皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
小さい幸せと同様に
「小さい念」が存在します。
小さい恨みとも言えますし
小さい悪意とも言えます。
小さい幸せが自身の努力によって
気付けたり得たりするものに対し、
小さい念というのは、
個々人が勝手に発してしまうものです。
別に努力の様な触媒は必要がない。
どんな場面に於いても
勝手に出てきてしまうので、
努力が必要とするならば発した後になります。
周りから飛んできた小さい念を
受け流したりする為の努力や技術は
確かに必要ですしまだ分かりますが、
小さい念を自身から発動させずに
抑え込んだり消したり
などと云うのは困難を極めます。
ほぼ無理とも云える動きです。
何故なら、小さい念の発生要件が
自身の感情に依存しているからです。
自身の感情に依存しているという事は
抑えたり消すとなると、
「感情そのものをどうにかする」
と、いう事になります。
確かに一定量の感情の制御は可能ですが、
全般的な制御となると話は別です。
それは人間を辞める
と、言っても過言ではない動きです。
ましてや、小さい念が発生する感情は
喜怒哀楽の全てです。
怒りや哀しみの様な俗に言う
「消極的な感情」の部分だけではないのです。
喜びなどの「積極的な感情」で
どうして小さい念が発生するのか
意味が分からないと思いますが、
小さい念の発生場所は貴方だけに限らない。
と、云えば
身に覚えが湧いてくる筈です。
人の喜びを
素直に共感出来る存在ばかりではない。
疎ましく思ったり妬んだり
羨んだり嫉んだり。
つまり、小さい念を発動させずに
消すとなると喜怒哀楽の感情全てを
消去するに近い形で抑えなければいけない。
という意味になるのです。
それはもはや人間とは言い難いですし、
生の人間には不可能な動きです。
小さい幸せと同様に小さい念も
累積によって大きい念へと変貌します。
大きい念になると見える形で災いが発生する。
これを「厄」と言います。
厄を回避する為に人は様々な動きをしますが、
基本的にはどの厄払いもその事実のみに
目を当てるだけで、原因には言及しません。
そして、外からの部分のみに焦点を当てるので
内から発する部分は些末な方法で終わる。
よく言いますよね、笑顔を絶やさずにとかって。
以前も話しましたが、笑顔と云うのは
適切な場でのみ効果を発揮するものです。
常に喜ぶ様にしたところで、
周りの念を消せるものではないのです。
本当に小さい念をどうにかしたいのであれば、
それを自身も常に発しているのだと認める事。
自分はやっていない。やらない。
出さない様にしよう。ではなくて、
人なのだから出ちまうものは仕方ない。
その分、想いの形とも云うべき
小さい幸せに気が付こう見付けよう。
この動きに持っていかないといけません。
想念と言って、想いと念は表裏一体です。
累積した念を相殺するには想いしかないのです。
世に出回っている片側だけにメリットデメリットを
見出す様な動きや、勧善懲悪から完璧主義へと
帰結させようする動きは
何処まで行っても机上の空論に過ぎません。
ですので、常にニュートラルに立ち
両側を視て理解し認識する事自体が重要なのだと、
本来のスピリチュアルでは教えている訳です。
善悪は手段であり
目的ではない
正義の味方も
敵からすれば
悪の権化なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
本当の幸せというのは小さいものです。
この「小さい幸せ」が
集まりに集まった時、
大きい幸せへと変化します。
大きい幸せを最初から望んでも
決して得られないのはこの為です。
そして、小さい幸せは
自分以外には基本的に無価値です。
大きい幸せも、やはり同じです。
仮に共感が出来たとしても、
その度合いは個体によって差があります。
限りなく近しい場合もあれば、
最低限度の共感で終わる場合もある。
元々の個体が同じではないのだから、
これが普通です。
同じ様に感動や歓喜を得たい
という事自体がナンセンスなのですね。
ならばこそ、
自身の度合いを理解する事で
相手の度合いを講じる事が可能となります。
と、これが小さい幸せの話で
色んな所で話していますね。
では、その小粒な幸せというのは、
実際にどういったものなのか。
自己完結するものも多々ありますが、
原則として、
何かしらの「相手」が絡む事によって
得る事が出来たものが、
本当の意味での「小さい幸せ」となります。
それはリアルタイムの時もありますし、
数日数ヶ月数年という時間差の場合もある。
相手が絡むとは、想いを紡ぐこと。
つまり、「思い遣り」の事です。
ですから、その場だけを意識していても
小さい幸せは得られません。
例え、
その時が辛く苦難に満ちていたとしても、
哀しい時間が長く嵩んでいたとしても
思い遣りを礎として信に徹した動きをすれば
そこに小さい幸せは生じます。
小さい幸せはとても小さいです。
風が吹けば散って、
雨が降れば流れてしまう
そこいらにある埃の様に小さい。
その小さくて脆い幸せに
目を向けられる様に視野と視点を養う。
善い事ばかりを考えるのではなく、
その逆を理解する方へ努める。
例えば、
自分が痛みを知らなければ、
相手の痛みもその本質も
痛さを解消した時の歓喜も分からない。
それと同様に、
想いを知りたい得たいのであれば
念から逃げずに理解し、認めなければ
知り得る事は叶わないのですね。
小さい幸せはそこら中に点在しています。
けれど、視る為や得る為には
「小さい念」の存在を認める。
視野や視点を養うには、
この「念への理解と認知」が鍵なのです。
また、念は自分も常に発するものです。
他者からだけのものではない。
自分は発していない、発さないではなく
発しまくっている事を認める理解する。
そういうものだから気を付ける。
その努力をする。
善い事ばかりを思考しても
その善い事は相手によって変わります。
貴方の善い事は貴方にしか通用しない。
それを通用させる様にしたり、
伝わる様に教える様にするには
通用しない事実を認めるしかないのです。
善幸帰悪に陥る事無く、念を視る。
そうすると、視野は拡縮自在となり
視点も動体自在となるのです。
この視野と視点の動きが「素直さ度」。
認めざる者が素直ではなくなっていくのは、
このメカニズムに沿っていないからなのですよ。
読むのではなく
分からないのを
素直に認めて読む
あら不思議
もっと知りたくなるで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
きつい事や辛い事、
殊更、自分自身が
やらかしてしまった時など
意識の方向は内側へと傾きます。
自分本位の発動です。
そうなってしまうと
外界の情報を遮断してしまうので、
自身の中では
同じ情報が更新をされずに
単一のまま巡り繰り返されます。
この繰返しの中では積極性思考よりも
消極性思考の優先度が上がります。
繰返し過程での思考内の事実は
最新の内容へと更新が出来ませんから、
「事実」から「想像」へと
変化していきます。
そこでは、消極性思考が積極性思考より
優先される状態となっていますから、
「想像」へと変化した内容に
自分本位の要素である、
「都合の良い解釈」が加わります。
すると、想像は完全に自己完結する
異形となりますので「妄想」へと変わります。
この妄想への変化を
「肥大化」と言います。
意識の方向を認識していない状態で
肥大化を起こしてしまうと
自己解決は非常に困難なものとなります。
内側へ向き過ぎた意識を
外側へと向ける為には、
少なからず外界の協力が必要になります。
つまり、「周りの協力が必須」という事です。
ここで述べている「周り」とは、
人限定ではなく「存在」を指します。
動物かも知れませんし、植物かも知れません。
自然霊や補助霊などを始めとした
視えない存在かも知れません。
それら「周りの存在」の協力を経た上で、
意識の方向が外側へと向く事が出来れば
肥大化から脱する事が可能となります。
人で気が付ければ一番早いですが、
必ずしもそこに協力者が居るとも限りませんし
塞込んで人をシャットアウトしている
場合も多々あります。
そうなってしまった際に、
その他の存在が手助けをしてくれます。
動きやイメージ、音、縷々様々な方法で。
その些細な変化や動態に気が付ければ
意識が外側へ向くきっかけとなって、
脱肥大化が始まります。
これが「最速最短の事後」です。
肥大化は誰にでも起こりますし、
決して気分の善いものでもありません。
そして、脱肥大化をする為には、
多かれ少なかれ「気付き」が必要です。
自身が気が付こうにも、
気が付く為には感覚の手触りが必要です。
これが「五感の強化」です。
その感覚というのは、
普段から使ってその手触りを認識していないと
使おうと思って使えるものでもありません。
なので、日頃から五感を研ぎ澄まして
感覚を養う事が鍵となってくるのですね。
五感を軽視するのは
気付きを得る上で
本当に愚の骨頂
事実は動きを経て
事後となり
それは五感で
感じ取るんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
何かをする時や動く時、
自身の中で何を考えているのか
どういった思考をしているのか
それ自体を考えた事がありますか。
これを「前提」と、言います。
自身がやれる前提なのか
やれない前提なのか
やろうとしない前提なのか
やらない前提なのか
一体どういう思考で動いているのか。
今、ここを視て聴いている段階では
何も問題が無い「平時」ですから、
非常にポジティブに捉えて
やれる前提しかないと
思考している筈です。
しかし、いざ何かが起きたり
例えば、僕の様な存在にアドバイスや
何かを教えてもらったり、
自身で何かを見聞きして
歩みを進めようかと思ったその時に、
先程の前提が動き出します。
これら前提が動き出す時の鍵となるのが
「素直さ度」です。
素直さ度が一定よりも高いと、
前提は「やれる」一択となります。
この時に、失敗を考慮しないかと云うと
当然に考慮します。
寧ろ、失敗する事ありきであると
言っても良いほど、失敗を考慮します。
それでも前提は「やれる」と思考する。
反面、素直さ度が一定よりも低いと、
前提は「やれる」以外の選択となります。
この時は、失敗を考慮ではなく
失敗を恐れたり、その影響から生じる恥を
恐れる様になります。
結果、せっかく見出したヒントも
相手からの厚意も、周りの純朴な努力も
一瞬にしてあっさりと棄て去ります。
「どうせ出来ないし」とか
「難しいことを言われた」とか
何もかもを無碍にする言葉を
平気で口にしたり、頭に思い浮かべたりする。
実際に、僕自身も言われた事が多々あります。
問題の解決へ向けたやり易い方法や
最速で最短な方法を提供しているのに、
何もする前から拒否反応を優先させる。
自身で揚げ足を取って否定をする。
非常に下らない考え方の一つですが、
何故この様な事をするのか。
原因自体は素直さ度の低さなのですが、
そこを起因とした「楽依存」が
この意思決定をさせています。
早い話が、自分の事なのに
「自分は何もせずに解決をしたい」とか
「傷1つ負わず、息1つ上げずに」とか
他力本願で無責任な思考に
普段から溺れているからなのですね。
何をしなくても只管に
拝んでいれば幸せになれるという
お花畑思考です。
今後、自身が何かを決断する際に、
前提をどの種で捉えているのかを
自分自身でチェックしてみると、
己の素直さ度の高さが分かりますよ。
やれると前提したって
何でもやれる訳ではないですが、
やる前から揚げ足を取って
何もやらないのであれば
黙ってその場で一生伏して
生活していればいいのですよ。
自に堕ちて
地獄巡りに
興じるのかは
刹那の決断で
決まるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
愉しみを得ると嬉しい気持ちになります。
と、同時に
そこからの努力をしなくなっていきます。
愉しみを得る事は目的になりますが、
終着点ではなくて通過点です。
その愉しみを如何に
「維持継続」させるか。
ここが重要になってきます。
1つの目標、1つの目的を
達成させたいがあまり、
そこで力尽きてしまう。
本末転倒な話ですが、
往々にして繰り広げられている現実です。
本来のスピリチュアルに於いて
少なくとも、この現世には
ゴールというものが存在しません。
強いて云うなら、
自身の得た「愉しみ」や「想い」を
永年で維持させていく事こそが終着点です。
愉しみや想いというのは
サイズの違いに関係なく基本的に
「持続性を有した一過性のもの」です。
但し、その持続性を発揮させるには
日頃からの努力を
続けていかなければなりません。
それが出来なければ、
単発の一過性で終わるのです。
つまり、貴方が今の今
愉しみや想いを得たとしても
そこで安心して動きを止めてしまったら
その愉しみや想いというものにある
持続性は雲散霧消するので、
そこまでで立ち消えてしまいます。
この持続性は非常に繊細で、
思い遣りや徳の表現型でもある
「日頃の業」を通じてでしか
養う事も強化する事も、
ましてや、使い熟す事も叶いません。
そして、日頃の業というのは、
自分本位を代表とした己の念によって
常に掻き消される状態にあります。
これを「相殺(そうさい)」と言います。
だからと言って、己の念というのを
消す事は叶いません(表裏一体の原則)。
なので、念を理解し、認め
上手に付き合っていくしかないのです。
如何にその「付き合い」を
柔軟に熟し続けるか。
日頃の業を続けられるか。
どこまでも柔軟にストイックに
制御をし続けていく。それこそが、
愉しみや想いを維持継続させる
唯一の方策なのですね。
途上でしかない
自分に甘え
続けている内は
真の幸せなど
手に入らないんやで