皆さんこんにちは、あにきです^^
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に何かを話す際に単語の羅列で
済まそうとしてしまう人が居ます。
先月投稿したこの記事でも
触れましたが、
内容の説明を端折りつつ
それっぽい話をする。
適切簡潔に伝えるという
ビジネス会話を連想しがちですが、
実際はそうではなくて
単に説明をしていないだけであり
内容については話していないので
中身がありません。
何故その手の話し方をしてしまうのか。
内容の理解をするよりも
自分を理解してほしいという"願望"が
より強く出てしまうからです。
そして、
物事には相互作用が発生しますので
話すと同時に、聞くという動きが生じます。
つまり、内容の説明を端折る人は、
「相手の話をしっかりと聞けない」
という相互性も生まれます。
簡潔に済ませてほしい
手早く終わらせてほしい
要点だけ教えてほしい
ざっくり言うとこういった具合です。
また、自分の意見以外は認めたくない、
意に反する話や、非を認めたくない場合は
物理的に聞きたくないという行為を
無理矢理発動させる事もあります。
これを「遮断」と、言います。
話す場合にしろ聞く場合にしろ、
自分本位が軸となってしまうと
こういった流れの動き方となります。
これらの動きが指し示すのは、
「会話」という重要な業を
自身から放棄しているという点です。
自分からも言わなければ
相手の話も聞かない聞けない。
どちらにも共通しているのが
「自分の事だけは認めてほしい」
「理解してほしい」
という俗欲です。
同じ様な意味合いで、褒め言葉も存在します。
具体的に内容を褒めるのではなく
「賞賛する単語のみを羅列する」
という話し方です。
「何がどうでこういう点が素敵なものを
ありがとうございます。」
ではなくて、
「素敵なものをありがとうございます。」
所謂取って付けた感じの定型文ですね。
ビジネス的な意味合いですとか
簡易な挨拶文でしたら罷り通りますが、
自身の中で脚を向けられない程の
相手さんとかには決して使えないものです。
これを平気で多用してしまうのも、
自分本位が軸となってしまっている人に
よくある話し方です。
その上でこのタイプの人はこう言います、
「褒めたのに理解してもらえなかった」
当然ですね。
200%300%理解などされません。
説明を怠っている訳ですから。
逆ギレも甚だしい限りです。
思い遣りという単語の常習使用が
多いというのも特徴の一つです。
思い遣りというのは、
単語を発して示すものではなくて
動きで表わす「業」そのものです。
単語を発している内は、
思い遣り自体を発動はさせていません。
何故ならば、
言わずして自然に行う事が
本来あるべき思い遣りだからです。
言葉にして行うのは
思い遣りではなく「恩売り」です。
また、相手を基礎として行うのが
思い遣りなのですが、
それを自身を基礎として行うが故に、
こういった単語の羅列が発生するのですね。
つまりは、
自分本位が軸となっている形です。
周りのため相手のためという
本来のスピリチュアルに於ける
基本的概念を軸にした考え方や動き方を
日頃から行っていると凄まじく疲れますが、
上述してきた動き方を目にした際に、
非常に大きな違和感を覚えます。
これが「見極め」であり
対外的な「気付き」の一つです。
するほどに
視えてしまうのが
本性なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
暮れも差し迫り
あと4時間ばかしで新年です。
スピリチュアル関係が
お好きな方々からすると、
「来年はこんな年になる」
「こういう事が起きるでしょう」
みたいな台詞を
期待されているかも知れませんが、
ここを見ていても
そんな台詞は一切出て来ませんから
ご安心下さい。
来年に何があるかなんて
世間的な範囲でだろうが
個人的な範囲であろうが、
ぶっちゃけどうでもいいです。
そういうのを考える事自体が
間違っているのですから。
大切なのは、
何が起きても生きる事。
生きる為に何をすれば良いのか。
生きる為のスキルを身に付けること。
そもそも論で、
どんな規模の出来事であろうとも
起こるべくして起こります。
理由はどうあれ、
起こるべくして起きるのです。
また、嫌な事がありませんようにと
安直に願い縋る人が多いですが、
嫌な事が起きないと
次のステップへは進めない
と、いうのが現実ですからね。
善い事ばかりを簡単に願う。
どんな善いこともね、
「生きる」という事に比べたら
とても小さい事なのですよ。
糞味噌な善い事を願うのも
自身にとって都合の悪い事を
全て悪しき事として避けたいのも
どちらも出処は自分本位であり
俗欲、つまり念そのものです。
そういう風にしているから
何処まで行っても満たされない。
そんなだから、
また翌年も同じ様な事を願い媚ながら
クソッタレな時間を過ごす羽目になる。
この寂れた羅列、
この負の螺旋から抜け出る為には
「何のため」
「誰のため」
「相手のため」
「周りのため」
と、いうのを常に思考し行動する
業(おこない)を重ねていくしかないのです。
大晦日というのは
1年最後の日でもありますが、
新年へ繋がる日でもあります。
来るべき新たな年へ向けて
志を強く、器を大きくさせる様に
今一度改めて
自身へ問いかけてみましょうね。
簡便安易な願いを秘めたり
見てくれ重視な優しさを出すよりも
相手の機微をしっかりと受け止められる。
そういう器量の広さを持てる様に
来年も努力をしていきましょう。
思うかもだけどね
暮れだからこそ
こういう話が
出来ないと
いけないんだよ
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
まもなく今年も終わろうとしています。
皆さんにとっての2025年は
どんな一年でしたか。
様々な考えや想いが詰まった
365日であり
8760時間だったと思いますし、
一瞬一瞬を大切にして
過ごす事が出来ましたか。
無理をせずに頑張り、
明るく愉しく元気よく日々を過ごす。
至極当然の様に聴こえますが、
決して当たり前ではない日々。
そんな中を過ごしてきて
思い返す事はどれだけありましたか。
僕はというと
ブログに関する事で言えば、
去年の今時分に一つの目標を定めて
1年間ここを書いて来ました。
「一ヶ月に最低10投稿」
非常に地味ですが、
僕にとってはハードな目標でした。
内容のクオリティを下げる事無く
投稿数を増やせるか。
どこまでも「皆さんのために」を
意識して貫いて書き綴る事が出来るか。
過去3年間どうしても途中途中で
投稿数を減らしてしまう月があったり、
安定的でない部分が多かったので
それを打破させるための
自分に課した目標設定でもありました。
結果として
12ヶ月通じて目標は無事完遂。
完走しきった達成感と
自戒すべき点を得たので、
今後に繋げるべきある種の
可能性を見出す事も出来ました。
どこまでもひっそりとした
地道な努力ではありましたが、
そこから得られる重要性を
改めて肌身で感じた1年でありました。
いちいち宣言はしなくとも
どんなに地味であろうとも
不断の努力が成す形というのが
必ず存在するものです。
来るべき新しい1年へ向けて
皆さんは一体何を想い、
何を形とするべく努力を
日々の業を定めていきますか。
という時空を
しっかりと意識して
1つに限らず
目標を定める
上手く出来ても
出来なくても
やり抜く努力が
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
この現世には色んな人が居ます。
同じ国で同じ地域で、
同じ言葉を使って
同じ様な仕事をしていたり
同じ様な環境に置かれていても
皆それぞれ全てが違っており、
基本的には共感も共有も
何もかもが出来ないというのが
この現世なのですね。
そういったバラバラな存在である
我々を繋ぎ留めているのが、
社会通念や一般常識といった
規範や文化などです。
ですが、
それは表立っているだけのもので
これらのみですと人というのを
この厳しい現実の中で繋ぎ留めたり
人同士での共感を得たりするのは、
非常に困難なものとなります。
実際に、社会通念や一般常識には
個々人に於ける
「性格」や「認識」「理解」
というのは、
反映されませんからね。
では、
人同士を実際に繋ぎ留めているのは
何なのでしょうか。
それが「想い」や「念」といった
想念となります。
想いを使う人は想いを使う人と
念を纏う人は念を纏う人と
類は友を呼んだり
同じ穴の狢であったり
言い方は様々ですが、
同じ類という部分での想念が
個々人を繋ぎ留めているのですね。
そこには
表面上のみの思い遣りもあれば
卑屈な意地汚さもあります。
然しながら、
本当の繋がりというのは
この二種ではないのです。
これではどちらも念であり
本当の想いとは言えないのですね。
では、何をどうすれば良いのか。
実際に大切になってくるのは、
想念への理解力です。
想いも念も理解する。
その為に努力をする事が出来る、
相手との違いを理解する事が出来る力。
規範や文化を上手く利用しつつ、
他者との
コンセンサス(一致)を求めるのではなく
置かれている
コンテクスト(状況・背景)を理解する。
その為に自身の基準で
カテゴライズ(選別)をしない。
多数協調性を保持はしつつも
個別による共感の困難さを知る。
こうして生まれるのが
想いにも念にも偏らない
フラットに矛盾を理解し使える
ニュートラルな第三の選択肢である
「想念を理解する人」となります。
想念を理解する人は想念を理解する人と
繋がる事が可能です。
本当の思い遣りというのは、
ここから生じます。
言葉の上だけでの「思い遣り」に
うんざりしている人というのは、
ここへの架け橋が掛けられている状態です。
個別の違いを
認めるんやで
貴方の正義も
対岸から見れば
悪と成り得ます
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
誰にでもの話ですが、
「善い自分」
「駄目な自分」
を持ち合わせています。
これは単純な
長所短所の分類ではなくて
自分の中に存在する
想い基軸を中心とした部分
念基軸を中心とした部分
これらの俗称の様なもので、
切っても切れない関係性のものです。
この善い自分と駄目な自分を
上手く制御する事が
運気の向上と維持には不可欠です。
ですが、人とは面白いもので
善い自分や駄目な自分と
聞いてしまうと、
どうしても善い方を優先的に捉えたり
慮る様な行動を執り始めます。
ここがまた一つの落とし穴なのですね。
どうして善い自分を優先的にするのか。
そこを思慮しないといけません。
善い自分ばかりを
前面に押し出そうとするのは、
駄目な自分を隠したり
自分自身からも見えなくさせるため
と、いう様な
言い換えをする事も出来ます。
そして、そういった時の自分は
果たして想い基軸なのか念基軸なのか。
善い自分を出していたとしても
それを蹶起させた部分は
(駄目な自分を)見せたくないとか
見たくないという「俗欲」なのですね。
という事は、
善い自分を出しているつもりが
念基軸の状態となりますから、
これの中身は駄目な自分に他ならないのです。
善い自分と駄目な自分
想い基軸と念基軸というのは、
常に表裏一体の相互関係にあります。
その上で、どちらにも化けるという
擬態性も持ち合わせています。
物凄くステルス性が高いのですね。
こういった特性があるので、
善い自分ばかりを前面に出していても
良くなどならないし寧ろ、
悪化する理由がここにあるのですね。
重要なのは両方に目を向けること。
善い自分も駄目な自分も
どちらも自分という事を理解する事。
善い自分に偏らせたところで
それは利己的思考に基く動きでであり
念基軸を礎とするものですから、
業にはならないのです。
一方的な御利益を求めて
お参りに行くようなものと同じです。
神さん仏さんはそれら念基軸を無視しますが
悪霊生霊は喜んで寄ってきます。
大切なのは
常に「ニュートラル」であること。
善い自分を押し出すのでもなく
駄目な自分を抑えるのでもない
フラットに視ながら
どちらも制御して動かす。
ニュートラルを意識した動きをすると
自然とこの動きが出来る様になります。
この捉え方が日頃の業に繋がっていくのです。
「Nに目覚めろ」
出してあげる事も
運気の向上と
維持には
必要なんやで