今回は動き方について
お話をしたいと思います。
家族、知人友人、職場、業務関係者、
日頃からコミュニケーションを取る為に
貴方はあの手この手で
悪戦苦闘している事と思います。
以前より話をしている通り、
コミュニケーションの基本であり
究極系は「会話」です。
単に言葉を交わすのが
「会話」ではありません。
そこに気持ちをしっかり乗せて
遣り取りをするのが「会話」。
その気持ちというのは、
想いでもあり念でもあります。
この手の話をすると
善い事ばかりを考える人や
無理にでもそちらへ結び付けようと
教え広める人が結構多いので
どうしても偏りがちなものでもあります。
実際のところ、「会話」というのは
想念の交錯がとても激しいです。
一瞬にして纏まることもあれば
爆散することもありますよね。
その時に、どうしても言葉のチョイスを
念頭に入れた成功や失敗を
考えてしまいますが、
実のところ、想いが入っていたか
念が入っていたか、
それらを意識していたかどうか
と、いうのが問題だったりします。
確かに、言葉のチョイスは必要です。
明らかに場違いな言葉を選定すれば
気分を害する人だっていますし、
大っぴらに誤解や勘違いを
招いてしまう危険性も出て来ます。
けれど、如何に適正な言葉を選ぼうとも
そこに気持ち、想いや念が乗っていなければ
会話としては意味を成さないのですね。
例え、眼の前で聴いていたとしても
スッと自身の中に入ってこないのです。
そして、その逆も然りです。
幾ら頑張っても相手に受け入れる器や
その気概が無ければ全く届かないのですね。
受け容れない訳ですから。
想いや念というのは
目に視えたり視えなかったりと
不確実性の高いものではありますが、
意外な部分で、
はたとその存在が視えたりします。
その一つが「抑揚」です。
こんな経験ありませんか。
会話ではないですけど、歌を聞いてる時に
音程も音階もバッチリなのに、
内容が全然入ってこなくて
感動もクソも無く聞くに堪えないという経験。
いわゆる満点の筈なのに良くないってやつです。
単に正しければ良いという訳でも無く、
揃っていればいいという訳でも無い。
そこに「気持ち」というのが乗っていないから
雑音にしか聴こえないのですね。
会話も同じです。
そこに「想い」や「念」が乗っているから
相手にも届くし自分にも響く。
ただ言っていますというだけでは
何も思わないでしょ。
当然、相手に届かせたいのであれば
努力が必要になりますが、
「相手次第」という不可分性もあります。
どんなに努力をしたとしても
相手の器が矮小だったり、
そもそも閉ざして塞いでいれば届きませんし
何も響きません。
それでも努力をする事が必要ですし、
自身に至っても理解する努力が必須となります。
そこで確実に視えている筈なのに
視えなくさせてしまっている本質と中身。
魂を宿らせているのかいないのか。
そこを意識して動く事が大切ですからね。
言葉も会話も
これを理解すれば
形だけの思い遣りも
隠れた自分本位も
純朴な想いも
見抜けるものなんやで


