皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は
島根県松江市Mさんより戴きました
お客さんからの声です。
先生、
先日はありがとうございました。
どうにも困り通していて
色んな人達に相談をしていたのですが
話が入ってこないと言いますか
解答がズレていると言いますか…
何か場当たり的な事ばかりを言われて
納得が出来ていなかったんです。
結論から言いますと、
思い切って先生にご連絡を差し上げて
大正解でした!
ひっかかっていた謎がスルッと
流れていった感じでした!
特に守護霊さんのお話と
いま困っていた事のお話には
本当に驚きしかなくて
隣で聴いていた主人はあの後も
目をまん丸くさせていました。
私が内容を話す前に
先生が話し始めたんですから!
「僕の所ではよくあることですよ」って
先生はあっけらかんと言ってましたが
私達には目から鱗ですからね。
お陰様でとても救われました。
先生とオンラインでお話を
させて頂いてからというもの
「本物の人って居るんだね」と、
毎日のように家の中でも友人にも
親戚にも話をしています(笑)。
先生のお人柄にも本当に救われまして
あの日は涙が止まりませんでした。
(先生がしばらく止まりませんよ~
って、笑いながら仰ってくれてたのが、
今では主人と共通の笑い話です)
また、色んな事を一つ一つ丁寧に
分かり易く解説もして下さって、
まだ時間が経っていないですが
直ぐにでもお話がしたいなと
夫婦共々思っているんですよ。
先生とお話が出来て本当に嬉しかったですし、
先生のメールアドレスを探し当てて
思い切って連絡をしてよかったです。
(メアドじゃなくて今はインスタなんですね)
まさに勇を用いるですね!
本当にありがとうございました。
まだまだ暑い日が続いておりますので
どうかお体をご自愛なさって
お過ごしください。
また宜しくお願いいたします。
夫婦そろってブログも愉しみにしていますね。
駄文にて失礼いたしました。
M
Mさんとご主人さん、
ありがとうございました。
こちらこそ、
また何卒宜しくお願い致します。
あまり脂物を食べ過ぎたらあかんよwww
沢山おるんやで
一人やないさかい
決して無理せんと
頑張ってこうな
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
ここを読んでいる方々には
もはや周知の事実なので
イチイチ言葉にする事では無いのですが、
「運気は自らが作り上げるもの」です。
何かに操られているものでもなければ
誰かの力で何とかなる様な
ものでもありません。
改めて冷静に考えてみれば
どなたでも分かる事なのですが、
もし、「何かのお陰誰かのお陰」
という様な他力本願一色で
どうにかなるものであるならば、
何処でも良いですから
祈願しまくっている人の運気が
一番爆発している筈ですし、
良いこと尽くしのオンパレードに
なっていないとおかしいですね。
ですが、実際は真逆です。
他力本願一色ですと至る所は
貧乏神路線のみとなります。
他者からの助言や知恵の拝借は
在って然るべきですし、
そういった助力があるからこそ
ある意味で人は動けるものですからね。
しかし、そのアドバイスというのは
待っているだけでは
決して手にする事は不可能な代物です。
どの様な場合であっても、
自身が率先して手にしようと
動かなければいけないのです。
これが「勇を用いる」という概念であり、
人が念想の天秤で推し量られる
八罪の内の一つであり、
達成条件の一つでもあります。
↓以前にも触れています
どんな事でも自ら一歩を踏み出す。
相手が手を差し伸べてくれていようが
そうでなかろうが、
善き動きを手にする為には
自身からその身を動かさなければ
意味が無いものなのですよ。
それが動ける者に課せられた
「向こうの世界と現世との共通の理」なのです。
おどおどしている内にも
時は過ぎていきます。
眼の前にあるチャンスは
常に駆け足で去っていくものです。
失敗を恐れる気持ちもあるでしょうし、
恥を危惧する気持ちも理解出来ます。
けれども、成功と言うのは
その失敗や恥の先で得られるものですからね。
端折って良いことなんか
何一つ無いですよ。
まごつくならば
動いた方が
間違いないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
物事というのは、
覚えようと思っても
なかなかどうして
覚えられるものではありません。
僕もセッションやレクチャーを
通じて色々と教えていますが、
その場で話を必死に書いたところで
綺麗に纏めたところで
決して覚えられるものではないのです。
ですが、話を書いたりするのは
とても良い事ですし
拒否も否定もしていませんよ。
ただ、覚えられないのです。
文字での記録に残せても
そこで変に自分を納得させて
終いとしてしまうから
記憶に残せないのです。
覚える為に足りていないのは
「使う」という行為です。
物事は使って初めて覚えます。
逆に、使っていないと忘れます。
記憶に留める事が難しいのです。
人は五感をフルに活用した際に
記憶へと残す事が可能です。
頭の中だけで覚えようとしても
「使う」が発生しないと
実際に身には入りません。
言語しかり、何かの作業然り、
使っているから覚えられますが、
使っていないと忘れるでしょ。
例えば、
書く事をしていないと、
読めるけども書けないですよね。
それは頭だけではなく
「手」でも覚えているから。
歌を歌う時、いちいち頭に歌詞を
浮かべたりはしないでしょ。
それは「口」や「耳」でも覚えているから。
だから、実際に歌わないで
脳内再生しているだけだと
口にした時に異常に詰まりますよね。
それは「使っていない」からです。
本来のスピリチュアルも同様で
使うからこそ覚えられます。
文字で書いたりするだけで
覚えられるのであれば
誰も苦労はしません。
視たり聴いたりしたものを
文字に起こして記録したなら
それは必ず使わないと
その意味は消失します。
また、一生懸命に文字に起こしていても
今度は「聴く」事を疎かにするから
やはり身には入らないで終わる。
記録をするのは「目的」ではなく
あくまでも使う為の「手段」です。
以前から話していますが、
ここを読むだけでは
決して善くなどなりません。
読んだのならば使わないと意味が無い。
使う努力をしないと意味が無い。
使う努力をして分からなければ聞く。
使う努力自体が分からなければ
尚更聞けばいい。
どこまで行っても常に「使う」を意識して
実践していかなければ
覚える事など出来ないのが
本来のスピリチュアルですからね。
つまり、善くならないという意味です。
予約が出来ないんや
繁忙期は
先を見据えろと
言った筈やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
今年もぼちぼちお盆です。
うちの地域では新盆なので
もう終わっていますが、
殆どのエリアでは旧盆ですよね。
さて、お盆と言えば
ご先祖さんが帰宅するイベントですが、
これ、
必ず帰ってくる訳ではないのですね。
帰宅しない理由は幾つかあります。
1、ご先祖さんが地獄又は
それに準ずる場所に堕ちている。
2、ご先祖さんが狭間の世界を彷徨っている。
3、遺族に興味がない。
4、遺族がガッツリ念基軸。
概ねこの4つが理由となります。
1と2はご先祖さんがやっちまったパターン。
説明するまでもない感じです。
3は一見するとご先祖さんが酷く見えますが、
何気に結構多いパターンです。
亡くなってから浄土へ行くとね、
現世で生きている時よりも長い時間を
お勉強に費やす訳ですよ。
そんな中で、遺族に対して
いつまでも気持ちは引きずりません。
遺族がしっかりしているならば
安心もしますから尚更ですね。
それにクソ忙しいというのも
実際にはあります。
亡くなって浄土へ行ったからって
楽できる訳ではないのですよ。
で、
問題は4の場合です。
これが帰ってこない理由では一番多いです。
遺族がクソってパターンです。
ちょっと考えてみれば分かりますが、
帰りたくても帰った先の人間が
クズってたら誰だって帰りたくないでしょ。
それはご先祖さんとて同じです。
死んでいても人間ですからね。
それと、結構勘違いされているのが、
ご先祖さんが帰ってくるのは
「家単位ではない」
と、いう事実。
お盆にご先祖さんが帰ってくるのは
あくまでも個人単位が基本です。
家人が全員良好という訳ではないですよね。
想いの遣り取りが出来る人も居れば、
同じ家の中でもガッツリ念基軸のクソも居る。
当然ながら、
ご先祖さんは想いの遣り取りが
普通に出来る人を目指して帰ってきます。
何故ならば、浄土という場所は
「想いを主体とする場所であり」
念想の天秤にて
想いにバランスが向いている人しか
行く事が出来ない場所だからです。
つまり、念基軸の人に対して
面白いほど毛嫌いをします。
そりゃそうなんです。
念基軸の人って地獄に居る人達なんですもの。
ご先祖さんが態々そうなる可能性のある予備軍に
忖度する必要が無いんですよ。
家族の中でも、
○○はおじいちゃんを感じれたけど、
私は全く感じなかった。
みたいな事が起きるのはこれが原因です。
なので、帰ってきてほしければ
己の中身をもう一度確認するのが
何よりも重要になってくるのですね。
たくさん呼べるし
よく視えたり
するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想いというのを理解もしくは
ある程度認識出来る様になると、
必然的に「念」というものに対する
認識も出来上がる様になります。
それと並行して
「思い遣り」
に、関しても否応なしで
実践されていく事になります。
この理屈はとても単純で、
自身の中の基礎が「想い基軸」へと
シフトするからですね。
ただ、この経過や自身が想い基軸に
至っている実感については
「自分ではよく分からない」とか
「全く理解出来ない」とか
「目に視えるものではないから」
などと言って、
セルフチェック出来ないと思われる事が
結構あるのですね。
然しながらそれは認識不足です。
人が想い基軸へと移行すると
自身の中の「感覚」に於ける
「想いに帰属する面での感覚」が
非常に強まってきます。
想いに帰属する面での感覚...
ちょっと難しい言い方なので
物凄く簡略化した感じにしますと、
「善い予感」みたいなやつです。
善い予感と言うと
「得をする」
といった様に捉えてしまいがちですが、
そうではありません。
例えば、
貴方が何の気無しにご無沙汰している
知人Aさんの事を
ふと「思い出した」とします。
理由なんか無くて本当に何となくです。
思い出したからと言って
何をする訳でも無く過ごしていたら
翌日になってAさんから連絡が来た。
とか、
何か玄関先の花に目が行ってて
特別何をする訳でも無く過ごしていたら
二日後にその花にレアなトンボが
止まっていたのを発見した。
とか、こういった具合の感覚が
「想いに帰属する面での感覚」です。
あまりにも小さい事なので
意識を先鋭化させていないと
流して終わりにしてしまう様なものですが、
想い基軸になってくると
こういったのが多発する様になります。
要は、
小さい幸せにやたらと
気付く様になるのですね。
なので、自分が現在進行形で
想い基軸なのかどうかというのは、
ちゃんと分かる訳です。
で、
勘の鋭い方ならここでまた一つ気付きます。
想い基軸でそれに属した感覚が
強まると言う事は、
念基軸でも似た様な事が
起きるのではないかと。
実際その通りです。
念基軸の場合は、
「念(俗欲)に依存する面での感覚」が
非常に強まってきます。
先程のを「善い予感」と形容したので
「悪い予感」と推察しそうになりますが
そうではありません。
「楽できそうな実感」
が、正しい表現です。
予感ではない分、
これは中々にエグイものですよ。
しっかりと視認が
出来るものなんや
誰でもやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
「想い」というのが善いことで
「念」というのが悪いこと
とてもシンプルな解釈ですが、
皆さんこの様な感じで覚えている筈です。
何も間違っていないですし、
全然それで結構なのですけども
ただ、人はこれが故に
善きことだけを意識しようとして
悪しきことを意図的に意識から
遠ざけようとします。
問題はここです。
物事というのは、
どちらか一方へと偏ってしまうと
碌でもない事しか起きません。
とは言え、
勘違いしないでほしいのですが
何も悪しきことを推奨も助長もしていません。
思い出してほしいのですが、
現世の様々な物事というのは
相互関係で成り立っています。
それは自身に於ける想念でも
同じだと教えましたね。
「想い」の対局には「念」が必ず存在する。
この自身の中の念を認知して
確実に理解する事が、
想いの本領発揮へと繋がります。
善い事が起きてほしいからと言って
「想い」ばかりを注視する様にしていても
それは良いとこ取りですから、
「想い」ではなく
「俗欲の塊」に過ぎませんよと
以前にも記載しました。
また、
自身の汚い面や汚い動きを認めもしないで
「これは誰ダレのため」
「これは何々のため」
と、己の動きを正当化させる為に
想いという「言葉」だけを盾にしたりする。
想いは貴方にとっての
都合の良い言い訳ではないのです。
真に想いを発揮するには
念の存在を常に認めないといけない。
自身の中の念の存在を認めるからこそ
想いの尊さが理解出来るし
相手への敬いや己よりも優先させるなど
想い基軸とした業を初めて実行出来るのです。
貴方が決して悪人ではないのに
これまで嫌な事が続いていたり
今一つパッとしなかったのは、
ここの理解が為されずに
最終的には「自分」を取っていたからです。
色んな物事を学習しても
人に縷々様々な事の教えを請うても、
自分に都合が悪くなったり
自分の嫌いな事や苦手な事へと至ると
言い訳としての「想い」を利用して
それまで貴方に教えてきた数々の人の
「想い」を自身の歪な「似非想い」で
いとも簡単に塗り替えてしまう。
つまり、自分優位な思考回路に陥る。
それは想いでも何でもなく
非常に強い俗欲であり、高濃度の念です。
貴方が想像している以上に
扱いに苦痛を伴うのが「想い」です。
辛さを伴うのが「想い」です。
苦痛を緩和したり、
辛さを消すのが「想い」だと考えているから
いつまでも己の中の念を
理解してあげられないのですよ。
強烈で効き目抜群な痛み止めは
想いではなく
楽を優先させる「俗欲であり念」なのです。
だから、使い方を間違えると
あっという間に依存をしてしまう。
そんな危うい代物には
目を見張っておくのが普通です。
これとは違い
「痛みや辛さ」を引き換えにするもの。
つまり、
「努力や鍛錬」を糧として
その後の善き事へと導くものが
「想い」というものですからね。
だから俗欲塗れの
人の方が
現実を直視せんと
無駄に綺麗事や
詭弁を述べたり
しまくるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想いや念の分量というのは
普段は目に視えないものですが、
ある状況に至った時に
その蓄積されているその量が
しっかりと視覚化されます。
想いの蓄積は
「小さい幸せ」の表現型として、
溜まった念は
「裏返し」や「過剰蓄積」として、
隠せない形で表に出てきます。
つまり、
普段の地味な努力は報われますし、
調子に乗っていた面は
打撃として自身に降り掛かる
と、いう事です。
今回はとりあえず、
念の分量の視覚化について
サラッと話しますね。
日常の中で、
どんなに綺麗事を並べて
自身の正当化や形ばかりの想いを
口にしていても、
それは自分以外の存在へ向けている
「想い」ではなく
自分の為に形を成している「念」です。
詰まるところ、「自分本位」となります。
この自分本位は、
何でもない普段であれば
人から隠す事が可能です。
目利きの出来る人でないと
それを見抜くのはなかなか難しい。
けれども、自身の幽体に於ける
ある一定のラインを越えたり
若しくは
転換点を迎えたりした際に、
その秘匿させていた「念の分量」が
表立って出てきてしまうのですね。
そうなると隠す事は100%出来ません。
この出現が「裏返し」であり、
それまでの流れを「過剰蓄積」と言います。
「裏返し」は念の分量のみならず
それまでの想いの分量との差によって
そのサイズと内容が変わります。
差が小さければ肉体への
軽い打撃で済みますが、
差が大きくなるにつれて
隠していた部分の露呈が
容赦なく拡がります。
言葉を選ばずに云うのであれば、
「本性が剥き出しになる」
といった感じです。
考えてもみて下さい。
それまで意気揚々と話していた
自己保身の為の綺麗事が
「綺麗事」だったと
視覚化されてしまう怖さ。
それまで自身を形付けてきた
ハリボテの「想い」が崩れ去り、
同時に人も何もかも去っていく。
想像以上にエグイですよ。
想念なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
このブログ内では事ある毎に
「感情の制御」
「俗欲の制御」
と、いう業について
お話をする事が多々あります。
自己を律する上に於いても
非常に重要な「鍵」となる
動きの一つなのですが、
これらを制御するには
ちょっとしたコツがあります。
どういった内容かと言いますと
「目標・目的の設定」です。
何かしらの「業」を完徹させるには
その動きを実行し続けるに余りある程の
理由といったものが必要です。
この目標目的を設定するポイントが
コツの一つとなるのですね。
例えばですが、
自分にとって
「好きな事を抑制したい時」や
逆に「嫌いな事を実行に移す時」など、
辛さや厳しさ、苦痛を生じさせる様な
動きが必要となる場合に、
しっかりと目標や目的をセットします。
では、その反面でもある
「好きな事を実行に移す際」や
「嫌いな事をやらない場合」は
セットしなくても良いのかという
声が聞こえてきそうですが、
決してそういう意味では無いです。
やはり、
目標目的の設定は必要にはなるのですが、
前者程にキッチリとしたセットを
しなくても大丈夫という意味です。
何故かと言うと、
苦痛が段違いに小さいですし
そもそもが自然と己が活動する為の
原動力に繋がる物事であるからです。
好きな事はあれこれ後押しせずとも
自然とやれますからね。
その代わり、調子に乗り過ぎない為に
「真逆の思考」という動きは
必須となってきますが、
ここでの詳細は割愛します。
この様に、好きな事を抑えたり
嫌いな事を実行するというのは
その逆と比べた時に、
非常に意識を強く持つ必要があります。
身近な点で云うならば
お酒の量を控える(好きな事の抑制)とか、
ダイエットの為の
運動をする(嫌いな事の実行)などです。
こういった面で、
キッチリと「論理的」に
目標目的を自身へ植え付けて
原動力へと換えさせます。
ここを曖昧にしてしまうと
並行して関連してくる
感情の制御や俗欲の制御というのは、
より一層困難なものとなってしまうのです。
冷静に考えてみれば
極々当たり前の事なのですが、
意外と忘れがちな事なのですよ。
動き難い事を
動き易くさせる
これも制御なのを
忘れたらあかんで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
運気を上げるというのは
神さんや仏さんに願って
叶えるものではなくて、
自分の力で構築していくものです。
どうしても、自分以外の存在に
何かを握られていて
自己ではどうしようもない感じに
捉えてしまいがちですが、
善きな事にしろ悪しき事にしろ
自分の考え方や動き方一つで
変わるものなのだというのは、
普通に考えれば分かる事です。
寧ろ、自分の行動一つ業一つで
変えられずに、
何か高次元の存在に支配されているから
自分で運気は変えられないと
考える方がどうかしています。
運気ではなくて
「運命」ならばまだ分かりますけどね。
どんな時でも自分の行動一つで
その先の流れというものが変わります。
人間的に良い奴と付き合っていれば
善い方向へと進みやすくなりますが、
人間的に悪い奴と一緒に居れば
当然ながら
宜しくない方向へ堕ち易くなります。
誰かに何かを
無理矢理押し付けられたのではなく
その選択をしたのは誰でもない
貴方「自身」です。
辛くてどうしようもなく
自己憐憫に陥ってしまっていたとしても
そういった流れへと繋がる様な
負の選択肢を増やしたり、
目に留まる様な動き方や思考を
続けてきたのは貴方自身です。
楽をしたいが為に
どこかで誰かの所為にしたり
見て見ぬ振りをしていたり。
「過度の楽」を追い求めたり
溺れたりしていれば念は増えても
想いは決して増えていきません。
行き着く先は貧乏神です。
善くするというのは
楽をする事ではありません。
「痛みを知って想いを理解する事」です。
許すべきは許し
やり返す時はやり返す
その上で憎しみではない何かを
自身がしっかりと得られるかどうか。
その流れの中にあるのが想いであり、
善き方向へと繋がる業なのですね。
様々な角度から自身を見詰めて
1つの考え一つの行動だけに拘らず
数多の可能性を模索し紡ぎあげていく。
善き方向というのはそういった
流れで生まれる一過程を指します。
その為には自己を律するのが
何よりもの必須事項となります。
自分の業が全てなのですからね。
上手くいかないから憑依されてる
などと思っている内は
絶対に善き方向へ進む事など無いのですよ。
認めて理解するのが
律するに繋がるんやで