2026年9月26日土曜日

バックドア構築(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分本位というものは
制御をする事は可能ですが、

克服するという事はありません。
何故なら、消せないからです。

そして、
制御と言っても
完全制御という訳ではなくて
ちょっとした部分で何とか出来るかな

程度の制御です。

自分本位というものは
普段はどうにか制御が可能ですが、

喜怒哀楽や環境や状況によって
非常に簡単に表面化していきます。

哀しい時や怒っている時だけでなく
自身が浮かれている時や嬉しい時など
自分本位では無さそうな時だったとしても

要らぬことを言ってしまったり、
逆に感付く事が出来なかったりと
簡単に露見する様になります。

何故なら、周りが視えなくなるからです。




自分自身でも驚くほどあっさりと
自分本位は顔を出してきます。

克服したと考えている人になればなるほど
露骨なまでに自分本位は暴れます。

何故なら、口では克服と言いながらも
自分本位というものを拒否しているからです。

どんな時でも可能な限りの冷静さを保つ。
それが自分本位の制御に必要な因子です。

「常に裏側を視る」

という感情の覗き見。
今この瞬間に得ている感情の全てに
流されるのではなく、

どこか俯瞰視する様な感覚を持ち合わせる。
その上で、感情を爆発させたり表現をする。

でなければ、感情と云うのは激流と同じなので
瞬く間に飲み込まれてしまうのです。
それを手招きして待ち構えているのが

自分本位に他なりません。

常に裏側を思考する事により
感情の激流をある程度制御して冷静になり、
自分本位をしっかりと認めて

今この時に自身のどこに自分本位が
存在しているのかを探し、
意識して最低限の「力」として引き出すのです。

自分本位は溺れたらおっかないですが、
行動するためのきっかけでもありますからね。

嫌がるのではなく
恐がるのでも無く
己の要素として
認めて使うんやで

2026年9月25日金曜日

幸せに手軽さは無い(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




発する言葉について
以前にも話しましたが、

「綺麗な言葉を使えば幸せになれる」

と、いう方がいらっしゃいますね。

僕はこれには懐疑的です。
まず、綺麗な言葉の意味が分からない。
定義というやつです。

貴族的な言葉遣いが綺麗なのか
それとも
単に綺麗とされる言葉が良いのか

綺麗の定義が無いのですね。
また、人はシチュエーションの中で
生活をしています。

あらゆる状況や環境があり、
それは刻一刻と変化します。

ずっと同じなんて事は無いですし、
突発的に変化するなんて事もざらです。

そんなシチュエーションにおいて
どうしても
汚い言葉を発する場面もあります。
発さなくてはならない場面もあります。

これらをちゃんと加味しているのかどうか
そこがハッキリしないのですね。




更には地域性というのもあります。

決して汚い言葉や粗暴な言葉を
使っている訳ではないのに、

その地域での言葉遣いによっては
荒々しく捉えられてしまう事もあります。
この時の差分などへの考慮などは

全くと言っていい程
考えられてはいない筈です。

そして、何よりも捉え方です。
言葉と云うのは、
相手の捉え方一つで全てが変わります。

綺麗な言葉を使っていても
何かしらの含みを込めていれば
それは綺麗な言葉を被った雑言です。

そういった点への解説や説明が
事細かにあるのであれば納得出来ますが、
まずそういった話はありません。

極論に近い話に聴こえるかも知れませんが、
敢えてそのように話をしています。

何故なら、この手の験担ぎを
カルト的に信望するタイプの人達は
柔軟性というものを
どこかに置き忘れてきた人が多いからです。

確かに言葉一つで人の幸せは変わります。
ですが、それはあらゆる場面で
言葉をしっかりと選択して

多少なりとも違和感無く
使い分ける事を前提としているのですね。

ある意味で
「ありのままの姿の体現」を実行する事を
指しているのです。

よく視てよく聴いてよく考える

自身の中で真摯に向き合って
ピントの合った言葉を選んで使う。

それが幸せへ通ずる一歩となるのです。
綺麗や汚いに躍らされずに
「ちゃんと自身で考える事が大切」
という意味なのですよ。

見た目の手軽さや
美しさだけに
惑わされないで
適宜対応出来る様な
柔軟性を身に付け
しっかりと考える事が
鍵となるんやで

2026年9月22日火曜日

螺旋という考え方(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




色々な内容の相談を受けたり
こうして話をする事が多いのですが、

その中で

「繰り返し」

という事について、
話をする事があります。

様々な出来事の繰返しがあるのですが、
その中でも人生において
よく言いますよね

「また同じ事を繰り返して」

みたいな感じのやつです。

この生きている上で
善くも悪しくも
どうしてもやってしまう繰返し
人によってはループとも言いますね。

これは本当のところ
繰返しではないのですよ。

と、いう話をするんです。




実際のところは、
ループではなくスパイラルです。

繰り返しではなく螺旋です。

繰り返しというのは
動線で表わすと円になります。

ですが、
実際にはそれだと要素が足りていなくて
現実的な話にはならないのですね。

何が足りていないのかというと、
「時間」という要素です。

僕らはどんな状況になっていても
時間という括りの中で生きています。
これを排除して考えてしまうと

どんな内容においても
善し悪し問わず繰返しという事になってきます。

しかし、
進行方向へ向けた時間が
僕らには必ず圧し掛かります。
現在から将来へ向けた時間ですね。

この要素を忘れがちなのです。

出来事や事象のみを語るのでしたら
確かにループですが、
そこには確実に時間が関係してきます。

前へ進む力が加わる訳です。
その瞬間から円ではなく螺旋に変わります。

ループと違ってスパイラルなので
同じポイントに戻って来ないんですね。

この時間という要素の付け加えを
思考回路へ確実に組み込む事で
モノの捉え方は多分に変わってきます。

もし、今何かで悩まれている人や
悩みがちな人は騙されたと思って、

その悩み散らかしている中に
将来へ向けた時間を組み込んでみて下さい。

視えなかった事が
きっと視えてくる様になりますから。

要素を一つ
忘れただけで
考え方は
大きく変わる
そんでその要素は
決まって身近な
ものなんやで

2026年9月21日月曜日

薄知減実(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




努力と云うのは
様々な形がありますが、

その価値を最大限に発揮する為には
状況の把握と結果の報告や
事実確認という動きが必要となってきます。

そして、そこの動きの中で
気を付けないといけないのが

「ひけらかし」です。

「ここまでやった」とか
「こんなに頑張った」とか
「こういう努力をした」とか

言いたくなる気持ちも分かりますし、
言わないといけない場面もあります。

然しながら、基本的なスタンスは
「ひけらかさない」です。

必要以上の物言いはしない。

全く言わないのではなく、
必要以上にと云う点が重要です。




昨今の世間的な動きですと、
何でもかんでも白日の下に晒すのが
是という動きになってきています。

全てに於いて宜しくないとは言いませんが、
あまり褒められたものでもない。

色々なものを知れる
というメリットがある反面、
知れるからこそ興味が薄れるデメリット。

一度見聞きしたが故に、
知った風になってしまって
それ以上のものへと昇華させる事や

利用するという事が
無くなってしまっている現状。

それを実際に動く側、努力する側としては
相手のためにを考えた時に、

敢えて必要以上には言わない
という選択をする事が重要になってくるのですね。
以前にお話をした「陰徳」です。

必要なところへ必要なものを流す。

そのヒエラルキーは絶対なもので、
不要な場へ流したところで
努力の価値は薄知減実となるのみです。

感じ取れる存在とのみ
最大限の共感をして感覚を共有する。

不平等だと思うかも知れませんが、
本来のスピリチュアルに於ける
これが現実というものなのですね。

平等や公平は
幻想に過ぎない
不平等という
不自由さの中で
色々と経験をして
身に付けるんやで

2026年9月19日土曜日

連鎖と波紋(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自己の意思の有無に関わらず
霊的な作用を受けたり
与えたりする事があります。

これを「影響力」と、云います。

乳児期や幼児期から影響力を発したり
授受したりする事もあれば、

ある一定の時期から起きる事もありますし、
ほぼ自覚せずに人生を終える
と、いう場合もあります。

詳細な内容について今回は省きますが、
影響力自体には

「正の影響」と「負の影響」の

大きく分けてこの2種があります。

これは本人ベースで捉えた時と
周囲ベースで捉えた時では

例え同じ内容だったとしても
正負のそれは異なったりもします。




影響力というのは想像以上に絶大で、
特定の一個人のみに対するものから
相当数の人員に与えるまで

その効果範囲はかなりフレキシブルです。

また、霊格や過去の経験という要素も
大きく作用します。

過去の経験というのは、
それまで熟してきた人生の数と

得てきた事の「含み」を意味します。

「含み」というのは、
複数回の人生に於いて蓄積してきた
努力の内容です。

皆さんがよく使う「学び」
というものとは異なります。

学びは1つの得た結果であり目標値であり、
含みは過程での内容と産物です。

影響力の伸びもまた面白く、

正の影響力は「連鎖」であり
負の影響力は「波紋」です。

この意味合いが理解出来ると
例えばですが、

霊からの干渉などを受けた際の対処法や
善き流れへ導く際や導かれる際の動きなどが
自ずと分かる様になってきます。

影響力ってのは
誰にでも
備わっていて
正か負かは自身で
選べるんやで

2026年9月13日日曜日

溺れて形を成す自分本位(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分の動きが鈍っていたり、
思うように動けない事があります。

記憶の混濁などもその内の一つで、
話を聴いていないと
思われてしまう事があったりします。

前に話した事をつい忘れてしまう。

会話をしていてちゃんと聴いていても
パッと出て来なかったり
うっかりしてしまったりする

なんて事がありますね。

聴いている事は確かだから
落ち着いて考えれば
割とハッキリ思い出す感じです。

そのタイミングで
「聴いてなかったからだ」
などと断罪をされると心を閉ざします。




考え事というのは誰にでもあります。
心が忙しない時などは特にそうで、
全てにおいて集中が出来る訳でもありません。

また、忙しなくなればなるほど
特に責任感が強くて
集中力の高い人であるならば
情報のソートが強めに出て来ます。

記憶の優先順位と切り分けですね。

未解決の話なのか、解決済みの話なのか、
重要度合いの区分です。

失敗が起きない為ではなく、
間違いが起きない様にする為に
ソートをきつめにセットするのですね。

そういう状況下に於いて
自身の動きを断罪される様な感じになると
そのダメージはかなりなものとなります。

一体何が起きているのかを
見詰めてあげて聴いてあげたりする事が
その人を救う手立てとなるのですね。

これが「器のサイズ」における
「寛容性」が具現化する瞬間です。

自分を基準にして
意見を述べるのは
相手の状況に
寄り添うとは
程遠い動きです
これが自分本位に
溺れるなんやで

2026年9月11日金曜日

本質を知る為の動き(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




意思を伝えるという困難を
いとも簡単に熟せるのが浄土という場です。

向こうの世界では、簡単な事でも
肉体を纏ったこの現世に於いては
その肉体が障壁となって困難へと変わります。

何故、肉体が障壁となるのか。
それは肉体を得るのと同時に

俗欲を獲得するからなのですね。

俗欲というのは、
この現世で生きるために必要不可欠なものです。

これをやりたい
あれをやりたい
こうしたい
ああしたい

と、いう様々な渇望の総称です。

どんなに俗欲を嫌がったとしても
俗欲無くしては生きる事が出来ません。

そして、俗欲があるからこそ
「自分本位」というものが出来上がります。

自分本位は俗欲の中の一部分であり、
「自分」を中心に据えて
常に優位に捉えている渇望の塊です。

自己中心的なんて嫌だと思っていても
誰にだって自分本位は存在します。




簡単な場面で例えるならば、

お腹が空いた時
周りが視えなくなりますよね。
何かの限定品をゲットする時に
混雑していたらどうにかしたいと思うでしょ。

その人の許容と我慢への耐性と
器のサイズなどによって
その差は大きく変わります。

この差のことを「寛容」と云います。

誰にだって自分本位はあるものなので
消す事なんて無理なのですね。

無理なものを毛嫌いしても仕方ないです。
ならば、嫌いにならずに
ちゃんと認めてあげた方が建設的です。

そうだと分かっていても認められないのは
貴方自身が勧善懲悪を
判断の基準としているからに外なりません。

この思考回路の事を「完璧主義」と云います。

物事の判断は善悪で分けられるほど
甘く無いのです。

一定のルールや規範、規律を基にした時のみ
善と悪は判別が可能となります。
「法の下の平等」が一般的ですね。

特に法務紛争が起きていない状態で
善と悪をきっちりと分けるとなると
なかなかにエグイ結果となってしまいます。

思考が凝り固まってしまうのですね。

触媒があるからこそ
善と悪とに分けられるのであって

それ以外であるならば
善と善に過ぎません。

どちらも善を執行しているに過ぎず
正義と正義のぶつかり合いなのです。

で、あるならば
互いが互いの立ち位置をニュートラルにして
客観的な視点で観察し、

想いを基軸として会話を軸にし接し合う。

須らく理想論にはなりますが、
これが僕らが目指していかなくてはならない
生きる上での目標なのですよ。

向こうの世界では
これが当たり前に行われているので、
それを逆行的に目指す事で

思い遣りや想いの本質を理解する。

それこそが神さんや仏さんが
皆に求めることでもあり、
自分達自身が求めていることでもあるのです。

なので、自分本位は消そうとするのではなく
認めてしまった方が善き話となりますし、
ましてや浄土へ戻りたいのであれば
尚更な話なのですよ。

自分本位を
意味なく毛嫌い
すればするほどに
近付く場所は
浄土ではなく
地獄なんやで

2026年9月10日木曜日

理由あり備わり(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分本位を毛嫌いするあまり
より一層自分本位となってしまう。

そういった現象が当たり前に起きます。
これは自分本位というものを
根本的に間違えて捉えている場合に
発生する動きです。

自分本位というのは、
何度となくお話をしております通り

僕らに元々備わっている
心情であり行動概念の一つです。

当たり前に持ち得ていて
自分本位を失くしたり

また、
出さない様にする事など出来ません。

寧ろ、標準装備されている段階で
必要不可欠なものなのだという
認識を持たないとならない代物です。

僕らが現世で生きる上で
何故この自分本位が必要不可欠であるのか。

自分優位に捉えて動く代物で
自分自身を苦しめる事も確定していて

剰え人様に対しても迷惑を掛ける事に
繋がっていく筈なのに
どうしてわざわざ装備されているのか。

それは、「思い遣り」や「想い」を
学んだり得たりするために外なりません。




自分以外の存在に対してまたは
自分以外の存在から
思い遣りや想いを与える
若しくは受け取るためには

その真逆に位置するものが必要となります。
それが自分本位です。

自分を優位に捉えて動くからこそ
相手を傷付け自分も傷付きますね。

その時々で、心ある対応をされたり
自身が心の入った対応をすると
窮屈だった心情から解放されて

まるで大空を仰ぐ様な感覚になりますよね。
暖かい何かに包まれた様な感覚
とも云えるのでないでしょうか。

自分を後回しにして相手に対して
優先的に動いてあげる為には
そもそも自身が優位であるという考え方、
思考回路が必要となります。

そうでなければ、思い遣りも想いも
成り立つことがありません。
この自分を優位に捉えるという考え方自体が

浄土では学べない。
実戦的な心深い意味での思い遣りを
根本的に得られないのです。

何故ならば、
意思を伝えるという現世で最大級の難関を
いとも簡単に熟してしまうのが

向こうの世界の浄土と呼ばれる空間です。
早い話が相手がどうしてほしいのかが
手に取る様に分かってしまうのです。

なので、いちいち考えを巡らせなくても
思い遣りや想いは染付いています。
と、いうよりもあまりに普通過ぎる事なので
考えに至るという点まで結び付かないのですね。

嫌なものと
決め付けても
それは単に
綺麗に見せたい
あなたの俗欲に
過ぎないんやで

2026年9月5日土曜日

天視地認(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




常日頃から話していますが、
物事と云うのは表裏一体で
成り立っています。

想いは想いだけで成立してるのではなく
念が同じ位置、同じ場所、同じ場面で
そこに居るから想いが成り立ち

その逆に念も想いがあるから
成立する様に出来ているのですね。

光があるから陰が出来て
陰があるから光が際立つ

考え方や
それに沿った動き方についても同様で

片側だけに偏らせずに
あくまでもニュートラルな視点で
ニュートラルな動き方をするというのが
大切なのですよと

以前から教えていますね。




例えばですが、

無理を続けていれば、健康を失うし
遠慮を続けていれば、機会を失くすし
悪口を続けていれば、信頼を失くして
我慢を続けていれば、己自身を失くす

挙げ始めればキリがないほどに
色々な物事や事象が
こういった動きに則っているんですね。

自身が嫌な状態ですとか、
辛い状況ですとか
上手くいかないと嘆いている時は

どこかで必ず何かを必要以上に続けていて
そこに相まって何かを失くしている。

その結果として辛さや苦しさが
表面化したり具現化したり
溢れてしまうという感じなのです。

改善させたいとか
脱却したいと考えるのであれば
まずは己の動きを視ないといけないですし、

宜しくない流れとなっていて
その渦中に
自ら飛び込んでいるのだという事実を

勇気を持って認めないといけないのですね。

駄目な自分を認めようというのも
元を質せばこういった表裏一体の原理から
導き出した話なのですよ。

前に進みたいなら
後ろも視るのさ
歩んできた道や
してきた事を
改めて見つめ
認める事が
大切なんやで

2026年9月3日木曜日

無知、悔恨、起死回生(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




悔しい出来事があった際に
恨み節を奏でてしまったり
過剰に自身を責めてしまったりするのは

少し違うと考えましょう。

大切なのは何故に悔しい思いをしたのか
真の原因というのは一体何なのか

と、いうのを探らなければなりません。

目先で起きた出来事から
1つ1つの要因を探っていく過程で

自分以外への批判や批難をしたり
致し方無しと逃避をしたり

色々な考えが巡る筈ですが、

原因を探るために真実へ潜ろうと
すればするほど、
自身が原因であり要因の一つであると

気が付いてしまうものです。




「あの時こうしておけば良かった...」
「こうする事が出来たのでは...」
「何故こう出来なかったのか...」

考えれば考えるほど
自己嫌悪や自己憐憫に陥りそうな感じですが

いつも教えている様に
お話をしている様に
冷静に俯瞰で視て
客観的にニュートラルに捉えてみると

自身に知識が無かった事や
経験が足りていなかったことなど

圧倒的な情報不足や経験の不足が
悔しさの要因であり原因であると

ハッキリ気が付くことができ
そして、理解することが出来る筈です。

その時の相手の発言だけに
耳を傾けがちになりますが、

その発言に対する自身の発言や
立ち回り方や先見の見出し方や
問題点の見抜き方や論点の落し処など

これまでの自分が手を抜かずに
日々の生活や日頃の業の中で

興味を持って行動し
勇を用いて飛び込んでいったり

そういった動きが多かったら
悔しい思いをする事自体が無かったと
理解してしまうはずです。

それらやそれらで得られるものこそが
即ち「知識」や「知恵」
つまり、「情報」そのものであり

「経験」であり「自信」なのですね。

その上で実感する事になるのですよ、

自分が何も知らないということを知り、
無知は罪であり、
知は力であるという現実を。

相手のためを
想って動けば
自分のためだと
動きが全く変わる
というのが
分かる筈なんやで

2026年8月30日日曜日

邪魔を愉しめ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




毎日を一生懸命に頑張る。
どんな人であっても
何処までいってもこれは変わりません。

但し、
皆が皆そうしているとは言っていません。
やっている人はやっている
と、いうだけの話です。

何もせずに
単調な暮らしをしているだけの人も居れば、
頑張っているフリをしている人も居るし。

頑張るという気概を
燃えるゴミの日に出してしまった様な
人だって居ます。

ここを読んでいる人は
頑張る事がデフォルトだと思いますから、
そこに注力して話します。

頑張っていると、
どうしても無理をしがちです。

頑張り過ぎ
やり過ぎ
抱えすぎ
焦り過ぎ

言い方や内容はどうであれ、
真剣勝負を挑み続けてしまうからこそ
無理をしてしまう。




しかし、
ここで問題点が生じてくるのです。

何かと云うと、
「甘んじる」という点。

頑張る事が出来てしまう反面、
休みや落ち着く期間が長いと
気を抜いてしまったり

同じ動きで楽をしてしまうと
頑張る事を忘れがちになってしまう。

そして、その後に自己嫌悪へ陥るので、
脱却を図るために
またしても無理をしてしまう。

このスパイラルに嵌っている人は
そこそこ多いと思います。

頑張っているからこそのジレンマ。
無理をするが故の落日。

このままではいけないと思っていても、
何かしらの策を考えてみても
やはり同じ道程を踏んでしまうのは、

あるものが足りていないからなのですね。
それは

「ゲーム性」
と
「限界突破」

この2点です。




邪魔を好むというのは、考え方です。
おそらくですが、
誰しもが邪魔を嫌います。
遮られるのって嫌ですものね。

けれど、人って面白いもので
邪魔が無いと怠けますし、
ヤル気が無くなってしまうんです。

マリオを思い出して下さい。
あれって邪魔しかないでしょ。
キノコやカメが突っ込んでくるし、
火まで飛んでくれば足場も崩れます。

現実で置き換えたらそれはもう酷いです。
あのヒゲオヤジは相当に頑張ってますよね。

もし、あれで邪魔が何も無かったら
どうでしょうかね。
何も面白くないですよね。クソゲーです。

邪魔は嫌だけども、敢えてそこを愉しむ。
「かかってきなさい」という気概で挑む。

限界突破というのは、
「意図して臨む無理」というやつです。

自身の持っている全てを使って無理をする。
そして、限界を超える。
無理をしない事を続けていると
楽勝過ぎてつまんないんですよ。

自分の力がどんなもんなのかと
試してみたくなるでしょ。

そこで、普段はやらない事なのだけど
目標を明確に定めてこれでもかと無理をする。

当然に疲れますが、
成功しようが失敗しようが
自身のボーダーラインを知る事が出来ます。

より一層強くなったと実感も出来れば
なにくそ魂でまた頑張る事も出来る。

ご自身の生活に置き換えてみると
至らない面や悩んでいる点で
往々にしてこれらが足りていないと
肌身で分かる筈ですよ。

怠け癖や
楽したい願望は
誰にだってあるし
消す事は出来ない
どうせやるなら
愉しみながら
やりたいやんか

2026年8月26日水曜日

震えてもいいから立ち向かえ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰のために
  何のために

普段から何度となくお話をしている
行動をする時の意識の置き場ですが、

分かってはいても自分の弱さや
駄目な自分が邪魔をしてしまって
上手く活用出来なかったりします。

例えば、
子供のためにも喧嘩をしないと
いけない場面なのに、

怖いと思ってしまったが故に
ハッキリとモノを言う事が出来なかったり。

波風を立てたくないと
思ってしまったが故に、
云うべき事実を言わずに終えてしまったり。

理想は全然違う筈なのに、
自分でも動き方が間違っていると
分かっているのに

自分の弱さや駄目な自分に
負けてしまって捻じ曲げてしまう。

そういう時に都合よく、
「逃げる事も大事」
みたいな言葉に救いを求めてしまう。

その結果、後々に訪れるのは
自己憐憫と自己嫌悪です。

貴方の事を何とも思っていない人や
他人事としか考えていない人は

上辺っ面の内容だけを示して

「逃げの一手」
「希望的逃避」

を、必ず勧めてきます。
そんなの仕方ないよ的な言い方で
話自体を理解したフリをしてみたり、

何も出来なかった事を差し置いて
「なんだって言うのよねぇ」みたいに、
相手の悪口を代弁してみたりするのです。




それらは誰のための動きですか。
何のための動きですか。

自分が本当に守りたかった相手に対して
胸を張って言える事ですか。

守りたかった相手に対して
泥を塗ったり突き飛ばしてるのと
同じではないですか。

大切な人を本気で護りたいのであれば、
仮に恐いなとか、嫌だなと思っても

自分の身勝手な心情を優先させずに
ぶつかる事や喧嘩する事も必要なんです。

端から見たらそれが非常識に映ったとしても
それで大切な存在を護る事が出来るのならば
別に構わないじゃないですか。

こういった精神を「義」と云います。

これに信用や信頼が入ると「信義」となり、
忠を尽くす心が入ると「忠義」となり、
理が合わさると「義理」となります。

そして、
相手のために義を尽くすことを
「奉仕の精神」と云うのです。

誰でもいいですが
大切な存在を護りたい、
護り抜きたいのであれば

口先だけの無粋な言動ではなく
自身の意志に属した堂々たる行動を以て
恥じぬ背中を視せるべきなのです。

見て見ぬ振りをせず
勇を用いて動きへ変える。

ひれ伏す前に藻掻き抗うことが出来るのも
自分自身の意志ですからね。

見て見ぬ振りをして
後出しする奴には
後出しで返せばいい
常識が通用するのは
常識を崩さずに
正攻法で挑んでくる
相手だけなんやで

2026年8月22日土曜日

護力(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




もう夏も終盤に差し掛かっていますが、
風物詩として肝試しなんかがありますね。

今で言うところの心霊スポット巡り

この心霊スポットっていうのは
なかなかに俗物的だなぁと
思わせてくれる代物です。

何かしらの曰く因縁のある場所を
心霊スポットと称して
わーきゃーする。

まぁ、好き好きなので
ご自由にとずっと昔から思っています。

大抵の場合、
心霊スポットと呼ばれている場所は
だからなんだの状態となっています。

不良の巣窟となっている事が多いので
そういう危険さの方が強いです。

僕自身、この心霊スポットという呼び名や
そういったランドマークを作ること自体が
どうしても好きにはなれません。

何故かと云うと、
態々そんな廃墟とかをスポット化せずとも
おっかない場所なんて五万とあるし、

そもそも因縁がある場所なんて
皆さん一人一人の徒歩圏内に
数か所はありますからね。




そういう場所には目もくれずに
見た目の恐さや忌避感のみで
ある場所にピントを合わせたところで

それはあくまでも表面上での話。
そこには誰かしらの生活や思い出があって
優しい話とかも沢山存在するんです。

にも関わらず、面白おかしく
自分達の欲のままにスポットとするのは
どうにも人の心が通っていなくて
嫌なのですよね。

どうせなら、そういう場所を
勝手に綺麗にする方が面白い。

綺麗にと言っても物理的な美しさではなくて
幽体的、霊体的に綺麗にしてしまう。

因縁のある場所ですとか、
ガチで悪霊が溜まりやすい場所とか、
そういった場所は結構あります。

そんな場所に勝手に行って
勝手に浄化をさせちまえばいい。
常々、僕がやっている事です。

どうせなら住み易かったり
何だか問題が減ったり
知らずと運気が上がったりした方が善きでしょ。

能力ってのはね、
そういう風に使うんです。

力ある者ならば
一緒になって
恐怖を誘発させたり
するんじゃなくて
光あれ幸あれの方へ
使うべきなんやで