皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
愉しみを愉しみとして
理解する事が出来る歓びというのは
誰もが味わう事が出来て
誰でも味わえるものではないのです。
「愉しむ」という権利そのものは
皆最初から持っています。
けれども、
「愉しみ」自体を取得するのは
貴方の努力次第なのですね。
目標や目的を定めて
そこへ向かって努力する。
その渦中に色々とある訳なのですが、
俗欲へと溺れてしまえば
手段が目的となってしまいますし、
努力を怠って他人任せや
他力本願に陥れば
やはり得られるものは乏しくなります。
愉しみを得るというのは
目的ではなくて
あくまでも「通過点」に過ぎません。
「副産物」と言っても善いです。
何かに向かって努力をしていく中で
俗欲などの「念」ではなくて
相手や人に対する「想い」という
触媒を使って自身を突き動かし
業を全うさせる。
その結果として、
得る事が出来るのが「愉しみ」です。
自分の独りよがりや
勝手な動きに溺れていては
到底得る事などは出来ない代物です。
優しくもあり厳しくもある
貴方自身が努力をして初めて
手にする事が出来る宝物
それが「愉しみ」。
誰もが味わえるけど
誰でも手に入るものではない。
業によって自然と選ばれる代物であり
選ぶのは誰でもない「貴方」ですけどね。
神だの仏だの
そういう存在が
選ぶのではなく
貴方の事は
貴方自身が
選ぶものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
愉しみというのは
そこら辺に沢山転がっています。
気が付けるかどうかは
人によりますが、
数で言うと膨大なものです。
ですが、今までも話している通り
その「愉しみ」は
自分が「想いを」無碍にした瞬間に
綺麗さっぱり消えてしまいます。
人に併せるものでもなければ
自分だけが善くなろうと
するものでもなく、
「相手の意を汲む」
と、いう点が肝になるのですね。
一度失った愉しみは
二度と手に入る事はありません。
何度でも大丈夫と思いがちですが、
同じ愉しみは二度と手に入りません。
一生に一度なのですね。
その時間、その場での愉しみは一度きり。
類似した愉しみを
後に得る事は可能ですが、
その時に失った愉しみと
同じという事は絶対にありません。
あくまでも代替なのです。
かと言って、全ての愉しみを
手の内にするというのも
これまた無理な話となります。
ですから、
手にするチャンスを得たのならば
それを反故にする様な真似は
貴方にとって
確実なマイナスになる訳ですから
出来る限りしない方が良いのです。
そして、
反故にしたり無碍にしたりする時は
決まって貴方が
貴方自身の俗欲や駄目な自分を
優先させた時だというのを
忘れてはいけません。
念には念で
バッチリ
返ってくるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
世の中に出回っている
縷々様々な常套文句のセオリー
説や理屈や理論という意味ですが、
これらはその奥にある
何かを隠したり、意図してそこへ
誘導させる為の手段です。
そこには誰かの何かの意図があり
想いよりも念、つまり俗欲ですが
これらを達成させる為の
売り文句として
安売りをしている場合が多いです。
スピリチュアルについても
それは例外ではなく、
本来、幸せを得ようとしたり
善くなるという事は、
非常に困難な道のりで
誰しもが一定の苦痛を
伴うものであるにも関わらず、
その真髄や内訳を端折りに端折って
さも、簡単で誰でも気軽に得られると
述べたりしています。
実際にはそんな事は無く、
どうにも辛い道のりを選ばれたり
選びたく無くても人を選んだりと
苦痛や心痛を伴って
胸を擦り減らす様な経験の先に
得られる物が幸せであり
運気の向上や維持という動きになります。
難しいという事を目や耳にすると
人は事実を遮断します。
要は、考える苦痛を得たくないから
逃げるという意味ですね。
それを見越して
「誰でも簡単」というワードを使う。
引き寄せはそれで良いけれども、
その先に理に適った説明が
あるのかというとそれはない。
と、いうよりも、説明が出来ないのですね。
この手のやり口で利己的な動きをする人は
貴方が善くなるよりも、
自身の利益のみを追究します。
実際に、綺麗な言葉のみを使っていて
そこに幸せは引き寄せられましたか。
ご自身がご家族が
誰もが満足がするような幸を
常時得られていますか。
幸せや善くなるというのは
そういった善の面だけで
どうこうなるものではないのです。
「善幸帰悪」と言って、
善い事や幸を望んで事が過ぎると
必ず悪へと帰してしまいます。
綺麗な言葉を使うのであれば
汚い言葉の意味も知って適宜使う。
美を意識して醜を徹底排除したところで
結局はいずれ己が醜悪となる。
物事や事象を捉える上で必要なのは
その奥行きを嬉々として見詰めて
理解に向けて努力をする思考です。
誰にだって汚い面や駄目な面はある。
プラスも有ればマイナスも有って
負の側面になればなるほど
それを隠して接するでしょ。
それが自然の摂理なのですね。
手軽な売り文句や軽いワードのその裏には
広めている人物にとって
見せたくない知られたくない何かがある。
これが物事や事象の奥行きです。
世に広がる甘い言葉に惑わされずに
その奥を覗いてみましょう。
これは自身の内側にも
言える事ですからね。
初めて生まれます
感情が載らなきゃ
代わりに載るのは
念だけなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
虐めをなくそう
そういう台詞を耳にして
数十年となりますが、
無くなっていないですね、虐め。
無くす事が出来れば最高ですが、
現行のままでは
まず無理だと思います。
社会的制裁を加えようが
仮に刑事罰を設けようが、
表面上の数を減らす事は出来たとしても
無くなる事はありません。
完全に無くすのであれば、
人の思考そのものを現行から変える
そういうレベルでないと
間違いなく無くならないです。
虐めと云うと学校での出来事や
子供の頃の話みたいに感じますが、
実際にはそんな事は無く
大人の世界の方が更に多く存在しており
そこかしこで起きています。
会社や組織やご近所だけでなく、
家の中でもありますよね。
嫁姑とか、親族間の話とかさ。
とんでもない数が蔓延していて、
それも殆どが大人です。
そんな大人を見て子供は育つ訳ですね。
そりゃ子供達も虐めます。
自分の身の回りの大人達が
堂々とやっているのですから、
真似をして当然なのですよ。
こういう話をすると、
何も知らない奴が話している
机上の空論の様に
聴こえてしまうでしょうから
一応、言っておきますが、
僕は幼少期にも、学生時代にも、
何なら大人になって勤めていた時にも
ハラスメントという名の
虐めを受けていますからね。
基本的に虐めは「立場の弱さ」が、
事態を悪化させていきます。
最初期は立場が対等で突っぱねていたり
耐えていたとしても、
繰返し押し寄せてくるストレスが
自分を圧迫すると同時に、
自分で自分を圧し潰す様になっていくのです。
そして、物を言わなくなったり
言えなくなったりする。
場合によっては、
そう教育されている場合もある。
手を出すな
口を出すな
汚い言葉を吐くな
相手を敬え
目上を敬え
親を敬え
真面目な子や人になればなるほど、
これらを忠実に身に付けていきます。
勿論、これらは間違っていません。
ですが、これらが通じるのは
相手も同じ立場や心情だった場合のみです。
それをちゃんと教えている人が
一体どれだけ居ますか。
世の中は理不尽だから、これが通用する様に
やっていかないと駄目だねと、
通用しない事の方が多いからね。
と、本音で教えている人が
どれだけ居るでしょうかね。
建前論や綺麗事を基礎として
肝心な部分を教えない内は、
人は亡くなっても
この問題は決して無くなりません。
例えば、
僕が学生時代に受けた虐めには
僕の実の両親も虐める側に
加担をしていました。
それが止めとなって、
僕は自殺を決意するのですが
御覧の通り未遂で済んでいるので
こうしてここでお話をしています。
これはラッキーだったとしか
言えない結果です。
その後、環境が変わったのかと云うと
何一つ変わっていませんし、
劇的に変わったのは
僕自身の考え方のみです。
この時に、先述したお話の考え方の
基礎が出来上がりました。
無くせない。無くならないから、
無くそうと言う。
そこには人の後ろめたさ等もあるから
余計に無くなる事は無い。
そうこうしている内に、
一人また一人と亡くなっていく。
本当に無くしたいのであれば、
根本的な考え方を変えて
言葉よりも先に
実力行使に出るしかないのです。
暴力へと訴えるのではないですよ。
場合によってはそれも必要ですが
それは賭けでもありますし最終手段です。
それよりも、
被害が出ない様にする為の
「認識の実力行使」と
被害を被った際に行う
「法に基いた実力行使」
これらを同時にやっていく事が
大切だと僕は考えます。
「教育と制裁」ですね。
そして、「避難」です。
世の中は理不尽です。
平等という幻想に溺れずに
不平等の中を上手く生きる為のコツを
その身に植え付けていく事が、
重要となってくるのですよ。
それが親や家族とは
限らない
生きている人とも
限らないんやで。
必ず生き延びるぞ
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人は幸せを追い求める事に
暇も果ても無いです。
けれども、実際のところそれは
物凄く無駄な努力とも言えます。
何を以てして幸せなのか。
自分の幸せとは何なのか。
物が沢山あれば幸せなのか。
お金を沢山持っていれば幸せなのか。
好きな事が出来れば幸せなのか。
好きな人と居れたら幸せなのか。
言い出したらキリが無い上に、
個々人での差も開き過ぎる内容ですね。
人によって違うものですから
どれもが正解とも言えますし、
どれもが違うとも言えます。
では、
本来のスピリチュアルの観点からすると
どうなのかと云う話なのですが、
その「大元」を目指します。
大元とは何なのか。
結論から言ってしまえば、
「動ける」という幸せであり、
「健康である」という幸せです。
あまりにも単純で
あまりにも身近過ぎる事ですから
ピンと来ないかも知れませんが、
ここが幸せの大元であり
全ての幸せの根源です。
この、動けるという事と
健康であるという事が如何に幸せなのか
この真実に対して
自身が気が付ける様になれるか。
目を向けられる様になれるか。
これが幸せを得る上で
最大のポイントとなります。
また、このポイントには
想いも念も詰まっています。
そして、その反応もダイレクトです。
あまりに近過ぎて視えない事なので
相当に意識をしないと決して視えず、
その瞬間瞬間の想念によっても理解が及ばない。
動けているから理解が出来ず
健康だから意識にも昇らない。
そんな単純で近いものが根源ですから、
実際に動けなくなったり
健康を害した時でないと分からないのですね。
仮にそれが自身に及ぶ事でもそうですし、
家族に何かがあった場合でもそうです。
そんな根源を如何に知れるか。
動ける状態の時に、健康な状態の時に
いの一番で知る事が出来るか。
理解が出来るか。
また、
その認識を常に己の内に秘める事が出来るか。
これが本来のスピリチュアルでの
幸せの根源の一つです。
ここからの派生が、
先に話した内容云々となるのです。
つまり、
「幸せは既に足りている」
と、いう事なのですね。
この概念が理解出来なかったり
理解をしようとしなかったりするから、
後になって塞込んだり
困り果てたりしてしまうのです。
足るを知っていれば、
そこから先の動きには制約を設けます。
無理をすれば反動が起きて
派生した幸せすらも
御釈迦となってしまうからです。
今、ここを観ている時点で
貴方の幸せは既に足りていて、
それ以上のものは
「一体何を目的としている幸せなのか」を
考えなくてはいけません。
他所様よりも裕福になりたいとか
幸せをひけらかしたいとか
そんなものは
実にくだらない俗欲に過ぎませんし、
目的ではなく手段です。
今もこの先も生活が出来ればそれでいい。
自身や家族や大切な人が
決して困窮しない程度に日々の努力を重ねる。
それが本来のスピリチュアルに於ける
幸せの在り方であり、
幸せの流儀なのですね。
例え、自身が家族が大切な人が
病気などであってもそれは変わりません。
伏して何もしないのではなくて、
動けるのであれば動いて、
動ける事に幸せを見出す。
健康であればその健康を維持する努力をする。
何かに罹患していたりするならば、
現時点での状態を認めた上で
回復に向かって健康を意識したり、
健康を目指せる事に幸せなのですから。
僕も指定難病の家族を抱えています。
医師からは治る事は無いと言われていますが、
この考え方は病が発覚する以前から
ずっとずっと若い頃から
何も変わっていませんからね。
動けて健康である事。
これが何よりも幸せだという真実を
足るを知るという考え方を
皆さんも理解が出来れば、
生きるのがとても愉しくなりますよ。
幸せの形ってのは
人それぞれで
ええんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
今この瞬間を大切にする。
一瞬一瞬を愉しむ。
これを実現させるには、
自身の中の優先順位を明確にして
それを基準に動く必要があります。
但し、その優先順位ってやつは
変動的ですから、
馬鹿の一つ覚えの如く
決めた通りに熟そうとしてはいけません。
刻一刻と変わっていく優先順位。
自身の力量で変える場合もあれば、
外からの影響で変わる場合もあります。
それをしっかりと認識して、
適宜判断して最善の選択をしていくのです。
その結果、
今この瞬間を大切にする事が出来、
一瞬一瞬を愉しむ事が可能となります。
目的を設定して、優先順位を作る。
内容的にはそれで良いのですが、
そこに固執し過ぎてしてしまうと
この流れは単なるルーティンとなり
貴方は楽をしている事になります。
つまり、念基軸が主たる状態となるのです。
善いと思った事や善いと教わったことを
淡々と熟すだけというのは
決して善い結果を産みません。
そこには「柔軟性」という
触媒が必ず必要になるのです。
淡々と熟しているというのは、
「思考を停止している状態」です。
例えば、ここを読んでいるだけとか
会って話をしたとしても
教えてもらった事を熟すだけ。
最初は善いかも知れませんが、
段々と思考しなくなっていき
いずれは必ず思考停止します。
そこに気が付けるかどうかは
完全に貴方次第となりますが、
1つ断言出来るのは
「ほぼほぼ自分では気が付かない」
と、いう事実です。
何故にそう言い切れるかと言うと、
もし、貴方が自力で気が付けるなら
端からそんな動きをしませんからね。
念想は常に表裏一体の
相互関係状態にあるのを忘れずにね。
我々です
そこを理解せんと
どこまでも
堕ちてしまうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
様々な物事に興味を持つ
又は、
興味を持とうとする努力をする。
これが大切ですよと
ここでお話をしましたが、
色々な物事や事象に
全く興味を持たないで
そのままにしておくと
どういう事になるのでしょうか。
まず、視野狭窄が始まります。
物事の見極めが非常に困難となります。
もっと簡単に言うと、
世界が「狭く」なります。
例えば、子供の頃って
家と学校の往復でしたよね。
言うなれば、それが世界の全てでした。
テレビやネットで何かを知り得たとしても
自分が触れている世界は
とてもとても狭い。
これがそのまま
大人でも適用される訳です。
何でもかんでも人に頼る様になる。
無知ゆえのアウトソーシング。
良く言えば
「餅は餅屋」
悪く言えば
「無知蒙昧」
頼るという点から逃れられなくなるので
自立心が育ちません。
常に誰かに依存している状態となる。
それが続いていくと、
自身の意見というのが消えます。
アイデンティティーの喪失です。
自分という確固たる存在や
自分という意識そのものを失って、
他者の意見や意思に沿ってしまい
あろうことか自分の中の決定権を
委ねる様になります。
そこから先は言わずもがなの流れです。
この流れを阻止するのが
「興味を持つ」という
とても簡単な動きなのですね。
自分には関係が無いから
知らない調べない。
その時になったら分かるだろう。
そんなのは理想どころか
ご都合主義の妄想でしかないのです。
今この瞬間に物事や事象は突然起きる。
何も誰も予告はしてくれません。
完全なる孤立状態や
情報接種が出来ない状態となった時、
頼れるのは他者ではなくて
自分以外に居ないですからね。
また、これは同時に
「他者を護る事すらも不可能となる」
と、いう意味でもあります。
興味を持って世界を広げる。
常にその思考で動いていないと
いずれ必ず破綻を期しますよ。
教えてもらうばかりではなくて
教えてもらったならば
自分で使って覚えなさい。
分からないから考えないのではなく
分からないなら考え方を聴くの。
自分の頭で
色々知って
経験へと繋げれば
人は救えるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
素直さ度が低くなっていたり
自分本位が顔を覗かせていたり
念基軸状態に偏っていたり
主に駄目な自分が
表に出てきてしまっている時は
「でも」や「だって」が
目に見えて増えます。
これらの頭文字を取ったのが“DD”。
然しながら、
「でも」や「だって」
と、いう言葉自体を悪だと
考えてしまうのは間違いです。
これは単に言葉に過ぎません。
使わなければ良い
という問題でもないですからね。
そうではなくて、
状況や状態を鑑みてみるのです。
人に話を聴いている時とか、
それも自分から話を聴きに
行っているのにも関わらず、
これらの言葉が
「出て来やすい」とか
「乱発させる」などと言うのは
おかしいなと思える筈です。
逆に自分が聴く立場である時に
相手がDD使いまくりの状態ですと
非常に強い違和感を覚える筈です。
この時に、違和感を
察知することが出来れば
その先の対処が変わりますよね。
また同時に、自身の状態のチェックも
その場で可能になる訳です。
話ながらにして自身の基軸をチェックする。
やはり、その後の展開を自身の思考で
左右させる事が出来るという訳です。
これが気付きの基本の一つです。
事後に最速最短で気付く為のコツ。
運気を創り上げる為の
「動き方」の一つという訳ですね。
コツなんてのは
凄く身近な所に
転がっているんや
自身の手で
掴み取るものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
物事や事象は一つではありません。
必ず複数跨ってそこには存在します。
その複数の事象や物事を
簡易的に捉えてしまうのは
僕らが無意識に思考の単純化をさせて
端的な認識で良いと判断しているからです。
早い話が楽してる。
五感は常にそこにあります。
なのに、一番楽な感覚を優先的に使用して
勝手に自己判断をしてしまうのですね。
だが、実際にはその他の感覚も
使っている訳です。
その、残りの五感である
「その他の感覚」に
目線を当ててあげるだけで
視える世界は変わります。
視覚を優先的に使っているのであれば
聴覚・嗅覚・味覚・触覚に
意識を合わせる努力をする。
聴覚優先の場合ならば
視覚・嗅覚・味覚・触覚に
こういう意識の使い方をする事で
見えるから「視える」へと
聞こえるから「聴こえる」へと
変化するのです。
この変化の中心にあるのが
「本質」です。
思考させない
騙す人ってのは
それをやるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
何かの物事を捉える時、
人はどうしても一極型となりがちです。
その最たる点が感覚面でして、
これに関しては依存と呼称しても
遜色無いのではないかと云う程、
偏りがちになってしまいます。
例えば、写真などを観た際に
視覚情報としてそこに入っているであろう
美しさや撮影者や被写体の感情は
捉える事が出来たとしても、
そこに確実に存在する他の感覚を
思考せずに終わってしまいます。
五感で云うところの
視覚以外の4つです。
その部分に対して、
意図的に感覚を合わせる若しくは
仮説を唱えて後々に立証していく。
この動き方が
本来のスピリチュアルで教えている
「本質の見抜き方」の基礎となります。
写真からは伝わって来ない
「匂い」や「臭い」
「温度」や「空気感」「味」など
これらを出来るだけ
仮説として自分の中で作り上げていく。
それには経験という
知識や情報が必須であり、
それらを基にして自身の認知力や理解力、
想像力をフル動員させていく必要があります。
この中には語彙力などの表現力も
当然に含まれます。
そうして自身の中で作り上げた仮説を
忘れない様にしながら
事ある毎に立証を重ねていく。
こうする事によって、
複合的で客観的な視点が出来上がり
視野が物凄く拡がっていくのです。
1つしか見えていない物事や事象が
1つではなく2つ3つと
複数になって視えてくるのです。
1つの物事や事象を
1つだけと認識してしまうと
その奥に潜んでいる若しくは
潜ませてある本質へと到達する前に
欺瞞や疑知に溢れている
思惑に飲み込まれてしまい、
貴方自身の思考が他者に弄られてしまいます。
そうならない様にする為の
視点の作り方が奥行きの見方なのです。
この動き方習得の
練習でもあるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
不思議なもので、
人は幸せだとその実感を
得ようとしません。
逆に、不幸であると認識している時は
幸せを着飾ったり
不幸自慢をしたりなど
真逆の方向へと自身を進めます。
幸せなら幸せだと
ハッキリ言えばいい。
何で幸せなのかも言えば良い。
個的思考であればそれが可能です。
幸せを感じている内容が多ではなく、
あくまでも自身でありますから
厭味なくこれが可能となります。
ですが、多的思考の場合ですと、
物質的価値が標準値となりますので
周りの目線や意図を気にします。
物質的価値とは、早い話が
“金”“地位”“権力”ですね。
ここに固執している間は
幸せを幸せだとはハッキリ言えない。
いつでも敵だらけの状態ですからね。
けれども、幸せを享受させるには
その幸せをハッキリと話せる事が
1つの達成点となります。
周りには無価値でも
自身にとっては幸せだと言い切れる事。
これを信じ切れる状態、
信に徹している状態となれるかが
鍵となるのです。
この視点で理解をしてみると
自身の幸せを聞いて小馬鹿にする人が
如何に堕ちているのか
念、俗欲に溺れているのかが分かります。
心や感情を司るのは幽体です。
幽体が狭小化したり
狭隘状態となっていると
肉体の動きは鈍くなり、
果ては霊体萎縮が起きてしまいます。
その流れを作ってしまうのが
念や俗欲へと溺れる事、
つまり念基軸状態です。
例えば、
「何の問題も無く五体満足=幸せ」
となるのか、逆に
「五体不満足=不幸」
となるのか
自身の思考が個的なのか多的なのかで
その中身は全てが変わります。
自身の価値基準を他に当て嵌めようと
必死になるからおかしくなるのです。
自分は自分、他者は他者です。
「私は動けて幸せです」
「私は動けないですが幸せです」
これを当たり前の状態として
笑顔で会話が出来るのが
個的思考同士の世界。
個的思考は多的思考の意図を理解出来ますが
多的思考は個的思考の意図を
理解しようとしません。
理解出来ないのではなく
理解しようとしない。
この思考の絶対数が逆転して
個>多となった時がフェーズ4の世界です。
己の幸せの実感を
共感は出来ても共有は不可能である。
それを正面から認識する事が
個的思考の基礎となります。
書いているんやで
個的思考は
そこの理解が
肝なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
想いを主軸とした動きを行います。
これが所謂「徳積み」です。
徳積みは「善きな事」「善行」と
捉えがちですが、
それで合っています。
但し、俗に言う善行とは
少し違いまして、
善行を行っている際の意識は
何処へ向かっているのか
を、しっかりと考えなくてはいけません。
ただ単にやるのは善行ではあっても
業ではないという意味ですね。
(陰徳陽徳の関係性)
その後、何らかの結果が出ます。
結果が出た際、
そのままにしておいたり
己惚れてしまったりするのではなく、
しっかりと自戒をする。
要は反省ですね。
ここでのポイントは、
失敗したから反省ではなくて
成功をしても反省をする事です。
あくまでも自戒です。
自身を戒める事が必須となります。
その結果、修正点や変更点、
改訂すべき事項が見えてくると同時に
客観的視点という独特の目線が
持てる様になってきます。
また、反省に至る際も
己の俗欲を満たす為なのか
それとも想いの為なのかを
芯に問い続ける事が大切です。
そして、また次へと繋げていき、
ここに時間軸という座標を組み込んだのが
「正の螺旋」です。
想念やスピリチュアルにも
時間の概念を組み込まないといけません。
僕らは現世に生きているのですから、
これは必須であり絶対です。
この座標を組み込まずに
空間や思想だけで捉えてしまうから
整合性が脆弱化しているのです。
本来のスピリチュアルでは
ここを教えています。
時間を座標に入れなければ、
それはループとなりサークルに過ぎません。
ですが、実際にループというのは
存在し得ません。
100%同じ事って起きないでしょ。
固体別に捉えても何もかもが
違うのですから。
で、このサイクルに時間の軸を
座標として加えると、
進行方向への推進力が生まれます。
これを二次元化させると
サークル(円)ではなくて
スパイラルになる
つまり、螺旋です。
こういう思考回路の構築が
本来のスピリチュアルで教えている
本質であり皆さんが理解して
ステップアップに必要な
領域の超越の基礎となります。
簡単に考え過ぎない
分かった振りが
最低で最悪やで