2026年8月1日土曜日

努力と限界点(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います




何かの動きをする際に
どんな物事でもそうなのですが、

「限界点」

と、いうのが存在します。

特段難しい話ではないです。
身近な事から壮大な事まで、
何に関してもこの存在するのが限界点。

この限界点を見極める事が
動く時にその結果を大きく変えるのですね。

例えばですが、
善くなりたいと考える誰かが居て、
その人に色々とアドバイスをするとします。

この時に、どうしても人は
「無限の可能性」というのを
視野に入れてしまいます。

無限の可能性自体はとても善い考え方ですし、
それは持っていて善いものなのは確かです。

然しながら、
冷静さというのも必要でして
可能性はあるにはありますが、

無限に可能とは言っていないのですね。
ましてや、必ず可能とも言っていないです。

努力しても何をしても
出来ないレベルというのは往々にして存在します。

そこを見極めて現実的なポイントとして
落し込んであげる最上点が「限界点」。




無限の可能性を動き始める場合の
希望として捉えるならば
それは大いに結構ですが、

自身の言い訳に使ってしまう様な
楽観的な指針とするのであれば
「絶対的な汚点」となります。

誰にでもチャンスはありますが、
誰でも希望通りになれるものではない。

根拠の無き無限の可能性に賭けるのであれば、

「限界点を知り、努力して伸ばす方が建設的」

限界点というのは、その物事や事象、
自身に対する終着点とも読み取れますが、

そこには「時間の作用」も含まれるので、
実は変動するものなのですね。

例えば、
その時には、A地点が限界点だったとしても
時間は掛かれど努力を重ねればB地点が
限界点となる様な事が、大いに発生します。

鍵となるのは「努力」です。

努力と云うのは、目的と目標をセットして
それを時間軸に置いた時に初めて意味を成します。

目的と目標は有っても
時間軸に置かないでいると、
いつまでも進まないですし、限界点は変わりません。

それどころか、取り残されてしまって
目的や目標は執着へと変わり、
やがて自身を滅ぼすものへと変わってしまいます。

1つの職業や資格取得に固執して
ずっと夢見てやっている人とかいるでしょ。

いつまでもダラダラと生産性の無い動きを
続けて良いものではないのですね。

自身に於ける限界点を知り、
そこを伸ばす努力をする。

無限の可能性は動き始めのきっかけであって、
すぐに忘れるべきものなのです。
その代わり、限界点を知り理解して、
乗り越えていこうとする姿勢が大切なのですよ。

無限の可能性という
夢のままにしておいても仕方ないでしょ。
それよりも限界点という現実を知り努力すれば
そこには肉の身を宿した結果が手に入ります。

どっちがいいでしょうかね。

夢と云うロマンでは
生きる事が無理やけど
努力の先にある
限界点ってロマンには
生きる術が
宿るんやで

2026年7月29日水曜日

姿勢の問題(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います




日頃から皆さんとお会いする中で、
色々なお話をさせて頂いています。

人間関係のアドバイス
仕事のアドバイス
今後の人生のアドバイス
能力的なアドバイス
霊的な面でのアドバイス

挙げ始めたらキリが無いのですが、
老若男女問わず縷々様々なアドバイスや
助言をさせて頂いております。

アドバイスというのは、
必ずしも聞き入れる事が
出来る内容であるとは限りません。

どうしても期待している内容に沿った形を
望まれる方が多かったりするのですね。

僕としては、
それってどうなのかなと思います。

ご自身の思惑に沿った形の話を
してほしいのであれば、
それは最早アドバイスではないですからね。

自身にとってプラスへ転ずる事や
危機管理上の回避に繋がる事などが
アドバイスというものです。




そこにはご自身の意見や考えを
否定する内容となる面も存在します。
だからこそ、
アドバイスとして成り立つのです。

毎日色んな方とお話をします。

主婦の方、会社経営者の方、
学生さん、サラリーマンの方、
公務員の方、個人事業主の方、
現役を引退された方、

ありとあらゆる業種業界の方と
お話をさせて頂いていて、

色々な展望や改善についての
お話をするんですね。

基本的にはこの現世を生きる上で
愉しみを得る為の方法が基礎であり
目的となるお話です。

その話が霊的なものの場合もありますし、
超現実的な話もありますし、
時事的な話や自然現象の話などもあります。

その方その方、ひとり一人に
必要であろう内容を適確に伝える。
それが僕の役割の一つです。

話という中には
非科学能力の開発も含んでいたりもします。

実際に霊視などの能力と云うのは、
特別な人でないと出来ない様な
スーパーパワー的な代物ではないですからね。

誰でも可能な能力が霊能力と呼ばれるものです。
その強弱や大小と云うのは、
個々人が持つ素直さや役割や
霊格と云うもので変わったりもしますが、

基本的な部分については
誰でも可能なのが霊能力です。

世の中で囁かれている常識などは
実のところ間違っている事が多いものですよ。

正しい知識を得て
変に偏らずに
自身を見つめて
認める事が出来れば
能力は開花します
当たり外れに拘る事が
そもそも間違いなんやで

2026年7月27日月曜日

分からぬ事は聴きなさい(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




愉しい日々を求めるのか
それとも
自ら進んで愉しい日々を創っていくのか

同じ様に感じられる事ですが、
ここの少しの違いと云うのは
思っている以上に大きいです。

待ち構えているのか
切り拓いていくのか

果たして貴方はどちらでしょうか。

どちらが善くてどちらが悪いという
意味合いに取るのであれば
その考え方は辞められた方が賢明です。

待っているから得られる愉しみも
存分に存在しますし、

率先して動くからこそ
手にする事が出来る愉しみもあります。

基本的には自ら切り拓いていく姿勢が
重要にはなってきますが、
場によっては待たなくてはならない事も
確実に発生します。

その状況や状態を確実に掴んで
臨機応変に対応出来るようにする事が
何よりも大切になってきます。




そして、「動く」という行為の中には
「待つ」という動作も含まれます。

つまり、厳密に言えば
どちらも同じという事に繋がります。
だからこそ、
「場への理解」が最重要となるのです。

そこに着目せずに、
常に同じ考えで同じ動きをしていると
それはつまらない結果へと帰結します。

表面上の言葉のみを受け取って
自ら率先して動く事ばかりを意識していたら
いつしか「待つ」が一つの動作ではなく

動いていないという認識へと変わります。

そうなってしまえば、
待てなくなる思考となってしまいますから
きっかけを多々失う事となるのですね。

言葉の受け取りや理解と云うのは
ほんの少しの差分で成り立っています。

その差分の中に本質的な意味合いが
仕込まれていて、その部分を理解して
意図的に認知し利用する事が出来るか否かが

貴方にとってプラスへ転じる
きっかけの一つとなるのですよ。

馬鹿の一つ覚えでループさせるのではなく
多種多様で柔軟な思考を用いて
似て非なるスパイラルな動きを目指すのです。

愉しみと云うのは、
そういった知的認識力を以って得る事が出来る
高潔なものなのですからね。

言われた事のみを
アホみたく
繰返すのは
愉しみから
一番遠退く
愚行なんやで

2026年7月25日土曜日

誰もが聴いている声(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います




本来のスピリチュアルに於いて
補助霊という存在がいます。

自分のことをサポートしてくれるから
「補助霊」と呼んでおりまして、
一人につき2~4人が
何かしらの形で貴方のサポートをします。

そうは言っても、
常にその場に貴方の隣に居るという
訳ではありません。

彼等は浄土と呼ばれる空間から
思念だけを送ってくる感じです。

本当に様々な形でのサポートをしてくれてて

夢で語り掛けてきたり、
時には姿を見せてみたり、
何かを動かしてみせたり、

中でも圧倒的に多いのが
「声で教える」事です。

声と言ってもそれは補助霊の声ではなく
貴方の声で頭の中に直接響きます。

時々ないですか。
考えもしていなかった事が
唐突に思い浮かんできたり、

自分でも気付かない内に
当たり前に聴き入っていたりする事が。

あまり知られていませんが、
霊の声というのは
基本的に自身の声で聞こえてきます。

誤認されがちなのですが、
いわゆる脳内再生なども皆自身の声です。
それを仮想的に脳みそが加工して
限りなくそれっぽい感じにしているだけです。

試しに貴方の大切な人の声を
脳内で再生してみて下さい。
それは本当にその人の声ですか。

おそらく違うから、
実際に本人の声を聴いた時に
ほんの少しの間が発生している筈ですよ。

それとは別に、霊の声が直接響くのは
憑依の時だけなのです。

憑依というのは幽体や霊体に対する
「干渉」のことを意味します。

補助霊やその他の霊の引き起こすサポートとは
根本的に内容が異なっているのです。
少なくとも、サポートするために
貴方の幽体や霊体に干渉する事はないですからね。




この補助霊からのサポートを
人は様々な方法で表現しています。

人によっては神の声ですし、
仏の声だという人も居れば、
守護霊だと云う人も居るし
宇宙人だという人も居る

僕から言わせれば補助霊に過ぎないのです。
存在としてハッキリと認識が出来ず
難しい相手を人は神や仏と称します。

これにはかなり語弊があります。
本来のスピリチュアルに於ける
神さんや仏さんは
人への興味が薄いですからね。

そして、
守護霊というのはまた別の存在です。

宇宙人という表現は
意外にも近しい表現だと思います。

浄土というのは高次元の空間です。
少なくともこの現世よりも
遥かに高い次元で成り立っている場となります。

それは地球上でもあり、
それ以上の空間上でもあり、
あまりに領域が広すぎる空間です。

なので、3~4次元の認識が
やっとこさな我々からすれば
宇宙人だと認識してもおかしく無いですからね。

補助霊側からしても、その方が相手に対して
説明し易いのであれば
迷う事無くそう云います。
結構合理的思考ですからね補助霊さん達は。

そういった「声」を皆さんはどう認識するのか。
そのままにしておくのか、
それともちゃんと拾ってあげるのか。

補助霊は善い事ばかりを言いません。
時には貴方にとって真逆の事も言います。
それが貴方の為になると考えたら
躊躇せずにそう響かせます。

人は痛い経験をしないと
憶えない事だって多々ありますものね。

この様に貴方を常々サポートしてくれているのが
補助霊さん達なのです。
ちなみに、補助霊は人生で何回か入れ替わります。

現世での親類や血縁、知人友人などの身近な人が
亡くなってから補助霊となる事もまずありません。

夢の無い話に聴こえますが、
それは生きている人がそうありたいと
考えているだけの勝手な妄想に過ぎません。

貴方を必ず助けるのも使命ではありません。
単なる役割と勉強のためにやるのです。
なので、お願いをしたところで
聴いてくれる様な超越者ではないです。

けれども、貴方にとってはとても重要な存在。
それが補助霊なのです。

ならば、声をちゃんと拾ってあげた方が
思い遣りがあっていいでしょ。
お互いに想いを通じて縷々様々な事を
学んでいるの最中なのですから。

補助霊の数の多さは
善し悪しには
全く結び付きません
ステータスもです
彼等と一番大切なのは
想いのみやからね

2026年7月23日木曜日

数で速度を援護する(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




前にも話しましたが、
日常と云うのは
皆さんが想像している以上に
スピーディに動いているものです。

せかせかと動くという意味ではなくて

「常時即断即決を迫られている」

と、いう意味でのスピーディですね。

実のところ、ゆっくりと考えたり
判断や決断まで時間を割いたりするのは
大枠で考えている場合のみとなります。

例えば、運転などがそうで、
A地点からB地点へ向かうとします。
都合1時間の運転としましょう。

別に急いでいる訳でも無く、
時間にも余裕があります。
のんびりと行こうと誰もが思いますね。

然しながら、これは大枠での話。
一度乗車して運転するとなると、
運転中は即断即決のオンパレードです。

貴方が目的地へ向かって
のんびり行こうとするのとは裏腹に、

ハンドルを握れば視線は三点動作をしますね。
何か危険を察知すれば速度を落とします。
逆に速度を上げたりもします。

そういった際に、
のんびりは構えていられません。
常にその場その場で
即決しないといけないのです。

そんな即断即決が集まった結果として
目的地へ到着する訳です。

時間や意識はのんびりだとしても
やっている事は即断即決という最速の動き。
ここがポイントなのですね。




この視点で考えてみると
日常という実生活は即断即決の集合体です。

家庭内、職場、学校...
ありとあらゆる場面が即断即決で進みます。

けれど、大枠で考えたら
時間にゆとりがあったりするので

ゆっくりと動いている様に勘違いをしてしまう。

なので、意図的に感覚を使う時も
その実戦的な速度を意識しないと
日常の流れに反映されないので
意味の無い代物となってしまうのです。

実際にそうじゃないですか。
例えば、五感をフルに使うにしても
目を閉じて集中集中...

なんて、している暇など
日常のどこにもありゃしません。

あるとすれば、自分自身が
護られて保護されている様な
一部の空間と時間だけなのです。

レクチャーやセッションとか
何らかしらの勉強会とかね。

趣味で神社やパワースポットに
出向かれる人なども結構勘違いしています。

ああいう場で自分以外誰も居ないなら
別にのんびりとお目目を閉じて...と、
やっていても良いでしょうけど、

人気のスポットだったらどうします。
単に邪魔なだけですよ。
ほぼほぼ確実に恨みを買います。

そんなのはどう考えても現実的ではないです。
日常に則していないのですから、
使えていないのと同じなのですね。

感覚と云うのは、
あくまでも日常の中で実生活の中で
普通に使えてなんぼです。

その為には、得意な部分の1つの感覚だけで
一点突破を目指そうとするのは
あまりにも非合理的です。

わざわざ受容体として研ぎ澄ませる部分を
ニッチにしているのですから。

それであるならば、
あらゆる感覚の得手不得手を理解した上で
定説だけでなく逆説も利用して
受容体を出来る限り複数にした方が

スピードの補完が可能となります。
僕が日頃から

「あらゆる感覚を無駄にしたら駄目だよ」
「一つに拘ったら駄目だよ」
「増やしていかないと駄目だよ」

と、話しているのはこの為なのですね。
より実戦で使える感覚を
身に付けてほしいわけですよ。

得意な部分を
伸ばすと同時に
不得手な面も
何故に苦手なのかを
考えてみると
そこも受容体として
使えるんやで

2026年7月19日日曜日

切替後の姿勢(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います




様々なきっかけを無事に得る事が出来て
紆余曲折しながらも
今までの自分自身からの脱却を果たす。

そこまで到達するのは
道のりとして
非常に長いものです。

実際にそれを達成した時に、
まず訪れるのが安堵感です。

と、同時に自身の使命、
やるべき事を
ふと忘れてしまいがちになります。

何かと云うと、
これまでと「違う動き」をすることです。

誰にでも出来るものではない
脱却という進化を果たして
せっかく新たなフォームを手に入れても

動きや考え方が
従前の通りのままでいたのでは
何も意味がありません。




それまでの貴方というのは、
楽をメインとした
考え方と動き方をしていた訳です。

そんな自分がどうにもむず痒くて
あれやこれやと頑張った結果、
楽という池に溺れていて
俗欲に塗れていたのを

一生懸命に這い出してきた訳ですね。

となれば、
新たな動きをしなければ
いつでもまたこれまでと同じ様な

楽の誘惑に溺れてしまうのです。
そうなるのはもう嫌ですよね。

違う動きや考え方というのは、
新たなフォームを手に入れる段階で
実は既に教わっています。

それまでの貴方に欠けていたものを
意識して使っていくだけなのですよ。

人それぞれに欠落素因はありますが、
大抵の場合の共通項としては

素直さ、思い遣り、
何のため、誰のための言及と探求です。

こうやって話すと小難しく思えますが、
何も難しい話ではないのです。

但し、以前と比べると
遥かに苦しみは増します。

理由は簡単で、
それまでが究極に楽をしていたから。

本来、味わっていなければならなかった
苦しみをキャンセルしていたのですから
当然の流れなのですね。

けれども
やらねばならない
人からの想い
人への想いを
無碍にしない為にも
努力を続けるのが
使命なんやで

2026年7月14日火曜日

苦痛からの解放(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

お客さんからのお声を戴きましたので
ご紹介したいと思います。




先日、
知人の勧めで先生に悪霊祓いを
行っていただきました。

我が家では10年以上の間、
不快な音や悪臭が続いておりまして
ほとほと困り果てていました。

最初の頃は音と臭いだけでしたので、
工務店にリフォームをしてもらって
直るものだと思っていました。

実際に家は綺麗になったのですが
特に何の変化も起きず。

元々、霊的なものは
そこまで信じていませんでしたが、
あまりにもおかしいので

我が家でお世話になっているお寺さんに
お経をあげていただいたりしたのですが
信心深くないからなのか、
これといった効果が無く。

その後に知合い経由で
霊能者の方にも来ていただいて
横柄だし、あやしいなと思いつつも
凄い修行をされたらしいので

除霊?をしてもらったのですが
大袈裟だったわりには
何の変化もなかったです。
お金もすごく大袈裟で残念でした。

そうこうしている内に年数が経ち
すっかり諦めていたところ
先月、知人から先生を紹介されました。

これまでの経験もありますから
何も変わらないだろうし、
横柄だったら嫌だなとは思いつつも
話し半分のつもりで来ていただきました。

実際に先生にお会いしてみたら
とても物腰が柔らかい方で安心しました。




先生はご挨拶もほどほどに
早々に家の中を見渡して
淡々と何か霊に話しかけている感じでした。

優しく私達に話しかけて下さりながら
仰々しい儀式みたいな事をすることもなく
ただ何か話し掛けているだけなんですね。

そして、30分もしない内に
先生がお声を掛けて下さいました。

先生から終わりましたよと
教えていただくその少し前から
主人と顔を見合わせていたのですが、
悪臭がしなくなっていたんです。

その後、今何をしたのかというのと
私達がこれから気を付けていかなくては
いけない点などを先生はすごく丁寧に
わかりやすく教えて下さいました。

悪霊祓いよりも解説の方が
ずっと長かったのですが、

お話が面白かったのと
心から納得することが出来たので
全然苦ではなかったです。

怪音の方もその日の夜から消えて
なんと言いますか、これまでの不快さが
まるで夢だったかの様な変わりようで
嬉しい以外の言葉が出て来ませんでした。

先生はとても気さくでお人柄も素敵で
お話はすごくためになりました。
我が家はすっかり先生のファンです。
本当にありがとうございました。

Mさん
ご感想ありがとう
ございました。
お話をした点に
気を付けて
過ごすんやで^^

2026年7月11日土曜日

いつも話しているのは予防策(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




力の源を考えた事がありますか。
自身が動いたり考えたりする為の
根源となる部分の事です。

使命感や義務感、危機感など
縷々様々なものがあるのですが、

結局のところ掘り下げていくと
想念に辿り着きます。
想いと念の事ですね。

プラスに起因する部分の思考や動きは
想いが要因となり、
マイナスに起因する部分の思考や動きは
念が要因となります。

この時に意識の方向も一緒に考えるのが
大切になってきます。

何故かと云うと、
特に想いは「相手との双方向」が
基本となるためです。

にも拘らず、
その原理原則を破ってしまって
念を想いと誤認する事が多いからですね。

意識の方向が周りへと向いているのか
それとも自身へと向いているのか

外側なのか内側なのか
これをセットで考える事が重要です。
いつもお話をしている
「何のために」「誰のために」です。

念を基礎として使う力の場合は、
双方向である意味がありません。
自身から相手への一方通行です。

その代表的なものが「恨み」ですね。
それを意図的に濃縮して使うと
「呪い」となります。




だいぶ前にも一度お話をしましたが、
本当の呪いと云うのは
さして難しいものではないです。

大なり小なり発動させるメカニズムは
単純極まりないものです。

但し、その根源にはあるものを利用します。
何かと云うと、「思い遣り」等の想いです。

念を源とした力を使うという事は、
意識の方向が内側へと向きます。
この時に、想いを軸としている部分の代物が
1つ1つ失われていきます。

その代表格が「思い遣り」や「優しさ」です。

思い遣りや優しさは自身の中に蓄積されています。
これらを消費する事で、念に属する力を使います。

この恐ろしいところは、
一度失った想いというのを再度手にする事が
非常に難しいという点になります。

何故なら、想いを失うという事は
周りからの信を失うという事だからです。

それを再構築させる為には、
ゼロスタートどころかマイナススタートで
リスポーンしないといけません。

つまり、何もかもが無い状態で
今の俗欲と過去の俗欲に打ち勝ちながら
やり直さないといけないという意味なのですね。

この苦痛は想像を絶するものなので、
大抵の場合は途中で楽を求めて堕落します。

それまで楽をしまくってきた感覚も
残っていてそこに在るのですから
その誘惑にずっと苛まれ続ける事でもあります。

念の力はあんまし
使わん方が
ええんやで

2026年7月10日金曜日

経験の濃い失敗を好こう(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰にでも嬉しい事というのがあります。
その中の一つに「成果」があります。

何かをやり遂げた形
と、いう意味の言葉ですが、

ここには最終結果だけでなく
途上段階に於ける
中間的な結果も含まれます。

どうしても、
最終的な結果を皆さん追い求めガチですが、
スピリチュアル的な物事のみならず
そればかりを考えてしまうと

途中にある重要な内容を
気付かないで通り過ぎてしまう様な事に
繋がってしまいます。

答えも大切ですが、
その答えを導き出すための計算式は
もっと重要です。

単に答えが合っていれば
それだけで善いなんて事は
世の中では意外と少ないものなのです。

出した答えよりも
それまでの考え方の方に目を向ける。

答えだけを見詰める様になってしまうと、
それが一体どんな経緯で
どういう流れに沿ってどんな考え方で
導き出されたものなのか

省みる事すらやらなくなってしまいます。




競争心に駆られて手早い成功に拘るあまり、
途中の段階を疎かにするのは
次へ繋がる最善策をまるで考えない
というのと同じ話です。

先に繋げるという事は、
過去の失敗を受入れてその失敗から学び
対策を練るという事です。

但し、それは「成功」に固執していては
狙いどころが変わってしまうので、
当初目的からは大きく掛け離れてしまいます。

たった1つの成功よりも
100の失敗の方がその分の経験を
積む事が出来るのですから価値は大きいです。

ここでの経験の一つ一つこそが
「成果」に外なりません。

合っている合っていないだけでの
判断材料のみでは
失敗はゴミ同然の扱いを受けるだけで

何が原因で失敗したのか考察すらせずに
また次への歩を進めてしまいます。
それは更なる失敗を産む要因となって
降り掛かってきます。

その失敗は反省も無しに繰り返すと
失敗自体のサイズも肥大化していき
周りへの負の影響力ままた増大していきます。

小さい幸せが寄せ集まって大きい幸せへと
変化していく流れと同じで、

集まっていくのは「念」ですから、
それ相応の恨みを蓄積していく話となります。
必然的に嬉しい事とは
掛け離れた結果となってしまうのです。

失敗はゴミではなく、
要素が足りていないだけであって

悔しかったり哀しかったりはするけれども、
形を変えた「成果の一つ」なのですね。

大きい答えばかりを求めていては
成果が手元に遣ってくる事はありません。
そこをよく考えて
日頃から動きを意識していく事が重要です。

変な拘りを持って
思考回路を
偏らせても
善い結果なんぞ
生まれては
来ないんやで

2026年7月5日日曜日

幸せを掴む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




皆さん毎日の生活を頑張りながら
一生懸命に努力されていると思いますが、

一体何が幸せで、
そもそも幸せと云うのは何なのか。

と、考えた事が一度くらいは
あるのではないでしょうか。

「幸せ」と云うものは
個人単位でも変わりますし、
その個人の集まりたる社会によっても
大きく変わってきます。

例に挙げると、
マクロな目線で云えば
我が国と他国の幸せって違いますよね。

ミクロになると、
貴方と隣人の幸せも違いますよね。

それらがある種の目的や目標、
何かしらの一致点が発生した時に
共通認識としての「幸せ」へと変わります。

つまり、幸せというのは
基本的には「個人単位」という事なのです。

貴方が「幸せ」だと
認識している物事やその実感があったとしても

その認識がそっくりそのまま貴方以外の人に
無条件で通用する事は決してありません。

何かしらの条件が重なった場合にのみ、
幸せの共感が作用するのです。

お金かも知れないし、仕事かも知れないし、
好きという感情かも知れないし、
単に社会的地位かも知れないし、
通念上の価値観かも知れないし。

通念上の価値観というのは、
「みんながやっているから幸せ」みたいな
自己の認識よりも
他者の認識に合わせる価値観の事です。

パートナー(彼、彼女、夫、妻)が居るとか
人より早く結婚して見下したいとか、
同様に負けたくないとか、見返したいとか、

宗教観的な価値観や各種団体的な価値観、
日本代表を応援する的なあの感覚。
一部の人間にしか通用しないアレです。

これらが通念上の価値観です。

この様に幸せの条件など
何がどこで作用するのかなんて
全く理解出来るものでもないのです。




つまり、
幸せと云うのは自身で検討決断して
「自律的共感」をすることは是だとしても、

他者の押し付けによる「他決的共有」では有得ない。
と、いう事になります。

幸せのサイズの大小を問わず、
如何に自分自身の判断で
その幸せの本質を理解する事が出来るか。

他者の助言や導きは「きっかけ」として
得る事はあったとしても、
自身の意志による取捨選択が出来るか。

自己意思の介在しない幸福は、
「幸せ」ではない。と、認識出来るかどうか。

言い換えればですが、
そこに自己意思が介在しているならば
全てが「幸せ足り得る」と、云う事になります。

これがどういう事かと云うと
例えば、

貴方は「貧乏神になる事は幸せではない」と、
考えていたとしても、
貧乏神の人は自己意思を介在させて
そうなっているのですから

「貧乏神である事こそが幸せである」
と、考える方が自然なのですね。

現世へ生れ落ちる大義の云々は別として、
自己意思での選択結果がその道であるならば

その志を尊重するのもまた
想いの行使であり奉仕の精神の一つとなるのです。

仮に貴方が努力をして、
友人知人や家族等の相手に対して
貧乏神への道を絶たせようとしたところで、
その相手が自己意志を介して拒絶の選択をしたら

それが相手にとっての「幸せ」に過ぎないのです。

意思表示した先に於ける貴方側の問答などは、
全て想いの行使ではなく「押し付け」です。
早い話が、余計なお世話なのですね。

貴方が現世を一生懸命に生きて浄土を目指すのは、
浄土に向かう事が貴方にとっての幸せに過ぎず、

貧乏神にとっては地獄へ赴く事が幸せなのです。

ならば、
努力の結果として無力だったのであれば
押し付けでは無く引導や餞別を渡してあげる事が、
奉仕の精神の完遂に結び付くのですね。

これは非常に苦しい選択ですが、
想いの行使はどんな場合でも痛みが伴います。

「想い」や「慈しみ」とは、
相手が素直に受け取っていて初めて機能する代物です。

そこを誤認しないように織り進めていくのが
本来のスピリチュアルのなのですから。

大義に於ける
善し悪しではなく
個々に於ける
自己意志を視る
幸せの種別を
最終的に決めるのは
その人なんやで

2026年7月4日土曜日

完璧主義の思考形態(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




日常の中にほんの少しで良いので
変化を付けてみましょう。

同じ様な動きの中でも、
僅かな違いを設けるだけで
ルーティン化は避ける事が出来ます。

ですが、
そのわずかな違いや少しの変化ですら、
気軽に設けられないタイプの人も
存在するのですね。

その人達が陥ってるのが
「完璧主義」です。

「ちゃんとやらないといけない」
「間違える事は悪」

これが完璧主義の基礎部分です。

ちなみにですが、
その基礎に沿っていたとしても、

それが単に事前に調べるとか
知識を得るというものであって
そのレベルで留まる事が出来るのであれば、
完璧主義にはなる事はありません。

何もかもパーフェクトに拘るのだから
完璧主義な訳です。

しかし、悲しいかなその反動で
完璧を目指すあまり
冒険というものを拒絶する様になります。

つまり、
「失敗を恐れる様になる」

極度なまでに失敗を恐れるから、
安全パイを狙う様になる。
この段階で、完璧には程遠いという事に
当の本人は気が付きません。

安全パイを狙うあまり、
小さい変化すら恐れる様になる。

その小さい変化はとても簡単で
誰でも可能なことだと
頭では理解をしていても、

やらない理由、やれない理由を
別に探し始めて言い訳で塗り固める。

その言い訳の中で、
自身が原因だとは決して言えないので、
人や物に縋る様になる。

何故かと云うと、
失敗した時に文句を付けるためです。

自分は悪くない。
あれが悪いこれが悪いと、
さっきまで縋ってきた存在を悪と断じて
それらの所為にして自身の不出来を隠すのです。

そういった思考形態を是としている結果、
冒頭でお話をした様な少しの変化すら
自身で設ける事が出来ない。

どんなに小さな失敗でも
恐くて怖くて仕方がないから、
いつも同じ動きや同じ考え方に頼って
どこまでも「楽」をする様になるのです。




そして、
それが「楽」だと分かっていながら
周りから断じられるのも怖いので、

努力をしている人と同じ事を
自身もやっているのだと
見様見真似の虚勢を張る様になるのですね。

けれど、その虚勢はまさに虚ろなものですし、
その本質などは理解をしていないし
しようともしていない。

そういう状況だから、

益々立場や社会的なステータスに頼った
物言いをしてくる様になる。
完璧主義の人がやたらと上から目線だったり

お殿様気質、お姫様気質なのはこの為です。

何をどう云う風に装っても
ハリボテの作り物となってしまうのが
完璧主義の恐ろしいところです。

また、その依存性はとても高く、
脱するにはそれ相応の苦痛が必要です。

何をすれば良いのかは難しくありません。
小さな変化を設けるところから始めれば良い。

ですがね、いくらハリボテとは言え
自身のアイデンティティーとして
それまで維持してきた部分を否定する訳ですから、
一筋縄ではいかないのですね。

これとは逆に
苦しみや悲しみ、辛さなどに対して

幼少期から向き合ってきた人達や、
今この瞬間や直近でそういった経験をして
人の想いに触れる事が出来た人達からすれば、
何にも難しくない事だとしても、

完璧主義の人にしてみたら
超高難度の挑戦となるのです。

なので、生暖かい目で見守りましょう。

     ではなくて

ガンガンに叱咤激励してあげないと
いけないのですよ。

これまでクソほど楽をしてきた訳ですし、
直ぐに楽へ逃避する癖があるのですから
その悪癖を上書きしてあげないと
完璧主義からの脱却は難しいのです。

「優しさを履き違えずに厳しさを出す」

苦痛に対して真摯に向き合ってきた
貴方達ならば優しさとして出来る筈です。

他者に対しても、自身に対してもね。

心苦しくも
叱った後に
潰れてしまうのは
貴方が原因ではなくて
相手の勝手です。
真摯に向き合わない
相手がバカなだけやで