2025年11月28日金曜日

やる覚悟やらない覚悟(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




例えばですけども、

誰かがやろうとしている物事を
貴方の方が出来るから
分かるからと言って
考えもせずに何でもかんでも

「やってしまおう」としたり、
「やってしまう」とします。

一見すると率先していますから
良さそうにも思える動きなのですが、

貴方がいざ
「教える」という立場になった瞬間

極悪な所業と化します。

人というのは、
何かにチャレンジする際に

「失敗をしないと覚えられなかったり」
「叱られないと分からなかったり」

痛い思いを経験して
初めて理解出来る事が多いのです。
それを先んじて抑えてしまうのが、

「やってしまう」という愚行。

貴方が相手に
何かを教えるという立場であれば
指示はしたとしても
余計な口出しも手出しもしない

そういう「やらない覚悟」が必要です。

貴方がやってしまえば
物事の解決は出来たとしても

相手は何も覚える事が出来ないどころか
経験する機会すら失うのです。

そして、貴方が相手を差し置いて
率先してやった事で満たされるのは、
貴方の自尊心のみです。

これは「相手のため」の動きではなく、
自分自身の為の動きでしかない。
あまりにも人としての器が狭隘すぎます。




もっと言うとですが、
貴方がやってしまうという事は

もし、相手がちゃんと動いて
上手く出来た場合の「成功体験」や
貴方に「褒めてもらえる」という
相手からすると「嬉しい経験」も

貴方自身が貴方自身を優先させて
取り上げてしまうのです。

それは物凄く悲しい事ですよ。

相手が大人の場合でも
子供の場合でも

そこまでして自分自身を取る人は
必ずと言っていい程
下記の台詞を口にします

「こんなにやってあげているのに」
「やってあげたから上手く出来た」
「やってあげたよ良かったね」

これは
本来のスピリチュアルで云うところの
最低で最悪な台詞の一つです。

どうしてもやるならやるとして、

「相手の機会を貴方が奪ってしまう」
「貴方自身の承認欲求を置き去りにする」

と、いう様な、
「やる覚悟」を持たないといけません。

やらない覚悟も苦痛ですが
やる覚悟はもっと苦痛です。

やってしまった分の埋め合わせを
貴方の責任で別の機会に
必ず補わないといけませんし、

それはなるべく近い期間でないと
意味がありません。
無理にでも何でも用意しないといけない。




相手の機会を奪うというのは
それほどまでに罪なのです。
では、何の罪となるのか。

八罪で云うところの

「他への辱め」←機会を奪った
「信に徹さない」←相手を信じなかった
「伝に務めない」←言う聴くを怠けた
「勇を用いない」←失敗する恐怖に負けた

少なくともこの4罪です。

そこに承認欲求の誇示が入ると
「自に堕ちる」も追加されますから5つ。

小さい事で大袈裟に思うかも知れませんが、
小さい事でも出来ない人が

大きな物事でどうして出来るのですか。

想いも念も小さいモノの積み重ねや累積で
大きいモノへと積落します。

「相手のため」をしっかりと考えた
普段の生活の中での

「やる覚悟」「やらない覚悟」が

貴方の日頃の業となるのですからね。

お子さんを持つ親御さん
お孫さんを持つ祖父母さん
お弟子さんを持つお師匠さん

教える側としての立場の人の
吉美な嗜みが
「やる覚悟」「やらない覚悟」ですからね。

これが分かるか
分からないかで
人生は大きく
変わるんやで
分からなければ
貧乏神路線確定やで

2025年11月23日日曜日

そして、自分の時間は紡ぎ合いだと知る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分の時間を設けるという事は
相手の時間についても
設けてあげるという事です。

同一の時間という事もあれば
自分の時間を
設けさせてもらえたのだから

相手にも時間を設けてあげる
という意味です。

日頃の生活の中で
家族の中で
こういった時間の必要性を
無視してしまう動きがあります。

自分の時間というのは、
必ずしも纏まった時間という事も無く

自身の状況や場合によっては
ほんの数分や数十分の寄り道でも
自分の時間に相当します。

例えば、僕で言うと
買い物の行き帰りの間の数十分が
毎日に於ける
貴重な自分の時間の一つです。




それとは別に存在する自分の時間。
これは余暇とか休暇とか
それ相応に纏まった時間を指します。

短時間であろうが長時間であろうが
自身で工夫をしなければ
設ける事は難しいです。
と、同時にその時間というのは

「設けさせてもらっている時間」

である事を忘れてはいけません。

なので、自身以外の相手
例えば、家族とか大切な人とかですね
そういう人達の自分の時間も
設けさせてあげる。

これが本来のスピリチュアルに於ける
奉仕の精神の考えです。

では、普段の生活ではどうでしょうか。

ほんの少し時間を使っただけで

「何処に行った」だの
「何をしている」だの

さも、自身が管理をしているかの如く
言われてしまう事とか無いですか。

そういう経験をされている方は
その台詞を吐いている相手を
よく視てみましょう。

大抵の場合、その相手は
自分の時間を好き勝手に満喫しています。




リアルタイムで苦言を口にする人も
帰宅後などに苦言を口にする人も、
苦言は口にしなくても
さも忙しそうにしたり
辛そうにしていたりと、態度で表わす人も

全て同罪となります。
何の罪なのか。

向こうの世界の八罪に於ける
「他への辱め」と「信に徹さない」です。

そういう方々は
自分の時間を設けてもらっておいて
相手の時間を設けようとしない。

大きな場面だけを見て
小さい場面を考慮していない。

普段自分が好きに出来るのは
相手の考慮と動きによる結果だというのを
立場を使って軽視してしまっている。

自分が「自分の時間」を設けられるなら
相手にも同等クラスの「自分の時間」を
快く設けてもらう。

幾ら体裁だけを繕って
それっぽく見せていても、

こういう信に基いた
「思い遣り」を実施出来なければ
いずれは自分本位が勝っていき
貧乏神へと堕落するだけですからね。

日頃の業は
口先だけじゃなく
動きも含めた
思い遣りの
カタチなんやで

2025年11月21日金曜日

明るさの真価(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




善き事を喚び込みたいのであれば
暗く過ごすよりも
明るく過ごした方が

総合的には好結果となります。

ですが、
明るく過ごすというのは

ただ単にニコニコ笑顔で
過ごしていれば良い
と、いう意味ではありません。

それはただの造り笑顔です。
云うほどの効果は出ないと思った方が
善いでしょうね。

明るく過ごすというのは、
自身の感情をちゃんと維持して
会話を熟すという意味です。

単に笑顔を作っていたところで
「会話」を熟さなければ
まるで意味を成しませんし、

会話が無ければ
壁に向かって笑顔を作っているのと
同じ状態です。

「明るさ」は、
相手との惹き合いによって成立する
相対的な産物です。

けれども、自身が率先して
動かないと形とはならない。

相対的ではあるけれども、
初手は一極性という特殊な代物です。




その上、
「笑顔≠明るい」という特徴もあります。

以前に笑顔の種類について
お話をしましたが、

その点を理解し注意しないと
受け手となった場合に
大いに選択肢を誤る事に繋がります。

笑う門には福来るというのは、
ずっと笑顔でいる事ではなく

都度、会話を成り立たせる中で

相手の話を具に聴き取り
自身の感情を以て話し

結果として、
相手を自然体での笑顔にする
そこに発生する幸せを得るという意味。

そして、明るさというのは、
その過程の中で駆使する
感情そのものであって喜怒哀楽を指します。

決して、喜や楽だけでなく
怒や哀も確実に必要なのです。

なので、
「笑顔=明るさ」とはならないのが
本来のスピリチュアルでの実戦訓ですよ。

よく視てよく聴いて
よく考えれば
意味なんて直ぐに
理解出来るもんや

2025年11月17日月曜日

期待の源泉(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




何かに期待をして
その期待が叶わなかった時に
がっかりするのが嫌だから
出来るだけ期待はしない様にする。

インスタにも書いた話ですが、
この考え方は看過出来ません。

まず、期待をするに値する
「根拠の有無」というのがあります。

自身の中で期待するに余りある根拠がある。
ましてや、地に足を付けた形だったり
客観的視点からでも
努力の価値が認められる場合、

そこには期待するに値する
「根拠」が堂々と存在します。

それは、数値かも知れませんし、
思考的な感覚かも知れません。

何にしても
確固たる根拠が存在するのであれば
期待をした方が好結果に繋がります。




根拠を持っているという事は
「自信」へと繋がります。
理由無き自信ではなく、

列記とした「自信」です。

テスト勉強然り、
人間関係然りです。

にも関わらず、
ここで期待をしないというのは
己の自信や他の客観的評価や
前向きな意見よりも

達成出来ないかも知れないという
恐怖心や悲壮感に負けた事になります。
絶対的な自負があるのにです。

その感情こそが「駄目な自分」であり
自分本位そのものなのですね。

自己のポテンシャルを
最大限に発揮させるには、
期待をしないのではなくて
「期待をする」にベットした方が良いです。

その為に努力を重ねて自信を付ける。

他薦による評価を
駄目な自分に臆して裏切る行為というのは
想いを無碍にする以外の何物でもありません。

そんな恩を仇で返す動きをしていて
好結果が出てくるほど甘くはないのです。




ましてや、期待をするという事は、
「意識の具現化」への道程を指します。

努力を積み重ね、自信を手にして
想いの力場が強くなればなるほど、
その意識というのは
限りなく具現化へと近付いていきます。

それをわざわざ自ら放棄する
破棄する動きが、

「自分本位への屈服」です。

やれるだけの事をやり切り、
得難き自信を得たのであれば
形と成す為に期待をする。

そこには同じ想いの存在が
確実に傍に居る筈です。

そして、どんな結果となろうとも
万が一の結果となろうとも、
次へと繋がるものへと必ず昇華します。

ですから、
惜しみない努力の上に設けた自信を
源泉とした期待はすべきなのです。

これとは逆に、
根拠なき期待はお勧めしません。
そもそも努力もせずに期待する方が
どうかしているのですから。

努力無しの期待は
どんな結果に
なったとしても
最終的には
何かの所為にして
終わるんやで

2025年11月14日金曜日

実践実感してる神秘(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




それまで
視えなかったものが視える様になる。
聴こえなかった事が聴こえる様になる。

これが何の話かと言うと、

僕とのセッション等を通じて
状況改善が進んだ方々が
必ず手にする"感覚"の話です。

別にお化けが視える様になるなんて
一言も言ってないですし、
死者の声が聴こえる様になる
とも話していません。

ただ、視えなかったものが
視える様になって

聴こえなかった事が聴こえる様になる。

それは、そこに居る人の姿であり
人の声でもあり、

生き物の姿であり、
生き物の鳴き声でもあり、

植物や動物を問わずに
万物の姿でもあり、万物の声でもある。

何とも怪しげな術者が口にしそうな
台詞のオンパレードとなっていますが、

これらを適確に表している言葉を
僕らは日常的に使っています。

それは「雰囲気」です。




それまで
視えなかった雰囲気が視えて
聴こえなかった雰囲気の音が聴こえる

あら不思議、
さっきと比べると意味が格段に
分かる様になってきたでしょ。

エネルギー、気、霊気、霊感、
よく分からなくて不一致な
紛らわしい言葉を態々使わなくとも

普段使いの言葉で表現は充分に事足ります。

それらの言葉には
回復や改善のイニシアチブは何一つ無く
それらの言葉を使って満たされるのは
話している人の自尊心だけですからね。

んなもん使って自身の立場の建立をせずに
素人さんの目線に立って話せば良いんです。

それが思い遣りですね。

話が少し飛びましたが、
自身の状況が悪化や増悪している時とは
感ずるべき雰囲気を
感じられていない状態です。

つまり、
意識が内側へと向いている状態であり
これが「思考的視野狭窄」となります。

口語的に云うと、自分本位状態ですね。




なので、
よく視れば分かるものも
視えなくなる程に「俯いて」いて、

耳を澄ませば聴こえる事も
聴こえなくなる程に
「塞いで」しまっている。

そこから首を上向きにさせたり
塞いでる手を外してあげたりして
回復をさせれば

視えたり聴こえたりする
準備が整います。

その先で、
視野の動かし方や音の聴き取り方を
説明して解説して落とし込んでいく。

すると、それまで華麗にスルーしていた

「雰囲気」が露骨に視える様になるし、
「雰囲気」の音が聴こえる様になる。

こうして、皆さんが言うところの
「不思議な力(笑)」や「霊感(笑)」の
基礎が出来上がるのです。

何のこたぁない、
神秘的でも無ければ超自然的でも無いし、
とても現実的な話でしょ。

ですから、誰でも出来るし
その権利や能力自体は端から持っていると
言ってるのですよ。

これが
「本来のスピリチュアルの基礎」です。

ここから、想いや念が分かる様になるし、
人の見極めが出来る様に繋がっていくのです。

まぁ確かに、更にその先へ進む為には
努力の積み重ねが必定ですから、
貧乏神気質の人には無理ですけどね。

空気を読むとは
違うで
雰囲気を
感じ取るんや
所謂空気ってのは
念想の事やさかい
全くの別物やで

2025年11月13日木曜日

想い悲しみへ通ず(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人の辛さはそれぞれです。
内容も大きさも感じるところも
全てが違います。

その中でも、
「分がる分がる」と
言い合える様な辛さというのは、

正確には辛さには入らない程度の
辛さです。

本当の辛さというのは、
共感し難いものを指します。

「話しても分からない」
「伝わらない」

それでも何とかしたいから
話すのだけども、
やはり理解も何も得られないから
自分の殻に閉じ籠る。

この様な流れになってしまい、
辛さは形となっていきます。

そして、この形と成る流れに乗ると
どんなに小さい辛さも、
あれよあれよとお化けサイズにまで
肥大化していきます。




どんな辛さでも
誰もが共感をしてくれる訳ではないです。
だからこそ、話し相手というのが
重要となってきます。

どんなに相手が出来ている人であっても
その人が聞き手一方に甘んじている様では
話し手は何も満足しません。

ストレスが満ちる事はあっても
達成感が満たされる事は無いのです。

何故かと言うと、
それは壁に向かって話しているのと
何ら変わらないから。

聞き手として重要なのは
立場を変える事無く
話し手と同じ目線に立つ事。

自身の持つ情報や話し難い話を出さずして
相手の話だけを聞くなど
ナンセンス以外の何物でもないですよね。

自分は痛手を被らない時点で
フェアでないのだから

その段階で同じ目線にもなっていなければ、
同じ土俵に立っていないのです。

これでは会話は成立しません。




親としての立場
先生としての立場
教える側としての立場

これらの立場は変わらずとも、
目線の高さは話し手に併せてあげる。

言い難い話をしているのだから、
同じ様なコンセプトの話をしてあげる。
決して感情論ではなくて、
論理的な観点からの話に注力をする。

話し手が間違っている時は叱咤し、
共感し得る事であれば激励をする。

会話をする上で聞き手の大切さを
理解しているのであれば、
話し手の需要を自らの手で創るのが

本当に上手な聞き手なのですね。

ただ話してくれるのを待っているのは
御門違いという事です。
相手の話し易い環境は聞き手が創る。

まさに思い遣りです。

そして、
その環境と云うのは場所でも無ければ
それっぽい雰囲気でも無くて、
同じ目線に立つ「話」そのものなのですね。

見てくれ重視の「場」を選んでいる様では
思い遣りとは程遠いものになりますよ。

相手をなんとか
したいのであれば
見てくれの優しさより
思い遣りを以ての
会話が一番やで

2025年11月9日日曜日

普通を目指せ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルに於いては
一般的に言われている様な
スーパーパワー的な
霊能力的な能力というものには

あまり重きを置いておりません。

何故ならば、
その行為自体は誰でも出来る筈なのに
やり方を知らないがあまり、

出回っているフェイク情報の数々に
躍らされてしまっているあまり、

行為そのものに特別感を
抱いてしまって
根本的な原理原則を
軽視してしまう傾向が強くなるからです。

つまり、拝み倒すだけで
何もやらなくなるという意味です。

これでは善くなるものも
善くならないし、
何にも面白くありません。

僕らは現実の中に生きていて
その現実を少しでも愉しく
生き易くさせる為のコツが

本来のスピリチュアルです。

なので、誰でも可能な事なのです。
それなのに特別感を得たところで
どうしようも無い事でしょ。

その理屈を分かる様になると
まがい物とそうでない物との
見極めが出来る様になりますよ。

特別感は
差別と
表裏一体なのを
忘れたらあかんで

2025年11月8日土曜日

真面目さは使いようですよ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




これと言って特別な問題も無く
至って平穏無事な生活を
営んでいる人に限って

大変というものに憧れます。

仕事が大変、生活が大変、
あれが大変これが大変、

その割には何も困っておらず
人の見ていない場所では
贅の限りを尽くしている。

そういう人に限って
ちょっと体調に変化があった場合や
ほんの少しの疼痛などでも

まるで大病を患ったかの様な
不治の病に冒されたかの如き
反応をします。

これを「大変だ病」と言います。




勿論これは病気でもなければ
何でもありません。
単なる面倒臭い構ってちゃんです。

大変だ病を発動させている
ザンネンな人は結構多いです。

その手の輩へのアドバイスは
いつも決まっておりまして、

「全肯定」に徹します。

大変だ病の人は、
自分の意に沿う内容以外は
決して受入れません。

相手さんが全力で
間違っている事を話していたとして
それを否定しても
都合の悪い言葉は耳に入りません。

それなのに否定をしても
仕方がないので全肯定します。

それで大丈夫なのです。
どうせ大して聞いてもいませんから。

その代わり、二度と会わない。
お願いをされても
二度と会わなければ良いのです。




もし、それが出来ない様な
距離感の人であるならば、
終始テキトーな返事をしていれば
全然大丈夫です。

まともに受け合う必要なんて
全くの皆無なのですから。

そういった
どうしようもない人が
貴方の周りにも一定数存在する筈です。

貴方からすれば魑魅魍魎にも等しい様な
禍々しい存在に対してまで
真面目に相対する必要など無いのですよ。

相手がテキトーかましているのなら
自分もテキトーかましてやる。

これが「真摯に向き合う」という業です。

そんな輩にまで
貴方の「真面目さ」を使って
一体何が生まれますか。

ハッキリ言って、ストレスを触媒とした
縷々数多な念しか生まれてこないですし、
この種のハードルは
乗り越えるべきものではなくて

あの手この手を使って
ただ避ければ善いだけの事です。

あれよあれよと出てくる碌でも無い問題に
正面切って全てを体当たりで
処理していける程、
貴方は暇人ではない筈ですよね。

そう考えれば自身の真面目さが
仇となってしまう意味も
よく理解出来るんじゃないですかね。

貴方自身が
真面目さを
売りにするなら
真面目にテキトー
かましてごらんな
視野も広くなるで

2025年11月6日木曜日

辛さと幸せ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




幸せは痛みを伴ったり
痛みを意識した先に存在します。

勉強等がその典型例ですね。
普段の学習という苦痛を乗り越えた先に
テストの結果を得られる訳です。

本来のスピリチュアルも同様で、
教わったものを使うという事や
使う努力をする事、

つまり、
自分から率先して動くという

「苦痛」を乗り越えた先に
「愉しみ」という幸せを

得る事が出来るのですね。

また、貧乏神と接した際の
苦痛も同様です。

嫌な思いという苦痛を得るから
同じ様にはなりたくないと
その苦痛を乗り越える様に努力する。

その先に幸せがあります。




貧乏神に近い存在へと
成りかかってしまった際も同様で、
そこから抜ける為の努力

とりわけ、俗欲の制御という業は
かなりの苦痛を伴います。

平穏無事な人が行う
俗欲の制御と比べると、
天と地ほどの差があるくらいの
相当な苦痛です。

その苦痛を乗り越えるから
想いというものを理解する事が出来る
幸せを得られるのです。

しかし、
その苦痛に屈服して楽を取った場合は
努力を途中で放棄するのと同意義ですから

幸せは手で掬った水の様に
零れてしまい、
そこに存在すらしていなかったかの様に
影も形も無くなります。

あにきと一緒に頑張ってきた皆さんなら
この意味が分かる筈ですよ。

辛さと幸せは
背中合わせの
仲良しなんやで

2025年11月3日月曜日

耳が痛くなる話ですよ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




きっと誰しもが運気を上げたいと
そう思ったり願ったりして
行動をされている筈です。

ここを読んでいる方々であれば
殊更そうだと思います。

今までも運気UPについては
話しまくってきましたが、
結論から言うとですね

何かに対して自己の運気向上を
願ったり祈ったりしてる内は
100%運気は上げられません。

これは実績のある結果でして、
もし、願ったり祈ったりで
運気が上げられるのであれば

今頃ほぼほぼ全ての日本人の
運気は爆上げしていないとおかしい。

皆さん、何かしらの神仏に対して
祈ったり願ったりしているでしょ。
初詣やら何やらで。

結果はどうでしたか。
ね、そういう事なのですよ。




こうやって話をしていると
神仏を信用していない様に
捉えられてしまうかもですが、

決してそんな事は無いですからね。
神仏の使い様を間違えているという事を
お話したいだけなのです。

神仏に対して何かしらの
信仰心を抱く事自体は別に問題は無いです。

ですが、神仏は貴方に対して
何もしてくれません。

「あいつらはね、
人間一人一人に感けていられる程
暇してないんですよw」

仮に何かをしてくれるとするならば、
想いの総量に応じて庇護してくれるだけです。

貴方が神仏に縋るだけ縋って何もしない。
そこで留めているだけであれば
運気など上がる訳も無いのです。

運気とは、
己の行動や業そのものから派生する結果であり
自身で創り上げていくものです。

貴方自身が率先して動かなければ意味が無い。




明確な目標や目的を以て
自らが率先して動く。

その活力として神仏への祈りや願いを
貴方が「想い」として維持出来るならば
あいつらもそれなりに力を貸しますよ。

でもね、
何の為に運気UPを目指すのか。

「人より良くなりたいからなのか」
「楽をしたいからなのか」
「今の苦痛から脱したいのか」
「単にそうしたいからなのか」

何にしても、その目的たる基軸が
「想い」に遵じていますか。

先に話した内容であれば
概ね「念」に則した目的です。
この段階で神仏への想いなど
貴方の中には存在していません。

そんな状態で
あいつらに縋っているなんてよく言うw
笑わさないで下さい。

相手の為を想いつつ、
念というものを理解しながら
もっと自らの頭を使って考えて
手足を使って動きまくる。

これが運気UPに必要な最小単位です。

縋っていると自負している方でも
少しでも自身に都合の悪い事を言われると
教えてもらったアドバイスですら
反故にして相手の想いを無碍にする。

貴方の縋りなんてその程度です。

貰った助言を純粋に信じて
業を実行する事すら出来ない貴方が、

運気UPなど烏滸がましいですね。

自らが縋っていると称している
神仏すらも敵に回している事にすら
気付いていないのですから。

その頭もその手足も
動かし使う為にある
馬鹿の一つ覚えで
手を合わせ続けても
運気は上がらへんで