皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
感情を突き動かされた際に、
どこへ向かってその感情を押し出すのか。
これは意識の方向のお話ですが、
人の内面を視る上で
非常に分かり易いポイントでもあります。
感情を動かされる点というのは
日頃から多々ありますが、
あまりに小さいものですと
逆に分かり難くなりますので、
ここでの例えでは冠婚葬祭とします。
人生の中で儀礼として
御身内出なくとも
幾度かは参列をすると思います。
この時に、果たしてどこへ向かって
感情を投げ掛けているのか。
誰のために感情を出しているのか。
これを視るのですね。
こうして文字で読むと難しく思えますが、
実際には至極簡単に見抜けます。
主となる相手に対して涙を流したり
微笑んだりしているのか。
自分に対して、
泣いたり笑ったりをしているのか。
周りへのアピールとして
演じているのか。
第三者として視てみると
面白い様に見抜けます。
気持ちや心、想いや念というのは
想像している以上に形として出るのです。
それはどんなに気を付けていても出ます。
ましてや、
疾しい感情が出ているとなると
視ている側が嫌になるレベルで分かります。
純粋に主となる相手へ真摯に向き合って
動いているのであれば、
その所作は自然体として現れます。
そして、それは儀礼外の部分でも
何ら変わる事がありません。
過去の思い出などという意味で
自分に対して向いている場合も、
割と自然体として出ます。
感情面で希薄になる事も多いですから、
却って薄情者だと勘違いされたりもします。
問題は周りへのアピールの場合。
これは露骨に感情を出しますが、
その出し方が過度となるので違和感を生じます。
大袈裟と考えれば分かり易いですね。
けれども、単に演じているだけですから
驚くほど長続きしません。
そもそもやりたくない事なので、
長続きさせる事自体が出来ないのです。
独りになっている時、
その場から離れている時、
人の目から離れている時、
全ての感情がリセットされて
行動が一気に自分本位へ傾きます。
発言から所作、ほんの少しの動きに至るまで
それまで抑えていた自分本位が
堰を切ったかの様に出てきてしまいます。
人の本性を見抜きたいのであれば、
こういった点を押さえるのですね。
普段から自分本位なのだから、
早く楽をしたい気持ちが秒単位で高まります。
いつもやらない事をやるのですから、
耐えられるものではないのですよ。
目の当たりにしたら
迷う事無く
距離を取るべきやで
情を掛けたら
引き込まれて
自分も終わるで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
眠りから目覚めて一連の動きをして
また眠りに就く。
特に小難しい事を考える訳でも無く、
息が出来て水が飲めて飯が喰えていれば
生きることが出来ます。
現実的に考えた時、
息を吸うこと以外の動きには金銭が掛かります。
なので、何かしらの労働をして
対価としての駄賃を獲得しないといけません。
単に起きてからフラフラとしていれば良い
と、いう程この世は甘くないですね。
この定義は現在の地球上に居る限り
変わる事はありません。
また、国が変われば子供も年寄りも
この定義に加わります。
「生きる為に必要な事を当たり前に行う」
人に限らず生ける者総てが
この定義に則して当然の摂理の中で
同じ時間を過ごしています。
そこで考えが抜け落ちてしまうのが
「生き方」なのですね。
先述したのは「生きる」という
最低限の「動き方」つまり、手段なのであって
生き方という目的を意味する
「考え方」ではないのです。
考え方を思考するのはとても困難であると同時に
態々得ようとしなくてもいい代物です。
生きる事自体は可能となってしまいますからね。
だからこそ、考えなくてはいけない。
この考えの中に「思い遣り」や
「想い」というのが包まれており、
その中枢には個人であれば「素直さ」があり
多数であれば「協調性」が存在します。
それを形に成したものが「文化」であり
「会話」であり、慣わしや習慣でもあります。
私達はこの複雑で複合的な絡み合いの中で、
にも関わらず、個々人という狭隘度の高い状況に
晒されながら毎日を生きているのですね。
ですから、本質的には
大なり小なりの「目的」が必須となります。
実際に自分は何のために生き、
誰のために生きるのか。
一人きりではどうにもこうにも出来ず、
とてもではないけれど太刀打ちも不可能なので
想いを軸とした「生き方」を人だけでなく
万物から得なくてはいけないのです。
どう見積もっても善い事なのに、
何故か意識して思考しないといけないのが
「生き方」という考え方。
デフォルトでセットされていなければ
おかしい筈の思考回路が
どういう訳かオプション設定になっているのが
この現世に生きている私達なのですね。
そして、いちいち考えないといけない部分に
貴重で重要なものが詰まっているので、
考え方に想いが在しており、
その逆の動き方には念が在しています。
これが自然の摂理です。
考えなくても成せる部分を考えるからこそ
その先へ遵じた流れへと向かえるのですね。
これは別に物珍しい話でも無く、
海の向こうでも似た様な事を教えていて
エスキモーが話すユピック語では
生き方というのを
「ユウヤラック(yuuyaraq)」と云い、
単に生きるだけでなく感謝や思い遣り
尊敬や気遣いという「想い」を含んだ
文化的協調性や自然との共生を意味しています。
徒にカテゴライズせずに
現世の中の生ける形を正しく認識すれば、
どこに居たって答えは同じ罫線上のもの
同じ螺旋上のものとなるのですよ。
本来のスピリチュアルというは
万物を総べるものですからね。
紡ぐのも選ぶのも
全ては自分なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想いと念というのは
常に同じ場所にあります。
想いを使う時は念もその場にあって
同時に拠出しているという意味です。
思い遣りも同様で、
常に同じ場所には自分本位が居ます。
背中合わせの状態ですから
思い遣りを使う時には自分本位が
出易いという事になります。
相談事をされたり意見を述べる時などが
とても分かり易いです。
人は相談をされたり
意見を求められたりすると
自分の中では意識をせずに立場を作ります。
自然と「自分の方が上」という
認識が出来上がってしまうのですね。
これはどんな場面でも同じです。
そんな事は無いと思いたいところですが、
こういうのが自然の摂理なのです。
その上で、意見を述べたりするのですが、
ここで「思い遣り」というのを
しつこいまでに意識をしないと、
自分本位に支配されてしまいます。
意見を求められているのですから、
当然に話をします。
それもかなり自由に言いますね。
そこで、相手の立場や状況、性格などを
しっかりと考える事が出来ていない場合だと
意見は意見でも無理難題を
押し付けてしまったりするのです。
そして、その事実に意見する側は
全く気が付く事はありません。
後になって考えてみても分かりません。
自分が言われる側になって
初めて理解が出来るのです。
思い遣りだと思っていた事が自分本位だったと。
人に意見を求められるのは
とても気持ちが良いものです。
頼られているという快楽を得ますからね。
落とし穴はそこにあります。
嬉しい気持ちと快楽に溺れてしまうあまり、
相手のためという目的を逸脱してしまう。
一個人に対する意見なのだから、
その個人が行動可能な範囲で
意見をしないといけない。
にも関わらず、
個人ではなく組織に対する意見を述べてしまったり
苦言を呈してしまったりする。
しかも、自分は安全圏に居るので、
言う事は好き放題になります。
これが思い遣りでしょうか。
どう考えても自分本位に外なりません。
こういった場面でその人その人の
駄目な自分というのが露見されます。
どんな時でも「相手のため」「何のため」を
考えなくてはいけないですし、
これ自体は言うは易しで実際にやるとなると
普段からその動きをしていなければ
到底出来ない程に困難な動きでもあるのです。
思い遣りと自分本位、
想いと念は常に背中合わせです。
少しのお手伝いもやり過ぎてしまえば
「余計なお世話」となりますよね。
日頃からの積み重ねが出来ているかどうか
よくよく考えて業を熟していきましょう。
善い事ばかりを考えていると
気が付けば念塗れとなってしまいますよ。
意見を求められた時に
自分達が発した
言葉をよく考えて
考察してみるんやで
あにきとの違いが
よく分かるはずや