しいと思います。
では、例えばですが
好きな人や大切な人が、
目の前から突然居なくなったらどうですか?
居所も何も分からない。
連絡も取れない。
これが全く有り得ない事だと言い切れますか?
それを意識させる事、意識する事が
「危機感」です。
この危機感を意識すれば、
一瞬一瞬がとても大切に思えるでしょ?
手も抜けないし、粗雑にも扱えない。
目に見える全てが宝物にも視えるし、
あらゆる物が愛しく思える筈です。
何故なら、
次に見る事が出来るなんて保証は
どこにもないんですから。
けれども、どういう訳か
分かっていても維持が出来ない。
考えられても続けられない。
何故でしょうか?
それは、
社会のエゴイズムと自己のエゴイズムが
邪魔をするからですよ。
社会のエゴイズムとは、
簡単に言えば世間体とか社会規範とか
目に見えないルールみたいなもの。
自己のエゴイズムとは、
自身に向けた欲や自尊心や
羞恥心、価値観などですね。
これらが自分と周りとの間で
ひしめき合って危機感を意識する事の
邪魔をする。
自分を慕う相手の想いよりも
世間や自分の権利を優先させてしまう。
楽という選択肢を掴ませてしまう。
つまり、危機感を意識するという事は、
思い遣りや愛情を常に胸に抱えるという事で、
自分に打ち勝つという事でもあるのです。
そこが理解出来れば、
小難しい事を考えるよりも、
悩み拗らせて暗くなるよりも、
まずは「明るく愉しく元気よく」生きて、
瞬間瞬間を意識して、
一瞬一瞬に自身の魂を込めればいい。
ですが、頭で思考しようとすると
どうしても迷路に嵌ってしまうので
ただの頭デッカチとなってしまいます。
それならば、思考するよりも先に
身体で動いてしまえばいい。
小さい幸せを見付ける事も
一言一句忘れずに覚えようとする聞き方も
言葉を変えずに伝える事も、
周りに流されない様にする事も、
紐解けば、瞬間瞬間を意識する事でしょ?
なので、ずっと教えていたんです。
その先にあるものは、
一瞬を大切にした愛情であり、
その尊さや生きてる歓びに
自然と気付ける筈ですし、
思い出せる筈だからです。
この、「自分は一人ではない」と
身を以って肌で実感する感覚を
「 安 ら ぎ 」
と、言うのです。
謙虚さも感謝も、
的を得ていないと意味が無い。
と、話していたのも、ここへと繋がります。
ですからね、
瞬間瞬間を愉しむ様に意識してみて下さい。
そうすれば、
ご自身の抱えているエゴからも
まき散らされた恐怖心や
不安などからも必ず解放されて
ステップアップに繋がりますから。