皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
この現世には色んな人が居ます。
同じ国で同じ地域で、
同じ言葉を使って
同じ様な仕事をしていたり
同じ様な環境に置かれていても
皆それぞれ全てが違っており、
基本的には共感も共有も
何もかもが出来ないというのが
この現世なのですね。
そういったバラバラな存在である
我々を繋ぎ留めているのが、
社会通念や一般常識といった
規範や文化などです。
ですが、
それは表立っているだけのもので
これらのみですと人というのを
この厳しい現実の中で繋ぎ留めたり
人同士での共感を得たりするのは、
非常に困難なものとなります。
実際に、社会通念や一般常識には
個々人に於ける
「性格」や「認識」「理解」
というのは、
反映されませんからね。
では、
人同士を実際に繋ぎ留めているのは
何なのでしょうか。
それが「想い」や「念」といった
想念となります。
想いを使う人は想いを使う人と
念を纏う人は念を纏う人と
類は友を呼んだり
同じ穴の狢であったり
言い方は様々ですが、
同じ類という部分での想念が
個々人を繋ぎ留めているのですね。
そこには
表面上のみの思い遣りもあれば
卑屈な意地汚さもあります。
然しながら、
本当の繋がりというのは
この二種ではないのです。
これではどちらも念であり
本当の想いとは言えないのですね。
では、何をどうすれば良いのか。
実際に大切になってくるのは、
想念への理解力です。
想いも念も理解する。
その為に努力をする事が出来る、
相手との違いを理解する事が出来る力。
規範や文化を上手く利用しつつ、
他者との
コンセンサス(一致)を求めるのではなく
置かれている
コンテクスト(状況・背景)を理解する。
その為に自身の基準で
カテゴライズ(選別)をしない。
多数協調性を保持はしつつも
個別による共感の困難さを知る。
こうして生まれるのが
想いにも念にも偏らない
フラットに矛盾を理解し使える
ニュートラルな第三の選択肢である
「想念を理解する人」となります。
想念を理解する人は想念を理解する人と
繋がる事が可能です。
本当の思い遣りというのは、
ここから生じます。
言葉の上だけでの「思い遣り」に
うんざりしている人というのは、
ここへの架け橋が掛けられている状態です。
個別の違いを
認めるんやで
貴方の正義も
対岸から見れば
悪と成り得ます
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
誰にでもの話ですが、
「善い自分」
「駄目な自分」
を持ち合わせています。
これは単純な
長所短所の分類ではなくて
自分の中に存在する
想い基軸を中心とした部分
念基軸を中心とした部分
これらの俗称の様なもので、
切っても切れない関係性のものです。
この善い自分と駄目な自分を
上手く制御する事が
運気の向上と維持には不可欠です。
ですが、人とは面白いもので
善い自分や駄目な自分と
聞いてしまうと、
どうしても善い方を優先的に捉えたり
慮る様な行動を執り始めます。
ここがまた一つの落とし穴なのですね。
どうして善い自分を優先的にするのか。
そこを思慮しないといけません。
善い自分ばかりを
前面に押し出そうとするのは、
駄目な自分を隠したり
自分自身からも見えなくさせるため
と、いう様な
言い換えをする事も出来ます。
そして、そういった時の自分は
果たして想い基軸なのか念基軸なのか。
善い自分を出していたとしても
それを蹶起させた部分は
(駄目な自分を)見せたくないとか
見たくないという「俗欲」なのですね。
という事は、
善い自分を出しているつもりが
念基軸の状態となりますから、
これの中身は駄目な自分に他ならないのです。
善い自分と駄目な自分
想い基軸と念基軸というのは、
常に表裏一体の相互関係にあります。
その上で、どちらにも化けるという
擬態性も持ち合わせています。
物凄くステルス性が高いのですね。
こういった特性があるので、
善い自分ばかりを前面に出していても
良くなどならないし寧ろ、
悪化する理由がここにあるのですね。
重要なのは両方に目を向けること。
善い自分も駄目な自分も
どちらも自分という事を理解する事。
善い自分に偏らせたところで
それは利己的思考に基く動きでであり
念基軸を礎とするものですから、
業にはならないのです。
一方的な御利益を求めて
お参りに行くようなものと同じです。
神さん仏さんはそれら念基軸を無視しますが
悪霊生霊は喜んで寄ってきます。
大切なのは
常に「ニュートラル」であること。
善い自分を押し出すのでもなく
駄目な自分を抑えるのでもない
フラットに視ながら
どちらも制御して動かす。
ニュートラルを意識した動きをすると
自然とこの動きが出来る様になります。
この捉え方が日頃の業に繋がっていくのです。
「Nに目覚めろ」
出してあげる事も
運気の向上と
維持には
必要なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分を優先させて考えたり
動いたりする。
本来のスピリチュアルで云うところの
自分本位の事を指しますが、
この自己優先というのは
非常に分かり難い
落とし穴を生じさせます。
どの様な落とし穴かと言うと、
「自分では気付けなくなる」
と、いうポイントです。
通常、何かをしている時や
自分の考えや動きというのは
一定の間隔でチェックをしています。
自身の状態や
何をしているのか
何を考えているのか
これで良いのか悪いのかなど
事ある毎に実はチェックを
しているのが我々なのですね。
ましてや、こうして
本来のスピリチュアルに触れていると
余計にその点を意識する様になります。
然しながら、
そんな状態であったとしても
自己を優先させる状態や
状況が続いてくると、
段々とチェックをしなくなるのです。
と、言いますか、
反作用的な思考が増えてきます。
簡単に云うなら
「言い訳」や
「DD(でも・だって)」
の、多用や乱発です。
この二つが明確に増えてくるタイミングが
1つの指標となります。
セルフチェックが薄れてくる
ボーダーラインです。
これだけの説明ですと
意外と分かり易い感じに思えますが、
実際は非常に分かり難いです。
何故か。
ここで云う「言い訳」というのは、
周りからの指摘に対する言い訳も
含みますが、
自身の考えや動きに対する
言い訳の方が多くなるからです。
どういう事かと言うと。
通常の言い訳は整合性の無い反論
とも取れる内容なので、
凄く分かり易いです。
しかし、
この自身に対する言い訳というのは、
整合性が無いのではなく
逆に「ある」のですね。
ポジティブな思考や行動と
捉える事が出来てしまう内容なのです。
つまり、まともなのです。
では、
どうしてそれが言い訳となるのか。
答え自体は簡単でして、
「目的に沿っているか否か」
なのですね。
目的に遵じている内容であれば
それは言い訳とはなりません。
ですが、どんなに善い内容だとしても
目的を逸脱しているならば
それは言い訳となってしまいます。
ここのボーダーラインの判別が
非常に難しいのです。
言葉で例えるなら、
「無理をする」のと「頑張る」の
違いを適確に明示する感じです。
ここの中心核にあるのが
「目的」です。
目的を忘れなければこの線引きは
簡単なものとなります。
けれども、それは平時の話。
実際に思考し動くとなると、
そこには結果と言う名の見た目と
それに伴う新たな努力という
前向きな思考が発生します。
その前向きな思考や行動は
決して悪いモノではないですが、
意識下より目的を忘失してしまうと
途端に俗欲へと変貌します。
この自身内での駆け引きが
知らぬ間に自分本位へと繋がっていく。
例え努力であったとしても、
「何のために誰のために」
という目的を失えば
それは自分本位でしかないのです。
そうなってくると
自分自身で戻るのは困難になります。
真面目な性格で、前向きな思考の人ほど
陥り易い落とし穴です。
なので、貴方が考え動く際には
常に覚えて確認をしましょう。
「この行動の目的は何だ」と。
傾けなくなるのが
ボーダー越えの
恐ろしさなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
巷で囁かれている「気付き」が、
非常に現実離れしている
まやかしだというのは、
既に周知の事実です。
気付きというのは、
言うは易く行うは難しを
地で行く様な業ですから、
とても簡単とは言い難い内容です。
けれども、
誰でも出来るしいつでも出来る。
そのポイントポイントに
視点を当てられるか。
自分を中心としたスフィアの中で
如何に感度を向上させられるか。
ミクロだけでなく
マクロの部分も含むし、
目に写る部分だけでなく
視えない部分も含むし、
自分がそこに居なくても
時間と空間を越えた場にも
気付くべき点は含まれる。
そんな超高度で高難度な業が
本来のスピリチュアルで
教えている気付きですね。
高難度の業になればなるほど、
普段気に掛けない身近な点について
目を向けないとなりません。
その一つが「よろこび」です。
身近な場所には
色んな「よろこび」があります。
動けるよろこび
話せるよろこび
触れるよろこび
信じるよろこび
こういった「よろこび」は
どこにでもありますし
誰だって体験していますし
今この瞬間にだって起きている。
言われれば「あぁ...」とは、なるけれど
言われたところで
実感は全く湧かない。
気付かないどころか、
当たり前過ぎてその価値すらをも
スルーしていますよね。
ここに自動で気付く時というのは、
その真逆の状態となった時です。
動けなくなった時
話せなくなった時
触れられなくなった時
信じられなくなった時
病気や怪我や五体不満足等の
極端な状況や状態を
想像する必要はありません。
寧ろ、
それを想像すると分からなくなるし
思考停止に陥ります。
そうではなくて、
身近な事なのだから
想像も身近な事でないといけません。
例えば、加齢や軽い捻挫とかでも
普段よりも動けなくはなりますよね。
話していた相手が遠くへ行けば
話せなくなりますよね。
触れ得る相手が居なくなれば
触れられないですし、
自身が信じるのを辞めれば
信じられる事も同時に無くなります。
こういう事は、今この瞬間にも
唐突に起こりえる状況です。
つまり、貴方の中にある当たり前は
全く以て当たり前ではなく
今この瞬間に、たまたま
「出来ているだけ」
と、いう状態なのです。
本当はガラス細工の如き壊れ易さなのに
意識もせずに無条件でやれてしまうから、
そこの価値やよろこびをも無視をしてしまう。
貴方が「無視」をしている時に
一体「何を」優先させているのかを考えれば
この気付きの大切さや意味が分かるのですよ。
さて、何を優先させているのでしょうね。
分かったとしても
聞かない内は仮説やで
聞くのが面倒ならば
貴方にとっては
その程度の話って事や
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「頑張れる人」と「頑張れない人」
と、いうのがあります。
読んで字の如くとはなるのですが、
少々内容が深いです。
ここで示す
頑張れる頑張れないと云うのは
努力の形を意味します。
例えば、
頑張れる人というのは、
自身で思考して努力を出来る人。
このタイプの人は、
周りが黙っていても自身を奮い立たせて
様々な形で努力をする事が出来ます。
また、必ずではないにしても
自身の責任というのを理解しているので
潔さも持ち合わせています。
但し、
努力する方向が間違っていたとしても
猛進邁進するという特徴も存在しますので、
簡単に自己の意見を変えられない等の
頑固さが強く出たり、
慎重になり過ぎるが故に、
先行した動きや新たな思考に適用する為の
時間を多分に要する悪癖や
責任感の高さから発生する
心的ストレスを負い易いといった面も多いです。
現実的思考が中心となり
幻想を好み、決して嫌いではないが
現実というものを理解出来るので
幻想へは逃げない考え方を持ちます。
頑張れない人というのは、
他者の指示や思考に則った形での
努力が出来る人。
このタイプの人は、
他者からの引立てや圧力を得る事によって
一定の努力をする事が出来ます。
1つの目標や目的、
大衆意識に則った思惑などに対しては
漫然と突き進んでいける様な力があり、
自己意識を抑えているので
柔軟性は高いのですが、
その高すぎる柔軟性の結果
周りの意見に迎合は出来ても
自己の意見をそもそも持てなかったり、
変更の判断や意思決定が自前で出来ない等
必ず他者の指示や意見、
物や見えない存在の力に頼ろうとする様な
風見鶏的思考の特徴が強く出ます。
また、
自己意思が希薄であるが故に
責任感への理解や慎重さを軽視してしまう
という傾向が強く、
それまで頼っていた存在ですら
容易に捨ててしまうので、言い訳をしたり
人や物の所為にする癖が顕著に出ます。
理想的思考が中心となり
幻想を好み得ています。
現実は理解する事が出来ますが、
綺麗事や幻想へ逃げ易くなります。
頑張れる人、頑張れない人という
思考回路の造りを
大枠で説明するとこうなります。
また、同じ人だとしても
部分部分や場面場面によって
両方の特徴が入れ替わる事もありますが、
軸的な部分は概ね固定化されています。
あくまでも思考回路の造りですので
善悪の判断をここでする事は
不可能となります。
また、性格についても同様で、
ここからの反映は確かに存在しますが
どちらかと云うと
当人が在する環境やそれまでの人生経験や
輪廻の回数、霊格の高さなどの方が
色濃く影響を与えるものなので、
やはり、
ここのみで判断するのは不可能と考えます。
然しながら、
個々人に対する運気の向上や
維持という観点については、
対象を見極めなくてはならない箇所となります。
本来のスピリチュアルに於いて
運気とは自身で創り上げるものです。
その維持もまた同様ですね。
自身の考え方や動き方と相反する対象と
動を一にしていれば、不必要な齟齬や
永遠の不理解や不共感が発生し、
負の螺旋への動きへと繋がり易くなります。
ですので、適切な距離を得る為に
自身も含めたこのポイントを抑えて
見極めていく必要があるのです。
全てが同一の
距離感には
ならない事も
また事実なんやで