2025年7月29日火曜日

念認想増【カウンターウェイト】(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




善くなりたいからと言って
想いばかりに注力する様になると
ほぼ確実に貧乏神へと
堕ちる道筋を辿ります。

想いが善いもので
念が悪いものだから

想いだけを搔き集めて
善いものだらけにすればいい

みたいな考え方ですと
駄目なんですね。

何でもそうですが、
善いものというのは
その逆の作用を知っているから
善いものだと理解出来るのです。

例えるなら、
子供の頃に膝小僧を擦って怪我して
痛い思いをした事があるから
転ばない様に気を付けたりするのであって

人は何かしらの悪い点を認めないと
善い点の本質を理解する事が出来ないのです。

これは想念に至っても同じです。
想いというものを伸ばしたいのであれば
念という存在を認めないといけない。

ましてや、自身の事であるならば
殊更、己の中の念や駄目な自分を
認めてあげなければ、

自分が手にする想いの価値など
知る由もありません。




それにも関わらず、
想いに固執して良いとこ取りを模索し
実際に搔き集めたとしても

それは既に想いを軸としておらず
どこまでもどこまでも
欲し続ける欲求の権化とも呼べます。

これではまさに「餓鬼」の状態ですね。

その様な思考回路で善いものなどは
集まってきませんし
手にする事など叶いません。

実際に、貧乏神になればなるほど
形だけの想いを搔き集める様になります。
徒に幸せや幸福、愛を謳う輩ほど

なりふり構わぬ形で
神社仏閣やパワースポットへ詣でたり
そこかしこからアイテムを
かっ攫ってきたりしてますでしょ。

そういう輩の表情を視てごらんなさいな。
とても善きとは程遠く、
想いとはまるで縁が少ない
面構えをしていますからね。


自分の善さを知る人は
駄目な自分を認めて理解している人
だからこそ、
善い面や想いを増やせるのですよ。

暗さの恐さや
不便さを知る者が
灯りの真の尊さを
知るんやで

2025年7月26日土曜日

発見はすぐ傍にある(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何かに新しく気が付いたり
見付けたりする「発見」は
とても身近な所に点在しています。

確かに遠くへ行かないと
見付からなかったり
分からなかったりする発見もありますが、

基本は身近な面で起こり得ます。

にも関わらず、
見付け難いのは何故なのか。

そこには

「過剰なルーティン化」

と、いう念基軸的な所作が関わっています。

ルーティン化自体が駄目な事
という話ではないです。

生きる上で、日頃の生活をする上で
決まり切った動きというのは必須ですし、
毎度毎度違った動きをするのは
とても非生産的ですからね。




その反面、
「楽に興じる」のも確かでして
以前から話している通り、
視野がとても狭くなります。

何でもかんでもルーティン化させるのは
楽になるのと引き換えに、
思考を著しく阻害する事に繋がります。

端的に言うと、
「考えるのを辞める」という意味です。

ここで言う「考える」とは、

「意識をして行動する事」や
「意思を以て意図的に動く」

という事を指します。

ルーティン化によって効率的で
合理的な動きが可能とはなりますが、
その数は明らかに減衰減少してしまう。

自身を「発見に導く」には、
目線を誘導させないといけません。

目線の誘導とは先に述べた
「考える」という事の比喩です。

同じ事ばかりを続けていれば
同じ部分にしか目は向かなくなり、
総てに於いて

「やってるつもり」
「動いているつもり」
「考えているつもり」

といった流れとなってしまうのですね。
これが「念基軸思考」です。




物事は想いと念のバランスが肝心です。
ルーティン化によって
楽と同時に念基軸思考に偏る訳ですから、

ある場面場面では
時には非効率的だったり
非合理的な所作を敢えて行い、

想い基軸へとバロメータを戻す事も
必要になってくるのですね。

この動き方や考え方が
「柔軟性」となります。

発見や「気付き」とは
この柔軟性を得た動きが出来なければ
その根本的な数を増やす事は不可能です。

また、そこには知識も必須となります。

こういった点を日頃から見直しつつ
実戦の中で常に養っていく動きを

「日頃の業(おこない)」

と、言います。

ここまで読んで、
なるほどと思った方も居れば
「私は出来ている方だな」と
思われた方も居るでしょう。


これぞ実戦や

2025年7月23日水曜日

己にも当て嵌まる隙(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




物事が上手いこと運ばない。
そういった状態の時に、

「何か憑いてるかも」
「誰それの念の所為かも」

などと、
戯言を口にする人が居ますね。
この手の台詞を吐く人を見掛けたら

自分本位思考の人なのだと
仮説を立てるのが基本です。

そもそも論で、
分かり易い程に貧乏神の特徴が
出ているのであれば
見抜く際の問題となり難いのですが、

そうでないパターンの場合の方が
数としては多いです。

その際の見極めポイントの一つとして
前述の台詞があるという事ですね。




この手の台詞を口にする人は、

「あまり意味を考えていない人」
「その台詞の通りに思考している人」
との、二種類に分かれます。

前者は中立的念基軸なタイプ
後者は念基軸なタイプ

前者は、その場のノリで口にしたり
言ってみたりする場合が多く、
どっちかというと念基軸。

みたいな、本当に想いと念の
中間に位置している状態の人です。

善く言えば、中立。
悪く言えば、風見鶏。

後者の場合は、
本気でこの台詞を口にしているので
自分の動き方や考え方が原因で
今の結果となっているなど、

露にも思わないですし
説明をしても到底納得出来ない程には
念基軸で生きてしまっている状態の人です。




自分の思う様に進められないから
悪霊や他人の所為にするというのは、
物凄く情けない思考ですし
他力本願極まりないですね。

では、良い事があった場合も
何かのお陰にするのかと言えば、
そこはちゃっかり自分の手柄とする。

こういう思考で日々の業をしてしまうと
同じ穴の狢が寄ってくる事になるので、
運気はどんどん低下していくのです。

また、誰かの所為にする様な台詞を
吐くという事は、
その台詞にも言霊が宿る訳ですね。

五感の全てを使って
全力で念や悪霊を呼び寄せ、
全力で自に堕ちる方へと突き進む。

物事が上手くいかないのは、
どんなに言っても
自分が原因でしかありません。

自分が馬鹿な考えを持って
バカな動き方をすれば、
そりゃ上手く進まないのは当たり前。

この思考をどこまでも危険因子として
自身の中に留めておくのが重要です。

「私は理解しているから大丈夫」

なんて、思っていたら危ない危ない。
貴方の中の自分本位と駄目な自分に

あっという間に引き込まれて
貧乏神へと退化してしまいますからね。

いつ如何なる時も
自分の中の
危険因子の存在を
制御する事が
大切なんやで

2025年7月20日日曜日

先に繋げる己が過去(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




前回の流れから

「他所は他所、うちはうち」

と、いう価値観を手にして
世間体からの乖離を始めた際に、
重要となってくるのが

「過去を認める」

という動き方です。
世間体に逃げ場を求めたり
過度の俗欲依存に陥るのは

「自身の過去を認めていない」

事が、最も大きい要因の一つです。
とは言え、誰もが嫌な過去を
持ち得ているものでもありませんし、

皆が皆、トラウマティックで
ショッキングな体験や経験を
している訳でもありません。

だからこそ、
過去を認める必要があるのです。

問題なく生きてきたとして、
その「問題無く」は貴方が軸になっている
「問題無く」であって、

貴方が問題無いという事は
その皺寄せを誰かが被っていて、
貴方がそこを踏み台にして
問題無く生きてきただけなのですね。

つまり、自身の過去には
駄目な自分が確実に存在している。




トラウマもショックも無いから
駄目な自分にも気が付かない。
必然的に「善い自分」ばかりへと
目を向ける様になるので、

殊更、駄目な自分など視る由も無くなる。

その善い自分は維持がとても難しく、
最初の内こそ自身で何とかなるものですが
善い自分というのは決まって、

「他の評価に頼りがちな面」

でもあります。
褒められたりとかする点ですね。

善い自分の維持は快楽を伴います。
褒められたりすると嬉しいでしょ。
これが快楽です。

この快楽を求めるが余り、
更なる綺麗事で自身を固めていく。
ここが「世間体への逃避」であり、
過度の俗欲依存への起因です。

ここで今現在の自身を視たところで
現在を認める事も出来なければ、
根本的な原因を知り得ていない訳ですから、
先に繋げる事など無理なのですね。




誰しもがまさか自身の過去が
総ての起因となっているとは考えません。

善い点だけだと思っていた自身の過去を
しっかりと認めなかったが故に、
いつの間にか俗欲に溺れてしまっていた。

そして、本来のスピリチュアルでの
「過去」には「現在」も含まれます。
時間は留まれないのです。
常に過去を生み出す製造機だと思えばいい。

故に、「現在」は「過去」となります。

過去の中での駄目な自分を認める事が
今現在の駄目な自分を認める事に繋がって

将来やその先に繋がっていく。

面倒だからといきなり現在の駄目な自分を
認めようとしても、

それはあくまで表面上の造られた駄目な自分
だけしか視えていないし認めないので、

結局は過去から連綿と続いていて自身の深淵で
淡々と肥大化している駄目な自分に
引き摺られてしまって、

自に堕ちてしまうのですね。

それでは哀しいだけです。
現在を含めたその先を善くしたいのであれば、

過去をしっかりと認める事が、
根柢の駄目な自分を認める事が

将来へと繋がっていくのですね。

分からないし
難しくても
本来のスピってのは
こんなもんやし
最先端の科学にも
通ずる事なんやで

2025年7月16日水曜日

弱き心は多へ集う(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




どうしても落ち込んでしまうとか
ストレスを溜め込んでしまうとか

この手の状態に陥りがちな人は
結構多いです。

特に、ある一定の期間で
ネガティブの渦に堕ちてしまう人は
“何か”に頼りがちですし、

依存癖があります。
最も身近な依存はお酒とかですね。

こういった方の特徴として
本来のスピリチュアル目線から
総じて言える点が一つあります。

それは、過去から現在に至るまでの

「自分を認めていない」

と、いう点です。




自分というのは善いも悪いも
同数を持ち合わせています。

その表現型が業なのですが、
これが善い方へバロメータが偏っているか
悪い方へ偏っているかの

バランスの違いで業が変わります。

「自分を認められない」

という特徴は、
このバランスが「悪い」に
偏り過ぎているのです。

何故に悪いへ偏るのかと言うと、
自分を考える際に
「善い部分しか認めない」からです。

過去から現在に至るまで、
善い部分しか認めていない。

悪しき部分は認めずに蓋をし続けるから
詰まるところ、心中でオーバーブローを
生じさせてしまうのです。

想念で表わすと、念への偏りです。
幽体深くに隠れた念は肉体へと創出します。

結果として、
業の殆どが念基軸となりますから
どこまでもネガティブ思考となるのですね。




逆にとても前向きな人は、
自身の悪い部分を「それも自分」として
隠す事無くちゃんと認めているので、

想いの噴き出しとなりますから
業が想い基軸となるのですね。

「裏で隠せば表に出るし
裏で認めれば表では隠れる」

つまりは相互作用なのですよ。

そして、このネガティブ状態の念基軸の人は
何につけても「依存」を欲します。

それが物だろうが人だろうが
思想だろうが信仰だろうが

結局は、悪しき自分を認めないから
それを隠し切ろうとする為の補完として
依存へと走るのですね。

ともなれば、
そこからの回復を施すとなると
如何に「悪しき自身を認めさせるか」
の、一択となる訳です。

では、どういう点から攻めるのか。




ここまでの流れからすると、
自分の業を吐露させたりするのが
先決と判断してしまいそうですが、

そんなものは無駄骨に終わります。

何故ならば、散々っぱら悪しき自分を
隠遁して認めていない人が
容易に表に出す筈もないからです。

出てくるのは、それっぽく擬態させた
「余所行きの悪しき自分」だけとなります。

要は、綺麗事の塊ですね。
なので、無駄骨ですし意味すら無い。

ですから、余所行きを想定しつつ
その綺麗事の苗床たる思考の破壊を優先する。

早い話が、「世間体からの乖離」を目指します。

念基軸とは「過度の俗欲依存」です。
俗欲とは他者と自身を比べたりした際に
愛を極小化させてエゴを優先させると最大化します。

で、あるならば他者との比較自体が
無駄な事で情けなくて格好悪くて

全く理にそぐわないものだと認識させる事が
優先順位の第一位となるのです。

他者の価値観と自身の価値観は同一であらず。

「他所は他所、うちはうち」

これの徹底です。

誰にでも凹凸は存在してて、
その凹凸の本質たる価値は
自分自身にしか分からない。

それを認めずに他者の価値観へと
丸投げしてしまうのが、
過度の俗欲依存の正体なのですね。

他者から見れば変なとこでも
自分の中では善い部分なんてのは
結構あるものですよ。

この思考を再起動させてあげるのです。

ちなみにですが、
念基軸に陥り過ぎてて貧乏神気質が
強く出ている人には効きません。

言うなれば、
これをやって変わらない人
思考を変えられない人ってのは、
貧乏神だと断定出来るという事ですね。

大人だけやなくて
子供の様子を
確認する時や
無理しがちな奴の
変化を見抜く
最善策なんやで

2025年7月12日土曜日

不完全な群れの中で(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人に何かを教えたり
子供に躾けたりする際に

「叱る」と「褒める」を

使い熟しますね。

この時に、叱るを「怒る」と
間違えない様にしましょうね。

叱るは「相手のため」
怒るは「自分のため」

と、いう解釈をすると分かります。

叱る場合は、まだ冷静さがあるので
言葉を選ぶ余裕が出ていますが、
怒る場合は、冷静さを欠いてしまうので
心の内をぶちまけてしまいます。

また、「褒める」と「甘やかす」も
間違えない様にしましょうね。

褒めるは「相手のため」
甘やかすは「自分のため」

と、いう解釈で善いと思います。

それと、褒める際の注意点ですが、
何かをやり遂げたり
出来たりした時に褒めますよね。

では、普通の時はどうですか。




普通って事は、
ある意味「ノーミス」って事ですよね。

普段、気に掛けている失敗を
しなかったから普通の日常を過ごしてる。

つまり、ノーミスです。

なのに、普通の状態であるが故に
褒める側がスルーしてしまう。

褒められる側もノーミス自体を
意識していないかも知れませんが、
ならばこそ褒める側が
ちゃんと褒めてあげて

ノーミスを意識させてあげないといけません。

これは育児だけに限らず、
大人に対しても同じです。

例えばですが、
僕と直接話をされた方なら
身に覚えがあると思うのですけど。

「前回からこれまでの間に
何か問題がありましたか。」

との問いかけに、
「いや、特に問題はありませんでした。」

と、回答した際、僕は何と話していますか。

「それは善かったですね」
とか
「指摘された点を頑張れたって事ですよ」

みたいな感じで自然と褒めているでしょ。
これが肝心なんですね。




ちゃんと出来たのだから褒める。
普通と言う名の成功をしっかり理解する。
当の本人になればなるほどに、
普通が成功という事に気が付かないし、

そもそもナチュラルに成功してる時って
気にも留めないものでしょ。
それ故に、「普通」なのですからね。

その点に気付いてあげる事
その点を気付かせてあげる事が

教える側や伝える側には
必須となりますからね。

そして、叱る際は必ず線引きをする。
叱り終えたら自分に頸木を付けること。

頸木を設けずにだらだらと
叱ったり、いつまでも怒りを示すのは
相手のためでなく自分の為の解消です。

要は「自分本位」という事になりますので、
決して良い結果に繋がる事がありません。

叱る際には、自身の「意識の方向」を
しっかりと認識し続ける努力が
必須となりますからね。

「相手を視つつ、己も視詰める」

どこまでも完璧なんてのは存在しないし
僕らってのは
教える側も教わる側も

「不完全で不安定な存在」なのだと

常時認識していくのが重要って事です。

意識の方向は
常に気に掛けて
なんぼやで
教える側も
教わる側も
同じなんや

2025年7月9日水曜日

意識の方向の観測(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




前回の続きとなりますので、
「意識の方向の観測」についてです。

実のところ、これについての話は
以前からお話をしているので

皆さんとっくに御存知なのだと
思うんですね。
↓これです


数回に分けて長々と書いています。
最もそれを読んで理解と実践が出来る程
甘くはないですし、

あにきのセッションやレクチャーを
受けていなければ読解そのものが
尚の事、難解であると思います。

それでは面白くないので、
改めてのコツをここではお話しします。

ー 言 葉 ー

口にする言葉に注力をします。
どういう意図での言葉なのか。
その言葉通りの受け取りをするのではなく

「言葉の持つ意味」を考えます。

ここでいう「言葉の持つ意味」とは、
その言葉の持っている目的
と、いう意味です。

一体どこに向けたものなのか。
誰に向けて発しているものなのか。
自分なのか、周りなのか、相手なのか。

そこに注力させるのです。

↓ここにも書いてあります。




ー 表 情 ー

念基軸の場合と違って表情の見極めは
非常に難解となります。

何故なら、想い基軸の場合を想定して
特段の問題が無い状態な訳ですから、

常におかしな表情をしている様な
訳ではないからです。

では、
どういった部分を視るのかというと、

「言葉での違和感を覚えた
その瞬間の表情」を視ます。

前述した言葉を受け取った際に

例えば、言葉では貴方に向いていても
意識が自身に向いていた場合。

目線や口元の動きが変わります。

しっかりと貴方を視据えていないと
いけない様な時に、
明らかに貴方の方向ではなく

自身へと向くので
「感情の無い笑み」等が
表情として現れます。

似た意味合いで笑みを浮かべなくとも

「口元の歪み」が

出てくるパターンもあります。
この時の歪みは貧乏神のそれよりも
分かり難いですので、

唇の端や口先に注目をします。

端が上下していないか。
おちょぼ口の様になっていないか。

そういう点に着目します。




これらは比較的簡単な見極め点の
一つに過ぎません。

実際には、そこに仕草や所作なども
加味して仮説を立てて会話をします。

間違えてはいけないのが、
仮説を立てるのであって
「疑う」のではないですからね。

意識の方向というのは、
本人ですら理解していない場合が主なので
その点を「教えてあげる」為の方法です。

また、これらの方法は
貴方自身にも適用できます。
セルフチェックが出来るという意味です。

会話中に自身の表情を視るのは難儀ですが
「言葉」に関しては出来ますよね。

ただただ喋るのではなくて、
自身の発した言葉にも注力をしながら話す。
それは「責任」とも言い換えれます。

無意識状態での「会話」時こそ
この手の違和感は出てきます。
愉しい時や嬉しい時って事ですね。

それを発した事後すぐに気付ける様になれば
周りに対する意識の方向の観測は
そこまで難しくないものだと理解が出来ます。

本来のスピリチュアルは
誰にでも出来る事しかありません。
能力者の専売特許みたいに言われているのは

既得権益を守る為でしかない絵空事だと
考えた上で努力しないといけませんよ。

詳細は
セッションや
レクチャーで
聴くのが
おススメやで

2025年7月8日火曜日

ズレた回答(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




人に相談や悩み事を持ち掛けた際に
知りたかった答えとは
懸け離れた回答を
貰う時があると思います。

前回お話をした
「流す涙の価値」と同類の内容と
なるのですが、

相談される側(以下、「聞く側」という)
にしても、
相談する側(以下、「話す側」という)
にしても、

意識の方向と基軸となる念想によって
ズレが生じてしまうのですね。

大きく分けると3パターンあります。

A:
話す側が想いを基軸としているのに
聞く側が念を基軸としている場合。

B:
話す側も聞く側も想い基軸だけれども
意識の方向が違っている場合。

C:
話す側も聞く側も念基軸の場合。




Aの場合は、聞く相手を間違えています。
真っ当な答えが返ってくる事は皆無です。

聞く側がインチキ占い師や
嘘っぱち霊能者なんかの場合が
これに該当します。

Cの場合は、完全な馴合いで終わります。
どちらも本気では話していないですし、
端で聴いていると苛々するやつですね。

貧乏神や貧乏神気質同士の話が
これとなります。

Bの場合が皆さんが陥り易いパターンです。

互いに想い基軸は想い基軸なのだけども
意識の方向が定まっていない。

真っ向から互いに意識の方向が
向いていれば何ら問題が無い状態なのですが、

「素直さ度の高さ」

に、違いが生じている為に
意識の方向が定まらない感じです。


例え、想い基軸だったとしても
素直さ度が低い状態ですと

己に意識が向き過ぎて自信喪失と
なっていたりしますし、

逆に、外に意識が向き過ぎてしまって
自己研鑽に走っている状況と
なってしまっている場合もあります。

貧乏神のそれと比べれば
気にならないレベルではあるのですが、
そういうレベルだからこそ

ズレた回答という齟齬が発生して
問題の起因となってしまうのですね。

そして、その問題は放置する事が多いので
似た問題が山積していき、
やがて手に負えない状態となってしまう。

これだと困ってしまいますから、
どこに意識が向いているのかを
自他問わず常に観測する事が
重要となってくるのですね。

では、意識の方向の観測はどうやるのか。
と、いう話になってくるのですが、

これはまた別の回で
お話をしたいと思います。

お互いがお互いに
意識を合わせる
努力をする事が
必要なんやで
思い遣りやな

2025年7月6日日曜日

流す涙の価値(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「泣く」という行為があります。
色々な場面に於いて
泣く事があるのですが、

その流す涙の価値は
全く異なるという点を見抜けないと
その後に貴方自身が
辛い思いをする事に繋がってきます。

では実際に、

「どういう点を見抜くのか」

と、いう話なのですが、
ここで考えなくてはいけないのは

「場面」や「シチュエーション」

ではありません。

どうしても、「泣く」となると
その行為よりも「状況」を
考えてしまいがちになります。

ですが、重要となってくるのは、

「誰に向けた涙なのか」

と、いう意識の方向です。

意識の方向で人を視た場合ですと
大きく分けて二種類のみとなります。

「自分に向けているか」
「周りの存在へ向けているか」

この二つです。




本来のスピリチュアルに則った
想いや念という観点から見た
結論で言いますと、

意識を自分に向けている時の
涙の価値はゼロです。

大袈裟でもなく何でもなく、
全くの無価値です。

どんな状況に置かれていても
意識を自身のみに向けている涙には
価値という概念が存在しません。

そこにあるのは、
己に向けた「悔い」や「失望」と云う様な

「念」そのものです。

周囲に向けて撒き散らすのも
想いではなく「念」です。

けれども、泣いているという行為自体は
変わりませんよね。

これとは逆に、
意識を周りの存在へ向けている時の涙は
「感涙」と呼ばれるもので、

「想い」を軸にしていますから、
そもそもの涙の種類が異なります。

然しながら、
見た目は前述の行為と同じですよね。




ここを見極めるのが人の見極めであり、
本来のスピリチュアルに於いて
非常に重視する点となります。

では、どうやって見極めるのか。

最も簡単な見極め方は、
涙を流したその後に出てくる

「言葉の種類の検閲」です。

こう言うと難しく聞こえますが、
やる事は単純です。

こちらの話に素直に耳を傾けるかどうか。
涙をした後でも言い訳をするかどうか。
DD連発(でもだって)をするかどうか。

こういった点をじっくりと視る。
ですから、いくら涙してるとは言っても
その場に感情移入させてしまうのは
御法度なのですね。

貧乏神という念の塊の様な存在は、
如何に相手を感情移入させて

「自身にとって都合よく動かすか」

と、いう事しか考えていません。

それなのに、話を聴く貴方側が

涙=美しい事象
みたいな「綺麗事」で判断してしまうと、
あっという間に流されてしまって

その後に辛くなるのは誰でもない
貴方自身であり貴方の周りとなります。

常々話していますが、
聴く際には感情を入れてはいけません。

話す際に「貴方の感情のみ」を入れればいい。

その場その場での冷静な判断は
世に出回っている情報とは真逆ですからね。

「涙=美、涙=哀」

などというものは、ほんの一部にしか
適用されるものではないと認識しないと
何時まで経っても前には進めませんからね。

こういう見極めが
出来なかったから
あんた達は
辛い思いを
してきたんやで

2025年7月3日木曜日

危機感を常に持て(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




最近、地震が頻発しています。
ここまで集中して発生していると

東日本大震災を体験した身としては
否が応でも、あの時の状況を
思い起こしてしまいます。

あの時は群発地震が起きていて、
その延長線上で本震がやってきました。

今回発生している地震が
どういった類のものなのかは
専門家ではないので分かりません。

願わくば大きい地震は来ないで欲しいと
考えておりますが、

これは漠然とした祈りではなく

「ひょっとしたらの予測」を

基としている列記とした「思考」です。

ただ漠然と祈るなど無意味に近しいですし
それよりも、

科学的根拠や実際のデータを
礎とした知識を基に、

あらゆる角度から予測を立てて
行動や心構えに移す方が
圧倒的に合理的となります。




数ヶ月前から僕の居る伊豆近郊でも
小さな地震がそこそこ多発しています。

今現在、群発しているトカラ列島は
フィリピン海プレートの西の端です。
伊豆は東の端。

同じプレートで繋がっているのだから、
トカラ群発の影響が
何かをきっかけとしてこちらに出てきても
おかしい事は一つもありません。

地殻のエネルギー量によっては、
最大規模の揺れがこちらで起きても
全く不思議ではないと考えています。

何せ相手はいつもお世話になっている
地球さんですからね。

地震というものが地球さんの動きの中での
"発作"的なものであるならば、
起きるのを止めろと言うのではなく、

起きてしまうのは仕方ないとして
それならば、その状況に対し
持てるだけの知識と知恵を以て対処する。

発生した時の対処。
家に居るとは限らない。
何をしているのかも分からない。
日中とも限らない。

限定的な場面での想定や
家族が皆同じ場所に居る想定は
まるで意味を成しません。

また、危機管理を想定する際に、
自身を中心に据えた想定も意味を成しません。
想定をするならば、

「自分以外の存在を軸に据えた想定をする」

そうでもしないと、日頃からの危機感は
決して養えるものではありません。

恐いから考えないのではなく
恐いと思う中心、

「恐怖の源をしっかりと視る」

それが出来なければ
結局はいつでも慌てふためいてしまうだけです。

漠然とした恐怖心は
何よりも危機を誘いますよ。

日頃の危機管理も
本来のスピリチュアルの
一つなんやで
常に冷静さを
保持する方法を
いつも教えてるやろ