皆さんこんばんは、あにきです^^
今回は思い遣りについてです。
生きていると色んな所で
思い遣りを出したり受けたりします。
道を譲るとか、物を譲る、
順番を譲る、場所を譲る、声を掛ける、
教えてあげる、などなど...
多岐に渡ってその機会があるものです。
それは自分とて同じことで、
受ける側としても多々あるはずです。
けれど、それが無いという人もいます。
思い遣りを感じた事が無い人。
実際にそういう台詞を吐かれた事もあります。
では、どうしてそういう方は
思い遣りを感じた事がないのでしょうか?
単純に思い遣りを与えた事が無かったり
少なかったり、見返りを求めたり
しているからです。
それでは、どこまで行っても
思い遣りに遭遇する事はありませんし、
気付く事すらありません。
そして、そういう方の殆どが
思い遣りを受けているのに、
自分を優先させたいがあまりに、
反故にしているだけという事実。
なので、自分には還ってこない。
当然に"気付き”という重要ポイントにも
気が付くはずもない。
ですから、普段からまずは与える事が
必要になってくるし、
誰でもかれでもというのは少し違うから
見極める努力をしなければいけない。
また、思い遣りというのは、
優しくするだけが全てではなくて、
メリハリを以って叱ったり怒ったりする事も
思い遣りなんです。
教えてあげられる立場の人が教えてあげる。
黙って見ているのか?
聞こえないふりをするのか?
見て見ぬふりをかますのか?
そういう場面でちゃんとした行動を取る
これも思い遣り。
あにきが若い頃。
電車の中で酔っぱらって女の人に絡んでいる
初老の男性がいて、その女性は困っているけど
周りの人は誰も助けないし、何もしない。
「おじさん、おじさん!」
と、声を掛けてこっちが
話し相手になってやって、
その場を切り抜けた事があります。
こういうのが思い遣りだと思うのね。
結局、周りの人もその女性からも
何も無かったけど、その場は収まったし、
そのおじさんには後で謝られた。
結果としてオッケーじゃね?
という経験をしました。
特にこれと言って何も無かったけども、
スッキリしたのと、今こうして堂々と
体験談を話すことができる。
これが思い遣りから得られた徳でもあります。
皆さんは、思い遣りをどう考えますか?
受けた事が無いって人は、
今一度ご自身のスタンスを考えてみるのも
アリかも知れませんね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は無償の愛についてです。
人が人として育むべき愛情の
最終的な到達点が無償の愛です。
金も物も剰え気持ちも
見返りを一切求めずに愛情を注ぎ続ける
想いの最終進化形。
これだけを聞くと、自分一人が頑張ってて
すごく虚しいものだと
考えてしまいがちですが、
それは余りにも自分の方に意識が
向きすぎているし、思慮が足りません。
思い出してほしいのは、
あなたは一人ではないということ。
類は友を呼ぶという言葉が好きなわりに
こういう話に及ぶと直ぐ一人だと誤認する。
見返りを求めない愛情を注いで、
それと同様の想いを持っている人を
呼び寄せればいいでしょ?
無償の愛を共有できる人なんて
一生涯でも極少人数にしか出会えないけど、
例えそれが自分以外に一人だったとしても、
出会えたならそれはとても素晴らしい事で、
最高にして最強の徳の一つなんですよ!
要はめちゃ幸せな事!!って意味ね。
その過程の中で、人の持っている様々な顔
つまり本性を視る事になる。
それは自分の本性を知る事でもある。
そこで絶望をするのではなく、
あくまでも反じて省みる努力をする。
それはとても大変な事ではあるけれど、
そんな努力の一つもしないで
得られるほど簡単な訳ないでしょう?
どんな事でも素敵な事を得るには
それに見合った努力というものが必須となる。
何も思考せずにただ日常を生きる。
目の前にある容易く軽い愛情にぶら下がる。
そんな生き方じゃ一生涯を掛けても
得られない得る事の出来ない愛情のカテゴリが
無償の愛なんです。
誰しもが得られる権利を
生まれながらにして持っているのに
自らのエゴでいとも簡単にその権利を
手放してしまう想いの形、それが無償の愛。
そして、自分が手放すという事は、
自分が向けるべき愛情によって救われる人や
自分に向けられていた無償の愛を放棄する
早い話が他者の幸せに答えない(裏切り)
という事でもある。
だからこそ、生きとし生ける者にとって
徳を積む=幸せを得る事に区別はないのです。
どうして俗欲的な生き方や思考、
人を裏切ったり辱めることが
向こうの世界の理では罪となるのかは、
この愛情という面を深堀する事でも
人によっては理解が出来るはずです。
人は独りじゃないからね。
与えるだけじゃない
受けるだけでもない
その両方を余すところなく発揮して
後に、「あぁこれか!...」
と、言葉にならない感覚で理解できるのが
無償の愛。
おそらくだけれども、
とても身近にある悟りの一つなのだと
あにきは考えています。
皆さんこんばんは、あにきです^^
今回は生きるための心構えについてです。
人は誰しも生きる事が
大変になる時があります。
問題の大きさは人によって違えど、
大変だと感じる時があります。
ただ人と喧嘩しただけでも
この世の終わりみたいに大変だと
感じる人もいれば、
実際に、生死に関わる病気や事態に
苛まれていて大変だと感じている人もいます。
この「大変だ」は、どちらも大変ですが、
必ず選別するべき事だと
あにきは常々考えています。
何でもかんでも平等に出来るはずもなく、
こういう時の選別は絶対に失くしては
いけない事だと思っています。
この選別をするという考え方は、
特に人を見極める事に関しては
どんな時にでも当てはまるものです。
例えば、大した問題じゃない人ほど
事を大げさに表現しますし、
頑張り屋さんになればなるほど
黙って我慢をし続けたりします。
この時に、「ちゃんと選別する」
という心構えを持ち合わせていないと、
人を見極める上で大変な過ちを
犯してしまう場合があります。
優しさを出すというのは
決して悪い事ではないですが、
その優しさに自分が酔ってしまってはダメ。
選別という厳しい事を言えないばかりに、
重篤な人を見過ごしてしまう...
というミスが起きたりする訳です。
一体自分の意識はどこを向いているのか?
真剣に相手に向き合っているのか?
大袈裟な態度やオーバーな動きに
惑わされていないか?
自分自身に対する優しさに
酔っぱらっていないか?
心を水平にして人を視れているのか?
常に冷静に思考し、
知識を用いて判断の裏打ちをする。
取り返しの効かないミスを回避するためにも、
常日頃からの心構えは本当に大切なのです。
皆さんこんばんは、あにきです^^
今回は徳についてのお話です。
ー健常者、障害者の区別なしー
徳を積むに当たっての区別などはありません。
誰だって積むことが出来るのが徳です。
つまり、誰にでも浄土へ行くチャンスはある。
けれども、ここで疑問が出てきます。
自分の意思で動けなかったり、
コミュニケーションが取れない場合は
どうなるの?
という疑問です。
徳を積むという事は
善い業(おこない)をする事だと
誰しもが耳にしている筈です。
にも拘わらず、自分が動けなかったりしたら
積もうにも積めないじゃん...みたいな。
ですが、積めるんです。
これは、徳というものの捉え方を
『自己基準なのか?他人基準なのか?』
と、小さく考えてしまっているから
疑問に思えてしまうんですね。
世の想い(業)は巡り巡るもの(回向)
というものを理解すれば分かってきますし、
ちゃんと視えてきますからね。
その為にも、徳の種類から理解を
してみましょう!
ー受諾の徳(じゅだくのとく)ー
自分以外の人からの業で徳を積む事を
受諾の徳と言います。
受け身で徳を積むと考えれば良いです。
例えコミュニケーションを取れなくても
自分に対して徳を積んでくれた人の徳が
そのまま自分の徳にもなる事です。
ー与儀の徳(よぎのとく)ー
自分以外の人に対する業で徳を積む事を
与儀の徳と言います。
与えて徳を積むと考えれば良いです。
例えばコミュニケーションを取れない人に
対して色々とやってあげる。
与えた事が徳となるという意味ですね。
ー己末の徳(みすえのとく)ー
自分が自分に対する業によって徳を積む事を
己末の徳と言います。
例えば、自分を褒めてあげるとか、
自分のモチベーションを持ち上げるとか、
そういう意味で自分に徳の意識が向いていて
自分で始まり自分で終わる徳という意味ですね。
ちなみに、自己満足や自己研鑽とは
違いますからね。あれは徳とは言いません。
ー巡り巡るというのを意識するー
この様に業がどの方向を向いているのか?
どの視線での業なのか?
という中で徳の積み方も分類されていき
どこかしこで必ず徳を積める様に
なっているんですね。
この仕組みさえ分かれば、
健常者とか障害者とかの枠組みで
徳を語る理由も無くなりますし、
人によってはですが、
障害のあるお子さんをお持ちの親御さんとかは
「この子は徳を積めるのかしら...」
「良い所へ行けるのかしら...」
とか、ご心配になった時とかも
あったと思うんです。
あにきも身内にダウン症の子がいましたから
そのお気持ちは本当に理解できます。
けど、本来はそんな心配は無用で、
苦悩はあれども全力で向き合ってぶつかって、
楽しんで、悲しんで、怒って、喜んで、
人としてのバランスを大切にしながら、
人としての活きる道を進んでくれれば
何も問題は無いのですよ。
ちなみにですが、これは重篤なご病気の方や
その介護をされているご家族などにも
当て嵌まりますからね。
改めて言いますが、
徳を積む事に健常者とか障害者とか、
そういった区別は全く存在しませんからね!
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は霊視についての話です。
あにきはその仕事上、霊視をよく使います。
と言いますか、しない時って無いです。
この霊視。
一体どんな仕組みで
成り立っているんでしょうか?
あにきの場合で尚且つ相手が生きている人
に行う場合でご紹介します。
ー仕組みそのものはシンプルー
主だった仕組みは二つです。
A:補助霊さんを使うパターン
B:想いの入り込みを利用するパターン
Aは、あにきの補助霊さんを通じて
他者の補助霊さんにアクセスして、
その人の行動などを視る方法です。
こちらからアクティブに接続を図り
映像化などを試みるので、
ネット接続みたいな感じだと
思ってくれれば善いです。
(デバイスが自分で補助霊さんがプロバイダ)
メリットとしては、正確性が高く一定で、
世代を跨いだ過去も視る事が出来る点。
デメリットは、視たくもないものを
視る事になるのが多いのと、
そもそものセンスが鍵となるので
出来る人間が限られていること。
よく勘違いをされるんですが、
霊視で全部が視れるかというと
そうではありません。
個という自我とそれを守る存在である
補助霊さんがおりますので、
大丈夫な範囲内での情報のみを知り得ます。
(っても範囲はかなり広いですけど)
また、内容をご本人に伝えて良いかどうかの
判断もあにきが加えて行います。
ー人としての性質を利用するー
Bは、相手の発する想いや念を感知して
そこをアクセス点として利用し、
直接映像等として視る方法です。
あにきは便宜上
【 想い=善い感情 】
【 念=悪い感情 】
と、使い分けています。
人は誰でも自動的に想いや念を発します。
まして、対峙している時などは、
言葉を発さなくともそれだけは確実に
相手に向けて飛ばします。
それをキャッチして映像として視るんです。
逆探知みたいなパッシブな感じだと
思ってくれれば宜しいかと思います。
メリットとしては、Aよりも簡単なのと
練習すれば誰でも出来る様になる点。
デメリットは、
正確性が人や状況よって変動するのと、
簡単に他の存在(霊を含む)からの干渉を
受けてしまったり許してしまう事、
故に自己の冷静さを常に維持して
いなければならない点。
ー性質を利用するということは?ー
この二つのパターンを使い分けたり
同時に使ったりして霊視をします。
セッション中にあにきが明後日の方角を
向きながら話している時はA。
じーっと見ながら話している時はB。
と、思ってくれて構いません。
で、ここであにきのセッションを
経験された事のある方はビビッと来たと
思いますが、
想いの入り込みという人特有の性質を
利用する訳ですから、
あにきが相手のを受け取るだけでなく、
相手があにきのも受け取る事になります。
相手やお客さんの感受性が高ければ高いほど
あにきの想いを受け取ってしまうという事。
霊視をしている時のあにきから発する量は
たかが知れていますが、
結果やアドバイスを行う時に発する量は、
控える努力はしていますが、
お客さんのそれと比べるとえげつないです。
なので、セッション中から色々と
大なり小なり反応が出てしまう。
反応の大きさは
幽体的に敏感か鈍感かで変わります。
この霊的な反応(霊障)を
あにきは【 副作用 】と言っています。
ー霊視はただの手段だと理解するー
あにきの場合の霊視はこの様にして行います。
基本的に対面でも遠隔でも手法は同じです。
また、補助霊さんや想いを利用しますから、
言葉や意思の伝達が不自由であっても
霊視そのものは可能です。
実際にお子さんや外人さん
障害者さんなどに対しても行っています。
今回お話をしたのは、生きている人に対する
方法ですので、亡くなっている人とか
自然霊とか動物霊とかに対する方法は
基本的な面では同じですが、
やはり幾分異なってきます。
(動物は言葉を話せませんからね)
何にしてもなのですが、
霊視などはただの手段です。
神秘的ではありますが、
大切なのはその先にある結果を
正しく伝える事。
視たまんまを話すのか?
先を見据えて時期を待つのか?
そもそも映像を言葉にちゃんと変換できてるか?
特有の難しさがあります。
それを如何に乗り越えるかは、
プロとしての腕の見せ処ではありますけどね。