皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
日常の中、個々人単位で
何かを考える時に、
一つの目安となるのが
「数や数値」です。
この時に、選定の基準として
多い方を選んでみたり、
はたまた、自分自身が
多数に向かって邁進してみたりと、
何かにつけて数に翻弄されます。
これが、
「数の魔力」です。
どうしても、「多数は正義」
と、いう風潮がありますので
ある程度は仕方ないのですが、
そこに自身の意識を向けすぎると
俗欲に埋没してしまう結果と
なってしまいます。
かと言って、中身の無い少数へと
何かを委ねなさい
「少数こそが正義」という様な
阿保らしい極論ではないです。
大切なのは、
数に惑わされずに
「本質を見極める」
と、いう点となります。
数での解釈は社会を円滑に進める上で、
とても合理的な手法です。
然しながら、
思考停止を誘う面もあるので
非常に危ういのも事実です。
何でもかんでも多数に頼り過ぎると
物事を検証したり、分析したり、
早い話が
自分なりに思考するという
手間を掛けない様になっていきます。
つまり、完全なる思考停止路線へと
進んでいきますので、
馬鹿になるという事です。
物事や事象の目安としての
多数などは重要となりますが、
本質を見極める思考を失っては
元も子もありません。
これから先の世界は、
ほぼ間違いなく質が重視される方向へと
進んでいきます。
スピリチュアル業界もまた
例外ではなくて、
教える人や導く人のみならず
教わる人や付いてくる人の
「クオリティ」が間違いなく
問われていくと思います。
この時に数の魔力や
俗欲の制御に対する理解度が
低いままであれば、
話し手も受け手も貧乏神化が
進行していき、
過去と同じ結果となって
眉唾から解放されずに終わります。
この哀しき流れを打破出来るのは
想いの遣り取りに目を向けた業
要は、
「クオリティ」のみとなります。
タイミングも
重要やが
広める手法の
本質を理解せな
あかんで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
例えば、
急いでいる時や焦っている時、
揉めている時やカチンと来た時、
朝の清々しさや雨の日の寂しさ、
日常生活の中では様々な場面で
感情を揺さぶられる事があります。
この時に、自身の感情が
激流の如き流れに変化して
貴方の中で渦を巻きます。
これを「激情」と、言います。
この激情ですが、
果たして本当に貴方の生み出した
感情なのでしょうか。
結論から言いますと、
実際には、周りの存在からの
影響を受けて作り上げられた
自分以外の感情だと
言いきれてしまいます。
自身が何かしらの感情を
芽吹かせる時というのは、
原則的に
「外側からの事後取得」
と、なります。
貴方が何かを見聞きしたから
そこに感情を芽吹かせて
激情へと変貌させるからです。
それまでの感情から、
極端に変化させてしまうので
「激情」という事なのですね。
その外側からの影響、
つまり問題点そのものを
しっかりと見極められれば、
そもそも激情化自体は
避けられるものなのです。
無闇矢鱈と原因も理解せずに
「落ち着け落ち着け」
「抑えろ抑えろ」
「キレるな」
「冷静に」
と、やったところで
激情そのものの湧きどころを
目視してもいなければ、
その原因が自身には無関係
という事自体を理解してないので、
セルフマネジメントなど
出来る由も無いのです。
問題点の見極め、
つまるところ
「よく考える」を
如何に実行するかが、
メンタルマネジメントの
基本となりますし、
「運気の維持の原理原則」
と、なりますからね。
していると
驚く程に
流されるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
何か辛い事があった時や
疲れてしまった時などに
自分を整えるという意味合いで
好きな事をしたり、
リラクゼーションに励んだりする
皆さんその様な動きをした事が
あるのではないでしょうか。
この様な、
心身をリラックスさせたり
気持ちの高揚をさせたり
澄ませる動きをする事を
「清浄化(しょうじょうか)」
と、言います。
清め洗い流すという意味なのですが、
この時に意識すべき事の一つに
「透明度」
と、言うものがあります。
何の透明度かと言いますと、
簡単に表すならば「心」です。
よく世間で言い表わされている
「心を無にする」とか
「感情を無にする」
というよりは
字の如くなのですが、
「心を透き通らせる」
と、いうイメージです。
実際には何をしているのかと言えば
透明度を増加させる事で、
俗欲を一時的に減衰させて
半ば強制的に向こうの世界へ
幽体を触れさせている感じです。
ここでの向こうの世界とは
浄土とかではなく、狭間となります。
その為のイメージと言いますか
コツみたいなものになりますが、
心をイメージさせるというよりかは
「肉体を透明にさせる」
「肉体の質量を限りなく無くす」
という様なイメージをすると
非常にやり易いです。
幽体の話なので、
どうしても心や感情にイメージや
意識を向けがちですが、
それらは元から
目に映るものではないので
却ってイメージがし難いのですね。
それであるならば、肉体の方が
普段から目にしてますから
逆にイメージをし易いのです。
上手くやれると、
質量を忘れた様な感覚を覚えます。
その後は物凄くリラックス出来ますから
お手軽ですしお薦めですよ。
ポンポン
湧いてきたりも
するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
世の中は完全完璧ではないですが、
漫然とその考えが蔓延っています。
所謂、完璧主義ですね。
人は不完全であるが故に
完全たる存在や事象を目指します。
その中で、
自身や万物の不完全を認めて
常に考え続け、
一人一人一つ一つの答えを
求め続ける事に現世の意義はあります。
完璧を目指す事そのものは
決して悪ではありません。
誰しもスタートはそこにありますからね。
憧れや希望、願望という類の感情は
総て完璧を主眼に置いた感情です。
これが無ければ始まらないので、
完璧自体は悪ではないのです。
ところが、この「完璧」という幻想に
溺れ過ぎてしまうと、たちどころに人は
動く事が出来なくなります。
その中枢にあるのが
「思考停止」です。
考えるのを止めるという意味ですが、
これは自身から率先して
思考停止する人も居れば、
思考停止状態へ誘う人も多いです。
人は、思考を停止すると
周辺の存在の意思に流される様になります。
それはまるで
操り人形の様相だと形容しても
過言ではない状態です。
誰かが何かをいい様にしたい時、
決まってそのターゲットたる人を
思考停止へと誘います。
ビジネス然り、犯罪然り、
勧誘然り、社会通念然り、
縷々様々な場面でこれは使われます。
本来であるならば、
自身の意思を以って判断すべき点を
自分以外の存在の意思に委ねてしまう。
その流れに身を任せてしまう。
考えさせずに盲信させてしまえば、
言いなりに出来てしまいますからね。
スピ業界などはその最たるもので、
元来では一人一人の思考を
率先して潤滑させる為のものが
スピリチュアルであるにも関わらず、
善くなりたいという
人の「俗欲」に漬け込んで
逆に、思考停止へと誘い込み
物を売りつけたり、
過剰な金銭を支払わせたりする。
まともな意思であるならば、
現状以上に考えさせる様に
導く事はあっても、
思考を停止させる様な真似を
誘因する事は決してありません。
何故ならそれは、
悪霊や生霊や貧乏神の手口と
全く同じでもあるからです。
これらの存在は、
ターゲットの霊体に対して
直接干渉を施して、思考停止へと誘い
やがて死へと歩ませます。
それが如何に歪で悍ましい行為かを
知っている者であれば、
必ず阻止に務めるものなのです。
人が意思を自ら捨てる様にさえしなければ
騙されたり、徒に不幸へ堕ちる事など
決して起こり得ませんからね。
よく視て
よく聴いて
判断するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人は自身が痛みを知らないと
それが如何に大変なのかを
他者と共感する事が出来ません。
身体的な痛み然り、
心の痛み然りです。
また、個々人で
痛みに対する耐性も異なります。
ほんの少しのチクッとする注射を
この世の終わりと言わんばかりの
痛みと形容する人も居れば、
10針を無麻酔で縫合する様な
人も居たりします。
心の痛みについても同様ですね。
特に心の痛みに関しては、
本当の痛みを経験して知っていないと
まず共感する事が難しいです。
痛みを知る者からすると
共感を得たいと考えますが、
実際のところそれはナンセンスです。
知らないものを体験は出来ませんし、
体験談を通じて話を見聞きしたとしても
他人事には変わりないので、
「そういうものなのか...」
と、いう程度で終わります。
また、非現実の話題を出して
疑似的な体験をさせようとしても、
これもやはり他人事ですし
一過性の物となりますので、
共感までには至りません。
つまり、
経験者が分かってもらおう
分からそうとしても、
相手にその受け皿的経験が
存在しなければ、
それは決して叶う事が無いのです。
それであるならば、
理解を得ようと感情論に
任せるのではなく
「意思を伝える」
と、いう点に特化させる事の方が
明らかに効果は出ます。
体験を理解させるのではなく、
知識として記憶させるのです。
その為には、感情論ではなく
冷静な理論が必要となります。
それには、
非現実的なフィクションや
ファンタジーなどではなく
圧倒的に現実的な話の方が有効です。
状況にオブラートを被せずに
そのままを伝える勇気も必要です。
それほどまでに人は、
他者の痛みに関する事に対しては
無知蒙昧を晒している生き物です。
あくまでも現実の中で
現実的な話を伝える。
日々の生活の中で、
ファンタジーに逃避しても
何一つ改善されないですよね。
本来のスピリチュアルというのは、
現実の中でこそ
活かされるものです。
実戦型スピリチュアルであり
攻撃型スピリチュアルというものだと
忘れない様にしなければなりません。
非現実に逃げても
何一つスピ的には
成就出来ないんやで