皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
何かをする時、
何かを決断する時のみならず
思い遣りを謳う
つまり総ての時に於いてですが、
「自分を信じ切りなさい」
「信じ切れる様にしなさい」
と、あにきは教えていますね。
この「信じ切る」というのは、
決して簡単ではないですが、
資格が必要な訳ではないですから
誰でも出来ます。
但し、
必須となる事項は存在します。
何かと言いますと、
「知識・情報」です。
無知のまま若しくは、
誤った知識や情報を抱えたまま
自分を信じ切ろうと試みると
容易に想像が出来る事なのですが
高確率で間違った方向へと
突き進みます。
当然と言えば当然です。
知識の無いままでは
自分を信じ切ろうにも
その事前に於ける
「精査」という段階を
踏襲する事が出来ませんからね。
知識を得ずに精査も行わず進み
その後に起きてしまうのは、
「自分本位」となる現象です。
「自分を信じ切る」
が
「自分だけが正義」
という解釈となる意味です。
何故、
こういう変遷を辿るのかというと、
「信じ切る方法
それ自体を知らない」
故に起きてしまうのです。
この信じ切る方法に必須なのが
知識であり情報であり
それを自身で精査する
という業なのですね。
何も知らぬままや
間違ったままで
自分を信じ切ろうとすると
「自分は間違っていない筈」
「自分だけが正しい」
「自分が一番だ」
「自分の方が分かっている」
という様な思考に堕ちます。
頼れるべき情報知識が無いから
他を否定して蹴落した上で、
自分という漫然とした
「器に頼るしかない」からです。
それを人は
上辺面や綺麗事と言います。
そして、
貧乏神へと近付くのです。
覚えておいて下さい。
信じ切るための必須事項は
知識と情報と
精査という業による経験値です。
ビッグネームでもなければ
その他大勢の感情でもなく
排他的思考でもないですからね。
正しい知識
正しい情報は
理にかなっているかを
考えれば
分かるものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
この時期になると
一年を振り返ろうと考えるものです。
「出来た事」
「出来なかった事」
人それぞれ色々あると思いますが、
この時にどうしてもネガティブに
考えてしまいがちな人も
少なくないと思います。
「どうして上手く出来なかった...」
「何でこんな風になった...」
みたいな感じですね。
1つ言える事があるのですが、
過去をネガティブに捉えて
思い返したりする事は
少し簡単過ぎるので
省みるという点で言うと
あまり意味がありません。
思い出を振り返る時に、
それが一年だろうと十年だろうと
善い思い出よりも、
「嫌な出来事の方が」ポンポンと
浮かんできますよね。
そこから反じて省みるのも
有りとは言えるのですが、
出来なかった事象を
出来る様に考える様にすると、
数が膨大になって
結果としてその先の
行動を阻害する事が多いです。
「考えて疲れて嫌になる現象」
と、いうやつですね。
何故にこれが起きるのかというと、
考える際に
あるモノが足りていないからです。
何が足りていないのか。
それは、「愉しみ」です。
失敗という嫌な事から
転じて成功を考えるのは
非常に簡単ですが、
そこには愉しみが欠けているので
「心の底から頑張ろう」
と、いうよりかは、
「気を付けて頑張ろう」ですし、
失敗の数が膨大になってきますから
その渦中で「頑張ろう」が
「努力しよう」となっていき、
「何でこんなに出来ない...」
と、いう負の思考へと変わっていき
果ては、
「どうせ私なんて...」と、
負の方向へ堕ちていく。
これが
「考えて疲れて嫌になる現象」です。
せっかくの振り返りも
こうなってしまっては本末転倒です。
そうならない様にする為に、
振り返るのは少し大変ですが
一年間の中での愉しめた事や
愉しみを思い起こす様にします。
先述しましたが、
善い事というのは基本思い返すのが
難しいものです。
ですが、それは善い事のサイズを
大きく捉えてしまっているから
なのですね。
そもそも、善い事というのは
小さいものです。
以前より「小さい幸せ」という形で
教えている通り、
そのサイズは非常に小さい。
なので、忘れ易くなっていますが、
本来その数は嫌な事よりも
遥かに多く
積み上がっている筈なのです。
ですから、あまり大きく考えずに
小さい幸せを思い返しつつ、
その中で「愉しかった事」に
焦点を当てて省みるのですね。
嫌な事から転じさせた
無理の生じる頑張りよりも、
愉しかった事から発展させた
より愉しめそうな事を考えた方が
次年度の目標とするには
モチベーションも格段にアップします。
愉しみなのですから当然ですし、
必然的に前向き思考となるので、
達成に向けた注意点なども
実は、
より強固に思考する事が出来ます。
目標や目的を考える時でも
しかめっ面で思考するよりも、
笑顔で思考出来る方が
意気込みに勢いが生じるので
成功へと繋がる確率は上がります。
実際のところ、昨年末に
頭を固くして考えた目標なんて
一年経ったら覚えちゃいないでしょ。
そんなもんなのですよ。
真面目なのはとても良いけれど、
四六時中真面目に考えてもその程度です。
で、あるならば、
善くなりたいから設定する目標は
「愉しみ」という遊び心が効いている
やる気に満ちたものにしたいと
考えるのが建設的ではないのかと
あにきは常々提案しています。
日頃からそうでしょ。
つまんねぇ事から愉しみなんて
産まれやしないんじゃないですか。
明るい思考から
産まれるんや
だから
愉しみは
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人は様々な理由で
楽をしようとする存在です。
少なくとも、現世にいる我々は
例に漏れる事無く
どこまでも楽を追い求めます。
それは、肉体を纏った事で
俗欲を得た代償というものなのですが、
楽を求める事そのものは
決して悪ではありません。
これを「追求」と呼びます。
寧ろ、我々にとっては
かなりのプラスの事柄となります。
追求というのは、知恵を付けます。
技術も発展していきます。
俗欲をスターターとして、
生きる上での便利ツールを創り出すにも
追求は絶対に必要です。
但し、
追求の果てで楽という欲に溺れてしまい
思考を停止させ、
行動を起こさなくなるのは問題です。
これを「怠惰」と呼びます。
怠惰は、
楽と便利と思考停止が組み合わさると
誰でも陥る罠みたいなものです。
「動けるのに行動を起こさない」
「考えれば分かるのに考えずに終える」
「考えそのものを他へ依存する」
こうなってしまうと、
自分の意思というのは形骸化され
目には写るけども
そこには視えぬ誰かしらの存在に、
飼い慣らされ飼い殺されるままの
畜生と言い切れる状態となります。
アイデンティティーなど
無くなってしまうという意味です。
この状態から抜け出すのは
容易な物ではありません。
抜け出す方法はありますが、
その行程に自身が追い付かないとか
「怠惰の依存や誘惑」から
意識を外すのが非常に苦しみを
伴うものだからです。
怠惰という罠に溺れてしまった意識は
世間という広大な快楽のマトリクスに
リンクしている訳ですから、
それを引き離す。
つまり、
「多から個」へと改めて移行させる。
けれど、
ここでは自身の意思
とりわけ「取り戻したい」という
強固な意識が必要になってきます。
例えるなら、
強烈な渦潮の中を漂流している人が
自らその渦より出ようとする力と
その渦から引き揚げようとする人の力が
合致しないと抜け出せない。
と、いった感じなのです。
普段より思い遣りを軽視して
怠惰に溺れて自分本位で動く事が
如何に後々に響いてくるか、
そして、
その鳴韻は自身のみならず
自身の周りにも波及します。
動けるのに動かずに怠惰へ堕ちるのは
想像している以上に
由々しい結末を齎しますからね。
怠惰の罠なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
歳の瀬が迫ってきました。
新年を迎えるにあたり日々刻々と
断捨離に励んでいる事と思いますが、
一年間の嫌な事や悪い事を
埃と共に綺麗にしていくのは
良しとして、
では、一年間の善い事や
たっぷり得られた幸せは
どうしていますか。
恐らくですが、
継続且つ持越しをされている方が
多いのではないでしょうか。
一年間の幸せや善き事も、
実のところ悪しき事と同様に
歳の瀬又は歳初めに
さっぱりとリセットをさせる
「幸善奉献(こうぜんほうけん)」
という考え方があります。
善き事ですから、
継続して持っていたいところですが
善き事だからこそ、
そこに未練や執着が生まれてしまい
結果として、
それが要らぬ俗欲へと変わり
自身を苦しめてしまう。
そんなサイクルを止めて
貧乏神化防止を促進するのが
この「幸善奉献」です。
何も難しい事ではなくて、
一年間お世話になった御守りとかを
初詣の時などにお返ししますよね。
あれの善き事版です。
初詣時に神様へ御挨拶に行きます。
その際に、一年間でしこたま溜めた
幸せや善き事、善き想い等を
神さんや仏さんに献上するんです。
「ありがとうございました。」
の、感謝を込めて。
善き事ですから、
そのままでも良い様な気もしますし
手離すのが惜しいとも思いますが、
先述した通り、善きこと故に
そこには執着も産まれますし、
所詮は過去の事ですから
それを引き摺るという事は
未練そのままの意味となります。
また、
これはイメージですが
善き事を溜める領域が
古いデータに溢れていて狭いままだと
せっかく新しい善きデータが
蓄積され始めたとしても、
下手したらあっという間に警告画面です。
領域が満タンとなれば、
当然自分も上手く動けなくなります。
不具合だって出てきます。
それでは面白く無いですから、
一年の最初に
自分のクリーンアップも兼ねて
感謝を込めて献上してしまおう。
と、いう感じです。
善き事を捧げるのですから
神さんも仏さんも決して嫌がりません
WIN-WINです。
こういう験担ぎもあるのですよ。
対しての
思い遣りの形でも
あるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
生きていると人から助言や提言を
貰う事があります。
直接お話をして
言葉を貰う事もあれば、
動画や本などから
自分で引っ張る事もあります。
特に、直接言葉を貰う時に
気を付けないといけないのは、
相手の厚意を無碍にする事です。
但し、これは
「どんな相手でも」
と、いう訳ではないです。
自分に対して
真摯に向き合ってくれている人や、
心からの言葉を
投げ掛けてくれている人に対して、
と、という場合限定での話です。
自分から言葉を拾いに行ったり
欲したりしているにも関わらず、
自身の現状に則していないからとか
もっと簡単にとか、
言い訳はどうあれ
自分を優先させてしまう。
この手の思考に陥っていると
言葉のみならず聞いている時の
態度にもその片鱗が垣間見れます。
早い話が、真摯な態度ではない
という事が口を開かずとも
見て取れてしまうという意味です。
感受性の強い方ですと、
こういった厚意を無碍にする姿勢を
敏感に察知します。
この段階で、貴方へ向けられていた
「想い」が「念」へと変わるので
徳を得に聞いているつもりが、
単に恨みを買うという事となりますから
最早、助言や提言の意味は喪失し、
自らの脚で貧乏神へと一歩前進します。
人の意見を仰ぐ時は今の自分に
気持ちをセットしてはいけません。
その先にある自分にセットして
「どうすればその助言を叶えられるのか」
を、考えながら聴かないと
いけないのですね。
ここでは貴方の素直さ度の高さが
物を言ってきます。
この様な話を綴っていると、
あにきの話みたいに思えるかも知れませんが、
それは稚拙な妄想です。
この状態に陥り易いのは、
貴方の回りの方々との会話や
何の気ない遣り取りの中での事が
大多数であって、
ほぼ全てと言っても過言ではありません。
何故なら、あにきよりも
貴方が普段触れてる人達の方が
圧倒的に話す機会が多いですよね。
その数多の会話の中で、
貴方がどれだけ真摯な態度で向き合い、
相手からの厚意を
無碍にしているのかしていないのか
その動き方一つで、
先の幸せが変わってくるものなのです。
自らが変わろうと動かなければ
幸せは何一つ近寄ってはきません。
運気は自分が引き寄せるものですからね。
善くも悪しくもです。
自分本位思考は
隙を狙っている
ものなんやで