2025年1月31日金曜日

痛みの共感(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人は自身が痛みを知らないと
それが如何に大変なのかを
他者と共感する事が出来ません。

身体的な痛み然り、
心の痛み然りです。

また、個々人で
痛みに対する耐性も異なります。

ほんの少しのチクッとする注射を
この世の終わりと言わんばかりの
痛みと形容する人も居れば、

10針を無麻酔で縫合する様な
人も居たりします。

心の痛みについても同様ですね。

特に心の痛みに関しては、
本当の痛みを経験して知っていないと
まず共感する事が難しいです。




痛みを知る者からすると
共感を得たいと考えますが、
実際のところそれはナンセンスです。

知らないものを体験は出来ませんし、
体験談を通じて話を見聞きしたとしても
他人事には変わりないので、

「そういうものなのか...」

と、いう程度で終わります。
また、非現実の話題を出して
疑似的な体験をさせようとしても、

これもやはり他人事ですし
一過性の物となりますので、
共感までには至りません。

つまり、
経験者が分かってもらおう
分からそうとしても、

相手にその受け皿的経験が
存在しなければ、
それは決して叶う事が無いのです。




それであるならば、
理解を得ようと感情論に
任せるのではなく

「意思を伝える」

と、いう点に特化させる事の方が
明らかに効果は出ます。

体験を理解させるのではなく、
知識として記憶させるのです。

その為には、感情論ではなく
冷静な理論が必要となります。

それには、
非現実的なフィクションや
ファンタジーなどではなく

圧倒的に現実的な話の方が有効です。
状況にオブラートを被せずに
そのままを伝える勇気も必要です。

それほどまでに人は、
他者の痛みに関する事に対しては
無知蒙昧を晒している生き物です。

あくまでも現実の中で
現実的な話を伝える。

日々の生活の中で、
ファンタジーに逃避しても
何一つ改善されないですよね。

本来のスピリチュアルというのは、
現実の中でこそ
活かされるものです。

実戦型スピリチュアルであり
攻撃型スピリチュアルというものだと
忘れない様にしなければなりません。

感情論に委ねても
非現実に逃げても
何一つスピ的には
成就出来ないんやで

2025年1月29日水曜日

常に敵なし(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




日常生活を営んでいると
あらゆる場面で貧乏神や
その類の輩と遭遇してしまう
そんな事が多々あります。

これらの存在を見極める事も
大切なのですが、
見極めはとうの昔に出来ているけど

どうしても接触を
避けられないのであれば、
対処が優先順位の第一位となります。

様々な方法がありますが、
何よりも大切になってくるのは

「なぁなぁにしない」

と、いう点です。

貧乏神の特質や特性を
既に掴んでいるでしょうから、
この所作が如何に大切かは
理解して頂けるかと思います。




貧乏神らは、ありとあらゆる方法で
「揺さぶり」を掛けてきます。

その揺さぶりに乗ってしまえば
自身の中に混乱が生じ始めてしまい
貧乏神の良い様にされて終わりです。

それまで培ってきたものは
無残にも崩れ去ります。

それを避ける為にも

「ハッキリと物を言う」事が

必須条件となる訳です。
この時にただ突っぱねるのではなく
論理的な説明に徹するのがコツです。

決して、感情論になってはいけません。
それでは貴方が流されて終わりです。

感情の片鱗は出すのは善いですが、
それはあくまでも「フリ」であり
内容は必ず論理的なものに徹する。




以前の記事にも書きましたが、
貧乏神というのは、
自身の様に思考停止をしている
「感情論者」を求めます。

言い換えればそれは、

「論理的思考を嫌う」という意味。

ですから、貴方はそこに徹すればいい。

その為には、リアルタイムでの分析と
冷静さを維持しながらの組み立てが
必要となります。

「よく視て、よく聴いて、よく考える」

諄い程にこの考え方を
教え込んでいるのは、
いざという時に必ず対処が出来る様に
という思考回路の構築の為なのですね。

日頃の努力は
最大の防御であり
最大の攻めでも
あるんやで

2025年1月28日火曜日

剥き出しの欲(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




どなたにでも例外無く

「駄目な自分」

と、いう側面があります。

この駄目な自分を理解したり
認めたり、制御する事で
要らぬ恨みを買わずに済むので、

「運気の維持」

と、いう業が出来る様になります。

しかしながら、
駄目な自分をその目で直視する事は
相当な痛みを伴います。
「心の痛み」です。

人は誰でも何かしらの形で
自分以外の存在を
傷付けてしまっています。

その傷付けてしまう場面に於いて
大抵の場合、
駄目な自分という側面が
表現化している時であり、

俗欲などが
剥き出しとなっている状態である

と、表わす事が出来ます。




この「剥き出しの欲」が
多ければ多い程、
相手に対して傷を付けてしまう。

然もそれは、
知らず知らずの内に
繰り返してしまうものなのです。

何故ならば、
剥き出しの欲というのは
非常に依存性が高く、

一種の「快楽状態」とも表せる
反応となりますので、

周囲へ目線を拡げる事が
限り無く不可能となるからです。

これを思考の「視野狭窄」と言います。

相手を一方的に傷付ける訳ですから
当然に相手からの念や恨みを被ります。




恨みや念というのは、
原則的に自身が起因となって
相手が発するものですから、

いくら水際で恨みや念を
堰き止めようとしても、
その発生源である駄目な自分を
認知しない事には、

ほぼ永久的にこのサイクルが
止まる事は無いのですね。

つまり、
駄目な自分を認識及び認知する
という事は、

これ迄に貴方が原因となって
相手が被ってきた「心の痛み」を
貴方自身がその身を以って
「再認識」するという事になるのです。

なので、
先述した通り駄目な自分の理解や
認識をする事は、想像以上の痛みを伴う
と、いう事に繋がります。

その反面、
駄目な自分を理解せずに
剥き出しの欲を晒し続けるという事は、
心の痛みを知らぬ
人としての恥であるとも表現出来ます。

八罪内の「辱め」へと連鎖する道筋が
出来上がってしまうので、
運気は維持するどころか
堕ちる一方となります。

この連鎖に
どっぷりなのが
貧乏神なんやで

2025年1月25日土曜日

普段の中に(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




スピリチュアルが好きだと
標榜している人に多い思考が

「特別の検索」です。

どこかにつけて、何かにつけて
自分だけの「特別」を
追い求める思考です。

殊更その特別というのは、
利己的なものである事を占めます。

早い話が俗欲ですね。
分かり易い事で言うと、

「良い事が起きてほしい」とか
「金運を上げたい」とか。

その思惑にかこつけて、
「奇跡や神秘」といったものを
大袈裟に追い求める思考ですね。




本来のスピリチュアルで
云うところの「奇跡や神秘」は
俗欲とは反する場に生じます。

つまり、特別の検索をしたところで
奇跡も神秘も手に入らないですし、
目の当たりにする事も無い。
という事になります。

俗欲を基軸とした視線での特別など、
所詮は同一価値を共有する者でしか
感受する事の出来ない特別です。

それは万物という概念の中では
余りにも矮小過ぎる価値観に過ぎません。

「俗欲中心となると視野狭窄に陥る」
という形容は、
ここから得ている概念なのですね。

元来、礎となる要素は
「万物」に他なりません。




では、その万物とは
一体どこに存するのかを
考えてみましょう。

言うも得も無く、
万物の在りし場所とは何の事は無い
皆さんの周りを指し示します。

要するに、
皆さんの送っている日常や
普段の生活の中そのものが、

「万物の苗床」であり
「万物そのもの」である

と、言えるのですね。

皆さんが目を凝らして、
感覚を研ぎ澄ませて得ようとする
神秘や奇跡というのは、

実は既に身の回りで常態化している。
けれども、
それ自体に気が付けない程に
エゴや俗欲などの「多の価値」によって

「視界を混濁されてしまっているだけ」

に過ぎないものなのです。
その混濁を取り払うものが
思い遣りなのですよ。

利己的思考は
総ての感覚を
濁して穢して
つまらない
結果になるやで

2025年1月20日月曜日

実戦型(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




前々より個別ごと、
ブログ、秘密結社を問わず
お話をしてきましたが、

スピリチュアルというのが
かなり注目を集め始めています。

それが良い事なのか
どうなのかと言いますと、
あにきとしては
然程歓迎はしていません。

何故ならば、
その殆どが欺瞞に満ちている
身勝手なスピリチュアルを
標榜するものだからです。

このまま流行が進めば
ほぼ確実に衰退へと進みます。

昔に流行った心霊ブームや
オカルトブームなどと
確実に同じ轍を踏むであろうと
断言出来ます。




どういう事かと言いますと、
俗に言うスピリチュアルという
苗床のリテラシーが
何も変わっていないからです。

今以て「多」を中心としている
状況や環境に置かれている中では

既存の構造体での産物となりますので
一過性は有ったとしても、
継続性を望む事は出来ません。

「多」を中心としているという事は
質が上がる事は無いのです。

リテラシーが「個」を基準とした
品質を重視するものへと変貌すれば、
継続性が担保されますので

スピリチュアルというものの
先は光があると思います。

けれども、未だそのレベルには
哀しいかな達してはいません。




これから先に起きるのは、
見事なまでの淘汰です。

本来のスピリチュアルというのは、
自分だけの為に使う様な
身勝手なファンタジーではなく

皆さんの生活に根付いて
皆さん一人一人が
万物の為に気軽に使えるツールです。

なので、あにきは

「実戦型スピリチュアル」だと、

以前から話しています。
一部の人間が偉そうに使うのが
スピリチュアルではなくて、

どこの誰でも元々備えてて
その能力を遺憾なく発揮出来るのが

「本来のスピリチュアル」なのです。

その為に必要なものが
失われてしまっている現在、
必要なのはムーブメントを
引き起こす事ではなく

「苗床の成長進化の促進」です。

それは、多ではなく個でないと
決して達成出来ないものです。

果たしてどうなっていくのか。
見物だなと感じています。

既存の様に
綺麗事が
蔓延したら
終わりなんやで

2025年1月18日土曜日

良く思われたい(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「自分は良く思われたい」

そういう思考回路の人が
非常に多いです。
この手の類の存在を便宜上

「貧乏神」と呼称していますが、

貧乏神は老若男女、年齢、
周囲からの評判の善し悪しに
一切関係無く存在しています。

周囲から見た評価が
例え真面目だったとしても
「貧乏神」や「貧乏神の入口」に
属している存在は多いです。

この「自分は良く思われたい」
と、いう思考回路の存在に多いのが

「有言不実行の精神」です。




周りからは常時良く思われたい。
その思考が強すぎるので、
その場その場で
響きの良い言葉を率先して使う。

頼まれ事然り、やりたい事然り。

その反面、後々に苦言を発したり、
自分から言った事すら
途中で投げ出したりします。

挙げ句の果てには、
自分から言い出したのにも関わらず
被害者意識と被害妄想を強く抱きます。

それを事実関係を知らない人に
真実を捻じ曲げて説明し困惑させる。

これが「有言不実行の精神」での
行動概要です。

そして、この思考回路の存在の多くが

「周りは自分を気にしている..」
「周りの想いに答えたい...」

と、発したり本気で考えたりします。




ここで注意すべきは、
「自分は良く思われたい」
という思考回路で、

「有言不実行の精神」を
かざしている存在が

果たして周囲に「想い」を
向けているか否かという点です。

この場合、9割以上の割合で、
「想い」を向けている事はありません。

想いを向けているならば、
決して到達し得ない
思考と精神だからです。

では、
この手の存在が形容する「想い」とは、
何なのだろうかを考えます。

ここで形容されてる「想い」とは、
自分を中心に据え「俗欲」を基軸とした
「念」に他なりません。

なので、
「自分は良く思われたい」と、
"自分"が思考の最初に来てしまうのです。




想いとは、
自分以外の存在へ「優先して」向ける
感情や思考の複合的精神を指します。

念とはその逆で、
自分を「優先して」その他の存在へ向ける
自己優位性や利己的思考。
つまり、
俗欲を核とする複合的精神を指します。

想いよりも念を向けている存在が
自分以外の何を想うのか。

自分の為なら、
いざとなれば平気で蹴落とし
人の不幸すらも腹を抱えて嘲笑する。

これが、
「自分は良く思われたい」という
思考回路の存在の行動概念です。

率先して念を向けてる存在は、
周囲から恨みや念を最大値で
向けられる事はありますが、

想いを最大値で向けられる事は
限りなくありません。
相互作用の原則から、
向けられる想いは最小値となります。

もし、貴方がこの手の類と
相対したり前述した台詞を耳にしたら
言葉を選ばずハッキリと笑顔で
こう言ってあげれば宜しい。

「周りは貴方が思うほど
貴方の事など気にしていないし、
貴方も周りを気にしてないでしょ」と。

真面目系クズは
こういう点で
見極めるんやで

2025年1月16日木曜日

特別と思わない(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人は様々な個人力を持ち得てます。
それについての内容は
以前にも触れましたが、

心構えとしては
「特別と思わない」事が大切です。

これについても、
霊能者を例に挙げて
事あるごとに述べていますね。

各種霊能力もそうですし、
超自然現象や超常現象を起こしたり
経験したりする事も、

日頃のちょっとした不思議現象を
味わったりする事も、

全く特別な事ではないのです。
当然にそれを体現する人の事を
特別視する必要もありません。

何度でも言いますが、
各個人が元々何かしらの個人力を
持ち合わせているのですから。




人それぞれが何某かの能力を
既に得ているものです。

その規模は最初は小さいですが
自身の力を
繋げていくことによって、

影響力の範囲を大きくしたり
広くしたり濃くしたり、
鋭敏にさせたり逆に鈍くしたり
増したり減らしたりと、

規模や力を拡げる強くする事は
確実に可能です。

また、非科学能力開発は
単一能力ではなく複数能力です。

「視える」を一つ取っても
細分化して突き詰めていくと
確実に科目が複数となります。

その流れに沿っていくと
単一能力となる方がおかしいのです。

そして、それは誰にでもある。
力を目の当たりにしたとしても、

それをいちいち凄いだとか
ましてや、崇めるなんて必要は
全くないのです。

そういう心構えでいる事が
貴方にとっても
貴方の周りにとっても
貧乏神化防止の
最たる力となりますからね。

例えば親子間で
個人力の話が
普通に出来たら
素敵やんね

2025年1月11日土曜日

簡単(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




世の中には「簡単」という言葉が
溢れ返っていますが、
この簡単というのは
なかなかどうして難しいです。

簡単に教えてもらう事は
教える側の技量ですので、
教わる側が考える事ではないです。

しかし、
ずっと簡単に教えてもらうというのは、
些か話が異なってきます。

簡単が過ぎてしまうと、
「思考する」というのを
端折ってしまう事に繋がってきます。

時間と経験が積み重なってきた時に、
その「思考する」事を削りますと
身に付かない様になってきます。

初歩の歩の場合のみ
簡単に教えられるのですが、
経験を積む事によって
内容に深みが増していきますから

所謂「簡単」という訳には
いかなくなるのが世の常です。




内容を踏襲した上での
「簡単に教える」は可能です。

ですが、そこにはそれまでに
培ってきた知識や経験を活かして
教わる側が憶えていないと、
ほぼほぼ付いてくる事は不可能です。

それをも度外視して
総てを簡単に誰でも分かる様に
教えるというのは、

確実に誤った情報を掴ませてしまう
という事に繋がります。

なので、段階を踏んで
難易度を上げていかないと
成長を促進する事は出来ないのですね。

簡単ではないからと言って、
考えるのを止めてしまったり。

難しいからと言って
教わる側が努力を放棄して
簡単にしてくれと懇願するのは、
どう考えてもナンセンスです。




成長進化をしたいのであれば
如何に「脱簡単」をするかです。

そして、同じ簡単でも

「簡単に考える」

と、いう方向の思考回路へと
繋げる事が出来るかが鍵となります。

ここでの簡単というのは、
「柔軟に」という意味の形容です。

基礎知識と慣れてきた情報があり、
それを実際に使う事によって
身に沁み込ませて憶えていく。

その後、
段階を確実に上げていく中で
柔軟性を獲得していく。
同時に考える時間も増加していきます。

本来のスピリチュアルというのは、
皆さんが思っている以上に深いですし
想像以上に難しいものです。

けれども、
確実に理解する事が出来る様になる。
そういったモノでもあります。

何故ならば、
皆さんが単に忘れているだけで
誰しもが通ってきている「道」の中の
話なのですからね。

難しく考えれば
難しくなるだけや
柔軟に
考えられる様に
努力あるのみやで

色(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




「幽体色」と「感情色」
というのがあります。
読んで字の如くとなりますが、
幽体の色と感情の色です。

幽体色というのは、
その存在の持っている

「基本的精神性」

とでも言う代物となりますので
色が変わる事はありません。
但し、薄まる事はあります。

感情色というのは、
皆さんで言うところのオーラだと
思って頂いて結構です。

これに関しては、
感情面に起因しますので
色がその都度変化します。

″都度"という表現が見合う程
頻繁に変化します。

また、俗欲の濃さによっても
色の出方が変わります。




この二つの存在箇所を
物質的な表現で言い表わすならば

幽体色が「肉体内」
感情色が「肉体外」

という感じです。

見え方の強弱の差はありますが、
感情色は訓練すれば
誰でも見れる様になるモノです。

それと反して幽体色については
誰もが視れる代物ではありません。

これら二種の亜種として
「病色」というのがあります。

色とは表現出来ますが、
厳密には「煙」の方が近い表現です。

肉体に属する弱点箇所
例えば、

怪我をしそうな部位や
病気になりそうな部位が
煙を纏った様な感じとなり
その色が濃い程、近い内に発症する
というものとなります。




ここまで解説をしてきた
各種「色」ですが、これらは
「音」としても表わす事が出来ます。

音の強弱や高低でもありますが、
「響き」や「伸び」などの表現が近いです。

これらは肉体の視聴覚にて
直接得る場合もありますし、
人や場合によってはイメージとして
間接的に得る場合もあります。

また、基本的にこれらの感覚は
「五感に基き得るもの」ですから、

視覚、聴覚以外の嗅覚、触覚、味覚でも
稀有にはなりますが、
識別出来る事もあります。

ちなみにですが、
「色」を視聴き出来る人が居たところで
その人を必要以上に特別視する様な事は
何ら意味がありません。

重要なのは、
視える人の方ではなくて

「必要としている方」へ

しっかりと教えたり伝える事ですからね。

どう考えても
大事なのは
そっちやろ

2025年1月8日水曜日

違和感を突き詰める(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




聴こえの良すぎな言葉に
違和感を禁じ得ない。
そんな方がここには多いと思います。

例えば、「学び」です。

スピ好きな方々が
結構使っている言葉です。

「学びを得ました」

みたいな感じで、
口に出して言いますよね。

ですが、大概の場合、
そう言う方ほど学んでいないです。

本当の意味で学んだのであれば、
言葉よりも先に実行という形で
動きに出るものです。

聞いた事などは
使いたくなりますからね。

けれども、行動よりも先に
言葉が先行する場合に多いのは、

「こういう風に
頑張っている私ってすごい」

という様な、自己満足が多いです。




安っぽい自己肯定であり、
自画自賛とも言える状態です。

総てが全てとは言いませんが、
本当に学べている方々は
こういった「言葉」には逃げずに

まずは態度で示そうと努力をします。

その後に、
何かしらの結果を得てから
同様の言葉を
そっと述べたりするものです。

何の結果も出ていないのに
何を学べたのか。

それはただ単純に

「聞いた」だけであって、

学びではないです。




そして、
その先行して出る言葉には

「自己顕示欲」
「承認欲求」

などの「欲」が載っています。
これが貴方の感じている

「違和感の正体」です。

ずっと以前にお話をした
「感謝」の乱発と同義です。

言葉は使う場面やタイミング、
行動が伴って初めて業となります。

「本来のスピリチュアル」に、
触れ得るとこうした違和感を
多々覚える様になります。

相手さんの「欲」を
察知し易くなるのですね。

違和感という感覚を得たのなら、
何がそうさせているのか迄を
決して放置せずに自分で考える。

あくまでも現実的に思考するのが
本来のスピリチュアルですからね。

抽象的な言葉に
逃げたところで
現実が善くなる事は
ないんやで

2025年1月6日月曜日

干渉力の操作(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




前回のお話しの中で、
干渉力というのがありました。

「相手さんの幽体へ干渉する力」

と、いうものですが、
これそのものは人のみならず
万物総てが持ち得ている力です。

しかし、その干渉による影響力の
本領を発揮するのは死後となります。

肉体を失って、
幽体と霊体のみとなった後であれば

ほぼどなたでも意図的に
この干渉力を操作する事が
可能となります。

よく、憑依をこの幽体への干渉と
考える人が居ますが、それは間違いです。

憑依というのは、
「霊体への直接干渉」
となるので、全くの別物となります。




幽体への干渉力は
「操作」が出来て初めて本領となります。

その操作に於いて須らく邪魔となるのが
「肉体」なのですね。

もっと言えば、「俗欲」です。

先程、死後に本領発揮出来ると
お話をしましたが、
生前と死後と何が違うのか。

それは、「肉体の有無」です。
肉体が無くなると
行動理念の中心たるものが俗欲、
つまり「価値的思考」から

「想い」「念」という
「個的思考」へと変化します。

狭間に居る段階ではまだ俗欲が
ベースとなっていますが、
それでも生前の物とは変貌します。

霊界へ進んだら完全に
「想い」「念」が中心となります。




要は、想いや念を理解して
俗欲の制御を行えれば
幽体への干渉を意図的に操作する事が
生前でも可能という意味です。

但し、ここでの注意点は、
操作が可能という点なだけであって、

「善に限った事ではない」

という面です。
思い出して下さい、
万物は表裏一体の関係です。
表があれば裏もあります。

想いや「念」と述べているのですから
善い面だけという捉え方は危険です。

また、負の面での操作というのは
正の面での操作と比べると
とても簡単です。

実際に皆さん、
意地悪や卑屈な思考は
自然とやってしまうでしょ。

その反面、善い事と言うのは
イチイチ意識しないとやれないし
やらないし、
そこにも自分本位という罠が
待ち構えていますからね。

つまり、
正の面での操作が出来るという事は
当然に負の面での操作も出来る。
という事になります。

片方だけを
望むと
もう片方に堕ちて
痛い目を見るやで