皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
物事が上手いこと運ばない。
そういった状態の時に、
「何か憑いてるかも」
「誰それの念の所為かも」
などと、
戯言を口にする人が居ますね。
この手の台詞を吐く人を見掛けたら
自分本位思考の人なのだと
仮説を立てるのが基本です。
そもそも論で、
分かり易い程に貧乏神の特徴が
出ているのであれば
見抜く際の問題となり難いのですが、
そうでないパターンの場合の方が
数としては多いです。
その際の見極めポイントの一つとして
前述の台詞があるという事ですね。
この手の台詞を口にする人は、
「あまり意味を考えていない人」
と
「その台詞の通りに思考している人」
との、二種類に分かれます。
前者は中立的念基軸なタイプ
後者は念基軸なタイプ
前者は、その場のノリで口にしたり
言ってみたりする場合が多く、
どっちかというと念基軸。
みたいな、本当に想いと念の
中間に位置している状態の人です。
善く言えば、中立。
悪く言えば、風見鶏。
後者の場合は、
本気でこの台詞を口にしているので
自分の動き方や考え方が原因で
今の結果となっているなど、
露にも思わないですし
説明をしても到底納得出来ない程には
念基軸で生きてしまっている状態の人です。
自分の思う様に進められないから
悪霊や他人の所為にするというのは、
物凄く情けない思考ですし
他力本願極まりないですね。
では、良い事があった場合も
何かのお陰にするのかと言えば、
そこはちゃっかり自分の手柄とする。
こういう思考で日々の業をしてしまうと
同じ穴の狢が寄ってくる事になるので、
運気はどんどん低下していくのです。
また、誰かの所為にする様な台詞を
吐くという事は、
その台詞にも言霊が宿る訳ですね。
五感の全てを使って
全力で念や悪霊を呼び寄せ、
全力で自に堕ちる方へと突き進む。
物事が上手くいかないのは、
どんなに言っても
自分が原因でしかありません。
自分が馬鹿な考えを持って
バカな動き方をすれば、
そりゃ上手く進まないのは当たり前。
この思考をどこまでも危険因子として
自身の中に留めておくのが重要です。
「私は理解しているから大丈夫」
なんて、思っていたら危ない危ない。
貴方の中の自分本位と駄目な自分に
あっという間に引き込まれて
貧乏神へと退化してしまいますからね。
危険因子の存在を
制御する事が
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は少々難しい内容となりますが
先生方なら大丈夫ですから
頑張って付いてきて下さいね☆
欲・欲求についてです。
ー言葉の独り歩きー
色んなところで聞く言葉ですが、
「幸せになりたければ欲を捨てなさい」
この台詞、あにきは大嫌いです。
だってさ、元々備わっているんだよ、
捨てようにも捨てられないよ。
人を辞めろってこと?
生物を辞めろってこと?
どうしてこの台詞を
あにきが大嫌いなのかというと、
途中がすっ飛ばされて
完全に違った意味となっているからです。
正しくは、
「幸せを掴みたければ、目的を持ちなさい。
そして、もし欲を目的とするならば
その欲は捨てなさい。」
これです。
ー主たる目的を理解せよー
何事に於いても、何をするにしても
目的をしっかりと持つ事が大切。
目的を持たないと、順序が作れない。
順序が作れなければ、
歩むべき道(やる事)も作れない。
結果としてダラダラでなぁなぁとなり
いつの間にか手段そのものが目的となる。
例えば、お金が欲しいとする。
どうしてお金が欲しいのか?
そこを考えると、それが目的となる。
お金はあくまでも手段ですね。
そして、その目的とは
誰に向かっているものなのか?
自分なのか?他人なのか?
別にどちらでも良いんだけど、
そこもハッキリとさせる。
すると、
今現在での自分が出来る事ってのが
わりと鮮明に見えてくる。
これが先述した「歩むべき道」。
やれる事なんて限られていて、
みんなが同じ事を出来る訳ではないし
やりたい事だって千差万別です。
スキルだって十人十色ですからね。
この歩むべき道が、さも一つしかないと
誤認するからおかしな方へ向かってしまう。
永年でやり続ける事が歩むべき道ではない
「今現在の自分がやれること」が歩むべき道。
要は、仕事や生業なんてものは、
コロコロ変わって当たり前って話。
やる前に悩むだけ野暮って話なんですね。
悩むならやり始めた後ね。
ー忘却した主たる目的ー
生きる上でこれを繰り返している内に
いつの間にか手段たるお金が目的となってしまう。
お金が生活の基盤で指標でもあるから
ある程度は仕方ないのだけれども、
その数字だけを目的にするのは愚かだよね?
ってのが、先述の
「...もし欲を目的とするならば
その欲は捨てなさい。」
って、件(くだり)。
何故に愚かなのかというと、
主たる目的を見失っているからですよ。
他人の為に!とか
自分の為に!
自分の老後の為に!とか
家族の為に!とか
様々な主たる目的が有った筈なのに、
それが見えなくなってしまい、
ただの数字を目的としてしまう。
ー忘らるる目的のツケー
例えば、先月比とか前年比みたいな
指針や指標として数字を据えて、
それを超える様に頑張る!みたいなのは
有りですよ。
だって目標としては分かりやすいもの。
けど、これはあくまでも
指標の類なのだから
ハッキリとした主たる目的を
忘れてはダメよね。
いつでもどこでも主たる目的を
胸に抱き続ける。
これを蔑ろにしてしまうと、
自身の中での人への思い遣りなどが
どんどんと薄くなっていってしまう。
人への思い遣りってのは、
とても疲れるし気を遣うし、
心を傷付けやすくなるから、
なるべくそうならない様に
楽をしようとする。
私は人を信じない!と宣言するのが
その典型例の人とも言えますね。
ー生まれる前の自分への裏切りー
最初こそは大したものではないけれど、
それがいつの間にか目に見える様になり
似た思考の、努力をしない思考の人が
自分の周りに集まったり、
自分が引き寄せられたりするようになる。
気が付けば人として大切な何かを見失い
大切な人を失っていく。
それだと、何の為に産まれてきたのか?
産まれてきた目的や、
個人個人の人生のお題目を
達成出来ないどころか、
暖かさや痛みから勉強する人の想い
生きるもの全ての想いを理解できないし
成長そのものが滞ってしまう。
それはとても情けない事だし、
知っていても知らなくても、
自に堕ちるという罪なのだから
あまりにも下らな過ぎるよね?
という事で、愚かという意味になるんです。
なので、先述した、
「幸せを掴みたければ、目的を持ちなさい。
そして、もし欲を目的とするならば
その欲は捨てなさい。」
という言葉になる訳です。
ーイギョウ ノ コトバー
なのに、途中の大切な部分が端折られて
最初と最後だけが独り歩きしてしまい、
全く別の意味となってしまっている。
ですから、
「幸せになりたければ欲を捨てなさい」
なんて言葉が嫌いなのね。
あにきにはこの言葉が
俗欲から生まれた異形の言葉としか
聞こえないんですよ...
欲は捨てられないのだから、
目的をしっかりと設定して
コントロールしよう。
上手く使って欲に溺れない様にしよう。
これがこの言葉の
本来あるべき姿なんですね。
自分でよく考えてみましょうね。
さて、あなたは欲に溺れていませんか?
皆さんこんばんは、あにきです^^
さて、前回の続きとなります。
貧乏神としての要素が完成した人は
周りの人に対して牙を剥いていきますが
手当り次第という訳ではありません。
まず、貧乏神に人が寄ってきます。
様々な理由と状況で集まってきますが、
一番多いのは、
【人に対する目利きが出来ない人】です。
例えば、その時に心が病んでいたり
病んでいるというのは、
普通に精神的に病んでいるのもありますが、
霊的に憑依されていたりする事も含みます。
また、
物事をハッキリと言えない人だったり、
そもそもが過剰な平和主義思考の人、
つまり、脳内お花畑思考の人だったり、
色々です。
その次に多いのが、貧乏神と同類の人です。
似たような性格ということ。
自己憑依者、貧乏神は「ある事」を
基本概念として行動します。何かというと、
【 責任回避 】です。
無責任ではなく、責任回避です。
これは明確に違いますので間違えないで下さい。
そもそも責任というのを考えもしないで
行動するのが無責任です。
責任回避というのは、
責任は負いたくないけど、責任を負っている様な
態度を見せて周りの人に認められたいという、
承認欲求の形の一つとなりますから、
無責任とは全くの別物です。
で、その思考が貧乏神の行動概念の基本形なので、
何をするにしても最終的な行為は他人が行う様に
立ち回ります。
年齢性別を問わず、
その為ならば平気で嘘だって吐きます。
その間に、感情の強弱を巧みに使い分けて
責任感がある人を利用して動いていきますが、
根本的に責任感に溢れている人は、
人の中身をちゃんと見ようとするので、
貧乏神の特質を早期に見抜きます。
(これが目利きの代表例です)
なので、早々に貧乏神から離れていきます。
問題はここからで、
では目利きの出来ない人ってのは、
どうなるのかと言いますと、
貧乏神の行動に惑わされてしまい、
自身の正義感や優しさ、義憤など様々な感情を
逆撫でされた上で利用されてしまい、
気が付いたら貧乏神の代わりとして、
表立った行動や行為をするようになっていきます。
この時に、ご自身でも何かがおかしい?と
気付き始めてくるのですが、
そこで前述した
「物事をハッキリと言えない」
だったり、
「過剰な平和主義思考(お花畑)」だったり、
という面が邪魔をしてしまい、
ループに嵌っていきます。
そして、気が付いた時には、
貧乏神の思考=自身の思考と
勘違いをするようになり、デフォルトになる。
当然、その人の周りの人(家族とか)は
付いていけなくなるから、不穏になっていく。
最終的には、何かしらの不幸が纏わり付いて
そのまま戻れなくなったり、
家族やパートナー、友人と別離したり、
曰く因縁のある結果となっていく。
大概の場合、そこまでいく途中で助けられたり
助けを求めたり、形は多々あれども
貧乏神から離れていくものなのですが、
そのまま貧乏神と似た存在に
堕ちていく人もいます。
これの繰り返しで、貧乏神と似たような人が
集まっていきますので、
『類は友を呼ぶ』と解釈する人もいますが、
間違わないで下さい。
人のしあわせを抜き取って、
不幸へ追いやる存在の集まりなのですよ?
決して良い存在ではないのですから、
これは類友ではなくて、
『同じ穴の狢(おなじあなのむじな)』
となります。
こうして不幸の極大化を進めていくのが
貧乏神であり、恐ろしく、
そして醜い点なのです。
ただ、そんな貧乏神も人なんで
嫌がるタイプ、性格ってのがあります。
それこそが、不幸を避けるための
目指す方向となってきます…