皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
とても辛い時に解決策という名の
答えを知りたいと思うのは当然です。
最初の内であれば
それで良いと思いますが、
出来る事ならセルフで解決する方向に
努力していった方が建設的だと
あにきは考えます。
その為には「よく考える」という
思考回路が必要になってきます。
ここでのよく考えるとは、
答えを出すのではなくて
「答えへの道筋を思考する」
と、いう事です。
以前より話している
「仮説を唱える」ですね。
楽というのは色々ありますが、
答えを知りたいだけの「楽」というのが
トップクラスで厄介な楽だと考えます。
縷々様々な事を知りたいと
あにきの所へやってくる方々がおりますが、
その「知りたい」という焦点が
果たしてどこに位置しているのか
そこを理解出来るか否かが問題となります。
例えるならば、
「答えのみを知りたいのか」
「答えへの式が知りたいのか」です。
答えのみを知りたいのであれば、
その人はそれ以上伸びません。
考えるという事を放棄しているからです。
逆に式を知りたいという人は、
間違えながらも思考を進めますから
時間は掛かれど必ず伸びます。
ここを理解出来るか否かが
とても大切になってきます。
これはスピリチュアルに限らず
普段の生活の中でも、
どんな事にでも当てはまる内容です。
考えぬ楽に溺れてしまっている人は
どこまでいっても他者の養分として
六道で言うところの「畜生」として
生きていくしかありません。
辛さを軽減させたり
解決させたいのであれば、
兎にも角にも思考をする方向へ進む事。
決して楽では無いですが、
必ずその先に進める事が可能です。
そして、
「その為の知識」や「考える方法」を
ちゃんと理解して教えてくれる存在から
しっかりと教わる事。
こういった努力をせずに
他者に頼り切りとなるという事は、
「自分は他者の所為にします」と、
公言しているのと同じですからね。
その先にあるのは
莫大な恨みを買って
貧乏神となり
地獄へ堕ちる道筋
だけなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
教える側は
「コンセプトの維持」
「コンテクストの把握と生成」が、
主だった姿勢の堅持となります。
コンセプトは方針で
コンテクストは簡単に言えば相互性ですね。
これらを教える側の姿勢として保持をする
そこに教える側の責任が生じてきます。
その先生によって方針は違いますが、
ここをお客さんや生徒さん等への
忖度などによってブレる様になってしまうと
意味が無い結果となります。
また、コンテクストについても同様で
教える側自身と教わる側との
立ち位置や考え方の把握や
教える側自身を中心とした
新たな相互性の生成を理解していないと
無駄な時間を過ごす様になります。
例えばですが、
教える側と教わる側とは立場が違います。
ここを教わる側とフルフラットで考えると
教える側は自由に動けなくなります。
余計な同情を施してしまったり
強く説明をする事が不可能となっていくからです。
同時に、教わる側の怠慢が始まります。
「どうせ叱られない」とか
「どうせ相手をしてくれる」などですね。
要するに、ナメられてしまう訳です。
これらのエラーが起きない様に
立場はしっかりと教える側を一段高く設けます。
その上で、教わる側に寄り添う姿勢を
設けてあげて教導するのが教える側の責務であり
教わる側との「想いの遣り取り」であり、
確固たる「想いの力場」を生成する事に繋がります。
ここを勘違いして、
平等という俗欲に溺れてしまうと
前述した様な結果にもなりますし、
いずれは自身のコンセプトすら維持が
出来なくなっていきます。
これでは教える側に立っているのに
俗欲に溺れた自分本位となるので
貧乏神という方向へと邁進してしまうのですね。
思い遣りとは程遠い動きをしているのですから
当然の結末を迎えます。
また、教える側と言っても
お金儲けを芯に据えてる人も
これらと同様の動き方をしています。
目的が目的ですから分かり易いのですが、
見せ掛けだけで聴こえの良いコンセプトを
設定するので、
普段より綺麗事に溺れている人等は
あっという間に騙されます。
これらはスピリチュアル業界だけでなく
ありとあらゆる業界業種に該当します。
こういった目線での人の見極めを
常に実戦で使い熟し、
生活や愉しみへと変換するのが
本来のスピリチュアルとなります。
いけない点やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
どの様な物事に於いても
「教える側」と「教わる側」という
明確な立場の違いが存在します。
どちらの立場にしても
その「姿勢の堅持」というのが
非常に重要となってきます。
教える側としては、
「コンセプトの維持」
「コンテクストの把握と生成」
方針や事象の相互性に関する事が
主だった堅持内容となり
教わる側としては前回記述をしました、
「本気度の濃さ」「素直さ度の高さ」
それに伴う純度の高さや
「理の三原則の把握」等が
主な堅持内容となります。
理の三原則とは、
「信に徹する」「伝に務める」「勇を用いる」
を指します。
互いの立場の中での姿勢の堅持は
想いの遣り取りに繋がります。
ここでの想いの遣り取りとは、
1つの目標の為に前に進んで行く事であり
その双方の想いが「想いの力場」を発生させ
運気を上げる事に一役買う流れへと繋がります。
ここで注意すべきなのが自身の俗欲であり
その最たるものが「自己満足」です。
例えば、教わる側に焦点を当てます。
教わるというのは、とても良い事ですが
その効果を発揮させるのは
「教わった事を使用もしくは使用後」となります。
その手前段階で終えてしまうと
教わるという行為に納得しただけの
自己満足となります。
前回記述した"何かの努力"をする訳でもなければ
教える側の想いにも反する姿勢です。
詰まるところ、
想いではなく自己満足という
「念基軸」での行動となり「念想の齟齬」が
発生する訳ですね。
これは自分本位な思考を以て
相手の想いを無碍にする事ですから
向こうの世界の八罪の一つである
「他への辱め」となります。
と、同時に理の三原則の把握にも
遵じていないという事にも繋がります。
教える側と教わる側は
決してフラットではありません。
そこには明確な立場の差が生じます。
その差を理解した上で、
双方の想いを歩み寄せる相互性が
「姿勢の堅持」です。
そして、立場の無理解と相互性の放棄は
教わる側より発生をします。
何かを教わり前を向いていこう
進んで行こうとするのは
教わる側の目標であり目的です。
にも関わらず、教わった事を使いもせずに
自己満足という俗欲に溺れたり
不努力を棚に上げた身勝手な言い訳をして
その指針すらも自ら放棄する。
姿勢を理解しない人は
運気を上げる事など無理に等しいです。
ここを掌握せずに自分本位を貫いた存在が
貧乏神でありその眷属です。
決して他力本願で
楽して得られる様な
モノではないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
常日頃より
「嫌な事は起きないでほしい」と、
願い請うものだと思います。
確かにその通りなのですが、
肝心なのは起きた後の対処
つまり、「事後の対処」です。
事前や未然の希望や願望ばかりを
強く請い過ぎるが故に、
起きた後の心構えや対処などが
疎かになってしまう
という現象が起きます。
そこには、
「本気度の薄さ」
というものが、関係してきます。
強く請うというのは、
一考すると自身の行動と捉えがちですが
請う事自体が外側に向けた行為です。
要するに、他力本願ですから
簡便に例えてみるならば、
「言ってみただけ、あとはよろしく」
「やってみただけ、あとはよろしく」
「聞いてみただけ、あとはよろしく」
みたいな感じとなります。
本気度が薄いのですね。
これとは逆に、
請う為に‟何か”を捧げたり
請うから“何かしらの”努力をする
などであれば、自己努力の一環となるので
本気度が濃くなります。
この場合ですと、
同じ様に「何かの事象」を想定して
喫した際に事前や未然の希望ではなくて
事後の心構えや対処を
現実的に想定する様になります。
物事や事象に対する思考というのは
「事後に向けた事前の動き」が、
須らく重要となってくるのです。
よく視てよく聴いてよく考える
と、いう簡潔な業はここにも繋がります。
本来のスピリチュアルで重視するのは
ファンタジーに満ちた事前や未然ではなく、
そこに存在する事後一択です。
現実の中の事後を纏めるには、
事前に於ける
「素直さ度の高さ」と「本気度の濃さ」が
明朗な必須要件となるのです。
そして、それらは常時意図的に意識をして
己の内へ身に沁み込ませる方法でしか
伸ばしたり厚みを持たせる事が
決して出来ない繊細なものなのです。
ですから、
考え込んで硬化してしまい
動くまでのイニシアチブを失わない為にも
まずは動いてイニシアチブを取り
その後じっくりと思考に結び付かせて
慣れてきたら思考からの行動という流れへと
負担なく進む事が出来る様に
「よく視てよく聴いてよく考える」
という簡便な業に示しているのです。
にも関わらず、それでも順応困難となると
現実不直視で幻想に逃避している曲解
という事になりますから、
事後の重要性を理解するのは
不可能に近いです。
起きた後の対処を思考出来なければ
事前も未然もあったもんじゃないですからね。
溺れて先を
見据えられないのは
ここに起因するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
普段からの心掛けとして
「明日は我が身」
という言葉があります。
周りで何か起きた時に他人事だからと
楽観的に捉えずに、
自身の中にも危機感を
ちゃんと植え付けておきましょう。
と、いう様な意味合いの言葉です。
何事に於いてもこれは当て嵌まります。
自身の中の危機感というのは、
意識をしていない内はとても貧相なものです。
その貧相な危機感が故に
何某かの問題が発生した際、
自身の中で混乱を生じさせてしまい
正常な判断をする事が出来なくなります。
普段からの心掛けの中で
非常に重要な考え方の一つです。
何も考えずに他人事として
自身の中で処理をしていると
その災禍というのは、
いずれ必ず自身に降り掛かってきます。
それを回避させる為に、
「自身に対して置き換えて思考する」
という業が必要となります。
但し、ここで気を付けるべきは
決して同情ではないという点です。
自身に置き換えるのは、
あくまでも危機感であって
場面場面での感情や
気持ちの便乗ではないという事ですね。
それですと、心が硬直してしまって
思考停止をした時と同様に
行動が取れなくなってしまいます。
云うなれば、自己満足に過ぎません。
危機感を心に常駐させる事が
運気を上げたり、生活を向上させたり、
愉しみを増やしたりする為の
第一歩なのだと考える事が大切です。
運気アップとは
危機管理能力を
向上させること
なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
「霊を感知する」
と、言いますと、大概の人は
悪霊などを想像するのかと思いますが、
それはあまりにも偏り過ぎてる思考です。
狭間の世界に滞在している霊の
凡そ8割が所謂「善い霊」です。
悪霊等は残りの2割なので
数で言うと少数派なのですね。
であるならば、
霊を感知すると考えるならば
「善い霊」を
真っ先に思い浮かべないとおかしい
という事になります。
これは本当の盲点でして
「霊=悪」
という先入観や間違った認識による
固定観念からの思い込みなのですね。
また、「悪霊だと思いたい」という
霊を悪者と決め付けてしまう
ご本人の問題でもあります。
悪霊に思いを馳せる人というのは
自身にもその気質があると
断言しても良い状態と言えます。
早い話が、
「自分本位で自己優位性重視の
貧乏神気質の人」
なのではないかという事です。
例えばですが、
「私は霊が視えるの」とか
「私は分かるのよ」系の人などが
貴方の身近な所にも居るかと思います。
この手の方々がこれらの台詞を
口にする際というのは、
殆どの場合が悪霊を指しています。
「肩が凝っている」とか
「嫌な事が続いている」とか
その手の話を耳にしたからとは言え、
相手の状況が悪い時だけ霊的文言を
吐くのは、おかしいと思いませんか。
本当に分かるのなら
相手さんの調子が善い時や
何でもない時にこそ
何かしらを伝えていないといけません。
霊=悪ではないのですから。
ちゃんとした意味で霊の感知が出来ると
善い霊の感知が圧倒的に増えます。
というよりも、それが普通です。
善い霊の感知が出来れば
悪い霊の感知はとても容易です。
何故ならば、
この場合ですと明朗な「違和感」として
貴方の感覚が検知するからです。
この「違和感」を人に利用します。
悪霊というのは生前から片鱗が出ます。
それが貧乏神であり貧乏神気質の人
という存在なのです。
霊は人であり人は霊です。
「生きて肉体を纏っているか」
「死んで肉体を失しているか」
端的に言えばこれだけの違いなのです。
一般的には視えない存在の善し悪しを
自己判断出来てしまえば、
肉体という殻を纏っている人が
幾ら表面上で誤魔化していても
その中身は筒抜けに近い状態となります。
こうして誰もが実生活の中での
実戦的有効活用を可能とさせるのが、
本来のスピリチュアルなのです。
総じて嫌な奴と
相場が決まって
いるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
スピリチュアル業界と恐怖心というのは
切っても切れない様な関係性にあります。
何故なら、吉凶や善悪といった
二元論がベースとなっており、
そこを軸にしてビジネスとして
回っているからです。
詰まるところ、
恐怖心を煽るという事ですね。
ですが、本来のスピリチュアルですと
それは誤りとなります。
恐怖心を煽るのではなく、
如何に恐怖心を「減衰」させるか。
「正しく怖がる事が出来るか」
と、いうのが、
本来のスピリチュアルでは
投げ掛けるポイントとなります。
正しく怖がるというのも
また言い得て妙な話ですが、
これは
「正しい知識を以て
理由無き恐怖を失くす」
と、いう事を意味します。
何事に於いてもですが、
恐怖というのは無知から生じます。
「分からないから怖い」のです。
何が起きるのか
何が起きているのか
自分の見知った感覚では無い事が
生じている故に恐怖を感じてしまう。
で、あるならば、
その中枢やシステムを知ってしまえば
恐怖そのものは確実に減衰します。
漠然としている恐怖は
同じく無知な他へと伝播します。
それはいずれ「多」となって、
徒に恐怖を煽り撒き散らす事に繋がります。
そうなった時に大きな不幸や災いが
降り掛かってくるのです。
ですから、本来のスピリチュアルでは
「知る」
と、いう点に重きを置いているのです。
恐怖心が大幅に減衰すれば
その分思い遣りが増える事は必至ですからね。
考え方は
普段の生活で
実際に使える
基本的思考なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
人は様々な感覚を使ったり
憶えたりする事が可能です。
その感覚を基準として
研ぎ澄ませたものが「霊視」です。
前々から述べていますが、
霊視は五感が基本となります。
「霊」と付くので、
悪霊や生霊などを視る事だけだと
考えてしまいがちですが
そうではありません。
「霊体を通して視る」から霊視です。
別に、霊を視る事ではないのを
忘れてはいけません。
そして、
文字上ですと「視る」とは書きますが
ここには五感の全てが入ります。
視る聴く嗅ぐ味わう触れる
霊体を通して五感を使って視るのですね。
ですから、
日常の生活内で霊以外に対して
使う事が可能です。
例えば疾患系の匂いです。
ウィルスや菌などを起因としている
風邪等の疾患ですと必ず臭いがします。
消毒薬に酸味を加えた様な臭いです。
疲労が溜まっていたりすると
ホルモン性の臭いに近いものが
頭や背中などから出てきます。
消火器系の疾患などですと、
症状の強さに応じてですが
粘度のある酸味に焦げっぽさが
加わった様な臭いが口腔や
その対象部から出てきます。
泌尿器系の疾患ですと、
粘度のある甘みと苦みを含んだ
ちょっと不快な臭いが
背中や下半身を中心に出てきます。
これらに見た目や音など
何かしらの異変や違和感を
複合的に感じ取って分析精査します。
あくまでもあにきの場合ですが、
異常を感知したら医療機関での受診を
お薦めしています。
明朗に幽体や霊体を
起としているものであれば
ヒーリング等の霊精治癒の対象と
考えても結構なのかなとは思いますが、
肉体が起となるものに関しては
医療機関での治療が確実です。
あにきの見解としては、
個々人が状況を現実的に捉えて
霊精治癒や通常医療の
適宜ハイブリッド対処というのが
理想的なのかなと考えています。
スピリチュアル業界然り
医療機関然り
どちらも本当にピンキリですから、
普段のセルフチェックの為にも
自身の感覚と真面目に向き合う事は
大切ですからね。
異変の察知が
遅れるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
かねてより話しておりますが、
「霊的な存在が視える」
「霊的な存在の声が聴こえる」を
自負されている方は結構居ます。
その方々の多くがネガティブ専門です。
寂しそうにしているとか
悔しそうにしているとか
辛そうにしているとか
怒っているとか
その手の存在の代弁ばかりで
違和感を禁じ得ません。
亡くなった方々は
そこまで辛い人ばかりではないし
言うほど悲しんでもいないし、
キレ散らかしている奴は少ないし
寧ろ、愉しんでいる方が多いですよ。
勿論、亡くなり方や状況によって
その差は多々ありますが、
それでも圧倒的に多いのは
ポジティブな方々ですね。
にも関わらず、ネガティブな声を拾って
そればかりを伝えるのは
ある種の決め付けと思い込みが
起因となっている結果かと考えます。
自身の思考回路や幽体の流れが
「念基軸」である場合、
その基軸に沿った存在が集まったり
その存在の声だけを自然とソートしてしまう
と、いう事は相当数あります。
「霊=悪」「死=悲」と、
断じてしまっているが故に
善い面を積極的に拾えないという事です。
これが「思考的視野狭窄」になります。
死後の世界や向こうの世界、
狭間の世界を語ったり、
ましてや亡くなった方々を語る際、
思考的視野狭窄に陥るのは危険で
遺された方々に対して絶望のみを
植え付けたり与えてしまう可能性が
高いからです。
向こうの世界には
浄土もあれば地獄もあります。
狭間の世界に至っては
ある意味フラットな領域です。
生きている者が死者の声を代弁する時、
生者の感覚で推し測るのは言語道断です。
大切になるのは、
現世から一歩踏み出た先の世界を
しっかりと理解した上で、
「その世界の住人の感覚で代弁をする事」
「自身の感情を決して入れない事」
これが守れない内は
代弁などはやらない方が身の為です。
あまり良い結果とはなりませんからね。
どうなるのかを
考えてみるんや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
一昨年辺りから2025年は
至る所で懸念が評されております。
ことスピリチュアル業界に至っては
危ないのは4月だの7月だのと、
色々と噂されている感じです。
現世では少なからず何かしら
起きるものですから
そこら辺を気にしても仕方ないですし、
それでも気にするのであれば
「その後」に目を向けないと
意味がありません。
また、あにき目線で言えばの話ですが、
巷で言われている予期や予言などは
かなりポイントがズレていると
以前より感じています。
ですので、
気にしていないという感じです。
それよりも身近な点での懸念については
既に然るべき場であにきも話しています。
これら世間を賑わす話に関して
何を目的として広めているのか。
その方々の思惑などを推測する事が
非常に重要となってきます。
日頃より話している「仮説の構築」です。
これは話をしている側の様子や
その背景をよく視る事で情報を
纏める事が可能です。
何かしらのステータスに頼っていないか。
組織的背景は見え隠れしていないか。
多的思考による戦略誘導を執っていないか。
このブログ内でお話しをしている見極め方や
あにきがお会いして直接お話しをしている
「視る方法」を駆使すれば、
自ずと理解が出来てくるものです。
要は、
「よく視てよく聴いてよく考える」ですね。
先を視る先を知る上で、
一番の御法度は
「恐怖の煽り」と「意識的誘導」です。
恐怖というのは周りへと伝播します。
そして、その無知蒙昧な恐怖は
人の冷静な判断を狂わせます。
その場面で残るのが「意識的誘導」です。
意識は具現化へと進展します。
内容が善くも悪しくも具現化するのです。
善いものであれば歓迎ですが、
悪しきであれば複雑です。
けれども、先述した恐怖の先にあるのは
どう考えても悪しきとなります。
然しながら、人というのは無知であったり
周囲に流される状況となれば
恐怖の煽りに対して途端に
信望を持つ様になります。
ここの誘導をしている方々の思惑を
ちゃんと見極めないと駄目ですよ。
と、いう話が今回の内容です。
持てる知識は表層を透かします。
ミクロを視るならマクロを知りましょう。
視野を広く保つ意味が分かると思いますよ。
まずはシステムを
理解するんやで
意外な事が
視えてくるはずや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
何かしらの問題や事案が発生して
それらの改善に向けて
あれやこれやと思案すると思います。
その過程の中で、
人にアドバイスを求めたり
物に力を求めたり
神仏霊魂へ救いを求めたりするのが
皆さんの動き方です。
ですが、この動き方を実行していても
思うように改善しないから
人は悩み苦労をします。
何故に改善へ進み難いのかと言うと、
「自ら歩みを止めてしまう」からです。
己以外の存在へと
助言を求めたりするのは善いのですが、
その際に手段と目的を
入れ違えてしまう事が問題なのです。
助言はあくまでも助言であり、
何をするにも先ずは
己が動く前提でなければいけません。
例えば、
罹患して病院へ行き
処置や薬を処方してもらうのも助言です。
改善が「目的」であって、
病院や医師は貴方にとっての「手段」です。
当然に処置や薬も「手段」です。
けれども、
いつしか診断が目的となってしまい
そこで歩みを止めてしまう。
ここでの「歩み」と、いうのは、
「思考」を含んだ業です。
つまり、思考停止が相まって他力本願となり
自分は動く事がなくなってしまう。
その結果、
改善には程遠いものへと変貌していく。
スピリチュアルや霊的なものに対して
自身の改善を求めていながらも、
一向に改善へと進まないのは
個々の歩みを止めてしまっているのが
ほぼ全ての原因だと僕は考えます。
そして、その歩みを止める因子が
教える側にある場合もあれば、
神秘性や奇跡を言い訳にして
自ら止めてしまう場合もあります。
それですと何も進みません。
どんな事象であっても改善に向ける為には
自分から動く事が基本となります。
そこには
自分を信じたり自分に打ち勝ったり
駄目な自分を認めたり、愉しみを得たりと
ありとあらゆる物事が必要となるのです。
何をするにしても、
改善を欲するのであれば思考停止をしない事。
己の歩みを決して止めない事。
その先に初めて
貴方の求める安らぎがありますからね。
周りの存在も
含まれるんやで