皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
念想の天秤の一つに
「勇を用いたか」
というのがあります。
これは同時に八罪の一つの
「勇を用いない」の
裏側となるのですが、
どういう意味かと言いますと、
字の如く
「勇気を出したか」
という意味です。
普段、勇気という言葉を実生活で
使わないので些か分かり難いですね。
なので、
もう少し端的にしてみます。
こういう場合は対義語を考えます。
勇気の反対は「小心」です。
臆病とか意気地が無いとかですね。
つまり、
「勇を用いたか」の反対は
「小心だったか」となるので
「怠惰じゃなかったか」
という意味となります。
だらしないとか、怠けてるとか
そういう意味が怠惰です。
詰まるところ、
やる事やらないで楽をして
自分や周りにだらしなくしてたか
どうかを問われるのです。
そう聞かれると、
殆どの方は「そんな事は無い」と
言うと思いますが、
果たしてそうでしょうか。
例えば、
何かの意見を言わなきゃいけないのに
周りに合わせてしまったりして
言わなかったとか、
いじめを止められなかったとか、
見て見ぬ振りをしてたとか、
何かをダシにして不都合を隠したとか、
日頃の生活の中で
思い当たる節は本当に全く無いですか。
念想の天秤では、
貴方がこれらを
どの程度出来ていたのかを
貴方の生涯を通して問われるのです。
念想の天秤で問われるのは
勿論これだけではありません。
他にも沢山あります。
怖いのは、他の問い
要は、他の八罪にこれらが
連動してくるという点です。
勇を用いなければ
「伝に務める」事も難しいですし、
その先の「信に徹する」事も難しい。
達成率が低ければ、
尚更その連動は確実なものと
なってきますから、
トータルでの八罪を犯した数が
爆増するという事です。
その先にあるのは
紛う事無き地獄堕ちの烙印です。
死んだ後の事だから
地獄堕ちでも怖くないと
思われるかも知れません。
ですが、地獄堕ちする様な人が
生きている時に平々凡々と過ごせると
思われているのであれば
それは能天気の薄ら馬鹿としか
言えませんね。
地獄堕ちする前、
生前には既に貧乏神や
それに親しい存在となりますし、
そうなる手前から想いよりも
恨みばかりを受ける様になって、
嫌な事が頻発する様になるから、
余計に良い事を欲する様になり、
それは俗欲の強さへと変換され、
より一層負の螺旋へと堕ちていく。
早い話が、
適宜、勇を用いずに
楽ばかりをしていると
「生きながらにして
地獄の様な思いをしつつ
死しても尚、それ以上の苦痛を
味わい続けていく」
と、いう事です。
ちなみにですが、
死後も生前同様に
意識はバッチリありますからね。
さぁ、自分の罪を数えろ。
大切になって
くるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
人との相性や合う合わない、
繋がる繋がらないなど
一見すると
運や運気や運命や流れとか
はたまた、
波長とか波動とか周波数とか
ちょっとよく分からない物言いの
怪しげな言葉もありますが、
それらが原因となっていて
合わないとか合うとか、
実際に会えないとか会えるとか
そういう話を耳にした事が
ある人は多いと思います。
確かに、要所要点では
運命としてのというのはありますが、
そんなの人生の中で
1,2回あるか無いかのイベントです。
では、そういった流れ的なものや
そもそもの合う合わないは、
何で決まるのかと言うと
相手に合わせるという形で
「流されているのか」
こちらに合わせさせるという形で
「引き寄せているか」
の、違いです。
例えば、
あにきのこの長たらしいブログを
継続して読める人と、
長たらしいから読めない人、
これだけで合う合わないが
ほぼ決まります。
読める人は、
あにきの話が聴ける人です。
これを読む事に集中出来るという事は
あにきの長い話を聴いていられる
集中力と認識力、想像力を持っている
可能性が高いという事です。
逆に継続して読めない人は、
あにきの話が聴けない人です。
長い文章を集中して読めない、
飛ばし読みをする、
答えだけが欲しいなど、
集中力や認識力、想像力が
少々乏しい可能性が高いという事。
あにきの話は解説が多いくて長いです。
それに、現実的な事ばかりで、
ファンタジー色が少ないですから
現実逃避系スピリチュアルが
お好みの人や綺麗事が好きな人、
結論ありきの人などは
例に紛れる事無く、集中力が保てなくて
小一時間するとその兆候が出てきます。
つまり、
自分に合う合わないというのは、
「自分で決める事が可能」
という事です。
運に任せるのでもなく、
運気に頼るのでもない、
そもそも運気は制御出来ますし、
「流れは自分で創るもの」です。
運気のお勉強をした際に
教えましたよね、
「自分で引き寄せるもの」だと。
相手に選ばれるのではなくて
相手は自分で選べば良いだけです。
何をやっていても、
全てはそこに帰結します。
だからこそ、
常に冷静な判断が必要ですし
流されない様にする
工夫が大切なのですよ。
貴方だけでなく皆がみんな
同じ事をしているのですから。
自分の生きる方向性を
目に視えないものに委ねるよりも
「知を以て自ら築く」ですよ。
相手への想い
つまり
思い遣りなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
恐らくですが、
効率良く理解をする為に
人は何かにつけて
種類を分けたり、
種別を講じたりするのだと
思うのですが、
以前にも話しましたが
人と霊に於いても
同様の事が言えると思います。
人が生きていれば「人」
人が死んでいれば「霊」
確かに分かり易いですね。
ですが、あにきはこの分け方に対して
非常に違和感を覚えます。
どちらも「人」で良いと思うし、
どちらも「霊」で良いとも思います。
いちいち分ける必要があるのかと
切に考えるのですね。
現世を基準にした場合が
「人」であるならば
死んでいても別に「人」で
良いと思うのです。
逆に向こうの世界を基準にすれば
生きていようが死んでいようが
肉体の無い状態が基準ですから
どっちも「霊」で良いと思います。
どこを基準に置いて話をしているのか
どの視点で視ているのかで
決めているだけですから、
至極、下らない事だと思うのですね。
死して肉体を喪失しただけで、
霊と呼び畏怖の念を抱いたり
それだけで恐怖の対象とさせてしまう。
けれども、死んだだけですよ。
ついさっきまで肉体を持っていて
人と呼ばれていて
そこには家族もいたかも知れないし
仮に身寄りなく
天涯孤独であったとしても、
その存在を認知していた人くらいは
居たであろうれっきとした人です。
何の目線で捉えるのか
どの視点で視ているのか
自分は生きているのだから
死者に対しても人として接する
その真摯な思い遣りが大切だと
あにきは考えていますし、
それが普通だと認識しています。
何故ならば、
その亡くなった方にも
存命の御身内がいたりする訳でして
その御存命の方々の顔に泥を塗る様な
非礼且つ無礼な行為は
人として決して許されるものではないと
思っているからです。
あにきが除霊や浄霊を執り行ったり
何かしらの理由で、
そこらにいる亡くなった方々の事を
人に話したりする場合は、
必ずその方々の名前や出で立ち、
生い立ちや逝去に至るまでの事を
かなり細かくお話をしています。
それは、
そこにご遺族やお知り合いが居らずとも
話を聴く相手に、亡くなった方の
人としての存在を知らしめる事で
思い遣りという形を通じて
御存命の方々に対して
敬意を表する事に繋がると
確信しているからです。
人視点で視る、接するというのは
そういう事になります。
その想いの分別が付けられないのは
とても悲しい事だと感じてしまいます。
大切な大切な
爺ちゃん婆ちゃんを
悪霊扱いされたら
気分が良いとは
言えへんやろ
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
毎日を動いていますと
何かにつけて決め付けがちに
なってしまいます。
物の捉え方考え方、
動き方などなど
何かと決め付けて
一辺倒に対処してしまいます。
ですが、
そこで少し考えてみるのです。
一辺倒というのは、
何かに偏る、どちらかに偏る
という意味でもあります。
と、いう事は、
選択肢として存在するもう片方を
自ら失くしてしまう
滅する方へと繋げてしまう
という事でもあります。
何かを決する時というのは、
生きていると
生活をしていると多々あります。
しかしながら、
大きい物事は寧ろ少なくて
その殆どが極めて小さい物事です。
本来、自分が選ぶ選択肢というのは
幾つあっても良いですし、
第一第二だけでなく
「第三の選択肢」も必要です。
人というのは完璧を求めるので
徒に勧善懲悪へ拘ったり
どちらかに偏ろうとしてしまいます。
社会を揺るがす様な大きな物事や
自分の人生を左右する事象でしたら
通念上然りなのですが、
普段というのは、
それよりも小さい事の方が殆どです。
選択肢は幾つか揃えておいて
都度自由に選ぶ選べるくらいの
余裕と器量を備えてみましょう。
周りに流されて感情論で
「そうだそうだ」
と、決め付けるよりも、
1つの矛盾を分析して
愉しんでみるくらいの方が
日々の気持ちは軽くなりますよ。
風見鶏にならずに
選択肢を増やして
愉しめるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人と話をする際に
どうしても大体で聴きがちです。
何かを覚える際にも
やはり大体で覚えがちです。
ですが、それ故に勘違いや
齟齬が発生してしまい、
結果として
嫌な思いをする羽目となります。
会話をする際は、
「一言一句」が基本となります。
全てを覚えるのは無理ですが、
憶えるつもりでちゃんと聴く
という意味ですね。
この時に、感情を入れたら
どうなるでしょうか。
まず、しっかりとは聞けません。
学生の時を思い出して下さい。
先生の教鞭に対して、
いちいち感情なんぞ
入れてなかったんじゃないですか。
それと似た事をすればいい。
但し、勉強とは違っていて
会話には社会通念があるから
器用に立ち振る舞わないと
いけないですけどね。
というのが、前回の話です。
見る時もそうです。
大体で覚えてしまうと
これまた前項と同様に
手痛いミスを引き起こします。
細かい話にはなりますが、
何かを使ったりする時に
取扱説明書を読んでますか。
日頃から家に届く書面とか
アプリのお知らせとか
実は重要な事が
書いてあったりするのだけども
眼もくれていなかったりします。
せっかく文字が読めるのに
ほとほとテキトーに
見流してしまっている怠慢。
例えば、
普段買う調味料や料理の素材に
こってりとレシピが載っています。
結構参考になる内容が
記載されていたりするものです。
そういったものをガン無視して
全部をネットに頼るというのも
決め付けや思い込みですし、
総じて言う所の大体です。
我々は日常のあらゆる場面で
大体を使ってしまっています。
けれども、それは
「いつでも大体を抑制する為の
訓練をする事が出来る」
という意味でもあります。
とは言え、
四六時中ずっと真面目にというのは
遊びが無くなるので逆効果です。
気が付いた場面で
ちょっとだけ気にしてみる。
いつも気にしていないのだから
それだけでも価値は高まります。
その繰り返しが、
人との会話やいざという時の対処へと
繋がってくるのです。
こうした不断の努力が
そのまま観察力や理解力、
認識力や応用力を高める事になって、
嫌な事が軽減されていく訳です。
で、
結果として運気が上がる。
現実を見ないでファンタジーへと
逃避するより全然善きでしょ。
注力しないと
簡単に流されて
しまうんやで