2025年6月6日金曜日

闇の領域(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




向こうの世界、
とりわけ霊界に於いて

善い所は「浄土」
怖い所は「地獄」

と、位置付けられています。
ここで言う闇の領域は「地獄」です。

(地獄の先にも又はその手前にも
闇の領域が存在しているのを、
僕と直接話をした事のある方々は
御周知の通りだと存じていますが
ここでの解説は割愛しますね)

では、この闇の領域という面ですが、
我々のいる「現世」には
存在するのか否か。

結論から言いますと、
領域としては存在しません。

但し、向こうの世界に於ける
闇の領域へ堕ちてしまう側面は
存在しています。

それが、「念」です。

念というのは今更ですが
「想い」の対となるものです。

「恨み」とも形容できますね。




念というのは基本的に
自分本位などの俗欲を中心とした
思考を基として形成されるものです。

この、「念」の発生数や発生率、
抱える量や誰かに飛ばす総量が
多ければ多いほど、

「貧乏神」という形態へと変貌します。

この貧乏神と呼ばれる形態となって
死を迎えてしまうと

概ね100%の確率で
地獄かその先へ行く事が確定します。

闇の領域へと堕ちるという事です。

ですので、現世に領域としての
闇のエリアは存在していないですが、

いずれ闇の領域へ向かう事の出来る
単体としては、存在しているのです。

そして、これは一切の例外無く
現世の存在の誰しもが持ち得ているものです。

人だけではなく全ての存在です。

向こうの世界の闇の領域は
皆さんの想像以上に過酷な場所ですし、
間違ってもおススメは出来ません。

地獄堕ちを避ける為にも
日頃から俗欲を制御して
念の力場の生成を極力抑える等の努力をして
前向きに生きてほしいなと切に思います。

自分は大丈夫など
間違っても
思える事では
ないんやで

2025年6月2日月曜日

ユメユメ蓄縮タルナカレ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




普段の生活を当たり前に過ごしていると
その一瞬一瞬の

「価値」

と、いうのを
人はとても軽んじてしまいます。

いつも同じで何も変わらないと、
勝手に解釈をしてしまうから

その場の時間もただ過ごすだけで
そこに在する「価値」を見出そうとしない。

一分一秒先の将来でさえ
何も保障されているものでは
ないのにも関わらずです。

結果、
危機感の欠如を招いてしまい
自身の本気度を著しく低下させるから

一毛不抜な動きをしてしまったりして
大切な事を伝えられないどころか

二度と逢えなくなったりしてしまう。

そうなっては元も子もないです。
どんな時でも常に全力で愉しんで
出し惜しむ事無く時間を使う。




今、貴方の隣にいる人が
数分先にも存在するとは限らないのです。

例え、存在そのものが消えなくても
怪我や病気などで
逢えなくなる可能性は幾つもありますよね。

それは貴方側の場合かも知れません。

特に何も問題なく会えるのであれば
可能な限り話をして
全力で意思を伝える努力をする。

何かの助言やアドバイスを
聴きたい場合も同様ですし、
それを教える側も同様です。

そこで黙って手を拱いていても
何一つ変わりはしないですし、
寧ろチャンスは減る一方です。

自身の本気度を高めないと
思い遣りなんぞ遥か遠くのものですし、

ましてや、想いの力場の構築などは
到底出来るものではありません。

貴方のその脚も手も思考も
全ては前に向かう為にあるのですから、

今という「時」に甘えすぎないで
臆する事無く自身から踏み出さなければ

耐え難き辛さを味わいますからね。
勇を用いましょう。

堕情という
俗欲に溺れると
一生の後悔を
身に纏う事に
なるんやで

2025年5月31日土曜日

生きている存在を視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




霊を視るのに必須な事として

「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」

の、3項目があります。
この中で何かと軽視し易いのが

「生きている存在を視る」です。

霊を視たり感知するのに
どうしても死者の事ばかりを
考えてしまう人が多いですが、

死者は元々「生者」なのですよ。

動き方も考え方も
狭間の世界の住人であれば、
必ず生きていた時の状態を踏襲します。

また、死者と生者の最大の違いは

「肉体を纏っているか否か」です。

霊を感知したいからと言って
見えぬ者を無理に見ようとしても
それは却って盲目になるだけです。

それよりも眼前の生者に対して
注力をすれば気付く点も多くなるので、
視認率は格段に上がります。




人で例えると、
人=霊で霊=人です。
つまり、「生者=死者」と、言えます。

この単純な概念を忘れているから、
人は恐ろしい程に
「生者を軽視」してしまいます。

それが故に、
見た目や言動のみに流されて
肝心の「本質」を見抜けない。

ここで示している本質というのが、
皆さんが「気付き」と呼んでいる点です。

見ている様で視ていない。
聞いてる様で聴いていない。

これらを如何に減少させるか。
その為に必要となってくるのが、

「生きている存在を視る」

と、いう根本的な動きなのですね。

例えば、
眼の前に居るご家族を視て
どれだけの情報を得ていますか。

日々ちょっとした変化や
違いが起きている事に気付いていますか。

その御家族にはペットの犬猫なども
含んでいるのですけど、どうですか。

単一目線、単一行動で済ませていると
気付きという名の情報は
ほぼ入ってきません。




単調な言葉や単一な視覚では
得られない情報の中に
視えざる存在を感知するのに必要な

「本質」が詰まっています。

それらを補完させるのが、
前回記載した五感であり
以前にお話をした万物への認識なのです。

生きている存在を「視る」事で
物理的に情報を得る感度を高めて
上記の必須要素と併せて相互補完をする。

幻想逃避な霊感なるものに頼っても
ほぼほぼ視えないのは

現実的な情報取得の手段に
重きを置いていないからに過ぎません。

ちなみにですが、

生きている存在を軽視したままで
視えてくる霊は
それを「是」としている者のみです。

つまり、悪霊などだけになりますので、
加護する存在などに触れ得るには
程遠いものとなりますからね。

これ読んで
くらくらしたり
眠くなったり
頭痛がでたら
すまんやで

2025年5月25日日曜日

五感を研ぎ澄ませる(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




霊を視るのに必須な事として

「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」

の、3項目があります。
この中で理解に乏しくなるのが

「五感の研ぎ澄ませ」です。

僕と話をした事がない方は、
霊を視るのに霊感が必要だと
認識されていると思います。

ハッキリしておきますが、
霊感などという感覚は存在しません。

と、言いますか、
元来誰でも持ち得ている感覚なので
敢えて「霊感」という言葉を設けて
特別化させる必要が無いのです。

そこに何かを感じ取れるのは、

「視・聴・嗅・味・触」

この五つの延長線上の感覚でしかなく
全てはこの五つに起因します。




霊を感じ取る際に
どんな言い方をしていたところで
起因すべき初手の感は五感です。

「何かが視えた」
「何かが聴こえた」
「何かが匂ってきた」
「妙な味がした」
「何かに触れた」

これらがきっかけになりますよね。
いや、何かを感じたんだと思う方も
居るでしょうが、

その“何か”はどうして分かったんですか。

冷静に思考すれば理解出来ますが、
その“何か”とは後手なのです。
その前の初手が必ず存在する。

つまり、その“何か”を認識する前に
いずれかの五感が反応して
貴方に感覚として得させているのですね。

そこを追究せずに放置した状態で
由としているから「五感」に対する認識が
ピンと来ないのです。

これを「怠惰」と、言います。

自分の感覚なのに謎にしておいたまま
正しく霊を視るのは難しいです。

そのままでは必ず自身の俗欲に流されて
事実認識が出来ずに幻想へ逃避します。

それでは貧乏神へ堕ちてしまうので
根幹を成している五感を研ぎ澄ませて
初手の感覚を正しく得るのが必須なのです。




五感を研ぎ澄ませると言うと、
何か瞑想的なものを
想像されるかと思います。

然しながら、
必要なのはそこではありません。
もっと単純で良いのです。

「自分が何をしているのか」
「自分が何を感知したのか」

これらを一つ一つ認識する
その努力を維持継続すればいい。

人は高性能センサーである五感を
恐ろしいほど大体で使用しています。

おまけに感知したものを謎のままとするから
記憶にも残らずに既知の知識ともならない。
そんな状態なので
「霊感」という幻想に逃避する。

例え、目に映らない存在であっても、
何かしらの痕跡を必ず遺すのですから

それらを分析解析出来る五感を
日頃から可能な限り
養ってあげれば良いのです。

「謎を謎のままにしておかない」

という努力の事ですね。

いくら瞑想をしようが滝に打たれようが
普段の感覚がバカになっているならば
その場のハリボテで満足して終了です。




「いつ、何が、どこで、
誰が、何故に、どうして」

事ある毎に五感を基にしてこれらを追究する。
その先にあるのは何かというと、

「自身の感覚を信じ切る」

と、いう最も必要な心情です。

霊を視るというのは、
五感つまり肉体で得た情報を
幽体にダウンロードして視るのです。

そこには「信に徹する」という
絶対的な要素が必要になります。

何故かと言うと、
肉体があるからこそダウンロード時に
俗欲が邪魔をするからです。

当たっているかどうかなどの俗欲ですね。

これを払拭するには
圧倒的な知識と経験が必要なのです。

そして、それは普段の生活の中で
如何様にも向上させる事が可能です。
その中枢にあるのが我々の持つ

「五感」なのですね。

ですから、五感を研ぎ澄ませる事が
霊を視る事に必須な条件となるのです。

これ読んで
くらくらしたり
眠くなったり
頭痛がでたら
すまんやで

2025年5月21日水曜日

想い無き狂言師の独謡(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人を信じると言っても
なかなか難しいものです。

信じたのに上手くいかなかったとか
裏切られたとか。

言いたい事は山ほどあるでしょうし
云わんとしている事も理解は出来ますが、
それは信じたのではなく

「信じているフリ」を、

していただけだから失敗をしたのです。
貴方が信じる以前に、

貴方は信じてもらえる様な
「振る舞い」や「業」をしていたのか。

そこが抜け落ちているのですから
上手くいきようがありません。
ですから、「フリ」なのですね。
この思考回路を「自分本位」と言います。




こうして話すと分かるのですが、

「自分も信じている」
ではなくて
「自分が信じているのに」

で、留まっています。
つまり、最初から最後まで
自身のみで完結してしまっているのです。

そこに「相手から」や「相手の為」という
想いが全く存在しておらず、

この時の「相手」とは、
ただ自身を正当化させる為だけの存在として
扱っているに過ぎません。

それなのに、
相手から信じてもらえないもクソも無いのは
火を見るよりも明らかですね。

信じるのであれば、
まずは信じてもらえる業を心掛ける。

相手の為に
相手を信じ切る努力をする。

この想いを軸に据えた動きが出来なければ
人を信じるのは高難度のままですからね。

これは相手が
人じゃなくても
同じ論理で
成り立つんやで