皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
物事や事象は一つではありません。
必ず複数跨ってそこには存在します。
その複数の事象や物事を
簡易的に捉えてしまうのは
僕らが無意識に思考の単純化をさせて
端的な認識で良いと判断しているからです。
早い話が楽してる。
五感は常にそこにあります。
なのに、一番楽な感覚を優先的に使用して
勝手に自己判断をしてしまうのですね。
だが、実際にはその他の感覚も
使っている訳です。
その、残りの五感である
「その他の感覚」に
目線を当ててあげるだけで
視える世界は変わります。
視覚を優先的に使っているのであれば
聴覚・嗅覚・味覚・触覚に
意識を合わせる努力をする。
聴覚優先の場合ならば
視覚・嗅覚・味覚・触覚に
こういう意識の使い方をする事で
見えるから「視える」へと
聞こえるから「聴こえる」へと
変化するのです。
この変化の中心にあるのが
「本質」です。
思考させない
騙す人ってのは
それをやるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
何かの物事を捉える時、
人はどうしても一極型となりがちです。
その最たる点が感覚面でして、
これに関しては依存と呼称しても
遜色無いのではないかと云う程、
偏りがちになってしまいます。
例えば、写真などを観た際に
視覚情報としてそこに入っているであろう
美しさや撮影者や被写体の感情は
捉える事が出来たとしても、
そこに確実に存在する他の感覚を
思考せずに終わってしまいます。
五感で云うところの
視覚以外の4つです。
その部分に対して、
意図的に感覚を合わせる若しくは
仮説を唱えて後々に立証していく。
この動き方が
本来のスピリチュアルで教えている
「本質の見抜き方」の基礎となります。
写真からは伝わって来ない
「匂い」や「臭い」
「温度」や「空気感」「味」など
これらを出来るだけ
仮説として自分の中で作り上げていく。
それには経験という
知識や情報が必須であり、
それらを基にして自身の認知力や理解力、
想像力をフル動員させていく必要があります。
この中には語彙力などの表現力も
当然に含まれます。
そうして自身の中で作り上げた仮説を
忘れない様にしながら
事ある毎に立証を重ねていく。
こうする事によって、
複合的で客観的な視点が出来上がり
視野が物凄く拡がっていくのです。
1つしか見えていない物事や事象が
1つではなく2つ3つと
複数になって視えてくるのです。
1つの物事や事象を
1つだけと認識してしまうと
その奥に潜んでいる若しくは
潜ませてある本質へと到達する前に
欺瞞や疑知に溢れている
思惑に飲み込まれてしまい、
貴方自身の思考が他者に弄られてしまいます。
そうならない様にする為の
視点の作り方が奥行きの見方なのです。
この動き方習得の
練習でもあるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
不思議なもので、
人は幸せだとその実感を
得ようとしません。
逆に、不幸であると認識している時は
幸せを着飾ったり
不幸自慢をしたりなど
真逆の方向へと自身を進めます。
幸せなら幸せだと
ハッキリ言えばいい。
何で幸せなのかも言えば良い。
個的思考であればそれが可能です。
幸せを感じている内容が多ではなく、
あくまでも自身でありますから
厭味なくこれが可能となります。
ですが、多的思考の場合ですと、
物質的価値が標準値となりますので
周りの目線や意図を気にします。
物質的価値とは、早い話が
“金”“地位”“権力”ですね。
ここに固執している間は
幸せを幸せだとはハッキリ言えない。
いつでも敵だらけの状態ですからね。
けれども、幸せを享受させるには
その幸せをハッキリと話せる事が
1つの達成点となります。
周りには無価値でも
自身にとっては幸せだと言い切れる事。
これを信じ切れる状態、
信に徹している状態となれるかが
鍵となるのです。
この視点で理解をしてみると
自身の幸せを聞いて小馬鹿にする人が
如何に堕ちているのか
念、俗欲に溺れているのかが分かります。
心や感情を司るのは幽体です。
幽体が狭小化したり
狭隘状態となっていると
肉体の動きは鈍くなり、
果ては霊体萎縮が起きてしまいます。
その流れを作ってしまうのが
念や俗欲へと溺れる事、
つまり念基軸状態です。
例えば、
「何の問題も無く五体満足=幸せ」
となるのか、逆に
「五体不満足=不幸」
となるのか
自身の思考が個的なのか多的なのかで
その中身は全てが変わります。
自身の価値基準を他に当て嵌めようと
必死になるからおかしくなるのです。
自分は自分、他者は他者です。
「私は動けて幸せです」
「私は動けないですが幸せです」
これを当たり前の状態として
笑顔で会話が出来るのが
個的思考同士の世界。
個的思考は多的思考の意図を理解出来ますが
多的思考は個的思考の意図を
理解しようとしません。
理解出来ないのではなく
理解しようとしない。
この思考の絶対数が逆転して
個>多となった時がフェーズ4の世界です。
己の幸せの実感を
共感は出来ても共有は不可能である。
それを正面から認識する事が
個的思考の基礎となります。
書いているんやで
個的思考は
そこの理解が
肝なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
想いを主軸とした動きを行います。
これが所謂「徳積み」です。
徳積みは「善きな事」「善行」と
捉えがちですが、
それで合っています。
但し、俗に言う善行とは
少し違いまして、
善行を行っている際の意識は
何処へ向かっているのか
を、しっかりと考えなくてはいけません。
ただ単にやるのは善行ではあっても
業ではないという意味ですね。
(陰徳陽徳の関係性)
その後、何らかの結果が出ます。
結果が出た際、
そのままにしておいたり
己惚れてしまったりするのではなく、
しっかりと自戒をする。
要は反省ですね。
ここでのポイントは、
失敗したから反省ではなくて
成功をしても反省をする事です。
あくまでも自戒です。
自身を戒める事が必須となります。
その結果、修正点や変更点、
改訂すべき事項が見えてくると同時に
客観的視点という独特の目線が
持てる様になってきます。
また、反省に至る際も
己の俗欲を満たす為なのか
それとも想いの為なのかを
芯に問い続ける事が大切です。
そして、また次へと繋げていき、
ここに時間軸という座標を組み込んだのが
「正の螺旋」です。
想念やスピリチュアルにも
時間の概念を組み込まないといけません。
僕らは現世に生きているのですから、
これは必須であり絶対です。
この座標を組み込まずに
空間や思想だけで捉えてしまうから
整合性が脆弱化しているのです。
本来のスピリチュアルでは
ここを教えています。
時間を座標に入れなければ、
それはループとなりサークルに過ぎません。
ですが、実際にループというのは
存在し得ません。
100%同じ事って起きないでしょ。
固体別に捉えても何もかもが
違うのですから。
で、このサイクルに時間の軸を
座標として加えると、
進行方向への推進力が生まれます。
これを二次元化させると
サークル(円)ではなくて
スパイラルになる
つまり、螺旋です。
こういう思考回路の構築が
本来のスピリチュアルで教えている
本質であり皆さんが理解して
ステップアップに必要な
領域の超越の基礎となります。
簡単に考え過ぎない
分かった振りが
最低で最悪やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
皆さん想いや念について
日頃から考えたり意識したりと
頑張っていると思います。
以前にインスタのストーリーズにて
幸せの基準について
何だろうねと問い掛けました。
幸せの基準というのは、
念想を「満たす」という事です。
想い若しくは念のどちらかを
貴方を満たす事が幸せの基準となります。
但し、どちらを満たすのかは
その時の貴方がどちらの基軸に
重きを置いているかで決まります。
想い基軸なのか念基軸なのか
そして、どちらの基軸も
相互関係にありますので
貴方には同時に存在しています。
その上で、今この瞬間に
どちらの基軸に
バランスが傾いているのかで
貴方の幸せの基準は決まります。
想い基軸の方へ傾いていれば
「想い」を満たす事で幸せを感じられ
念基軸の方へ傾いていれば
「念」を満たさないと
幸せは感じられません。
ここを対物で満たそうとしても
幸せを得る事は困難且つ苦痛です。
「想い基軸なのに念で満たそうとする」
「念基軸なのに想いで満たそうとする」
こういう事ですね。
例えば、
念基軸の人がどんなに想いに該当する
業を取っていたとしても、
その本質の理解が困難な状態及び
限りなく密度と純度が低いですから
満たす以前に枯渇してしまいます。
同様の流れが想い基軸でも
逆の要素で発生します。
ここを打破させる為には、
基軸そのものを変えないといけません。
わざわざ想い基軸から念基軸へと
自ら偏らせたい人は居ないと思いますが、
どちらも同様の変化が必要となり
その基軸変化を発生させるのが
「正の螺旋」と「負の螺旋」への理解です。
想い基軸への変化は
意図しないと無理
せやから
メカニズムを知る
必要があるんやで