2025年10月30日木曜日

自身での選択(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




愉しみを愉しみとして
理解する事が出来る歓びというのは
誰もが味わう事が出来て
誰でも味わえるものではないのです。

「愉しむ」という権利そのものは
皆最初から持っています。

けれども、
「愉しみ」自体を取得するのは
貴方の努力次第なのですね。

目標や目的を定めて
そこへ向かって努力する。

その渦中に色々とある訳なのですが、
俗欲へと溺れてしまえば
手段が目的となってしまいますし、

努力を怠って他人任せや
他力本願に陥れば
やはり得られるものは乏しくなります。




愉しみを得るというのは
目的ではなくて
あくまでも「通過点」に過ぎません。

「副産物」と言っても善いです。

何かに向かって努力をしていく中で
俗欲などの「念」ではなくて

相手や人に対する「想い」という
触媒を使って自身を突き動かし
業を全うさせる。

その結果として、
得る事が出来るのが「愉しみ」です。

自分の独りよがりや
勝手な動きに溺れていては
到底得る事などは出来ない代物です。

優しくもあり厳しくもある

貴方自身が努力をして初めて
手にする事が出来る宝物

それが「愉しみ」。

誰もが味わえるけど
誰でも手に入るものではない。

業によって自然と選ばれる代物であり
選ぶのは誰でもない「貴方」ですけどね。

神だの仏だの
そういう存在が
選ぶのではなく
貴方の事は
貴方自身が
選ぶものなんやで

2025年10月26日日曜日

愉しみは一度きり(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




愉しみというのは
そこら辺に沢山転がっています。

気が付けるかどうかは
人によりますが、
数で言うと膨大なものです。

ですが、今までも話している通り
その「愉しみ」は

自分が「想いを」無碍にした瞬間に
綺麗さっぱり消えてしまいます。

人に併せるものでもなければ
自分だけが善くなろうと
するものでもなく、

「相手の意を汲む」

と、いう点が肝になるのですね。




一度失った愉しみは
二度と手に入る事はありません。

何度でも大丈夫と思いがちですが、
同じ愉しみは二度と手に入りません。
一生に一度なのですね。

その時間、その場での愉しみは一度きり。
類似した愉しみを
後に得る事は可能ですが、

その時に失った愉しみと
同じという事は絶対にありません。
あくまでも代替なのです。

かと言って、全ての愉しみを
手の内にするというのも
これまた無理な話となります。

ですから、
手にするチャンスを得たのならば
それを反故にする様な真似は

貴方にとって
確実なマイナスになる訳ですから
出来る限りしない方が良いのです。

そして、
反故にしたり無碍にしたりする時は
決まって貴方が

貴方自身の俗欲や駄目な自分を
優先させた時だというのを
忘れてはいけません。

想いには想いが
返ってきて
念には念で
バッチリ
返ってくるんやで

2025年10月25日土曜日

ぜんこうきあく(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




世の中に出回っている
縷々様々な常套文句のセオリー

説や理屈や理論という意味ですが、
これらはその奥にある
何かを隠したり、意図してそこへ
誘導させる為の手段です。

そこには誰かの何かの意図があり
想いよりも念、つまり俗欲ですが
これらを達成させる為の
売り文句として
安売りをしている場合が多いです。

スピリチュアルについても
それは例外ではなく、

本来、幸せを得ようとしたり
善くなるという事は、

非常に困難な道のりで
誰しもが一定の苦痛を
伴うものであるにも関わらず、

その真髄や内訳を端折りに端折って
さも、簡単で誰でも気軽に得られると
述べたりしています。




実際にはそんな事は無く、
どうにも辛い道のりを選ばれたり
選びたく無くても人を選んだりと

苦痛や心痛を伴って
胸を擦り減らす様な経験の先に
得られる物が幸せであり
運気の向上や維持という動きになります。

難しいという事を目や耳にすると
人は事実を遮断します。

要は、考える苦痛を得たくないから
逃げるという意味ですね。

それを見越して
「誰でも簡単」というワードを使う。
引き寄せはそれで良いけれども、

その先に理に適った説明が
あるのかというとそれはない。

と、いうよりも、説明が出来ないのですね。
この手のやり口で利己的な動きをする人は
貴方が善くなるよりも、
自身の利益のみを追究します。

実際に、綺麗な言葉のみを使っていて
そこに幸せは引き寄せられましたか。

ご自身がご家族が
誰もが満足がするような幸を
常時得られていますか。




幸せや善くなるというのは
そういった善の面だけで
どうこうなるものではないのです。

「善幸帰悪」と言って、
善い事や幸を望んで事が過ぎると
必ず悪へと帰してしまいます。

綺麗な言葉を使うのであれば
汚い言葉の意味も知って適宜使う。

美を意識して醜を徹底排除したところで
結局はいずれ己が醜悪となる。

物事や事象を捉える上で必要なのは
その奥行きを嬉々として見詰めて
理解に向けて努力をする思考です。

誰にだって汚い面や駄目な面はある。
プラスも有ればマイナスも有って
負の側面になればなるほど
それを隠して接するでしょ。

それが自然の摂理なのですね。

手軽な売り文句や軽いワードのその裏には
広めている人物にとって
見せたくない知られたくない何かがある。

これが物事や事象の奥行きです。

世に広がる甘い言葉に惑わされずに
その奥を覗いてみましょう。

これは自身の内側にも
言える事ですからね。

善い言霊はね
感情が載って
初めて生まれます
感情が載らなきゃ
代わりに載るのは
念だけなんやで

2025年10月19日日曜日

虐め談義1(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




虐めをなくそう

そういう台詞を耳にして
数十年となりますが、
無くなっていないですね、虐め。

無くす事が出来れば最高ですが、
現行のままでは
まず無理だと思います。

社会的制裁を加えようが
仮に刑事罰を設けようが、
表面上の数を減らす事は出来たとしても
無くなる事はありません。

完全に無くすのであれば、
人の思考そのものを現行から変える
そういうレベルでないと
間違いなく無くならないです。

虐めと云うと学校での出来事や
子供の頃の話みたいに感じますが、

実際にはそんな事は無く
大人の世界の方が更に多く存在しており
そこかしこで起きています。

会社や組織やご近所だけでなく、
家の中でもありますよね。
嫁姑とか、親族間の話とかさ。

とんでもない数が蔓延していて、
それも殆どが大人です。
そんな大人を見て子供は育つ訳ですね。

そりゃ子供達も虐めます。
自分の身の回りの大人達が
堂々とやっているのですから、
真似をして当然なのですよ。




こういう話をすると、
何も知らない奴が話している
机上の空論の様に
聴こえてしまうでしょうから

一応、言っておきますが、
僕は幼少期にも、学生時代にも、
何なら大人になって勤めていた時にも
ハラスメントという名の
虐めを受けていますからね。

基本的に虐めは「立場の弱さ」が、
事態を悪化させていきます。

最初期は立場が対等で突っぱねていたり
耐えていたとしても、
繰返し押し寄せてくるストレスが
自分を圧迫すると同時に、
自分で自分を圧し潰す様になっていくのです。

そして、物を言わなくなったり
言えなくなったりする。
場合によっては、
そう教育されている場合もある。

手を出すな
口を出すな
汚い言葉を吐くな
相手を敬え
目上を敬え
親を敬え

真面目な子や人になればなるほど、
これらを忠実に身に付けていきます。

勿論、これらは間違っていません。
ですが、これらが通じるのは
相手も同じ立場や心情だった場合のみです。

それをちゃんと教えている人が
一体どれだけ居ますか。

世の中は理不尽だから、これが通用する様に
やっていかないと駄目だねと、
通用しない事の方が多いからね。

と、本音で教えている人が
どれだけ居るでしょうかね。




建前論や綺麗事を基礎として
肝心な部分を教えない内は、
人は亡くなっても
この問題は決して無くなりません。

例えば、
僕が学生時代に受けた虐めには
僕の実の両親も虐める側に
加担をしていました。

それが止めとなって、
僕は自殺を決意するのですが
御覧の通り未遂で済んでいるので
こうしてここでお話をしています。

これはラッキーだったとしか
言えない結果です。
その後、環境が変わったのかと云うと
何一つ変わっていませんし、

劇的に変わったのは
僕自身の考え方のみです。
この時に、先述したお話の考え方の
基礎が出来上がりました。

無くせない。無くならないから、
無くそうと言う。

そこには人の後ろめたさ等もあるから
余計に無くなる事は無い。
そうこうしている内に、
一人また一人と亡くなっていく。




本当に無くしたいのであれば、
根本的な考え方を変えて
言葉よりも先に
実力行使に出るしかないのです。

暴力へと訴えるのではないですよ。
場合によってはそれも必要ですが
それは賭けでもありますし最終手段です。

それよりも、
被害が出ない様にする為の
「認識の実力行使」と

被害を被った際に行う
「法に基いた実力行使」

これらを同時にやっていく事が
大切だと僕は考えます。

「教育と制裁」ですね。
そして、「避難」です。

世の中は理不尽です。
平等という幻想に溺れずに
不平等の中を上手く生きる為のコツを
その身に植え付けていく事が、
重要となってくるのですよ。

一人で抱えるな
味方は必ず居る
それが親や家族とは
限らない
生きている人とも
限らないんやで。
必ず生き延びるぞ

2025年10月18日土曜日

幸せの流儀(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人は幸せを追い求める事に
暇も果ても無いです。
けれども、実際のところそれは
物凄く無駄な努力とも言えます。

何を以てして幸せなのか。
自分の幸せとは何なのか。

物が沢山あれば幸せなのか。
お金を沢山持っていれば幸せなのか。

好きな事が出来れば幸せなのか。
好きな人と居れたら幸せなのか。

言い出したらキリが無い上に、
個々人での差も開き過ぎる内容ですね。

人によって違うものですから
どれもが正解とも言えますし、
どれもが違うとも言えます。

では、
本来のスピリチュアルの観点からすると
どうなのかと云う話なのですが、
その「大元」を目指します。




大元とは何なのか。
結論から言ってしまえば、

「動ける」という幸せであり、
「健康である」という幸せです。

あまりにも単純で
あまりにも身近過ぎる事ですから
ピンと来ないかも知れませんが、

ここが幸せの大元であり
全ての幸せの根源です。

この、動けるという事と
健康であるという事が如何に幸せなのか

この真実に対して
自身が気が付ける様になれるか。
目を向けられる様になれるか。

これが幸せを得る上で
最大のポイントとなります。
また、このポイントには
想いも念も詰まっています。

そして、その反応もダイレクトです。

あまりに近過ぎて視えない事なので
相当に意識をしないと決して視えず、
その瞬間瞬間の想念によっても理解が及ばない。




動けているから理解が出来ず
健康だから意識にも昇らない。

そんな単純で近いものが根源ですから、
実際に動けなくなったり
健康を害した時でないと分からないのですね。

仮にそれが自身に及ぶ事でもそうですし、
家族に何かがあった場合でもそうです。

そんな根源を如何に知れるか。
動ける状態の時に、健康な状態の時に
いの一番で知る事が出来るか。
理解が出来るか。

また、
その認識を常に己の内に秘める事が出来るか。

これが本来のスピリチュアルでの
幸せの根源の一つです。

ここからの派生が、
先に話した内容云々となるのです。
つまり、

「幸せは既に足りている」

と、いう事なのですね。




この概念が理解出来なかったり
理解をしようとしなかったりするから、
後になって塞込んだり
困り果てたりしてしまうのです。

足るを知っていれば、
そこから先の動きには制約を設けます。

無理をすれば反動が起きて
派生した幸せすらも
御釈迦となってしまうからです。

今、ここを観ている時点で
貴方の幸せは既に足りていて、

それ以上のものは
「一体何を目的としている幸せなのか」を
考えなくてはいけません。

他所様よりも裕福になりたいとか
幸せをひけらかしたいとか
そんなものは
実にくだらない俗欲に過ぎませんし、
目的ではなく手段です。

今もこの先も生活が出来ればそれでいい。
自身や家族や大切な人が
決して困窮しない程度に日々の努力を重ねる。

それが本来のスピリチュアルに於ける
幸せの在り方であり、
幸せの流儀なのですね。

例え、自身が家族が大切な人が
病気などであってもそれは変わりません。

伏して何もしないのではなくて、
動けるのであれば動いて、
動ける事に幸せを見出す。

健康であればその健康を維持する努力をする。
何かに罹患していたりするならば、
現時点での状態を認めた上で
回復に向かって健康を意識したり、

健康を目指せる事に幸せなのですから。

僕も指定難病の家族を抱えています。
医師からは治る事は無いと言われていますが、
この考え方は病が発覚する以前から
ずっとずっと若い頃から
何も変わっていませんからね。

動けて健康である事。
これが何よりも幸せだという真実を
足るを知るという考え方を
皆さんも理解が出来れば、
生きるのがとても愉しくなりますよ。

欲を搔けば
果ては無いんやで
幸せの形ってのは
人それぞれで
ええんやで