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2025年10月9日木曜日

感覚を無駄にしない(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




物事や事象は一つではありません。
必ず複数跨ってそこには存在します。

その複数の事象や物事を
簡易的に捉えてしまうのは
僕らが無意識に思考の単純化をさせて
端的な認識で良いと判断しているからです。

早い話が楽してる。

五感は常にそこにあります。
なのに、一番楽な感覚を優先的に使用して
勝手に自己判断をしてしまうのですね。

だが、実際にはその他の感覚も
使っている訳です。

その、残りの五感である
「その他の感覚」に
目線を当ててあげるだけで
視える世界は変わります。

視覚を優先的に使っているのであれば
聴覚・嗅覚・味覚・触覚に
意識を合わせる努力をする。

聴覚優先の場合ならば
視覚・嗅覚・味覚・触覚に
意識を合わせる努力をする。

こういう意識の使い方をする事で

見えるから「視える」へと
聞こえるから「聴こえる」へと

変化するのです。
この変化の中心にあるのが
「本質」です。

その他の感覚に
近付けさせない
思考させない
騙す人ってのは
それをやるんやで

2025年6月20日金曜日

特視は終わりへの序曲(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




これまでも何度かに分けて
独特の能力を持っている人や
個人力を使えている人を

徒に特別視する事や特別扱いする事は
確実に宜しくない結果を齎しますよと
お話をしてきました。

何度となく言いますが、
個人力や霊能力という代物は
誰にでも備わっています。

至極当たり前の能力です。

それをナチュラルに使えるとか
使えないというのは、
生まれてくる前に自身が選択をして
決めているだけの事になります。

「使えないという誤認識」や
「個人力自体を忘れてしまう」

と、いうのが現世での基本ではあるのですが、

「単に使う」

と、いう点のみで言うなら
それも現世ではノーマルです。

つまり、何ら特別ではない。




問題は「役割」の認識と
「背後の理解」です。

人のみならず現世に在する万物には
各々其々に「役割」というのが在り、

人に限って言うならば一部例外を除いて
ほぼ全ての人が自身でその役割を
設定して生まれてきます。

個人力に関しても同様で、
それを使ってどうするのかという
「役割」を必ず持っています。

その役割を現世に在している最中に
理解して使い熟す事が出来て
初めて役割は全うとなります。

また、その「背後を知る」
というのも重要です。

単に個人力を持ち合わせているだけでなく
その「力の源泉」は何なのか、
向こうの世界の「世界観」や
「価値観」という様な

皆が忘れている「背後」を理解して
それを適確に教えたり伝えたりする事が
可能か否かが必須となってくるのです。




ここで変に特別視をしてしまうと
周りは疎か本人ですらその俗欲に溺れて

至極当然に能力にも関わらず
周りは必要以上に縋り
当人は驕り高ぶります

そして、妙な方向へと進んでいきます。
宗教化したり偶像崇拝化する感じです。

そうなってしまうと、
ただの貧乏神化ですから
何一つ良い事など起こり得ません。

そういう特別視よりも
如何に普通に接して普通に生活が出来るか。

もし、仮に親であるならば
幾ら子が個人力や不思議な力を有していても
その力に溺れる事無く驕る事無く

特別視せずに社会性というのを
維持させ育んでいく事が出来るか。
ここが非常に重要となってきます。

特視というのは甘い俗欲であり、
強烈な「魔素」です。

それを当人も周りも理解して
あくまでも普通にする事が
とても難解ではありますけども
ステップアップには必要な事なのですよ。

特別視ってのは
利己的な優劣や
差別意識の助長と
なんら変わらん
ものなんやで

2025年6月14日土曜日

手にした香りは欺きの防(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




五感という感覚は非常に優秀な
高性能センサーであると
以前から口にしていますが、

ほんの少しの認識の違いで
簡単に忘却してしまう事があります。

その忘却点を如何に薄く済ませるか。

また、偏り過ぎてしまう感覚の中で
ついぞ忘れてしまいがちな認識を
如何に濃くさせるか。

ここが視野を拡げる上での
重要なポイントとなり、

尚且つ、見た目で欺かれない為の鍵と
なってきます。

例えばですが、

とても美しい森と清流の動画を観た際、
視覚と聴覚に注力をする結果として

綺麗や素敵といった面の感覚は
手に取る様に分かる反面、

「水」や「森」の匂いを忘却します。

そこには確かに匂いが存在する筈ですが
映像からは一切感知出来ませんし
そういうものだと認識もしていますから、

嗅覚というのを「忘却」する。

水や森の匂いを知らなかったら別ですが、
既知のものだったとしても

想像の中で疑似認識が可能にも関わらず
それすらも忘却して美しさに見惚れる。




ここで起きている事は、
美しさを届けたいという撮影者の意図に

「流されている」とも受け取れますし、

自身から率先して美しさのみを
「受け取り」に向かっているとも言えます。

ここでは意図の善し悪しの問題ではなく、
疑似認識の無さが問題となってきます。

見た目に誤魔化されてしまう時というのは、
こういった感覚の隙間を突かれます。
これが本来のスピリチュアルで云うところの

「霊的な視野狭窄」です。

前述の場合ですと、
感覚を失っている状態。

逆に、
大幅な増幅を促すパターンもあります。
最も分かり易いのが
料理の映像やサンプルです。

先程とは相反して匂いや音や味覚に至るまで
視覚からの情報で疑似認識が出来ますよね。

その結果、お店であれば実際に食べたり、
通販などであればお取り寄せをしたりする。

端からそのつもりであれば
問題が無い事ですが、
徒にその感覚を刺激されて
欺かれてしまったりするのだけは
避けたいものですよね。




そうならない様にする為に、
常に疑似認識の存在に意識を向けたり、
その強弱や有無に注力を注ぐ。

この努力をする事も
「五感のフル活用」と呼べます。

ただ茫然と眺めていたり
聴いていたりするだけでなく、
そこから派生する部分に焦点を合わせる。

よく映画やゲームなどで
クリーチャーや汚れ塗れのイケメンが
出てきたとして、
恐いやカッコよと思うと同時に

「臭そうだ」と、疑似認識が出来るか。

一見すると天邪鬼な感じに思えますし
それだと何も愉しめないと考えがちですが、

視点が複数に増えて
認識する視野が大幅に拡大されますから、
愉しめないどころか
制作側の意図的なフェイクや

見せ場や伝えたい意思や意図なども
自ずと視えてくるので愉しみは激増します。

実生活に於いても、
見た目で欺かれない感覚が身に付きますから
おいそれと騙されたりする事は減りますよ。

何せ、相手が隠しておきたい部分が
透けて視えてしまうのですからね。

本来のスピは
こうやって
実戦で使って
善くする事が
本分なんやで

2025年6月9日月曜日

考える前に動く(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




相手を想って動く事の難しさを
しつこい位に話をしています。

難しいと聞くと、
どうしても簡単な方法は無いものかと
考えるのが常というものです。

実際に、簡単な方法が
有るか無いかで言うと方法はあります。

と、言いますか、
方法そのものは簡単過ぎるくらいに
簡単なのですね。

僕が散々話している事が
その方法なのです。

ただ、それを極限まで難易度を
上げてしまっているのは、

動く前にゴチャゴチャと
余計な事を巡らせて足止めをしている
貴方自身です。

思考を巡らせて分かるものであれば
動く前にちゃんと考える事が大切です。

けれども、
頭を巡らせたところで分からないものを
幾ら考えようとしたとしても、

考え方が分からなかったり
考える思考力や理解力が追い付かなかったら
そもそも答えが出せないのですから、

それは考えているのではなくて
ただ言葉を脳内ループさせているだけであり
単なる「作業」をしているだけになります。




答えが出せないものを続けていると
徒に疲れが溜まるだけですし、

「言い訳に言い訳を連ねる為の作業」

と、なっていきますから
急速に足取りが遅くなっていき

「何もしない」という結果となるのです。

ですが、それだと理解をしている人しか
何も出来ないという結論となります。

それは非常にナンセンスですし、
全く面白くないですよね。

その点を回避させて
誰もが実行に移せる為の簡単な方法が

「考える前に動く」なのですね。

万物は
「肉体」「幽体」「霊体」という素体が
合わさって構成されています。

この内の肉体的行動の場合でしたら
動く前に考える必要が出てきます。

肉体的行動というのは、
俗欲をベースとした行動です。
普段から皆さんがやっている
何でもない動きの事ですね。

これとは別に、
「幽体的行動」や「霊体的行動」
というのがあります。

これらは感情や想いを基礎とした動きを指し、
向こうの世界の理を芯に据えた動きとなります。

現世の理ではなく、向こうの世界基準なので
一見すると理に介さない様な動きです。

この行動の場合は考える前にまず動き、
先に「感覚」を肌身で覚えます。

その事後に改めて考える。
こうする事によって理解度が数段増します。




何故なら、
向こうの世界の理に則った動きなのですから、
それを補完させるに余りある様な
「知識」「経験」があれば別ですが、

そうでなければ、
考えようにも考えられないものだからです。
けれども、そこに肉体は存在するのですから
行動自体は可能です。

自分よりも先に相手を想ったり
正しく全き思い遣りに繋がる様な動きは
総てこれに該当します。

では、実際にどうやるのか。

色々な場面に於いて
自分の中で足止めを施す思考が
出てくる瞬間がありますよね。

例えば、徳積みでも話しましたが、

コンビニでゴミが落ちているとします。
それに目を向けた貴方は拾おうとする。
その瞬間に

「自分の家じゃないし」とか
「お店の人の仕事だから」とか

そういう思考が巡り始めて
拾おうとした自分の事を足止めします。

それをガン無視すれば良いだけです。

似た様な事が挨拶でも言えますね。
挨拶をされたら普通に挨拶を返せば良い。

それが出来ないのは何故なのか。
やれないのは何故なのか。
下らない疑心暗鬼となる前に動く。

その後の事はその後で考える。
日頃から練習や訓練という経験を
積んでいなければ

「事前に分かる事なんて実は物凄く少ない」

という事に気が付ければ、
この動きは容易に出来ますし
僕の言ってる「簡単」の意味も分かりますよ。

事前よりも
事後に分かる物事を
確実に紡いで
実とするのが本来の
スピリチュアルやで

2025年5月31日土曜日

生きている存在を視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




霊を視るのに必須な事として

「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」

の、3項目があります。
この中で何かと軽視し易いのが

「生きている存在を視る」です。

霊を視たり感知するのに
どうしても死者の事ばかりを
考えてしまう人が多いですが、

死者は元々「生者」なのですよ。

動き方も考え方も
狭間の世界の住人であれば、
必ず生きていた時の状態を踏襲します。

また、死者と生者の最大の違いは

「肉体を纏っているか否か」です。

霊を感知したいからと言って
見えぬ者を無理に見ようとしても
それは却って盲目になるだけです。

それよりも眼前の生者に対して
注力をすれば気付く点も多くなるので、
視認率は格段に上がります。




人で例えると、
人=霊で霊=人です。
つまり、「生者=死者」と、言えます。

この単純な概念を忘れているから、
人は恐ろしい程に
「生者を軽視」してしまいます。

それが故に、
見た目や言動のみに流されて
肝心の「本質」を見抜けない。

ここで示している本質というのが、
皆さんが「気付き」と呼んでいる点です。

見ている様で視ていない。
聞いてる様で聴いていない。

これらを如何に減少させるか。
その為に必要となってくるのが、

「生きている存在を視る」

と、いう根本的な動きなのですね。

例えば、
眼の前に居るご家族を視て
どれだけの情報を得ていますか。

日々ちょっとした変化や
違いが起きている事に気付いていますか。

その御家族にはペットの犬猫なども
含んでいるのですけど、どうですか。

単一目線、単一行動で済ませていると
気付きという名の情報は
ほぼ入ってきません。




単調な言葉や単一な視覚では
得られない情報の中に
視えざる存在を感知するのに必要な

「本質」が詰まっています。

それらを補完させるのが、
前回記載した五感であり
以前にお話をした万物への認識なのです。

生きている存在を「視る」事で
物理的に情報を得る感度を高めて
上記の必須要素と併せて相互補完をする。

幻想逃避な霊感なるものに頼っても
ほぼほぼ視えないのは

現実的な情報取得の手段に
重きを置いていないからに過ぎません。

ちなみにですが、

生きている存在を軽視したままで
視えてくる霊は
それを「是」としている者のみです。

つまり、悪霊などだけになりますので、
加護する存在などに触れ得るには
程遠いものとなりますからね。

これ読んで
くらくらしたり
眠くなったり
頭痛がでたら
すまんやで

2025年5月25日日曜日

五感を研ぎ澄ませる(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




霊を視るのに必須な事として

「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」

の、3項目があります。
この中で理解に乏しくなるのが

「五感の研ぎ澄ませ」です。

僕と話をした事がない方は、
霊を視るのに霊感が必要だと
認識されていると思います。

ハッキリしておきますが、
霊感などという感覚は存在しません。

と、言いますか、
元来誰でも持ち得ている感覚なので
敢えて「霊感」という言葉を設けて
特別化させる必要が無いのです。

そこに何かを感じ取れるのは、

「視・聴・嗅・味・触」

この五つの延長線上の感覚でしかなく
全てはこの五つに起因します。




霊を感じ取る際に
どんな言い方をしていたところで
起因すべき初手の感は五感です。

「何かが視えた」
「何かが聴こえた」
「何かが匂ってきた」
「妙な味がした」
「何かに触れた」

これらがきっかけになりますよね。
いや、何かを感じたんだと思う方も
居るでしょうが、

その“何か”はどうして分かったんですか。

冷静に思考すれば理解出来ますが、
その“何か”とは後手なのです。
その前の初手が必ず存在する。

つまり、その“何か”を認識する前に
いずれかの五感が反応して
貴方に感覚として得させているのですね。

そこを追究せずに放置した状態で
由としているから「五感」に対する認識が
ピンと来ないのです。

これを「怠惰」と、言います。

自分の感覚なのに謎にしておいたまま
正しく霊を視るのは難しいです。

そのままでは必ず自身の俗欲に流されて
事実認識が出来ずに幻想へ逃避します。

それでは貧乏神へ堕ちてしまうので
根幹を成している五感を研ぎ澄ませて
初手の感覚を正しく得るのが必須なのです。




五感を研ぎ澄ませると言うと、
何か瞑想的なものを
想像されるかと思います。

然しながら、
必要なのはそこではありません。
もっと単純で良いのです。

「自分が何をしているのか」
「自分が何を感知したのか」

これらを一つ一つ認識する
その努力を維持継続すればいい。

人は高性能センサーである五感を
恐ろしいほど大体で使用しています。

おまけに感知したものを謎のままとするから
記憶にも残らずに既知の知識ともならない。
そんな状態なので
「霊感」という幻想に逃避する。

例え、目に映らない存在であっても、
何かしらの痕跡を必ず遺すのですから

それらを分析解析出来る五感を
日頃から可能な限り
養ってあげれば良いのです。

「謎を謎のままにしておかない」

という努力の事ですね。

いくら瞑想をしようが滝に打たれようが
普段の感覚がバカになっているならば
その場のハリボテで満足して終了です。




「いつ、何が、どこで、
誰が、何故に、どうして」

事ある毎に五感を基にしてこれらを追究する。
その先にあるのは何かというと、

「自身の感覚を信じ切る」

と、いう最も必要な心情です。

霊を視るというのは、
五感つまり肉体で得た情報を
幽体にダウンロードして視るのです。

そこには「信に徹する」という
絶対的な要素が必要になります。

何故かと言うと、
肉体があるからこそダウンロード時に
俗欲が邪魔をするからです。

当たっているかどうかなどの俗欲ですね。

これを払拭するには
圧倒的な知識と経験が必要なのです。

そして、それは普段の生活の中で
如何様にも向上させる事が可能です。
その中枢にあるのが我々の持つ

「五感」なのですね。

ですから、五感を研ぎ澄ませる事が
霊を視る事に必須な条件となるのです。

これ読んで
くらくらしたり
眠くなったり
頭痛がでたら
すまんやで