皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自身の日頃の業の善し悪しというのは
その場その場で
分かるものではないですが、
時間が経った後に
その結果は必ず分かる様に出来ています。
どういった点で分かる様に
なっているのかと云うと、
例えば、
自身の喜びを分かち合って
もらえるか否かとか
困った時に助けてもらえるか否かとか
嫌な事を回避できるか否かとか
そういった事象での判断となります。
また、完全に善いことばかりとか
完全に嫌な事ばかりとか
極端な振り方や寄り方もしません。
あくまでも
その都度の善し悪しのバランスで
内容は決する様に出来ています。
かと言って、
嫌な事を回避したいが為に
善き事ばかりを意識して動こうとすると
確実にその逆方向へと
結果は流れていきます。
何故ならば、
善き事ばかりを望むという行為自体が
「俗欲」に過ぎないからです。
善き事というのは、
結果を望んでやることではありません。
見返りを望まずに動くことに意味があります。
考えるべきは
相手からの結果ではなくて
相手のためという素直なまでの「想い」です。
「こうでありたい」
「こうなりたい」
ではなくて、
「こうあってほしい」
「こうしてあげたい」
と、云う純朴なまでの想いが重要です。
この思考と感情が
日頃の業に大きな影響を与えます。
ですが、完璧は存在し得ません。
この逆の思考と感情も
人は持ち合わせています。
想いではなく「念」ですね。
自分本位や俗欲といった念に纏わる
思考と感情も人は常に発しています。
これを無視して想いだけに偏らせて
業を全うするなどという事は
生きている内だけでなく
向こうの世界へ行ったあとでも無理です。
そして、善くない点の日頃の業、
念に纏わる部分というのは
意識をせずとも発することが出来ます。
善い点の日頃の業、
想いに纏わる部分というのは
意識をしないと発する事が出来ません。
つまり、日頃の業というのは
何のため誰のためを特に何も意識せずにいると
善くない方へ全振りしてしまうのですね。
しかし、想いの方は全振り出来ない。
この絶妙なバランスで日頃の業というのは
成り立っており、
その結果への反映も
このバランスを基準にして設けられるのです。
考えなければ
得られる結果は
目に見えているんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
分からない事を無理に分かった体で
押し通そうとするのではなく、
素直に分からないと言えるか。
また、何が分かっていて
何が分からないという様な
分析がちゃんと出来るかどうか。
この様な純朴な動きが出来ない人は
かなりの確率で話を盛ります。
人に何かを紹介する際や
自分の話を伝える時、
起きた事などを教えたりする際に
話に尾鰭を付けて
もりもりに盛ってしまう。
しかも、そこには明白な悪意が無いのです。
なので、自身は相手に対して
善い事をしているつもりになっている。
もしくは、相手のためとすら
考えたりしてしまっている。
けれども、それは大間違いでして、
明々白々な「自分本位」に外なりません。
一番良いのは、
ありのままを伝える事。
それが許されない場面も間々ありますが、
基本的にはそのままを伝えたり
教えたりするのが定石です。
事実誤認が生じますからね。
ですが、前述した事が出来ない人は
ごく自然に話を盛ってしまう。
何故なら、
相手のためだと言い聞かせながら
自身を綺麗に見せたいから。
自分が褒められたいから
自分を褒めてほしいから
また、
恩を売りたいからと考える人も居ます。
何にしても、自分本位で利己的です。
それであるにも関わらず、
思考としては善行だと勘違いしているので
そこに悪意が存在しないのですね。
けれども、それが故に
盛った話を言われた側では
ふと事実確認が行われた際、
「そんな風に言った覚えが無い」とか
「実際にはこうだったよ」などの
盛り話との明確な齟齬が発覚してしまいます。
その結果として、盛り話をした人が
「嘘を吐いた」
と、いう事になるのです。
話した当の本人は相手のためだと考えていて
「想い」を軸としているつもりが、
逆に数倍にも跳ね上がった「念」を
その相手から飛ばされてしまうんです。
これが、「良かれやらかし」の本当の恐さです。
自分が「やっちまった...」と気が付く時には
既に取り返しのつかない状態となっていたり、
悲惨なまでの
大事故となってしまったりするのです。
自分本位や駄目な自分というのは
至る所に存在していて、
おまけに消す事は絶対に叶いません。
どんなに気を付けていたとしても
必ず出てこようとするものなのです。
相手のためだと思うのであれば
数歩先の状態をちゃんと思考するようにする。
癖となっている「楽」に対して
普段から甘んじない様に心掛ける。
こう言った細やかな努力と
素直で純朴な所作を行う事、
行う努力をすることが
日頃の業なのですからね。
自分なんや
相手の事を
考えてたら
盛る事自体が
出来んもんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
日頃の業というものには
縷々様々な物事がありますが、
その中でも「言葉」と「内容」というのは
得てして軽視しがちな点となる事が
多く見受けられます。
現代に於いて会話とは、
何も対面だけではありません。
電話は勿論のこと、多少の時間差はあれど
LINEなどの通信アプリでのやり取りも
立派な「会話」です。
常に相手のためを考えるのであれば、
この「会話」の中では一体何を
気にしなければいけないのかと云うと、
それが「言葉」と「内容」です。
言葉というのはそのままの意味です。
適切な文言を使っているかどうか。
但し、適宜丁寧な言葉や
綺麗な言葉を使うという意味ではなく、
相対している人物やそのやり取りに応じた
言葉を選んでいるかどうかです。
例えば、
気の置けない相手との何でもない会話で
普段はラフに話しているのに、
他人行儀な言葉を使われたり使ったら
おかしな具合になりますよね。
その逆も然りで、
お堅く話す場に於いてラフな言葉を
選んで話したら違和感を覚えますね。
そして、何よりも相手の状態や状況
環境を見据えた言葉を
ちゃんと選んでいるかがポイントです。
自分本位状態や自己優先状態となると
必然的に相手の事が視えなくなります。
思考的視野狭窄ですね。
そうなると、相手のためを考えれば
使ってはならない言葉も
「自分が良く思われたいが為に」とか
「自分を基準に捉えてしまう」から
使ってしまうものなのです。
僕は右耳が聴こえませんが、
その事実を教えて知っている人からも
「声が大きいですね」や
「よく聞けよ」などと
言われたりしていましたし、
それで傷付いたりする事が多々ありました。
今は慣れっこですが、その代わり
相手さんが疾患や障害を抱えていたり、
もしくは、そのご家族が疾患や障害などを
抱えている場合もありますから、
既知の事実だろうと知らなかろうと
会話での言葉選びには注意しています。
思い遣りですね。
次に「内容」なのですが、
この軽視は中々に奥が深いです。
以前に投稿をしました
これらの記事に被るものなのですが、
「反省」「感謝」「理解や了解」
などの単語の羅列は使うにしても
その内容については端折ってしまう。
「お願い」などについても同じですね。
何がどうして何故どこでいつという
内容に遵ずる解説や説明、
つまり、修飾するための言葉を
短絡させてしまう。
短絡させる側としては、
「わかってくれる(だろう)」
「要点だけを言えばいい」
「説明をした(つもり)」
と、なっているだけで、
短絡した内容を受け取った相手が
どういう風に感じるかなどは
微塵も考えていない状態ですね。
甘えや願望が前面に出てしまい
肝心要な部分を欠落させて
相手のためを考えずに自己優先で
自分本位を発動させている訳ですから、
受け取る側に対してかなりの不快感を
与えてしまうのは必定であり、
本来のスピリチュアルで云うところの
「恨み」や「念」を買ってしまう訳です。
思い遣りというのは
普段から気にして使い続けて
初めて使い熟す事が出来る「技」なのです。
尚且つ、自分本位というのは
常に貴方の隙を狙い続けているのですから
監視する意味も込めて
駄目な自分をしっかりと認めないと
いつまでも同じ事を繰り返しますからね。
業に出るもんや
その逆も然りで
口先ばかりの怠惰も
ふとした時に
出てくるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分が何かしら動く際には
目的というのが必要となります。
どんなに小さい事だとしても
善し悪しを問わず
目的無き動きというのは
存在し得ないと言えます。
何の為に自分は動いているのか。
その動きについての
意味を理解しているのか。
そんなことをイチイチ考えるなど
本当に七面倒臭いのですが、
そこを失念して手段が目的へと
変わったりしてしまうと
俗に言う「嫌な事」が起きるのですね。
さて、
この目的に沿った動きの中で
大切になってくるのが
「響き」
と、いうものです。
この「響き」とは、
自分の動きの効果表現でもあり
受容する側のきっかけともなるものです。
相手に「響かせる」
相手から「響く」
を、実感する事によって
目的が成就に向かっていくのですね。
例えば、僕が業(おこない)として
このブログを書いていますが、
その目的は教わる人の為の
あくまでも副教材です。
と、同時に。
僕に会った事が無いとしても
少なからず頑張っている人の為にでも
なれば良いなと考えて書いています。
頑張っているというのは、
この先のフェーズに向けて頑張っている
という意味であって
一般的な頑張りとは少し違いますけどね。
「選別」とも言えますね。
そういう目的ですから
教わっている人以外ですと
読まなくなる人がまぁ殆どなのですが、
その中でもコッテリと読まれてる方々が
居てくれるのですね。
この方々にはきっと
言葉では言い表せない何かが
「響いた」のだと思います。
これが目的から生じる響きであり、
前述した「何か」というのが
「想い」なのですね。
要するに、
僕の想いを受け取ったという事です。
こういった流れを普段の業の中で
常に感じる事が出来る様に努めるのが
本来のスピリチュアルの真髄の一つです。
なんて
本来は有り得ない
ものなんやで