皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に対して心配や感謝をします。
当たり前の事過ぎて
普通に考えてみれば話題にする事自体が
おかしな話なのですが、
この当たり前の所作の中に
落とし穴があったりするものです。
ご自身が心配や感謝をする場合ではなくて
される立場となった際や
これらをしてる人を視た時の事で
少し考えてみましょう。
心配や感謝というのは、
言葉だけを取ると聞こえが非常に良いです。
それは同時に聞こえが良いので
無条件で自身を良く見せるために
「至極使い勝手が良い所作」
とも、言い換える事が出来ます。
実際に、貧乏神やその眷属たる貧乏神気質と
呼ばれる存在になればなるほど、
この所作を濫用してる事が多いです。
そして、
その所作には必ずと言える程に
「主語の抜け落ち」が
発生しています。
「誰の為」と、いう最も重要な点が
すっぽりと抜け落ちているのです。
しかし、心配や感謝の言葉は述べる。
どんな所作でも大切なのは、
「誰の何に対して述べる言葉なのか」
と、いう点です。
これらが抜けているという事は、
その存在にとっての主語
つまり、言葉や意識の方向は
全て「当人」という事になります。
考えてみて下さい。
貴方や貴方の周りが
何かしら大変な思いをしたりとか
一生懸命に頑張った経緯があって
それを形にしたからこそ
心配や感謝を受ける筈なのに、
その努力や苦労の全ても
自分の俗欲を満たす為だけに利用する。
哀しくなるほどまでに
利己的な思考回路なのが、
貧乏神と呼ばれる存在です。
そこに気が付けないのは、
貴方にとっても貴方の周りにとっても
負の効果でしかありません。
普段の生活の中で、
人の一挙手一投足に対して
「よく視てよく聴いてよく考える」
この動きが
如何に理に適う業(おこない)であるか。
日頃からこういった点で
想いを向ける事や思い遣りの有難さが
深々と身に沁みてくるのが
本来のスピリチュアルを実践する上での
特効ですからね。
機能するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
前々回に表裏一体について
お話をしましたが、
今回はその流れを汲んでいます。
恐怖心というものがあります。
その名の通り恐れる心ですね。
これは果たして善いのか悪いのか
ぶっちゃけ感情なので
善いも悪いも無いのですが、
それは何でもない時の話です。
もし、これが行き過ぎた場合、
過剰な恐怖心を自身で執行した場合
その感情は念へと移り変わるので
悪いものとなります。
この時に、触媒として働くのが
「俗欲」です。
トイレットペーパーの買い占め。
無くなったら困るという恐怖心が
基になっていますが、
何も買い占めなくても良いですよね。
本当に無いなら、普通に買えばいい。
けれど、買い占めに走る。
中途半端な他からの情報に踊らされて
自身で思考もせずに行動した結果、
「他力本願」
「思考停止」
という俗欲を触媒として恐怖心は
餓鬼の如く「貪りの念」
となるのです。
この時に、
「恐怖の源」をしっかりと視たり
視据えたりする努力を行い、
他力本願にも思考停止にも
陥る事が無ければ、
少なくとも周りを視る事が
出来る様になるので
恐怖心というのは
「警戒心」や「心配」
といった相手を護ったり
憂いたりする様なハッキリとした
「想い」
へと変化します。
これを「効果転換」と言います。
同様に、「心配」という想いを
受けたのに
「余計なお世話」だとか、
「でも、頑張る」だとか、
「だって、出来ない」だとか
と、受け取る側自身の中で、
否定をして想いから念へと
変えてしまう事も
効果転換となります。
この様に、
受け取り側次第で
想いも念もその効果を真逆のベクトルに
効果を変化させてしまうのですね。
マイナス同士だとプラスになる様に、
プラスにマイナスを乗じれば
マイナスとなる様に
感情や意識も想いも念も
その表裏に相互作用して
変わってしまったり変えてしまったりする。
こういう自身の内側を
覆い隠さずに視れる様にする事が
とても大切なのですよ。
ですからね、
「綺麗事に溺れたり」
「駄目な自分を見つめなかったり」
「駄目な自分を理解しようとしない」
のは、自身の成長という点に於いても
リテラシーをUPさせる点に於いても
お話にならない愚行なのですね。
ってのは、
こういう側面も
同じなんやで。