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2026年1月24日土曜日

前進の定理(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




もう既に何度も話をしていますが、
前進というのは、

「1歩でも半歩でも
1㎝でも進めば前進です」

どんな場面に於いても
この原則は変わりません。

そして、これを理解が出来ないのは
自分本位に過ぎないのだという事も
考えないといけません。

そもそもですが、
大幅に進まないと前進ではないと
何故思うのですか。

それを前進だと
認められないのであれば

例えばですが、

お子さんがテストを受けて
60点だったとします。
次のテストでは61点だったとします。

これだと前進ではないから
褒めないって事ですよね。

ひょっとしたら、
テストの難易度が
上がっているのかも知れない。

そうでなくても、前回比で
1点プラスされている訳ですから
善くなっているのに、
褒めないという事ですよね。




1歩の前進を認めないというのは
こういう事なのですよ。

過剰な期待と理想の重視。
現実を直視出来ない逃避。
内容の不考察。

どこまでも自分本位です。

身の程を知るというのは、
その先の自戒へと繋がります。

自戒が出来ると云う事は、
分析が出来るという意味です。
つまり、内容を考察出来る。

何が駄目で、何が良かったのか。
どこが出来なくて、どこが出来たのか。

これを人に当て嵌めると、
「相手のため」となるのです。

だからこそ、褒める事へと繋がる。
1歩の前進を認められない人は
褒める事が出来ないのだから、
褒められる事もありません。

点数の付けられない事でも同じです。

「今までやれなかった事がやれた」

少しの変化でもそれは大きな変化です。
それに気が付いたら普通に褒めます。

けれど、自分本位になっていれば、
理想が常となりますから

「そんなの出来て当然でしょ」

みたいな言い方になりますし、
そもそも気が付きませんよね。

人を、自分を伸ばすのであれば、
こういう点をニュートラルに捉えて
前へ向けて繋げていくのですよ。

理想はあくまで
幻想でしかなく
カタチの無い妄想
そんなものに
捉われるから
現実を視れなく
なるんやで

2026年1月19日月曜日

褒める為には(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




大人だろうと子供だろうと
何か善い事をしたのであれば
「褒める」という業が大切です。

これは散々話しているので
いい加減にしろと
言われてしまいそうですが、

褒める為の前段階には
何が必要なのでしょうか。

褒めるとは言っても、
単に見たまんまを褒めているのでは

中身が伴わないし、
ただの馬鹿野郎ですよと
意味が無いですよという話は
以前にしました。

この中身を伴わせるための
重要事項が「否定」です。

褒める為なのに、
肯定ではなくて否定をするのかと
疑問を覚えるでしょうけど、
ここが重要な部分です。

善い事からの褒めるという流れですから、
普通に捉えるならば肯定です。

けれども、ここに落とし穴がありまして
それですと何も考えていないのですね。
流れ作業となってしまっていて
自身の中へ落とし込めていない状態です。




とは言え、
態々口に出して否定をする
必要はありません。

そんな事をしても相手さんを
只管に辛くさせるだけですからね。

あくまでも「褒める」のが最終目的であり
その為の手段として「落し込み」があり、
それを遂げるための「否定」です。

ここをしっかりと行う事で、
物事や事象の中身を正しく把握できます。

逆に云うならば、
これを省略してしまうと
見た目に流されたりするという事です。

ここのタイミングで「否定」をする事で
疑問符が貴方の中に生じます。

この疑問符を起きた事象で
逆説的に穴埋めしていく。
宛ら、一次方程式を解く感じです。

そこでの解が話と同となれば
褒めるに値する事象という事になる。

そうでなければ、何らかの疑問符
xやyが残る状態という訳ですから、
突き詰めていく必要がある訳です。

それを怠ると見た目に流されて
ズルも見抜けずに
「褒めたら負け」の状態に堕ちるのですね。




この否定というのは、
何も相手が居る時のみではなく
自身に対しても使えます。

と云うよりは、
寧ろ率先して使わなくてはいけない。
卑下する為の否定ではなくて、

事実に対して
最も近しい仮答を導く為の「否定」。

一も二も無く自己肯定ばかりに
目を向けていると、
自己防衛的な都合の良さが際立つので
事実認証があやふやになってしまいます。

そうなると、視点が一元化されてしまい、
多元的な視点、多面的な視野の確保が叶わず
逆説論での分析解析が出来なくなるのです。

詰まるところ、
「反省」「自戒」が出来ないという意味です。

どんな物事や事象でもそうですが、
一元的な視点ですと
そこには先述した様な「疑問符」が生じません。

既に式も解も見えている状態なのですから
至極当然の流れです。
そこからの自戒など在りもしないし、
出来る筈が無いのです。

先へ繋げる為の反省や自戒という業を
全うするのであれば、

まずは自身の動きを俯瞰視点から否定する
「自己否定」が必須となります。

勇を用いてこれを繰り返していくと
仮想とは言え、多元的な視点の確保が
構築される様になっていくので、

結果として、相手を想うですとか
相手の考えを計れる様になり、
相手の為へと繋がっていき、

「思い遣り」を得る運びとなるのです。

漫然たる自己肯定を進めて
他者からの全否定を受けるよりも

毅然たる自己否定からの
穿った肯定の方が何倍も何倍も
善いのではないかなと思いますけどね。

素直な否定を
素朴な疑問を
どこまで自分が
ストイックに
やれるかが
分かれ目やで

2026年1月11日日曜日

褒めたら負け(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




褒めるという業はとても大切です。
周りに対してもですし、
自分に対してもです。

褒めるに値する動きをしたなら
ちゃんと褒める。
これまでも、
そうやって教えてきていますが、

この褒めるという業を
何でもかんでも褒めれば良いと
思っている人が居るのも事実です。

先にも触れましたが、
褒めるに値する動きをしたのであれば
褒めるというだけで、

特段それに該当するものでもないのに

「良くなりたい」とか
「(自分が)褒められたい」とか
「良く思われたい」など

努力もしていない上に不純な動機で
褒めたところで、そこには何一つ
プラスの効果など生じません。

如何せん同期の段階が「念」ですからね。




先述したのは褒める側の話ですが、
受け手側にも気を付けるべき点がありまして。

褒められたいが為の動きを
してしまう人が居ます。

例えばですが、

子供が何かをした時に
「こんだけやったよ」みたいな事を
言ってきますよね。

あれと同じ様な事をやる人の話を
今ここで話しています。

子供でしたら、
そりゃ余程御門違いな事でなければ褒めます。
ですが、今は大人の話です。

そんな承認欲求剥きだしで来る人を
褒めてしまったら、
褒めた人の負けになります。

ここでの負けとは、

「相手のためにならない事をした」

という意味です。

そもそも論で、そこまで承認欲求を
振りかざして来る人というのは、
その先の事を何一つ考えていないので
褒めたら最後、ほぼ確実に調子に乗ります。

また、褒められたいという点が
目的となってしまっているので、

その先に繋げる事自体が出来なくなる。
つまり、褒められるも何も
それは単なる通過点であり、

「手段」であって「目的」ではないのです。

例えば、
これだけ自分は頑張ったとか
わざわざ「自分」で言ってくる人など
褒めなくて良いんです。

それよりも、褒めずに次へ繋げるための
経過観察と指導が必要になります。

どういう動きをするのか。
不貞腐れるのか、努力をするのか。

貴方が視るべきポイントはそこであり、
受け言葉に買い言葉で条件反射的に
褒めてあげる事ではないのですね。

想像以上に多いですからね、
褒めてほしくて仕方がない
いい歳をした「大きなオトモダチ」は。

相手のためを
考えるなら
やる勇気と
やらない勇気を
きちんと使い分け
せなあかんで

2025年9月5日金曜日

rewarding(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人生に於いて
「道筋」というのがあります。

「何をしていかなくてはならないか」
「何をする必要があるのか」

現世にて貴方が生きていく上でのを
「概念や指針」を
綴った様なものが、道筋です。

道筋というものは、
誰かに決められるものではなくて
全てを自分自身で決めてから
現世へ赴くのです。

この道筋に対して如何に沿って進めるか。
肉体の獲得によって生じる
俗欲という名の誘惑に晒されながらも

時には失敗をして
時には成功してを繰り返し
想い基軸と念基軸のバランスを取りながら

人生を螺旋状に突き進んでいきます。
そして、
この道筋に真摯に向き合っているからこそ
得られる様になるものがあります。

それは、「遣り甲斐」です。




仕事でもプライベートでも
充足感や幸福感を満たす物。
行動の原動力にも繋がる想い、

それが「遣り甲斐」です。

この遣り甲斐というのは、
先述した通り
現世をある程度道筋に沿った形で
歩んでいる状態の人でないと
持つ事が出来ません。

遣り甲斐の内容は多岐に渡ります。

例えば、仕事の様に
実際の動きである場合もありますし、
個々人に於けるポリシーの様な
考え方や思想や信条の場合もあります。

それらが対人間へのターゲットのみならず
人以外の存在や物に対する場合の
動きや思考かも知れませんし、

単に事象といった流れそのものが
ターゲットとなる場合もあります。

一様に”これ"とは、言えないものの
現世に存在する間
誰しもが得る機会を持っているもの、
それが遣り甲斐です。

自身の中での確固たる遣り甲斐を
その身に纏う事が出来るのは
とても幸せな事ですし、

同時に誰でも得る「機会」は
持っているものの、
無条件で簡単に得る事の出来ない代物です。

貴方が現世を生きる上で今現在

「確固たる遣り甲斐」

を、持てているのであれば
それはとても素敵で
素晴らしい事だというのを
是非とも自覚してほしいところです。

貧乏神化が進むと
遣り甲斐の
獲得ではなく
俗欲を満たす事が
目的や目標と
なってしまうんやで

2025年7月12日土曜日

不完全な群れの中で(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人に何かを教えたり
子供に躾けたりする際に

「叱る」と「褒める」を

使い熟しますね。

この時に、叱るを「怒る」と
間違えない様にしましょうね。

叱るは「相手のため」
怒るは「自分のため」

と、いう解釈をすると分かります。

叱る場合は、まだ冷静さがあるので
言葉を選ぶ余裕が出ていますが、
怒る場合は、冷静さを欠いてしまうので
心の内をぶちまけてしまいます。

また、「褒める」と「甘やかす」も
間違えない様にしましょうね。

褒めるは「相手のため」
甘やかすは「自分のため」

と、いう解釈で善いと思います。

それと、褒める際の注意点ですが、
何かをやり遂げたり
出来たりした時に褒めますよね。

では、普通の時はどうですか。




普通って事は、
ある意味「ノーミス」って事ですよね。

普段、気に掛けている失敗を
しなかったから普通の日常を過ごしてる。

つまり、ノーミスです。

なのに、普通の状態であるが故に
褒める側がスルーしてしまう。

褒められる側もノーミス自体を
意識していないかも知れませんが、
ならばこそ褒める側が
ちゃんと褒めてあげて

ノーミスを意識させてあげないといけません。

これは育児だけに限らず、
大人に対しても同じです。

例えばですが、
僕と直接話をされた方なら
身に覚えがあると思うのですけど。

「前回からこれまでの間に
何か問題がありましたか。」

との問いかけに、
「いや、特に問題はありませんでした。」

と、回答した際、僕は何と話していますか。

「それは善かったですね」
とか
「指摘された点を頑張れたって事ですよ」

みたいな感じで自然と褒めているでしょ。
これが肝心なんですね。




ちゃんと出来たのだから褒める。
普通と言う名の成功をしっかり理解する。
当の本人になればなるほどに、
普通が成功という事に気が付かないし、

そもそもナチュラルに成功してる時って
気にも留めないものでしょ。
それ故に、「普通」なのですからね。

その点に気付いてあげる事
その点を気付かせてあげる事が

教える側や伝える側には
必須となりますからね。

そして、叱る際は必ず線引きをする。
叱り終えたら自分に頸木を付けること。

頸木を設けずにだらだらと
叱ったり、いつまでも怒りを示すのは
相手のためでなく自分の為の解消です。

要は「自分本位」という事になりますので、
決して良い結果に繋がる事がありません。

叱る際には、自身の「意識の方向」を
しっかりと認識し続ける努力が
必須となりますからね。

「相手を視つつ、己も視詰める」

どこまでも完璧なんてのは存在しないし
僕らってのは
教える側も教わる側も

「不完全で不安定な存在」なのだと

常時認識していくのが重要って事です。

意識の方向は
常に気に掛けて
なんぼやで
教える側も
教わる側も
同じなんや

2024年11月12日火曜日

優しさとは(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。





今までに何度となく
優しさについては
お話をしてきました。

褒めるのも優しさですし、
叱るのも優しさです。

それだけでなく、
拾い上げるのも優しさですし、
切り捨てるのも優しさです。

要は、
その場面場面に適合した
選択をしてあげるのが

本来の優しさとなります。
TPOというやつですね。

例えば、
現実を理解しないといけない場面で
そこから逃避させる様な
言葉を投げかけるのは
優しさではないです。

逆に、現実を知ったら気の毒な場面で
現実を知らしめるというのも
やはり優しさではないです。





言葉にすると重たいですが
こういう場面は
日頃の生活の中で多々あります。

可愛くないのに可愛いと言ったり
恰好良くもないのにイケメンと言ったり
美味しくないのに美味しいと言ったり
大して面白くもないのに馬鹿笑いしたり

かと言って、
常に本音をぶちまけるのは
人としての程度が低いです。

本音と建前を使い分けて
上手に生きるのが
人が連綿と続けてきた社会文化です。

適宜場面の構成を捉えて
上手に本音と建前を使い分ける。

それを考えながら愉しんだり
共有したり、笑ったり泣いたりするのが
本来の優しさのあるべき姿です。

皆さんは優しさを駆使していますか
甘やかしに依存していませんか

どんな時でも
考える事が
大切なんやで

2023年4月8日土曜日

褒める(気付きの応用)

皆さんこんにちは、あにきです^^




今回は褒めることについてです。
褒めると言っても一体何を?
自分自身をですね。

人は、自分を褒めるよりも
自らを謙ったり、蔑んだり、
褒めるよりも悪く言う事の方が多いです。

では、どうして悪く言ってしまうのか?

一つカギになってくるのは、
謙虚さという概念です。




元々は自ら謙って、相手に(気持ちを)譲るための
謙譲がベースになっている概念ですが、
これをちゃんと考えないで使い過ぎてしまうと、
謙るという部分だけが独り歩きしてしまって、

人の悪口や陰口を言っている時の様な
高揚感や中毒性が出てきてしまうんですね。

そして、その中毒性に気が付かないまま
使い続けてしまうので、
自分を悪く言い続けてしまい、
結果として自己嫌悪や自己憐憫に陥ってしまう。




謙虚さを忘れるな!
謙虚さは大切だ!!

自己啓発系の話や、精神論的な話題だと
必ずと言っていいほど出てくるフレーズですが、
これはあくまでも初歩の心構えで大切なもの。

自己嫌悪や自己憐憫に陥っている人に
この心構えを強要すると、確実に悪化をします。
また、行き過ぎた謙虚さは、人を不快にしますし、
果ては自分を失います。

自己の意見を言えなくなるんですよ。
自発的に言わないのではなく、言えなくなる。
せがまれても言えなくなる。言わなくなる。

言葉遣いもドンドンとおかしくなっていって、
果ては感情が無くなっていく。




誰に対してもおかしな丁寧語を使う人がいるでしょ?
一見すると丁寧に聞こえるけど、
聞けば聞くほど話せば話すほど耳に衝いて
得も言えぬ不快な思いになってしまうアレ。

綺麗な言葉、丁寧語を使っていれば良いと勘違いして
使い続けている結果、自分を見失っているから、
いつの間にか、嫌みや不信感を与えてしまっている。
(そして、そのまま貧乏神へ退化...)

ここの根本は、じゃあ一体何なんだ?!




謙虚さってのを通り一辺倒に覚えているからです。
つまりは、馬鹿の一つ覚え。
考える、意識するを忘れてしまって、
その場限りの耳障りの良い言葉に対して
自分を売った結果の一つです。




では、どうすれば良いのか?
謙虚さを捨てれば良いのか?

いやいや、謙虚さを捨ててはいけません!
これはとても大切です。

それよりも、謙ること蔑むことに侵されて
すっかり忘れてしまっている行為を
ちゃんとやってやればいい!

しっかりと褒めるんですよ。自分をね^^

心の中で言うんじゃなくて、声に出して言う。
「私、よく頑張った!」「さすが私!」みたいな。




これもやり過ぎたら増長や傲慢、
自己研鑽、自己満足に毒されるから、
加減ってやつが必要になってくるけど、
何事もバランスが大切だと、
あにきはいつも言ってるよね^^

ちなみにですが、過剰な謙虚さで妙な丁寧語を
乱発している人って、自分は疎か他人も褒めません。
褒めたとしても必ず一言付け加えてダメ出しをします。
まぁ、クソみたいなイヤミですね。

ですからね、謙虚さを保持、維持するのであれば、
必ず自分も人も褒めるを忘れてはいけないのです。

さぁ、何だか色々上手くいかない人は、
とりあえず声に出して自分を褒めてみよっか☆

どうやって褒めるとか難しく考えないで
あにきに会ったことのある人は、口癖を思い出してみ?
「良いじゃーん☆」
「善きじゃーん^0^☆」