皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
誰にでも辛い時ですとか
苦しんでしまう時があります。
そういう時と云うのは
比較をしてしまっている時が多いです。
他者と比べたり
周りの状況と比べたり
自身の過去と比べたり
比べたところで仕方がないのに
比較をしてしまう。
これは己の意識が内側に向いていたり
向き始めてしまうので
起きてしまう症状です。
この状態が進んでしまうと
意識の方向は加速度的に内側へと
引き摺り込まれていきます。
そうなってしまうと
以前からお話をしている通り、
思考的視野狭窄を引き起こします。
周りが視えなくって考えられなくなり
自己憐憫などの自分本位状態に
陥る事を示唆します。
そうなってしまうのは
とても悲しい事ですから、
なるべくならば回避をしたいものです。
では、どうするのか。
まずは、
自身が「比較」している状態にある事に
気が付く必要があります。
これは簡単ですが困難です。
意識の向き方が浅ければ
自身で自然と気が付きます。
後ろ向きな思考状態となるので
場合によっては身近な人に対して
自身の状態を話すかも知れませんし、
その上で、
指摘をしてくれたりするので気が付けます。
もしくは、貴方が何も言わずとも
その状態を誰かが察して
教えてくれるかも知れません。
自分自身で気が付こうが、
協力してもらって気が付こうが、
今の自分を認める。
今の自身を愛でる。
これが出来るか否かで、
その後に自分本位状態へ入るかどうかが
決まってくるのですよ。
駄目な自分に拒否感や後悔を覚えている内は
自分本位に一直線ですね。
ご都合主義ばかりで意味の無い反省を
口にしたり教えてもらうよりも
駄目な自分をしっかり認めつつ
それを笑い飛ばす様な言葉を
発してほしいものですね。
この困難さを
理解せずに
良い自分だけを
愛でるものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
前回の流れから
「他所は他所、うちはうち」
と、いう価値観を手にして
世間体からの乖離を始めた際に、
重要となってくるのが
「過去を認める」
という動き方です。
世間体に逃げ場を求めたり
過度の俗欲依存に陥るのは
「自身の過去を認めていない」
事が、最も大きい要因の一つです。
とは言え、誰もが嫌な過去を
持ち得ているものでもありませんし、
皆が皆、トラウマティックで
ショッキングな体験や経験を
している訳でもありません。
だからこそ、
過去を認める必要があるのです。
問題なく生きてきたとして、
その「問題無く」は貴方が軸になっている
「問題無く」であって、
貴方が問題無いという事は
その皺寄せを誰かが被っていて、
貴方がそこを踏み台にして
問題無く生きてきただけなのですね。
つまり、自身の過去には
駄目な自分が確実に存在している。
トラウマもショックも無いから
駄目な自分にも気が付かない。
必然的に「善い自分」ばかりへと
目を向ける様になるので、
殊更、駄目な自分など視る由も無くなる。
その善い自分は維持がとても難しく、
最初の内こそ自身で何とかなるものですが
善い自分というのは決まって、
「他の評価に頼りがちな面」
でもあります。
褒められたりとかする点ですね。
善い自分の維持は快楽を伴います。
褒められたりすると嬉しいでしょ。
これが快楽です。
この快楽を求めるが余り、
更なる綺麗事で自身を固めていく。
ここが「世間体への逃避」であり、
過度の俗欲依存への起因です。
ここで今現在の自身を視たところで
現在を認める事も出来なければ、
根本的な原因を知り得ていない訳ですから、
先に繋げる事など無理なのですね。
誰しもがまさか自身の過去が
総ての起因となっているとは考えません。
善い点だけだと思っていた自身の過去を
しっかりと認めなかったが故に、
いつの間にか俗欲に溺れてしまっていた。
そして、本来のスピリチュアルでの
「過去」には「現在」も含まれます。
時間は留まれないのです。
常に過去を生み出す製造機だと思えばいい。
故に、「現在」は「過去」となります。
過去の中での駄目な自分を認める事が
今現在の駄目な自分を認める事に繋がって
将来やその先に繋がっていく。
面倒だからといきなり現在の駄目な自分を
認めようとしても、
それはあくまで表面上の造られた駄目な自分
だけしか視えていないし認めないので、
結局は過去から連綿と続いていて自身の深淵で
淡々と肥大化している駄目な自分に
引き摺られてしまって、
自に堕ちてしまうのですね。
それでは哀しいだけです。
現在を含めたその先を善くしたいのであれば、
過去をしっかりと認める事が、
根柢の駄目な自分を認める事が
将来へと繋がっていくのですね。
本来のスピってのは
こんなもんやし
最先端の科学にも
通ずる事なんやで