皆さんこんばんは、あにきです^^
スピ日々あるあるで、
「連日投稿をすると閲覧数が減る」
という現象が生じます。
普通は逆に増えるんですけどねwww
どういう訳かスピ日々の場合は減るw
恐らくですが、
つまんないだと思うんです。
スピリチュアルな日々ってわりには、
俗にいうスピリチュアル的要素とか
ミーハーなスピ要素は
皆無ですからね^^
今週に入ってからも
いい感じにそして、
着実に数が減ってきて
断捨離が進みましたので、
そろそろ
それっぽいネタを投下しようかと
思います。
さて、呪いについてです。
呪いというのは可能なのか否か?
結論、可能です。
たぶんですが、
皆さんが想像する呪いって、
丑の刻参りみたいな
道具を使うものでしょ?
実際のところ呪いってのはね、
道具なんかいらないんですよ。
ここでちょっとお勉強。
呪いのメカニズム。
丑の刻参りの場合…
拳銃に例えてみましょう。
藁人形と五寸釘(ピストル)
憎しみ等の念(弾丸)
相手の頭髪や爪(火薬)
それに加えて、
夜中じゃないとダメとか
人に見られたらダメなどの
制約が生じます。
藁人形に念という弾丸と
相手の髪や爪などの火薬を詰めて
五寸釘で発射させる訳ですね。
それにしても面倒臭い方法です。
どう考えても手軽ではない。
これが別の方法の呪いだったとしても
やはり同様に面倒臭い。
やれ生贄やら何やらが必要とかって
とても面倒だしそもそもがリスキー。
何でこんなに面倒なのか?
それは、これらの方法が本来の呪いの
デメリットを避ける為の模倣品だから。
模倣品と言ったって、それでも
一抹の効果はあると思いますよ。
ただ、
凄く限定的で効果率は低いでしょうね。
ハイリスクローリターン。
人の創りし模造の業ですからね。
そんなもんだと思います。
肝心な部分を避けてますからね。
では、本来の呪いの場合は?
自分の身体(ピストル)
憎しみ等の念(弾丸)
自分の寿命(火薬)
これだけです。
え、簡単じゃん...
と、思ってもやらない方が
身のためです。
自分の寿命がただ減るだけでなく、
身体的不具合と精神的な不具合、
周りからの受呪などが
想像以上にこっ酷いです。
リスク効果の範囲も大きくてですね、
まず今生の血族血縁への悪影響や
大切な人への悪影響、
ご自身が亡くなった後の行き先と
仮に輪廻可能だったとしても、
その後の人生での行き先の酷さ。
つまり、
四方八方からどえらい目に合いながら
生きてても死んでも、
生まれ変わっても相当長い間苦しみ、
更にはその時に関係していた人を
巻き込むだけ巻き込み恨みを買う。
その代わり効き目はある。
ハイリスクハイリターン。
誰でもいつでも出来る反面、
リスクが大きすぎる裏技。
これが本来の呪いです。
その最大のデメリットでもある
リスク効果の範囲を
限定的にするために、
敢えて寿命を使わずに生贄を使う。
結果として
どのみち寿命は減るけど、
それは発動者のみの話で済む。
効くか効かないかも運次第。
そして、
どちらの場合も抜け目があって、
発動者とターゲットの魂の格(霊格)の
差によっては全く効かない事もあります。
効かないどころか、
割りと簡単に返されてしまうのも、
呪いのデメリットの一つです。
ですからね、
呪いなんて馬鹿らしいので
やらない方が賢明なんですよ。
末代まで引き摺るわりには
つまらん結果しか出ませんから。
その本来の呪いのやり方を
ここで書くほど浅はかではないですが、
ご自身が正しい知識を身に着けて
ある一定のラインを越えて
事象を把握出来るようになると
嫌でも方法は分かる様になります。
ただ一つ言える事は、
恨み節を語っているだけの人や
自分の事ばかりの人には
一生涯掛かっても方法なんて
分からないです。
なので、ここでこんな事を書いても
全然大丈夫なんですね!
皆さんこんばんは、あにきです^^
スピ系の人達やスピ好きの方々は
一度くらい聞いた事のある言葉、
「近しい人は霊視出来ないです」
「自分を霊視は出来ないです」
これですね。
よく当たり前みたいな感じで
この台詞を言う人がいますが、
結論から言うと、
普通に出来ますからね。
視えないなら視えないで
別に良いんですよ。
何も恥ずる事ではないんですから。
なのに、どうして態々見えない事に
理由を付けるのか...
疑問に思えませんか?
配偶者だから視えないとか、
子供だから視えないっていうのは、
理由にならないんですよね。
例えば、
配偶者は視えないって言っても、
配偶者になる前もあった訳でしょ?
「視れるけど視ない様にしてます。」
であるなら、理屈は通りますよね?
怖いからとか、
色々考えちゃう人もいるだろうし。
(まぁ、でもそれも理解した上での
配偶者なのだと思いますけどね。)
けれど、それを言うなら
お客さんとかにもそのままを
言ってくれた方が良心的だと
あにきは思うわけですよ。
「視れるけどね、云々...」って。
その方が親近感が湧くだろうし。
だからこそ、疑問が生じるんです。
何故に態々理由を付けて
常識化させる必要があるの?と。
一概には言えないのだろうけど、
あにきが考えるところ
単にその人が自身のプライドを
護ってるだけなのではないかと
思うんですね。
以前にも書きましたが、
霊能者とかスピ系の人って
やたらと自身に神秘性を
持たせようとする癖があるんですよ。
「凄いでしょ!」とか、
凄いと思われたい!みたいな。
視える人分かる人から言わせればね、
なーんにも凄くなんか無いんですよ。
人としての思考はそのままだし、
特別な生活をしている訳でもないし、
ってか、超が付くほど普通だし。
それなのに...って思考すると、
人と違う優越感とか、
認められたいという承認欲求とか、
そういった事がメインになってしまって
ご自分を着飾るんだと思うんですね。
神秘性という鎧を身に着けて。
常々口にしていますけど、
神秘とかってのは
霊能者にあるのではなくて
人の周りに常にあるものなんです。
誰の周りにも日常的にあるものです。
それを教えてあげる役回りが霊能者。
ならば、霊能者自身が神秘性を装うのは
お門違いなのですよ。
極端に言うと
気付いてない人に教えるだけの存在
なのですから。
例えるなら、
学校で何も知らない子供に先生が
授業という形で色々教えてくれるでしょ?
その内容について「凄いよねー!」と、
子供の興味を誘う感じで言うなら良いけど
「先生は凄いだろー!」って
胸を張っているのと同じ事ですよ。
すげーおかしいじゃん?^^;
ですからね、もし皆さんが
何かしらの理由で霊能者と呼ばれる人に
話を聞く機会があったとしたら、
質問してみれば良いんですよ。
「近しい人は霊視は出来ますか?」
「ご自分を霊視は出来ますか?」と。
その答え方で、霊能者のスタンスとか
考え方とかを見極められますからね!
ニーチェではないけれども、
視られてるだけでは駄目です。
相手が視ているのだから、
自分もちゃんと視なくちゃね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、貧乏神から学んでみましょう。
貧乏神というのは、
あらゆる場面で自分を顕示します。
厳密には顕示するというよりも、
『その欲求を抑えられない』
と、言った方が合っていると思います。
このマウント取りは
様々な場面で起こるのですが、
ここではネット上に絞って話します。
例えば、あにきのお客さんと
その知合いの貧乏神が居たとします。
インスタなどで、
あにきがお客さんについて
御礼のコメントを書いたりしていますよね?
「〇〇市〇さんありがとうございます...」
みたいな感じに。
貧乏神はそれを見付けると、
私も俺もと言わんばかりの勢いで、
足跡を残したりします。
特にお客さんと同業や知人等の場合は、
さも、自分の方が上だと言うような
存在アピールをしてきます。
どの様なアピールかと言うと、
例えば、
思い出したかのように👍を押す。
DMやチャットに書く様な事を
コメ欄に態々記載して名を遺す。
(自己紹介とかね)
こういった手法を取る事で、
後日あにきやお客さんに直接会った際に
マウントを取れる様に話題を作っている
つもりなんですね。
それと、貧乏神の名売りです。
これらを目にした時に、勘の宜しい方ですと
文字だけとは言え、
「(凄く嫌な感じがする..)」と、
強烈な違和感を覚える筈です。
また逆に、「(丁寧な人だなぁ..)」と、
思ってしまった方は貧乏神化の危険性大です。
既に貧乏神になっているか近付いているか。
相当なお花畑思考な上に
人を見極められていないですからね。
なぜかと言うと、
個人情報がどうのこうのと言われている昨今、
大衆の面前たるコメ欄で個人名を自ら晒すなど
普通の感覚では有得ません。
にも拘わらず、丁寧だと思うという事は、
その方も同じ所作をするという事ですからね。
同じ穴の狢です。
この様に、少し思考すればやりすぎだと
考えられる己の顕示欲を全く制御が出来ず、
その場における自身の価値観で行ってしまう。
例えそれが、ネット上でも対面でも
場を弁えずに顕示してしまうのが、
貧乏神の共通点の一つです。
一般的な場合ですと、
その内容と場を弁えて色々と作業をします。
自分が記載しても良い空気感か?
中身のノリはどうだろう?とか、
頭が切れれば切れるほどに、
須らく思考した上で行動に移すものです。
自己顕示欲それそのものは悪ではなく、
誰にでも備わっている機能です。
但し、使い方と制御を誤ってしまうと、
要らぬ恨みと善からぬ流れを全面的に
被ってしまうという事になります。
これはどの欲求にも言える事ですが、
自身に適した業を課すには、
適切な制御が必要となってくるんですね。
それを踏み外した存在が貧乏神なのです。
常に冷静に、常に思考する。
人をよく視て、話をよく聴く。
悪戯に相槌を打たない。
逃げの笑顔を作らない。
勇足に確証を持とうとしない。
綺麗事に溺れない。
バランスを常に意識する。etc...
日頃よりこれらを
曇りなき思考で実行し続ける。
これこそが
貧乏神化の防止と回避の礎であり
落とし穴回避の基なのですね。
運気を上げたければ
日頃からの努力が何よりも一番
という事なのです。
皆さんこんばんは、あにきです^^
誰しも貧乏神には堕ちたくないと
思っているはずですが、
残念ながら、貧乏神になるための
切符は既にお持ちになっています。
その切符を使うか否かの問題です。
出来れば使ってほしくないので、
とりあえず貧乏神を深堀して
知ってもらおうかなと思いました。
貧乏神の特徴というのは、
簡単な要素は以前にも書きました。
↑これですね。
もう11ヶ月前なんですね、
早いものですねぇ(シミジミ)...
で、それはそれとして、
もう少し深い面で貧乏神の特徴を
見ていきたいのですが、
貧乏神という存在の人には、
絶対的な共通点がありまして。
その内の一つに、
「自分が無い」
という特徴があります。
その名の通り、自分が無いんです。
アイデンティティーを保持してない。
歩く風見鶏です。
自分の嫌な面を認める
という事が決してありません。
では、良い面は認めるのかと言うと
それも怪しくて、
まず認める事が無いです。
何故かというと、
他の人よりも優位ではないからですね。
唯一、認める点というのは、
他の人より絶対に優れている点のみです。
そこは永遠に誇張誇示します。
つまり、その場その場で
立場の弱い人から褒められた点とか
ヨイショされた点のみという事ですね。
本来の自分の善し悪しというのは、
どっかに置き忘れてきたので、
既に失っています。
それが故に、貧乏神は必ずマウントを
取る様な話をするんですね。
(中身は無いんですけどね...)
では、
完全に己を見失っている貧乏神は
どうすれば見分けられるのか?
それはとても簡単で、表情に出ます。
特に目と口周りです。
いつも斜に構えて人を見る癖があるので
目尻が細くなっています。
これは細目という事ではなくて、
細くなってくるんです。
皺も多くなります。
作り笑顔が多い場合は垂れ目気味ですし、
怒り顔が多い場合は吊り目気味です。
それと併せて、眼球が濁っています。
これは貧乏神ではない人を見た後に
視ればよく分かってきます。
口周りに関しては、
曲がっています。唇が曲がってます。
上と下で合っていないんです。
煙草癖が付いてるとかではなく、
ガチ貧乏神になると、
顎から曲がります。
これは、常に否定を続けて
常に被害者(ではないのに)意識を
思い続け、口を尖らせて話す癖が
付いてしまっている為、
顎から曲がってしまうんですね。
これらの検証も簡単です。
ご自身の周りにいる
貧乏神と思しき人物の真顔を
見れば良いだけ。
顔の中心に縦線を引いて、
左右の曲がりを見るんです。
目の場合も左右を別個に確認します。
試してみて、
危ないなと思ったら近寄らなければいいし
自分がそうなりたくなければ、
綺麗事ばかりを述べないで、
自分の嫌な面も自分として認めりゃいい。
良い面も嫌な面も両方あっての
自分なんですから。
皆さんこんにちは、あにきです^^
30年以上前の出来事。
蒸し暑いとは言っても、
今程の暑さは感じていなかった6月。
夜の7時半から9時の間はとても憂鬱で、
毎日が滅入る様な日を過ごしていた。
というのも、その時間は習い事の時間で
走りたくもないのに
走らなければいけなかったからだ。
俗にいう長距離走。
しかも、教えているのは実父。
別に競技者でも経験者でもないのに、
何で父が教えていて、
どうして自分がやらなきゃいけないのか
全く理解が出来なかったが、
気が付いたらやらされていて、
逆らう事は無駄な生活を続けていた。
走る場所は自宅から徒歩5分ほどの公園で、
割と急な坂を登り切った上にある。
ある夜。
19時半近くになり、
家を出て公園へと向かい始め、
登り坂の途中でふと人影が
目に飛び込んでくる。
坂の途中には墓地があり、
所謂、霊園なので誰でも入れるし、
これと言った目隠しも無ければ、
夏至も近いのでまだ明るさが残っており
普段以上によく見えるのだが、
霊園中央敷地端にある拝堂の前に、
肩までの白髪で、
腰の少し折れ曲がった年寄りが一人
立っている。
時折、
夜に墓参りしている人が居たりはしたが、
主に彼岸などの時期だったりしたので、
珍しく思えたし何よりも装いというか、
出で立ちが少し妙だった。
墓参りであれば、
何かしらの道具を手に持っていたりするし、
手ぶらで歩くという人は
昼でも中々見かけない。
他に連れの人も居ない感じなので、
ひとまずは、
「(おさんぽ婆ちゃんか...)」
という事にして、
その時は意識から片付けておいた。
苦痛の90分が終わっての帰り道。
今度は来た道を下って帰る。
おさんぽ婆ちゃんの事など、
とうに忘れていたが、
霊園に差し掛かった時に半ば無理やり
思い出すことになる。
何気なく視線を霊園に向けた時、
あの婆さんが、立っていた。
しかも、
微妙に立っている位置が変わっていて、
拝堂の前ではなく、
少しこちら側の墓を眺めているというか、
覗き込んでいる様子。
日常的とは言い難い光景を
目の当たりにして、
前を歩いている父に話そうかとも思ったが、
どうせ馬鹿にされるのが目に浮かぶのと、
この世で一番弱みを
見せたくない存在でもあるので、
強張りながらもグッと堪えて帰宅した。
翌日も同じ時間に歩いて出かける。
歩き始めると昨夜の事を思い出す。
「(居たら気持ち悪いな…)」
と、思いながら坂を登り始め、
中腹まで差し掛かった時、
霊園に目線を移してみる。
居た。
昨夜と同じ様相で、婆さんが立っている。
内心ではガッツリ驚きながらも、
波風立ててはいけない気がして
声に出すのは憚った。
帰り道は昨夜とは違い
忘れている事などなく、
寧ろ気になってしまい覚えていた。
微妙に堅い挙動をする身体を制御しながら、
霊園へ差し掛かったその時に婆さんはいた。
が、ここで子供ながらに一つ気が付く。
近付いてる。
昨夜、最初に見掛けた場所から比べると、
少しずつではあるが、
こちらの道路側に近付いてきてる。
行きの時にも少し気にはなったのだが、
この時の様子で確信が持てた。
間違いなく近付いてきてる。
この婆さんは何が目的で、
そもそも何をしているのかすら
分からないが、
近付いてきてるという事実だけは、
10歳の自分の脳内にも正確に
植え付けられた。
ここから数日間、
厳密には5日間だったが、
婆さんは徐々にこちらへと
近付いてきていた。
どうして5日後だと
断言出来るのかと言うと、
30余年が経った今でも
鮮明に覚えている出来事が起きた
という事と、
その日を境に婆さんが
居なくなったから。