皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
スピリチュアルというのは
今この時に至ってもなのですが、
やはり「幻想への逃避」目的に
使用されてしまっているのが
悲しいかな現実です。
例えば、自身がピンチの時に
祈ったり願ったりしてしまう。
気持ちは分かりますが、
そんなのはスピリチュアルでも
何でも無くて単なる逃げでしかないし、
自己崇拝をしているに過ぎません。
何せ「使う」という業を放棄して
動いていない訳ですからね。
ピンチの時に動かないのが
スピリチュアルだと言うのであれば
そんなのは妄言です。
ピンチでなくても現実的に
使えない若しくは使わないのであれば
そんなものは余興に過ぎませんから
無駄の長物です。
現実の中で常に使えるのが
「本来のスピリチュアル」です。
但し、それを実行するには
現世に於ける知識=情報というのが
基礎として必要になります。
そこを軽視して何となく視えたものなど
糞の役にも立ちやしません。
基礎たる知識を持ち合わせないから
漠然としたものとなり、
結果として際物扱いされてしまうのです。
どう考えても漠然とした内容には
信憑性が生まれませんからね。
そして、ここで言うところの
知識というのは、
何も学び舎から得られるもののみを
言っているのではありません。
学力は当然必須なのですが、
それ以外にも
日頃の生活の中での経験や
コミュニティの中での規範、
地域社会に於ける文化や伝統、
往々にして蔓延る悪習など
僕らが生きている中での総てが
知識となりますし、
上述した様な
「人社会のみに於けるもの」以外も
知識となるのです。
それを解釈するには認識力や理解力を
補完させる為の学力が要となるので
学力は必須事項なのですね。
それらをフル活用して日頃の生活で使う。
家事然り、趣味然り、
仕事然り、人間関係然り、
あらゆる場面で実用的に使用出来ます。
現実的な使用が出来るものなのに、
幻想の中でしか使おうとしないのは
貴方自身が逃げに徹していて
努力という業を放棄しているからです。
例えば、霊視一つ取ってみても
将来を視るだけでなく、
眼の前に居る存在の過去を辿って
その場の「嘘」だって見抜けます。
何なら意義や意図だって見抜けるもんです。
それは目の前の存在と言えども
映像の先に居る存在ですら同じです。
食べようとしている食品のヤバさの察知から
海の向こうに居る存在の見極め
全体としての事象の見抜きや
集合意識としての偽りの検閲まで
現実を視ながら実用的使用が可能なのが
本来のスピリチュアルです。
訳の分からん偶像相手に
祈念という名の逃避をするのと同列に
捉えてしまってはいけませんよ。
軽く抗弁垂れる人程
使えてないやろ
現実的使用を
してないからやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
仕事でもプライベートでも
様々な人達に囲まれたり関係したり
毎日誰かしら何かしらの
関わりがあると思います。
その中で、
「おめでとう」を
全く素直に受け取れない人
と、いうのが存在します。
「おめでとう」という言葉は
どんな場面でも発生します。
日本人ならば大なり小なり使いますね。
この賛辞を述べられた時、
人がどのように反応するかで
素直さ度というのがある程度視えます。
素直さ度が高い人は、
どの様な「おめでとう」に対しても
皮肉でない限りは、
「ありがとう」で、返します。
けれども、それに反して
素直さ度が低い人や高くない人は
そこで「ありがとう」を言わずに
「否定」や「拒否」の言葉を産みます。
屁理屈を言ってみたり、
細かな説明を言ってみたりです。
賛辞というのは「想い」となります。
これを秒で否定する。
つまり、
「ありがとう」を言わないという事は、
この「想い」を無碍にする行為ですね。
そうなると、そこには念が発生します。
「想い」の裏側が「念」です。
せっかく想いを貰えるチャンスなのに、
自身から態々拒否をして
その想いを念に変換する愚行。
この想いが大きければ大きい程、
想いを出す人の霊格が高ければ高い程、
ひっくり返った時の念も大きくなります。
そのまま念となる訳ですから当然です。
そして、そういった捻くれた行為は
周囲にも伝播するのです。
こういった行為をする人物と
一緒に居たりする時間が長かったりすると
余程気を付けていない限り、
行為自体も伝播して受け継いでしまいますし、
念想も伝播してしまうので
要らぬ「念」や「恨み」を貰ってしまうという
とんでもない状況に陥る事が多いです。
これが素直さ度の低さが招く
「念想の伝播」です。
素直さ度の低さが際立つ最たる存在は
貧乏神やその眷属です。
こいつらから「距離を置け」と、
僕が教えている理由は
この念想の伝播が非常に強力だからなのですね。
「避けられるべく不幸を自ら拾いに行く」
これほど馬鹿な話はありませんよ。
普段から形ばかりの綺麗事に身を包んでいて、
表面上の「可哀想」に手を差し伸べたりすると
この伝播にまんまと嵌って不幸を招きます。
どうせ同じ伝播であるならば、
念よりも「想い」の方が良いですよね。
ですから、人をしっかりと見極めないと
運気なんて絶対に上げる事など不可能なのです。
下げるも上げるも
自分の業次第やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
例の7月が近付いてきて
あれやこれやと色んな人達が
思い思いの事を囁いていますね。
僕も以前からサラッと話をしていますが、
何度も言う様にいずれ何処かで
何かしらは起きるものです。
それが7月なのか10月なのか
11月なのかその先なのか、
はたまた間髪入れずに発生する様な
ハイブリッド式なのか。
たぶん起きる時は2~3回と
別口の災禍が連発して起きると思うし
ここでは言及していないですが、
不定期開催の秘密結社や
いつもの様に会ってお話しする際には
2年程前からそれは話をしています。
と、同時に大切なのは
起こる事に恐怖心を抱いて
ビビり散らかす事では無くて、
その先の状況時に如何に対応するか。
その時に必要な心構えは
今この時に時代の中で溢れている
「それ」とは大きく変わります。
「それ」に気が付けない人は
問答無用で淘汰の対象となりますよ。
って、事ですね。
これがステップアップの話。
予知や予期という類の個人力を使ったり
そこに注力する際に、
どうしても抽象的で漠然とした
話しっぷりになりますよね。
僕の様に意図して
そうしている人も居ますが、
殆どは素で漠然と表現をしていると思います。
何故かと言うと、理由は二つ。
1、自分が視た予期予知ではない。
2、自分が視たが現実を視ていない。
この二つです。
前者はその言葉の如くです。
受売りだからその予知予期の持つ意味も
概念や概要も、その先も分からないですし、
恐怖心という名のエンターテインメントを
楽しんでいるに過ぎない。
後者は、視たものの内容のインパクトに
溺れすぎてしまっていて、
そこにある現実を見失ってしまっている。
前者はどうでもいいです。
好きにさせておけばいい。
後者は結構問題です。
現世という現実に生きる者として
自身の視た予知予期に対して、
「現実」
と、いう要素を組み込まないから
インパクトのみでの判断となるので
ありきたりな話しか出来ないのです。
つまり、馬鹿って事です。
例えるならば、
最新テクノロジーの気象衛星の情報を
分析する分析官が大馬鹿だったら。
ってのと同じ意味合いです。
この場合、
どんなに衛星の機能が優れていても
分析する人がそれを扱う技能と知識を
持ち合わせていなければ
予報は大きく外れます。
そのスペックを活かす事が出来なければ
何ら意味が無いという話。
予知予期であろうと何であろうと
個人力というのは、
「現実」を組み込まなければ
その意図もスペックも機能しません。
この現実というエレメントとは
知識であり情報であり意識です。
そして、その内容は自身の与える
影響力の範疇が最小単位であり
最大効果範囲となります。
無駄に広く考える必要は無いですが、
知り得る情報の範疇は狭いと駄目です。
ホンモノと呼ばれる人は
それが出来ているのが普通です。
身を委ねて
良いものなのかと
考えてみてや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
当たり前にやっている事というのは
「実は凄く恵まれている」
ここに気が付けるかどうかで
その先にある動きや考え方、
更にその先にある業や
そこでの心構えなどが
大きく変わってきます。
僕らは当たり前の事を当たり前に
やってしまうが為に、
その本当の価値というのを
どうしても忘れてしまうのですね。
人によっては
動きたくても動けない人も居るし、
話したくても話せない人も居ます。
その点、五体満足で動けるのですから
恵まれていると考えなくてはいけません。
その恵の部分を忘れてしまう時に
自身の根深い部分に隠れている
「自分本位」というのが顔を出します。
「言葉にするのが苦手」
「動くのが苦手」
「意思表示するのが苦手」
こんな情けない台詞を
本当に動けない人の前で言えますか。
総て自身の都合に合わせた
単なる我儘に過ぎません。
体の良い言い訳を
それっぽい理由にして
誤魔化しているだけなのですね。
早い話が
やれるのにやらない為の
「格好付けた逃げ口上」
なのですね。
ここの理解が出来る様になって
実際に動ける様になれば
世界の視え方は相当に変わりますし、
思い遣りというものの形も
具体的に視てとれる様になります。
本当の意味での
優しさを見出す事が
本来のスピリチュアル
やからね
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
これまでも何度かに分けて
独特の能力を持っている人や
個人力を使えている人を
徒に特別視する事や特別扱いする事は
確実に宜しくない結果を齎しますよと
お話をしてきました。
何度となく言いますが、
個人力や霊能力という代物は
誰にでも備わっています。
至極当たり前の能力です。
それをナチュラルに使えるとか
使えないというのは、
生まれてくる前に自身が選択をして
決めているだけの事になります。
「使えないという誤認識」や
「個人力自体を忘れてしまう」
と、いうのが現世での基本ではあるのですが、
「単に使う」
と、いう点のみで言うなら
それも現世ではノーマルです。
つまり、何ら特別ではない。
問題は「役割」の認識と
「背後の理解」です。
人のみならず現世に在する万物には
各々其々に「役割」というのが在り、
人に限って言うならば一部例外を除いて
ほぼ全ての人が自身でその役割を
設定して生まれてきます。
個人力に関しても同様で、
それを使ってどうするのかという
「役割」を必ず持っています。
その役割を現世に在している最中に
理解して使い熟す事が出来て
初めて役割は全うとなります。
また、その「背後を知る」
というのも重要です。
単に個人力を持ち合わせているだけでなく
その「力の源泉」は何なのか、
向こうの世界の「世界観」や
「価値観」という様な
皆が忘れている「背後」を理解して
それを適確に教えたり伝えたりする事が
可能か否かが必須となってくるのです。
ここで変に特別視をしてしまうと
周りは疎か本人ですらその俗欲に溺れて
至極当然に能力にも関わらず
周りは必要以上に縋り
当人は驕り高ぶります
そして、妙な方向へと進んでいきます。
宗教化したり偶像崇拝化する感じです。
そうなってしまうと、
ただの貧乏神化ですから
何一つ良い事など起こり得ません。
そういう特別視よりも
如何に普通に接して普通に生活が出来るか。
もし、仮に親であるならば
幾ら子が個人力や不思議な力を有していても
その力に溺れる事無く驕る事無く
特別視せずに社会性というのを
維持させ育んでいく事が出来るか。
ここが非常に重要となってきます。
特視というのは甘い俗欲であり、
強烈な「魔素」です。
それを当人も周りも理解して
あくまでも普通にする事が
とても難解ではありますけども
ステップアップには必要な事なのですよ。
差別意識の助長と
なんら変わらん
ものなんやで