皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想いというのを相手に届ける際、
もれなく念も付いてきます。
以前より想いと念は
表裏一体だとお話をしています。
想念は常に同じ位置、
同じ場所に存在をするものなのです。
例えば、
大切に考えるという「想い」も
度が過ぎれば「独占欲」という念です。
お手伝いをしてあげるという想いは
やり過ぎてしまえば
「支配欲」という念です。
こういった感じで、
同じ個所に存在するのが想念なのです。
想いを純粋無垢に届けるというのは、
実のところ非常に至難の業となります。
そこには人の意思の介在や
感情の流入が発生する事になるからです。
念を全く混入させずに想いを届ける
想いを受け取るというのは、
この現世に於いては不可能な業です。
それを両極端で成す事が出来るのが、
浄土と地獄という霊界です。
現世というのは、
霊界で学びきれない事を学ぶ場でもあり
得た経験を霊界へフィードバックさせる
そういった場でもあります。
なので、とある存在の意図が
強く反映されているために、
こういった想念の吸着が起こる訳です。
引き起こされていると言っても
過言ではありません。
とある存在と云うのは何者ぞ。
と、いう事になるのですが、
人ではないのは確かです。
もっと超越的な存在で創造した存在。
彼、彼等は霊界に於いても
浄土や地獄、獄界や天界など
人の及び至る事の出来る様な
空間、領域には在していません。
その遥か遠方で間近でもある場に在しています。
人の身で彼、彼等の空間に及ぶ事も無いです。
というか、そもそも行く事が出来ません。
認知する事自体が難しいです。
ただ、存在を肌で感じる事は誰でも可能です。
それを彼、彼等だと理解する事が
出来る存在は限られています。
霊格の高さが関係してきますからね。
死んだだけでは分からないというやつです。
偶にはこういう話も良いですよね。
単純な思考では
決して理解し得ない
肉体的思考ではなく
幽体的観点や
霊体的視野でないと
向こうの世界は
視ても分からんもんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人の話をよく聴く。
人との会話をする時
人から何かを教わる時
よく聴くという基本的な所作が
とても大切になってくるのですが、
「よく聴く」を実践しながら若しくは
実践した後に行う
「よく考える」
という所作も忘れてはいけません。
人の話を聴いている時、聴いたあと、
理解する努力をするのか
理解したと自分に言い聞かせるのか
「よく考える」という業は、
ここで差が視えます。
理解したと自分に言い聞かせてしまう人は
「言語的な理解」と「本質的な理解」を
一緒くたに捉えてしまう癖があります。
例えば、何かを教えてもらった際に、
「分かりました」
または
「分かります」「確かに」
と、条件反射的な反応で
答えてしまう事が多いです。
これとは別に
理解する努力が出来る人は、
言語的な理解と「本質的な理解」を
分けて考える伝える事が出来ます。
どういう事かと言うと
例えば、何かを教えてもらった際に
「分かりました」
ではなくて
「言葉については分かりました。
ですが、内容については分かりません。」
みたいな感じで、何が分かっていて
何が分からないのかという様な
修飾を口に出して上手に使います。
本来、話をしている最中ましてや
何かを教示してもらっている時というのは、
原則として自身の知らない事や
自身の中で不明瞭な部分の解説となります。
つまり、言葉や知識の海を
処女航海している様なものです。
早い話が未知でよく分からない状態。
けれども、話している言語は理解が出来る。
皆さんは日本人だから日本語話者でしょ。
日本語で話をしてもらっているのですから
そこで使われている「言葉」は
多かれ少なかれ即時理解が出来ますよね。
これが「言語的な理解」です。
この言語的な理解と、
話の本質的な理解というのを
その場でイコールとさせるには、
土台となるそれ相応の知識が必要です。
つまり、知らぬ状態の話を聴きながら
本質まで理解を示すのは
現実的にほぼ無理という事なのです。
但し、その補完材料として話者による
話し方や解説の上手さが存在します。
この場合、それを理解していて
相手のためを考えてくれる話者であれば
思考停止を防ぐ為に、
「今の今、理解しなくても大丈夫ですよ」
「分からなかったら質問をどうぞ」
みたいな事を、必ず諭してくれます。
これら上述した両者の差となるのが、
「想念のベクトル」であり
「意識の方向」です。
意識の方向が自身に向いていれば
「認められたい」
「負けたくない」
などの、承認欲求や自己顕示欲の類が
強く出てしまうので、
「理解をしたと
自分へ言い聞かせる動き」をします。
同時に思考停止もしますし、
分かりもしないのに背伸びした結果
自ら質問をする機会すら手離す事になります。
反対に、意識の方向が相手に向いていれば、
「ちゃんと答えたい」
「もっと詳しく知りたい」
「もっと教えてほしい」
と云った具合に、
自身が今相手と何をしているのか
その行為に対して真摯に向き合って
粗相の起きない様な心情を働かせます。
要は、相手目線を仮想した共感を求めるので、
細かく丁寧な言い回しをする様になるのです。
この様に、問答一つで
相手や自身の「意識の方向」をチェックする。
「何が」分かっていて
「何が」分からないのか
会話という日頃の業に直結する所作の中で
互いに見極めたり、気付いたり、
気付かせてあげる事が出来るのが
本来のスピリチュアルであり、
そして、
あくまでも現実的で実戦型である
と、云うのも忘れてはいけません。
楽に溺れるのが
どういう意味かを
思い返して
考えてみてや。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
この現世には色んな人が居ます。
同じ国で同じ地域で、
同じ言葉を使って
同じ様な仕事をしていたり
同じ様な環境に置かれていても
皆それぞれ全てが違っており、
基本的には共感も共有も
何もかもが出来ないというのが
この現世なのですね。
そういったバラバラな存在である
我々を繋ぎ留めているのが、
社会通念や一般常識といった
規範や文化などです。
ですが、
それは表立っているだけのもので
これらのみですと人というのを
この厳しい現実の中で繋ぎ留めたり
人同士での共感を得たりするのは、
非常に困難なものとなります。
実際に、社会通念や一般常識には
個々人に於ける
「性格」や「認識」「理解」
というのは、
反映されませんからね。
では、
人同士を実際に繋ぎ留めているのは
何なのでしょうか。
それが「想い」や「念」といった
想念となります。
想いを使う人は想いを使う人と
念を纏う人は念を纏う人と
類は友を呼んだり
同じ穴の狢であったり
言い方は様々ですが、
同じ類という部分での想念が
個々人を繋ぎ留めているのですね。
そこには
表面上のみの思い遣りもあれば
卑屈な意地汚さもあります。
然しながら、
本当の繋がりというのは
この二種ではないのです。
これではどちらも念であり
本当の想いとは言えないのですね。
では、何をどうすれば良いのか。
実際に大切になってくるのは、
想念への理解力です。
想いも念も理解する。
その為に努力をする事が出来る、
相手との違いを理解する事が出来る力。
規範や文化を上手く利用しつつ、
他者との
コンセンサス(一致)を求めるのではなく
置かれている
コンテクスト(状況・背景)を理解する。
その為に自身の基準で
カテゴライズ(選別)をしない。
多数協調性を保持はしつつも
個別による共感の困難さを知る。
こうして生まれるのが
想いにも念にも偏らない
フラットに矛盾を理解し使える
ニュートラルな第三の選択肢である
「想念を理解する人」となります。
想念を理解する人は想念を理解する人と
繋がる事が可能です。
本当の思い遣りというのは、
ここから生じます。
言葉の上だけでの「思い遣り」に
うんざりしている人というのは、
ここへの架け橋が掛けられている状態です。
個別の違いを
認めるんやで
貴方の正義も
対岸から見れば
悪と成り得ます