皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
世の中は常に忙しなく動いています。
特に何をと気にしなければ
そのペースに突き動かされたり
合わせてしまったりするものです。
世間が便利になればなるほど
そのスピードは増すばかりで、
自身の考えを介入させるよりも
周りの意見の方を優先させてしまう様な
悲哀な動きに満ち始めています。
自分の考えがあるから
動きへの正当性が生まれます。
他人の意思や考えに合わせて
自身を動かすことも出来ますが、
そこに意義が生じる事はありません。
所詮は駒の一つです。
自分で考えて自分で動く
言われたから動くのではなくて
自身の動機で地に足を付けて動く。
そこにはペースが生まれます。
誰かに操作をされたスピードではなくて
自分で創ったペースの事です。
生きている以上、少なからず
周囲に合わせる必要性は発生しますので、
他人のペースに合わせるのが
全て駄目だとは言いいませんが、
自己意思を介在させずに
と、いう話であるならば
無理に合わせるのは論外です。
如何に自身のペースを維持させるか。
自己意思に則った上で、
「何のため」「誰のため」を、
実行する事が出来るかが鍵となります。
自分のペースというのは、
何時如何なる場合でも
大切なものとなります。
自分の状況、状態、環境によって、
それは大きく変わってきます。
当たり前の話に聴こえると思いますが、
その当たり前に甘えてしまっていると
自分のペースに対する認識というのが
どこかへ行ってしまって気が付いた時には
周りに流されてしまうのです。
人より遅くても良いです。
以前よりも捗らなくても良いんです。
「今の自分のペースを最善と捉えて動く」
それを前提として考え方も構築させる。
思い出は優しいから以前の通りに
出来ると考えたくなりますが、
今の自分のペースを保持する事の方が
本当に優しい答えですからね。
病気、年齢、怪我同じ事が起きる
自分のペースは
結構変わるものやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
眠りから目覚めて一連の動きをして
また眠りに就く。
特に小難しい事を考える訳でも無く、
息が出来て水が飲めて飯が喰えていれば
生きることが出来ます。
現実的に考えた時、
息を吸うこと以外の動きには金銭が掛かります。
なので、何かしらの労働をして
対価としての駄賃を獲得しないといけません。
単に起きてからフラフラとしていれば良い
と、いう程この世は甘くないですね。
この定義は現在の地球上に居る限り
変わる事はありません。
また、国が変われば子供も年寄りも
この定義に加わります。
「生きる為に必要な事を当たり前に行う」
人に限らず生ける者総てが
この定義に則して当然の摂理の中で
同じ時間を過ごしています。
そこで考えが抜け落ちてしまうのが
「生き方」なのですね。
先述したのは「生きる」という
最低限の「動き方」つまり、手段なのであって
生き方という目的を意味する
「考え方」ではないのです。
考え方を思考するのはとても困難であると同時に
態々得ようとしなくてもいい代物です。
生きる事自体は可能となってしまいますからね。
だからこそ、考えなくてはいけない。
この考えの中に「思い遣り」や
「想い」というのが包まれており、
その中枢には個人であれば「素直さ」があり
多数であれば「協調性」が存在します。
それを形に成したものが「文化」であり
「会話」であり、慣わしや習慣でもあります。
私達はこの複雑で複合的な絡み合いの中で、
にも関わらず、個々人という狭隘度の高い状況に
晒されながら毎日を生きているのですね。
ですから、本質的には
大なり小なりの「目的」が必須となります。
実際に自分は何のために生き、
誰のために生きるのか。
一人きりではどうにもこうにも出来ず、
とてもではないけれど太刀打ちも不可能なので
想いを軸とした「生き方」を人だけでなく
万物から得なくてはいけないのです。
どう見積もっても善い事なのに、
何故か意識して思考しないといけないのが
「生き方」という考え方。
デフォルトでセットされていなければ
おかしい筈の思考回路が
どういう訳かオプション設定になっているのが
この現世に生きている私達なのですね。
そして、いちいち考えないといけない部分に
貴重で重要なものが詰まっているので、
考え方に想いが在しており、
その逆の動き方には念が在しています。
これが自然の摂理です。
考えなくても成せる部分を考えるからこそ
その先へ遵じた流れへと向かえるのですね。
これは別に物珍しい話でも無く、
海の向こうでも似た様な事を教えていて
エスキモーが話すユピック語では
生き方というのを
「ユウヤラック(yuuyaraq)」と云い、
単に生きるだけでなく感謝や思い遣り
尊敬や気遣いという「想い」を含んだ
文化的協調性や自然との共生を意味しています。
徒にカテゴライズせずに
現世の中の生ける形を正しく認識すれば、
どこに居たって答えは同じ罫線上のもの
同じ螺旋上のものとなるのですよ。
本来のスピリチュアルというは
万物を総べるものですからね。
紡ぐのも選ぶのも
全ては自分なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
何かの物事を捉える時、
人はどうしても一極型となりがちです。
その最たる点が感覚面でして、
これに関しては依存と呼称しても
遜色無いのではないかと云う程、
偏りがちになってしまいます。
例えば、写真などを観た際に
視覚情報としてそこに入っているであろう
美しさや撮影者や被写体の感情は
捉える事が出来たとしても、
そこに確実に存在する他の感覚を
思考せずに終わってしまいます。
五感で云うところの
視覚以外の4つです。
その部分に対して、
意図的に感覚を合わせる若しくは
仮説を唱えて後々に立証していく。
この動き方が
本来のスピリチュアルで教えている
「本質の見抜き方」の基礎となります。
写真からは伝わって来ない
「匂い」や「臭い」
「温度」や「空気感」「味」など
これらを出来るだけ
仮説として自分の中で作り上げていく。
それには経験という
知識や情報が必須であり、
それらを基にして自身の認知力や理解力、
想像力をフル動員させていく必要があります。
この中には語彙力などの表現力も
当然に含まれます。
そうして自身の中で作り上げた仮説を
忘れない様にしながら
事ある毎に立証を重ねていく。
こうする事によって、
複合的で客観的な視点が出来上がり
視野が物凄く拡がっていくのです。
1つしか見えていない物事や事象が
1つではなく2つ3つと
複数になって視えてくるのです。
1つの物事や事象を
1つだけと認識してしまうと
その奥に潜んでいる若しくは
潜ませてある本質へと到達する前に
欺瞞や疑知に溢れている
思惑に飲み込まれてしまい、
貴方自身の思考が他者に弄られてしまいます。
そうならない様にする為の
視点の作り方が奥行きの見方なのです。
この動き方習得の
練習でもあるんやで