皆さんこんにちは、あにきです^^
本年も大変お世話になりました。
まもなく令和の6年が
過ぎ去ろうとしています。
皆さんにとっての本年は
どんな一年だったでしょうか。
「善かったとしても」
「悪かったとしても」
そんな令和6年とは
もうすぐお別れです。
そろそろ問答無用で訪れる
令和の7年目を
気持ち良く迎え入れて
善きで素敵な一年となる様に、
残された時間でスッキリと
禊を付けましょうね。
それでは、
皆さん善いお年をお迎え下さいませ。
食べ過ぎ上等
変に気を遣わずに
お正月なんやから
愉しめばええやん
知らんけど
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
休息はとても大切です。
生きていれば
無理をしなきゃいけない時も
確かにありますが、
無理を続けていても
善い事というのが無いのは
御存知の通りです。
とは言え、無理をしてしまう。
真面目な人や責任感、
正義感が強い人ほど
自分を縛る傾向にあります。
逆に、自分本位な人はと言うと
常に無理はしません。
大義も無く
周りに無理を強いる事はありますが
自分が無理をする事はありません。
こういう点でも、
貧乏神やその一派を見抜く為の
きっかけを掴む事は出来ます。
少し目線を変えてみます。
大晦日ですからね。
貧乏神からは離れましょう。
皆さんの場合ですが、
恐らくはご自身の周りの人に対して、
「気を配ったり」
「心配したり」
と、休息を勧めていると思います。
これが「思い遣り」です。
想いを遣り取りするから、思い遣り。
以前にもお話をしましたが、
想い遣るというのは
自分から動かなければ
それが自身へ
返ってくる事は無いです。
普通に考えて
当然といえば当然ですし、
出来ている方も多いでしょう。
では、その「想い遣る」は
どこまで適用させていますか。
補助霊にもちゃんと適用して
お休みをあげていますか。
以前にも同様の話を書きましたが、
その時だけ分かったつもりになって
普段の休息は疎か、
こういった時期の長期休暇も
共有をする事なく
自分の気儘に話し掛けたり、
お願いをしてしまったり
していませんか。
浮かれてしまっていて、
ハッとした方も多いと思います。
これが「逆を忍ばせる」です。
そして、前文を読みながら
「私は出来ている」
と、思った方もいるでしょう。
そう思おうとした方もいるでしょう。
そんな自分本位思考では、
新年を迎えても貧乏神の手招きに
引き寄せられますよ。
一応、書き記しますが
本当に出来ている人は、
「出来ている」とは、
思いませんからね。
「どうだったろうか...」
「忘れてしまっていたかもな...」
と、思う人が出来てる人です。
これが「反省」です。
旧年中に自身の過ちに
気付けて良かったですね。
気付けた事を実行すれば
それが「禊(みそぎ)」です。
暮れも暮れの大晦日に
こんな事を書かないで、
もっと縁起の良くなりそうな話でも
してくれればいいのにと、
思われてしまうかも知れませんが、
心を鬼にしてでも教えるという
これがあにきの「想い遣る」です。
だけなんやろとか
思われると
哀しいんやで
図星やから
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
今年もいよいよ晦日となり、
忙(せわ)しくも
そこはかとなく揚々とした気分に
なられている方が
多いのではないでしょうか。
いらっしゃるでしょう。
歳末ですからね、
そんなものです。
(あにきは後者ですね)
こういった浮かれ気味な時、
以前よりお話している
「逆の感情を忍ばせる」を
意識するにはもってこいです。
もう皆さん御存知の通りですが、
高揚感が強い時というのは
運気が下がる契機となり得る場面です。
(レク15)
これは歳末や年始に
限った事ではないですが、
この時期のアクシデントは
なるべく避けたいものです。
なればこそ、
この場面で活かすという事ですね。
運気の維持は
日々の努力の積み重ねで成立します。
暮れの過ごし方でもなければ、
年始のご挨拶でもありません。
そういった括りを全て含めた
常日頃から「使う」を
意識しているか否かですからね。
まさに実践あるのみなんや
それを
日頃の業と
言うんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
師走になると新年へ向けて、
色々な事を思い返したり
振り返ったりしますね。
この時に、なるべく善い事を
振り返って新年に向けての
愉しい事を目標目的としたら
如何ですか。
というのが、前々回のお話。
そうは言っても、
嫌な事を思い返してしまうとか
負の側面を振り返ってしまう
などという方も多い筈です。
そこで捉え方というのを
考えてみて下さい。
常々お話ししていますが、
何事に於いても万物の事象や
万物そのものは、
「正と負が表裏一体」であり
各々が互いに作用している
相互関係で成り立っています。
と、いう事は善い事であろうと
嫌な事であろうとその対面には、
必ずその相互関係となる事象や
物質や感情等が存在するという事です。
負の側面のみを
どうしても意識してしまう人でも
どうせ考えるのであれば、
その負の側面を浮かび上がらせている
光たる正の側面までもを
考えてみてはどうですか。
思考するというのは、
逆説や仮説を複数唱える事が出来て
初めて思考となります。
それを単説で留めるという事は
ただ単純に自分を可愛がっているだけの
我儘に過ぎません。
その状態ですと、
引き寄せられるのは幸せではなく
貧乏神を主体とした下種のみです。
「運気とは善くも悪しくも
自らが引き寄せるもの」
というのを忘れてはいけませんよ。
恥を単に恥と捉えれば
恥となりますが、
自分がきっかけとなって
起きたミスや勘違いなどは
恥でも何でもなくて
ただ単に自分の過ちに過ぎません。
にも関わらず、
恥だとしか捉えていなければ
それ以上には進めないですし、
その裏に隠れている人間味という
自身の個性すらも
視て取る事すら出来ません。
そんな解釈や考え方では
幾ら努力をしても正の側面を
表に引き出す事は出来ませんし、
善きものを引き寄せる事など
到底不可能です。
そうならない為にも、
負の側面を感じ取ったり
思い感じたのであれば
その相手に対して
謝辞や賛辞や礼儀を尽くす事が
重要となってくるのです。
そうする事で、負の側面が
正の側面へと変貌し、
いずれは自らに循環して
返ってくるのですよ。
これが相互関係を捉えて
引き寄せるという事なのです。
しっかりと奥行を
見据えて
考えるのが
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
何かをする時、
何かを決断する時のみならず
思い遣りを謳う
つまり総ての時に於いてですが、
「自分を信じ切りなさい」
「信じ切れる様にしなさい」
と、あにきは教えていますね。
この「信じ切る」というのは、
決して簡単ではないですが、
資格が必要な訳ではないですから
誰でも出来ます。
但し、
必須となる事項は存在します。
何かと言いますと、
「知識・情報」です。
無知のまま若しくは、
誤った知識や情報を抱えたまま
自分を信じ切ろうと試みると
容易に想像が出来る事なのですが
高確率で間違った方向へと
突き進みます。
当然と言えば当然です。
知識の無いままでは
自分を信じ切ろうにも
その事前に於ける
「精査」という段階を
踏襲する事が出来ませんからね。
知識を得ずに精査も行わず進み
その後に起きてしまうのは、
「自分本位」となる現象です。
「自分を信じ切る」
が
「自分だけが正義」
という解釈となる意味です。
何故、
こういう変遷を辿るのかというと、
「信じ切る方法
それ自体を知らない」
故に起きてしまうのです。
この信じ切る方法に必須なのが
知識であり情報であり
それを自身で精査する
という業なのですね。
何も知らぬままや
間違ったままで
自分を信じ切ろうとすると
「自分は間違っていない筈」
「自分だけが正しい」
「自分が一番だ」
「自分の方が分かっている」
という様な思考に堕ちます。
頼れるべき情報知識が無いから
他を否定して蹴落した上で、
自分という漫然とした
「器に頼るしかない」からです。
それを人は
上辺面や綺麗事と言います。
そして、
貧乏神へと近付くのです。
覚えておいて下さい。
信じ切るための必須事項は
知識と情報と
精査という業による経験値です。
ビッグネームでもなければ
その他大勢の感情でもなく
排他的思考でもないですからね。
正しい知識
正しい情報は
理にかなっているかを
考えれば
分かるものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
この時期になると
一年を振り返ろうと考えるものです。
「出来た事」
「出来なかった事」
人それぞれ色々あると思いますが、
この時にどうしてもネガティブに
考えてしまいがちな人も
少なくないと思います。
「どうして上手く出来なかった...」
「何でこんな風になった...」
みたいな感じですね。
1つ言える事があるのですが、
過去をネガティブに捉えて
思い返したりする事は
少し簡単過ぎるので
省みるという点で言うと
あまり意味がありません。
思い出を振り返る時に、
それが一年だろうと十年だろうと
善い思い出よりも、
「嫌な出来事の方が」ポンポンと
浮かんできますよね。
そこから反じて省みるのも
有りとは言えるのですが、
出来なかった事象を
出来る様に考える様にすると、
数が膨大になって
結果としてその先の
行動を阻害する事が多いです。
「考えて疲れて嫌になる現象」
と、いうやつですね。
何故にこれが起きるのかというと、
考える際に
あるモノが足りていないからです。
何が足りていないのか。
それは、「愉しみ」です。
失敗という嫌な事から
転じて成功を考えるのは
非常に簡単ですが、
そこには愉しみが欠けているので
「心の底から頑張ろう」
と、いうよりかは、
「気を付けて頑張ろう」ですし、
失敗の数が膨大になってきますから
その渦中で「頑張ろう」が
「努力しよう」となっていき、
「何でこんなに出来ない...」
と、いう負の思考へと変わっていき
果ては、
「どうせ私なんて...」と、
負の方向へ堕ちていく。
これが
「考えて疲れて嫌になる現象」です。
せっかくの振り返りも
こうなってしまっては本末転倒です。
そうならない様にする為に、
振り返るのは少し大変ですが
一年間の中での愉しめた事や
愉しみを思い起こす様にします。
先述しましたが、
善い事というのは基本思い返すのが
難しいものです。
ですが、それは善い事のサイズを
大きく捉えてしまっているから
なのですね。
そもそも、善い事というのは
小さいものです。
以前より「小さい幸せ」という形で
教えている通り、
そのサイズは非常に小さい。
なので、忘れ易くなっていますが、
本来その数は嫌な事よりも
遥かに多く
積み上がっている筈なのです。
ですから、あまり大きく考えずに
小さい幸せを思い返しつつ、
その中で「愉しかった事」に
焦点を当てて省みるのですね。
嫌な事から転じさせた
無理の生じる頑張りよりも、
愉しかった事から発展させた
より愉しめそうな事を考えた方が
次年度の目標とするには
モチベーションも格段にアップします。
愉しみなのですから当然ですし、
必然的に前向き思考となるので、
達成に向けた注意点なども
実は、
より強固に思考する事が出来ます。
目標や目的を考える時でも
しかめっ面で思考するよりも、
笑顔で思考出来る方が
意気込みに勢いが生じるので
成功へと繋がる確率は上がります。
実際のところ、昨年末に
頭を固くして考えた目標なんて
一年経ったら覚えちゃいないでしょ。
そんなもんなのですよ。
真面目なのはとても良いけれど、
四六時中真面目に考えてもその程度です。
で、あるならば、
善くなりたいから設定する目標は
「愉しみ」という遊び心が効いている
やる気に満ちたものにしたいと
考えるのが建設的ではないのかと
あにきは常々提案しています。
日頃からそうでしょ。
つまんねぇ事から愉しみなんて
産まれやしないんじゃないですか。
明るい思考から
産まれるんや
だから
愉しみは
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人は様々な理由で
楽をしようとする存在です。
少なくとも、現世にいる我々は
例に漏れる事無く
どこまでも楽を追い求めます。
それは、肉体を纏った事で
俗欲を得た代償というものなのですが、
楽を求める事そのものは
決して悪ではありません。
これを「追求」と呼びます。
寧ろ、我々にとっては
かなりのプラスの事柄となります。
追求というのは、知恵を付けます。
技術も発展していきます。
俗欲をスターターとして、
生きる上での便利ツールを創り出すにも
追求は絶対に必要です。
但し、
追求の果てで楽という欲に溺れてしまい
思考を停止させ、
行動を起こさなくなるのは問題です。
これを「怠惰」と呼びます。
怠惰は、
楽と便利と思考停止が組み合わさると
誰でも陥る罠みたいなものです。
「動けるのに行動を起こさない」
「考えれば分かるのに考えずに終える」
「考えそのものを他へ依存する」
こうなってしまうと、
自分の意思というのは形骸化され
目には写るけども
そこには視えぬ誰かしらの存在に、
飼い慣らされ飼い殺されるままの
畜生と言い切れる状態となります。
アイデンティティーなど
無くなってしまうという意味です。
この状態から抜け出すのは
容易な物ではありません。
抜け出す方法はありますが、
その行程に自身が追い付かないとか
「怠惰の依存や誘惑」から
意識を外すのが非常に苦しみを
伴うものだからです。
怠惰という罠に溺れてしまった意識は
世間という広大な快楽のマトリクスに
リンクしている訳ですから、
それを引き離す。
つまり、
「多から個」へと改めて移行させる。
けれど、
ここでは自身の意思
とりわけ「取り戻したい」という
強固な意識が必要になってきます。
例えるなら、
強烈な渦潮の中を漂流している人が
自らその渦より出ようとする力と
その渦から引き揚げようとする人の力が
合致しないと抜け出せない。
と、いった感じなのです。
普段より思い遣りを軽視して
怠惰に溺れて自分本位で動く事が
如何に後々に響いてくるか、
そして、
その鳴韻は自身のみならず
自身の周りにも波及します。
動けるのに動かずに怠惰へ堕ちるのは
想像している以上に
由々しい結末を齎しますからね。
怠惰の罠なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
歳の瀬が迫ってきました。
新年を迎えるにあたり日々刻々と
断捨離に励んでいる事と思いますが、
一年間の嫌な事や悪い事を
埃と共に綺麗にしていくのは
良しとして、
では、一年間の善い事や
たっぷり得られた幸せは
どうしていますか。
恐らくですが、
継続且つ持越しをされている方が
多いのではないでしょうか。
一年間の幸せや善き事も、
実のところ悪しき事と同様に
歳の瀬又は歳初めに
さっぱりとリセットをさせる
「幸善奉献(こうぜんほうけん)」
という考え方があります。
善き事ですから、
継続して持っていたいところですが
善き事だからこそ、
そこに未練や執着が生まれてしまい
結果として、
それが要らぬ俗欲へと変わり
自身を苦しめてしまう。
そんなサイクルを止めて
貧乏神化防止を促進するのが
この「幸善奉献」です。
何も難しい事ではなくて、
一年間お世話になった御守りとかを
初詣の時などにお返ししますよね。
あれの善き事版です。
初詣時に神様へ御挨拶に行きます。
その際に、一年間でしこたま溜めた
幸せや善き事、善き想い等を
神さんや仏さんに献上するんです。
「ありがとうございました。」
の、感謝を込めて。
善き事ですから、
そのままでも良い様な気もしますし
手離すのが惜しいとも思いますが、
先述した通り、善きこと故に
そこには執着も産まれますし、
所詮は過去の事ですから
それを引き摺るという事は
未練そのままの意味となります。
また、
これはイメージですが
善き事を溜める領域が
古いデータに溢れていて狭いままだと
せっかく新しい善きデータが
蓄積され始めたとしても、
下手したらあっという間に警告画面です。
領域が満タンとなれば、
当然自分も上手く動けなくなります。
不具合だって出てきます。
それでは面白く無いですから、
一年の最初に
自分のクリーンアップも兼ねて
感謝を込めて献上してしまおう。
と、いう感じです。
善き事を捧げるのですから
神さんも仏さんも決して嫌がりません
WIN-WINです。
こういう験担ぎもあるのですよ。
対しての
思い遣りの形でも
あるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
生きていると人から助言や提言を
貰う事があります。
直接お話をして
言葉を貰う事もあれば、
動画や本などから
自分で引っ張る事もあります。
特に、直接言葉を貰う時に
気を付けないといけないのは、
相手の厚意を無碍にする事です。
但し、これは
「どんな相手でも」
と、いう訳ではないです。
自分に対して
真摯に向き合ってくれている人や、
心からの言葉を
投げ掛けてくれている人に対して、
と、という場合限定での話です。
自分から言葉を拾いに行ったり
欲したりしているにも関わらず、
自身の現状に則していないからとか
もっと簡単にとか、
言い訳はどうあれ
自分を優先させてしまう。
この手の思考に陥っていると
言葉のみならず聞いている時の
態度にもその片鱗が垣間見れます。
早い話が、真摯な態度ではない
という事が口を開かずとも
見て取れてしまうという意味です。
感受性の強い方ですと、
こういった厚意を無碍にする姿勢を
敏感に察知します。
この段階で、貴方へ向けられていた
「想い」が「念」へと変わるので
徳を得に聞いているつもりが、
単に恨みを買うという事となりますから
最早、助言や提言の意味は喪失し、
自らの脚で貧乏神へと一歩前進します。
人の意見を仰ぐ時は今の自分に
気持ちをセットしてはいけません。
その先にある自分にセットして
「どうすればその助言を叶えられるのか」
を、考えながら聴かないと
いけないのですね。
ここでは貴方の素直さ度の高さが
物を言ってきます。
この様な話を綴っていると、
あにきの話みたいに思えるかも知れませんが、
それは稚拙な妄想です。
この状態に陥り易いのは、
貴方の回りの方々との会話や
何の気ない遣り取りの中での事が
大多数であって、
ほぼ全てと言っても過言ではありません。
何故なら、あにきよりも
貴方が普段触れてる人達の方が
圧倒的に話す機会が多いですよね。
その数多の会話の中で、
貴方がどれだけ真摯な態度で向き合い、
相手からの厚意を
無碍にしているのかしていないのか
その動き方一つで、
先の幸せが変わってくるものなのです。
自らが変わろうと動かなければ
幸せは何一つ近寄ってはきません。
運気は自分が引き寄せるものですからね。
善くも悪しくもです。
自分本位思考は
隙を狙っている
ものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
念想の天秤の一つに
「勇を用いたか」
というのがあります。
これは同時に八罪の一つの
「勇を用いない」の
裏側となるのですが、
どういう意味かと言いますと、
字の如く
「勇気を出したか」
という意味です。
普段、勇気という言葉を実生活で
使わないので些か分かり難いですね。
なので、
もう少し端的にしてみます。
こういう場合は対義語を考えます。
勇気の反対は「小心」です。
臆病とか意気地が無いとかですね。
つまり、
「勇を用いたか」の反対は
「小心だったか」となるので
「怠惰じゃなかったか」
という意味となります。
だらしないとか、怠けてるとか
そういう意味が怠惰です。
詰まるところ、
やる事やらないで楽をして
自分や周りにだらしなくしてたか
どうかを問われるのです。
そう聞かれると、
殆どの方は「そんな事は無い」と
言うと思いますが、
果たしてそうでしょうか。
例えば、
何かの意見を言わなきゃいけないのに
周りに合わせてしまったりして
言わなかったとか、
いじめを止められなかったとか、
見て見ぬ振りをしてたとか、
何かをダシにして不都合を隠したとか、
日頃の生活の中で
思い当たる節は本当に全く無いですか。
念想の天秤では、
貴方がこれらを
どの程度出来ていたのかを
貴方の生涯を通して問われるのです。
念想の天秤で問われるのは
勿論これだけではありません。
他にも沢山あります。
怖いのは、他の問い
要は、他の八罪にこれらが
連動してくるという点です。
勇を用いなければ
「伝に務める」事も難しいですし、
その先の「信に徹する」事も難しい。
達成率が低ければ、
尚更その連動は確実なものと
なってきますから、
トータルでの八罪を犯した数が
爆増するという事です。
その先にあるのは
紛う事無き地獄堕ちの烙印です。
死んだ後の事だから
地獄堕ちでも怖くないと
思われるかも知れません。
ですが、地獄堕ちする様な人が
生きている時に平々凡々と過ごせると
思われているのであれば
それは能天気の薄ら馬鹿としか
言えませんね。
地獄堕ちする前、
生前には既に貧乏神や
それに親しい存在となりますし、
そうなる手前から想いよりも
恨みばかりを受ける様になって、
嫌な事が頻発する様になるから、
余計に良い事を欲する様になり、
それは俗欲の強さへと変換され、
より一層負の螺旋へと堕ちていく。
早い話が、
適宜、勇を用いずに
楽ばかりをしていると
「生きながらにして
地獄の様な思いをしつつ
死しても尚、それ以上の苦痛を
味わい続けていく」
と、いう事です。
ちなみにですが、
死後も生前同様に
意識はバッチリありますからね。
さぁ、自分の罪を数えろ。
大切になって
くるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
人との相性や合う合わない、
繋がる繋がらないなど
一見すると
運や運気や運命や流れとか
はたまた、
波長とか波動とか周波数とか
ちょっとよく分からない物言いの
怪しげな言葉もありますが、
それらが原因となっていて
合わないとか合うとか、
実際に会えないとか会えるとか
そういう話を耳にした事が
ある人は多いと思います。
確かに、要所要点では
運命としてのというのはありますが、
そんなの人生の中で
1,2回あるか無いかのイベントです。
では、そういった流れ的なものや
そもそもの合う合わないは、
何で決まるのかと言うと
相手に合わせるという形で
「流されているのか」
こちらに合わせさせるという形で
「引き寄せているか」
の、違いです。
例えば、
あにきのこの長たらしいブログを
継続して読める人と、
長たらしいから読めない人、
これだけで合う合わないが
ほぼ決まります。
読める人は、
あにきの話が聴ける人です。
これを読む事に集中出来るという事は
あにきの長い話を聴いていられる
集中力と認識力、想像力を持っている
可能性が高いという事です。
逆に継続して読めない人は、
あにきの話が聴けない人です。
長い文章を集中して読めない、
飛ばし読みをする、
答えだけが欲しいなど、
集中力や認識力、想像力が
少々乏しい可能性が高いという事。
あにきの話は解説が多いくて長いです。
それに、現実的な事ばかりで、
ファンタジー色が少ないですから
現実逃避系スピリチュアルが
お好みの人や綺麗事が好きな人、
結論ありきの人などは
例に紛れる事無く、集中力が保てなくて
小一時間するとその兆候が出てきます。
つまり、
自分に合う合わないというのは、
「自分で決める事が可能」
という事です。
運に任せるのでもなく、
運気に頼るのでもない、
そもそも運気は制御出来ますし、
「流れは自分で創るもの」です。
運気のお勉強をした際に
教えましたよね、
「自分で引き寄せるもの」だと。
相手に選ばれるのではなくて
相手は自分で選べば良いだけです。
何をやっていても、
全てはそこに帰結します。
だからこそ、
常に冷静な判断が必要ですし
流されない様にする
工夫が大切なのですよ。
貴方だけでなく皆がみんな
同じ事をしているのですから。
自分の生きる方向性を
目に視えないものに委ねるよりも
「知を以て自ら築く」ですよ。
相手への想い
つまり
思い遣りなんやで