皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
生活の中で、
おいそれとは口にしないけれども
縷々様々な悩みを
抱えている人は多いです。
僕がよく聴く悩みの中で
上位に位置しているのが
身内の問題です。
「いびり」とか
「たかり」とか
「嫁姑」とか
「謂れなき難癖」とか
身内だからこそ起きやすく、
身内だからこそ対処に困る。
ご家族に相談をしてみても
話が平行線で終わる事など当たり前ですし、
自分は何も悪くないのに
気が付いたら悪の権化みたいな扱いに
なってしまう事もあります。
これが、職場とかであれば
辞めるとか辞めさせるみたいな
パワープレイが可能なのですが、
身内の場合というのは
そう簡単には辞められません。
ましてや、身内であるが故に
時間も何も関係無しに
どこまでも責め立てられてしまう。
そんな中、この手の問題を
一般論で解決しようとすると
必ず出てくる綺麗事が
「普通にしていれば大丈夫」
「すぐに飽きるから平気」
「正しい人が最後は勝つから我慢」
みたいな台詞です。
ハッキリ言いますが、
そんなやり方で解決なんか出来ないですし
四六時中責め立てられている様な
理不尽がまかり通っている中で、
普通にしていて解決なんかする訳ないと
少し考えれば分かる事なのですね。
虐められている人に対して、
「黙っていれば良い」と
言っているのと同じ愚行です。
言い換えれば、虐めている人の方の
肩を持つという事です。
そんなの筋が通らないでしょ。
そうこうしている内に、
責め立てられている人は
何かしらの異常を来して肉体的な疾病を患い、
その後確実にメンタル崩壊しますよ。
それだけは絶対に避けないといけないです。
参考までにですが、お肌に異常が出始めたら
それはメンタルの黄信号ですからね。
どんな場所にも貧乏神は存在します。
身内他人の別を問わずに存在します。
特に身内に存在する場合は、
先述した通り、他人の場合よりも
逃げ場が圧倒的に少ないのですから
「(日常的な)心の拠り所」と
「気持ちの吐き出し」と
「論理的に捉えた修整」というのが
常設的に必須となってくるのです。
拠り所と吐き出しというのは
何となく分かると思いますが、
「論理的に捉えた修整」というのは
イマイチ理解が難しいと思います。
これは何かと云うと、
どんな物事でも理不尽でも
必ず自分にも原因があるというのを
客観的に教えてもらってしっかりと理解をする
と、いう流れの総称です。
人は皆同じではなくて、皆違うのです。
貴方の基準が他者の基準とは
成り得ないのと同様に、
他者の基準が貴方の基準にも成り得ない。
貴方が善しとする事であっても
他者からすれば悪にも成り得る。
僕もこれが原因で
過去に虐めやハラスメントを経験しています。
そこの違いを論理的に理解する為に、
苦しんでいる御本人の過度な被害者意識や
綺麗事などを失くさせる。
これが修整です。
この一連の動きを身内の人が客観的に
行う事も不可能ではないですが、
大抵の場合は利害関係が生じてくるから
経験のある第三者でないと中々に難しい。
そして、この「論理的に捉えた修整」は
相手を許す為に行うのではありません。
徹底抗戦をする為に行うのです。
世の中はね、そんなに優しくないのですよ。
弱い奴を見れば叩きたくなるし、
弱気になればあっという間に潰される。
綺麗事もクソも無い状況に陥ってるのに
そんな悠長な事なんかしてられないでしょ。
貴方に何かがあったら、
困るのはお子さんやご家族なのですから。
現実で生きている以上は現実をちゃんと視て、
現実的な動きをする為の
実戦型アドバイスをするのが
本来のスピリチュアルです。
本当に助かりたいのであれば、
生温い一般論なんか
クソ喰らえってやつですよ。
通用せぇへん
知恵知識五感
あらゆるものを
総動員して覚悟決めての
総力戦やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
生き易さというのは
自分自身にとって都合よく動いたり
何かを都合よく動かす様なものではなく、
生きる苦しみというのを
理解する必要があります。
生きる苦しみ...
本来のスピリチュアルでは
意思の疎通と
そこに至るまでの流れそのものが
最も身近で最も大きい苦しみだと
都度話していますね。
相手に意思を伝える。
相手の意思を汲み取る。
思っている事、考えている事、
今の心情や抱えている気持ちなど、
言葉を介しているにも関わらず
意思そのままの100%を
伝え汲み取る事が難しい。
何度言っても分からない事もあれば、
分かったと思っていて
何も分かっていないなど、
肉体を得ているが故の
個々体に存する俗欲の固着が
いとも簡単に意思の伝達を阻害する。
そんな馬鹿なと思うのであれば
貴方の思っている事を
抱えている心情を
今その隣に居る相手へ
ネットワークの先に居る相手へ
伝えてみて下さい。
確実にその意思を伝えるのって
かなりの労苦を要する筈です。
この伝に務める苦しみを
相手と共感する事が生き易さには
必須な要素となってきます。
その苦しみの中で、
例え微々たる部分であっても
伝え汲み取る事が出来たり
出来てくるようになると、
相手との共感という形で
「想い」が形を成してきます。
これが基本的な「愉しみ」です。
これを分かち合う事こそが
生き易さへと繋がるのですね。
にも関わらず、
途中途中にある意思を伝える苦しみ
意思を汲み取る労苦から逃れ得たいと
楽に溺れるあまり、
自身にとって都合の良い解釈や
都合の良い言葉
都合の良い思考を選定して
相手を差し置いて行動をしてしまう。
ここで述べてる"楽"とは
"俗欲"を意味します。
これがご都合主義です。
眼の前にある現実から目を背け、
伝えられるという点に於いての
信に徹さない動き方がご都合主義。
この場合、その場凌ぎでの対応は
可能だったとしても、
その後に必ずリバウンドが生じます。
「伝わらない」「分からない」という
苦しみから逃れたいが為の妄言は
一時的な労苦からの解放は得られても
「相手のため」という触媒、
愉しみを得る為の華美なエッセンスを
消失してしまっており、
「全ては自分のため」という
禍愚な意思の下での動きですから、
そこには「想い」よりも
「念」が湧出するので
「恨み」となって
自身へと還元される訳です。
「想いを拠出し想いを得る」
この流れの中にあるのが
生き易さとなりますから
「念を排出し念が還る」という
負の螺旋に陥ってしまうご都合主義が
如何に生き易さと掛け離れているか
想像するのは容易い事だと思います。
それでもやってしまうのが
ご都合主義の恐い点であり、
自身の意志の弱さや駄目な自分を
知らねばならない点でもあります。
ご都合主義気味の思考が
染付いてしまっている貴方は
まずは大好きな「自分自身」から
一旦離れてみて下さい。
そして、自身の物差しで
相手を計る悪癖を辞めましょう。
貴方の基準は貴方にしか通用しません。
「相手のため」と口にしているのであれば
相手の基準に理解を示せる様な寛容性と
そこに至らしめる為の努力をしましょう。
自己優先、自分本位を支持したところで
得たい生き易さなどは
離別していくばかりですからね。
相手の基準へ
理解を示せ
互いの基準の隙間を
埋めるのではなく
縮める努力をするんや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
普段の会話の中で
人に何かを話したり伝えたりする際、
時系列を無視する人が居ます。
順を追って説明するよりも
「その場の感情」や
「自身の感情に流されてしまい」
まともな説明が出来ないという意味です。
物事には順序というものが存在していて
その流れに沿うからこそ
事象というものが成立するのですが、
その重要点を自身の感情等を軸として
ガッツリと無視してしまう。
例えば、
自分が可哀想な思いをした、
辛い思いをした、
ムカつく思いをした、
面白かった、
これらの感情を元手として
同意を得たい、共感してほしいという
気持ちが先走ってしまい、
いつ(when)という大切な要素を
どこかへ置き去ってしまう。
「仕事で失礼な事を言われたの
本当にムカつく」
みたいな会話があったとして、
これだけを聞くと当日中の話かと
思ってしまいますよね。
しかし、実際は数日前の話だったりする。
これが時系列の軽視。
おまけに、時系列を軽視すると
「前後の欠損」というオプションも
もれなく付いてきます。
何かというと、
先述した例えで失礼な事を言われた点。
ここの失礼な事というのが、
そもそも当人が発端であったりする。
早い話が、
自分が原因で自分がいけないのに
その汚点を見せたくないし
認めたくないが一心で
ムカつくという点に絞って、
相手の同意を誘って満足する。
という、一から十まで自分本位な行為。
つまり、時系列を軽視する人は
自分本位の比率が高い事が多いのです。
なので、老若男女問わずに人の話は
よく聴かないといけません。
文字であるならば、
よく視ないといけない。
そして、よく考えて
お返事をしてあげないと駄目です。
「それはいつの話で、誰と誰が居て
前後の状況を教えてくれないと
意見も言えなければ同意も出来ないよ」と。
また、自身の話をする際に
出来るだけ固有名詞を出す事が
相手に対して物凄く丁寧な対応となります。
「こういう人が居てね...」
ではなくて、
「〇〇さんという人が居てね...」
という感じの話し方です。
話す相手が分かり易い様に
人だけでなく固有名詞は
出来るだけ教えてあげる。
(相手のためという業ですね)
聞く側だった場合は、
単刀直入に名前を聞くのも大切です。
「それは誰さんなの」と。
話し手が言いたくない場合もありますが、
これは聞いてる側の権利ですから
気にせずに聞きましょう。
名前すらも言いたくないのか
名前を言うのが都合悪いのか
聞く事によって話し手側のスタンスが
透けて視えますからね。大切な事です。
これらを踏まえた上で
自身の周りで起きてる会話を
今一度、思い返してみましょう。
貴方自身が良い様に
利用されていたかも知れませんよ。
くだらん話に
付き合っているほど
無駄な時間は
無いんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
日々の生活に於いて
人との関係性というのは
どの点に至っても発生するものですが、
この中で思慮が出来る人と
出来ない人の違いというのがあり、
どことなく皆さんも
感じているのではないかと思います。
その中でもハタと忘れがちな点として
「立場」というのがあります。
これを考慮する事が出来ているか否かで
結構な違いが発生します。
例えば、
各種教える人は教わる人に対して
自身が得ている知識や経験則などから
物事について教えます。
その最中、教わる人にも
当然に意思というものが存在しますから
「なぜ」「どうして」
の様な疑問点が生まれてきます。
これは須らく正常なことですが、
問題はその後。
教える人からの解説を経て
納得をしたと同時に、
「そうかも知れませんね」
という様な、
未断定の意思表示をしてしまう方を
老若男女問わず散見する事があります。
納得をしていないのであれば
再度疑問を呈すれば良いのですが、
そうではなくて納得済みの上での
未断定という話です。
この台詞は、
教わる人の自信の無さから
表層に出てくる言葉でもありますが、
自身が教わる人であるという
「立場の考慮」が出来てない場合にも
出現する台詞でもあります。
教える人に対する「見下し」や
「非認定」ですね。
早い話が、自身の知識量では
補いきれない筈なのに
教える人と同等の立場だと
誤認識しているという意味合いです。
どんな物事でもそうですが、
「教える」「教わる」
という立場が発生する段階で
同等にはなり得ません。
立場を同等とするのであれば
教える人となった場合もしくは
「教える人に対して教える人」へと
自身が昇華した場合のみとなります。
一見すると、思慮をしているが故の
台詞だと認識してしまう内容ですね。
然しながら、これは真逆の内容で
思慮をしていないからこそ、
発生するのです。
では、どこに対して
思慮をしていないのかと言うと、
意識の方向が
全て内向きとなっているのですね。
簡単に云うと、
教える人に対して意識が向いておらず
自身の中での完結となっている。
という意味です。
詰まるところ、話をよく聴いてないから
別の考えをさも思考だと誤認している状態。
立場を考慮すれば、
意識の方向は自ずと決定します。
教える人が教わる人へと
想いを向けているのですから、
教わる人は教える人へと
想いを向けるのが定石となります。
これが「想いの遣り取り」です。
(相手のために向ける奉仕の精神)
そこのバランスを認識出来ていない段階で
思慮というのは達成しておらず、
自己優位や自己完結の状態と成り下がる。
これを「自分本位」と言います。
(自身の中でのみ纏まる独りよがり)
この様に、各種立場の考慮が出来ない人は
「よく聴いて」「よく考える」という
基本概念を失っていて
想いのバランスを認識出来ないのですから
思慮など到底不可能になる。
という事なのですね。
これは誰でもやりがちな事ですからね。
自分は大丈夫なんて思っていると、
既にやらかしている可能性が高いですよ。
自分の立場を考えて
話をせんと
想像以上に
手痛い竹箆返しを
喰らう事になるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
日頃から何かにつけて
「反省」をされていると思います。
自分を正の螺旋という流れへ
進ませる為にも必要な業ですし、
反省つまり「自戒」の事ですが
これをやらないと
何を正すのかが分からないですからね。
然しながら、
この反省という業ですが、
何を以てして反省なのかを
よく理解しないで使われる事が
多いのも確かです。
最も多いのが
反省という「単語のみの独り歩き」。
例えば、話の中などで出てくる
「私も反省しています...」
「あの人も反省しているのだから...」
みたいなやつですね。
反省という「単語」が
話の中で散見していますから
どことなく「反省している」様に感じますが、
聞く側がこれを真に受けると
確実に失敗します。
話す側にとっても「反省」という
単語のみの使い方をすると手痛い目に遭います。
事、本来のスピリチュアルという立場としての
話をさせて頂きますと、
元来の反省というのは
想いを軸とした「正の螺旋」に於ける業であって
反省に宿るのは「相手のため」という様な
想いに他なりません。
という事は、
もし、反省という「業」を会話の中で
使うのであれば
誰が(who)、何を(what)、
どこで(where)、なぜ(why)、
どれを(which)、どうして(how)、
という様な5W1Hに則して
反じて省みたその内容そのものを
当事者へ「詳細」に伝えなければ、
想いとしての機能は果たせません。
その逆として、
先述した様な「反省」という
「単語の独り歩き」をした場合はどうなるのか。
相手には「念」が伝わり、
相手からも「念」が返ってきます。
実際に、
「反省」をこの様な使い方をする場合は、
その当事者とは全く向き合わずに
「逃げの言葉」として使うパターンが主です。
(話をしたくない)
(そぶりを見せて誤魔化したい)
(自身の意見だけ通したい)
(そもそも面倒臭い)
(自分は悪くない)
こういった思考がメインの時に
使ってしまうのが、
「反省という単語の独り歩き」です。
ね、想いとは程遠い内容でしょ。
もし、本来のスピリチュアルを
理解している人や
理解する努力をされている人が、
会話の中で
反省という単語のみを耳にすると
確実に違和感を覚えます。
強烈な違和感を覚えるので、
その内容を必ず相手に尋ねたり
「詳細は」とか、「詳細を」とか、
何かしら相手さんがこちら側へ伝える為の
促しをしてくれる筈です。
何故かと言うと、
「よく視てよく聴いてよく考える」
と、いう実戦形式での行動原理に沿って
皆さんは動いている訳ですから、
反省というワードはただの「単語」であって
その内容を口にしてもらわないと
意味が無いというのを知っているからです。
その内容にこそ、
想いが詰まっているのだから
それを言葉や文章として伝えてほしいし、
伝えられる様に動いてあげようという
奉仕の精神に基いた動きとなりますから、
上記の様な促しをするのですね。
また、単語のみの使用は
「狡さ」という念を基とした動き
だというのも知っていますから、
確認の意味もあるのですね。
言うなればディフェンスラインです。
態々、率先して
念を受け取る必要はありませんからね。
どこか使い勝手の良い単語なので
安直に利用してしまいがちですが、
運気の維持や安泰安寧を望むのであれば
真摯に向き合って反省の内容を
述べた方が身の為ですからね。
覚えておきましょう。
「反省という業は、逃げの言葉ではない」
日頃の業なんやで