2025年6月29日日曜日

幻想の中では使えない(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




スピリチュアルというのは
今この時に至ってもなのですが、

やはり「幻想への逃避」目的に

使用されてしまっているのが
悲しいかな現実です。

例えば、自身がピンチの時に
祈ったり願ったりしてしまう。

気持ちは分かりますが、
そんなのはスピリチュアルでも
何でも無くて単なる逃げでしかないし、

自己崇拝をしているに過ぎません。

何せ「使う」という業を放棄して
動いていない訳ですからね。

ピンチの時に動かないのが
スピリチュアルだと言うのであれば
そんなのは妄言です。

ピンチでなくても現実的に
使えない若しくは使わないのであれば
そんなものは余興に過ぎませんから
無駄の長物です。




現実の中で常に使えるのが
「本来のスピリチュアル」です。

但し、それを実行するには
現世に於ける知識=情報というのが
基礎として必要になります。

そこを軽視して何となく視えたものなど
糞の役にも立ちやしません。

基礎たる知識を持ち合わせないから
漠然としたものとなり、
結果として際物扱いされてしまうのです。

どう考えても漠然とした内容には
信憑性が生まれませんからね。

そして、ここで言うところの
知識というのは、
何も学び舎から得られるもののみを
言っているのではありません。

学力は当然必須なのですが、
それ以外にも

日頃の生活の中での経験や
コミュニティの中での規範、
地域社会に於ける文化や伝統、
往々にして蔓延る悪習など

僕らが生きている中での総てが
知識となりますし、

上述した様な
「人社会のみに於けるもの」以外も
知識となるのです。

それを解釈するには認識力や理解力を
補完させる為の学力が要となるので
学力は必須事項なのですね。




それらをフル活用して日頃の生活で使う。

家事然り、趣味然り、
仕事然り、人間関係然り、

あらゆる場面で実用的に使用出来ます。

現実的な使用が出来るものなのに、
幻想の中でしか使おうとしないのは
貴方自身が逃げに徹していて
努力という業を放棄しているからです。

例えば、霊視一つ取ってみても
将来を視るだけでなく、
眼の前に居る存在の過去を辿って
その場の「嘘」だって見抜けます。

何なら意義や意図だって見抜けるもんです。

それは目の前の存在と言えども
映像の先に居る存在ですら同じです。

食べようとしている食品のヤバさの察知から
海の向こうに居る存在の見極め
全体としての事象の見抜きや
集合意識としての偽りの検閲まで

現実を視ながら実用的使用が可能なのが
本来のスピリチュアルです。

訳の分からん偶像相手に
祈念という名の逃避をするのと同列に
捉えてしまってはいけませんよ。

下らん事に
学びを得たと
軽く抗弁垂れる人程
使えてないやろ
現実的使用を
してないからやで

2025年6月27日金曜日

捻くれは不幸の招き(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




仕事でもプライベートでも
様々な人達に囲まれたり関係したり
毎日誰かしら何かしらの
関わりがあると思います。

その中で、

「おめでとう」を
全く素直に受け取れない人

と、いうのが存在します。

「おめでとう」という言葉は
どんな場面でも発生します。
日本人ならば大なり小なり使いますね。

この賛辞を述べられた時、
人がどのように反応するかで
素直さ度というのがある程度視えます。

素直さ度が高い人は、
どの様な「おめでとう」に対しても
皮肉でない限りは、

「ありがとう」で、返します。

けれども、それに反して
素直さ度が低い人や高くない人は

そこで「ありがとう」を言わずに
「否定」や「拒否」の言葉を産みます。

屁理屈を言ってみたり、
細かな説明を言ってみたりです。

賛辞というのは「想い」となります。
これを秒で否定する。

つまり、
「ありがとう」を言わないという事は、
この「想い」を無碍にする行為ですね。

そうなると、そこには念が発生します。
「想い」の裏側が「念」です。

せっかく想いを貰えるチャンスなのに、
自身から態々拒否をして
その想いを念に変換する愚行。

この想いが大きければ大きい程、
想いを出す人の霊格が高ければ高い程、
ひっくり返った時の念も大きくなります。

そのまま念となる訳ですから当然です。




そして、そういった捻くれた行為は
周囲にも伝播するのです。

こういった行為をする人物と
一緒に居たりする時間が長かったりすると
余程気を付けていない限り、

行為自体も伝播して受け継いでしまいますし、
念想も伝播してしまうので
要らぬ「念」や「恨み」を貰ってしまうという
とんでもない状況に陥る事が多いです。

これが素直さ度の低さが招く
「念想の伝播」です。

素直さ度の低さが際立つ最たる存在は
貧乏神やその眷属です。

こいつらから「距離を置け」と、
僕が教えている理由は
この念想の伝播が非常に強力だからなのですね。

「避けられるべく不幸を自ら拾いに行く」

これほど馬鹿な話はありませんよ。
普段から形ばかりの綺麗事に身を包んでいて、
表面上の「可哀想」に手を差し伸べたりすると

この伝播にまんまと嵌って不幸を招きます。

どうせ同じ伝播であるならば、
念よりも「想い」の方が良いですよね。

ですから、人をしっかりと見極めないと
運気なんて絶対に上げる事など不可能なのです。

運気は自身で
創り上げるものや
下げるも上げるも
自分の業次第やで

2025年6月23日月曜日

現実を落とし込む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




例の7月が近付いてきて
あれやこれやと色んな人達が
思い思いの事を囁いていますね。

僕も以前からサラッと話をしていますが、
何度も言う様にいずれ何処かで
何かしらは起きるものです。

それが7月なのか10月なのか
11月なのかその先なのか、
はたまた間髪入れずに発生する様な
ハイブリッド式なのか。

たぶん起きる時は2~3回と
別口の災禍が連発して起きると思うし
ここでは言及していないですが、

不定期開催の秘密結社や
いつもの様に会ってお話しする際には
2年程前からそれは話をしています。

と、同時に大切なのは
起こる事に恐怖心を抱いて
ビビり散らかす事では無くて、

その先の状況時に如何に対応するか。
その時に必要な心構えは
今この時に時代の中で溢れている
「それ」とは大きく変わります。

「それ」に気が付けない人は
問答無用で淘汰の対象となりますよ。

って、事ですね。
これがステップアップの話。

予知や予期という類の個人力を使ったり
そこに注力する際に、
どうしても抽象的で漠然とした
話しっぷりになりますよね。

僕の様に意図して
そうしている人も居ますが、
殆どは素で漠然と表現をしていると思います。

何故かと言うと、理由は二つ。

1、自分が視た予期予知ではない。
2、自分が視たが現実を視ていない。

この二つです。




前者はその言葉の如くです。
受売りだからその予知予期の持つ意味も
概念や概要も、その先も分からないですし、
恐怖心という名のエンターテインメントを
楽しんでいるに過ぎない。

後者は、視たものの内容のインパクトに
溺れすぎてしまっていて、
そこにある現実を見失ってしまっている。

前者はどうでもいいです。
好きにさせておけばいい。

後者は結構問題です。
現世という現実に生きる者として
自身の視た予知予期に対して、

「現実」

と、いう要素を組み込まないから
インパクトのみでの判断となるので
ありきたりな話しか出来ないのです。

つまり、馬鹿って事です。

例えるならば、
最新テクノロジーの気象衛星の情報を
分析する分析官が大馬鹿だったら。
ってのと同じ意味合いです。

この場合、
どんなに衛星の機能が優れていても
分析する人がそれを扱う技能と知識を
持ち合わせていなければ
予報は大きく外れます。

そのスペックを活かす事が出来なければ
何ら意味が無いという話。

予知予期であろうと何であろうと
個人力というのは、
「現実」を組み込まなければ
その意図もスペックも機能しません。

この現実というエレメントとは
知識であり情報であり意識です。

そして、その内容は自身の与える
影響力の範疇が最小単位であり
最大効果範囲となります。

無駄に広く考える必要は無いですが、
知り得る情報の範疇は狭いと駄目です。

ホンモノと呼ばれる人は
それが出来ているのが普通です。

訳の分からん
他者の情報に
身を委ねて
良いものなのかと
考えてみてや

2025年6月21日土曜日

まだまだ頑張れる(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




当たり前にやっている事というのは

「実は凄く恵まれている」

ここに気が付けるかどうかで
その先にある動きや考え方、

更にその先にある業や
そこでの心構えなどが
大きく変わってきます。

僕らは当たり前の事を当たり前に
やってしまうが為に、
その本当の価値というのを
どうしても忘れてしまうのですね。

人によっては
動きたくても動けない人も居るし、
話したくても話せない人も居ます。

その点、五体満足で動けるのですから
恵まれていると考えなくてはいけません。




その恵の部分を忘れてしまう時に
自身の根深い部分に隠れている
「自分本位」というのが顔を出します。

「言葉にするのが苦手」
「動くのが苦手」
「意思表示するのが苦手」

こんな情けない台詞を
本当に動けない人の前で言えますか。

総て自身の都合に合わせた
単なる我儘に過ぎません。

体の良い言い訳を
それっぽい理由にして
誤魔化しているだけなのですね。

早い話が
やれるのにやらない為の

「格好付けた逃げ口上」

なのですね。

ここの理解が出来る様になって
実際に動ける様になれば
世界の視え方は相当に変わりますし、

思い遣りというものの形も
具体的に視てとれる様になります。

こういう意識を
日頃から紡いで
本当の意味での
優しさを見出す事が
本来のスピリチュアル
やからね

2025年6月20日金曜日

特視は終わりへの序曲(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




これまでも何度かに分けて
独特の能力を持っている人や
個人力を使えている人を

徒に特別視する事や特別扱いする事は
確実に宜しくない結果を齎しますよと
お話をしてきました。

何度となく言いますが、
個人力や霊能力という代物は
誰にでも備わっています。

至極当たり前の能力です。

それをナチュラルに使えるとか
使えないというのは、
生まれてくる前に自身が選択をして
決めているだけの事になります。

「使えないという誤認識」や
「個人力自体を忘れてしまう」

と、いうのが現世での基本ではあるのですが、

「単に使う」

と、いう点のみで言うなら
それも現世ではノーマルです。

つまり、何ら特別ではない。




問題は「役割」の認識と
「背後の理解」です。

人のみならず現世に在する万物には
各々其々に「役割」というのが在り、

人に限って言うならば一部例外を除いて
ほぼ全ての人が自身でその役割を
設定して生まれてきます。

個人力に関しても同様で、
それを使ってどうするのかという
「役割」を必ず持っています。

その役割を現世に在している最中に
理解して使い熟す事が出来て
初めて役割は全うとなります。

また、その「背後を知る」
というのも重要です。

単に個人力を持ち合わせているだけでなく
その「力の源泉」は何なのか、
向こうの世界の「世界観」や
「価値観」という様な

皆が忘れている「背後」を理解して
それを適確に教えたり伝えたりする事が
可能か否かが必須となってくるのです。




ここで変に特別視をしてしまうと
周りは疎か本人ですらその俗欲に溺れて

至極当然に能力にも関わらず
周りは必要以上に縋り
当人は驕り高ぶります

そして、妙な方向へと進んでいきます。
宗教化したり偶像崇拝化する感じです。

そうなってしまうと、
ただの貧乏神化ですから
何一つ良い事など起こり得ません。

そういう特別視よりも
如何に普通に接して普通に生活が出来るか。

もし、仮に親であるならば
幾ら子が個人力や不思議な力を有していても
その力に溺れる事無く驕る事無く

特別視せずに社会性というのを
維持させ育んでいく事が出来るか。
ここが非常に重要となってきます。

特視というのは甘い俗欲であり、
強烈な「魔素」です。

それを当人も周りも理解して
あくまでも普通にする事が
とても難解ではありますけども
ステップアップには必要な事なのですよ。

特別視ってのは
利己的な優劣や
差別意識の助長と
なんら変わらん
ものなんやで

2025年6月15日日曜日

想いは載せて紡ぐ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




これから話す事は
皆さんにとってしてみれば
もはや当たり前の事なので

何を今更と煩わしさすら
感じられるかも知れません。

何かしらの業の達成を目指す際に
目的を以て動き相手に対して
想いを抱えて行動をしていると思いますが、

この「想い」というものは
一方通行で決するものではありません。

出だしに関してはどうしても
片道となってしまいますが、
これは仕方ありませんね。

ですが、その後に達成となる際には
相手からの想いを受け止めて
初めて成り立ちます。

要は、相互通行でないと
達せないという事ですね。




この時に想いを動きに「載せる」事で
思い遣りを発生させ、

相手からの想いを受け取る事で
「愉しみ」が完遂します。

これらの総合的な事象が

「業(おこない)」

なのですね。

当たり前の事を当たり前に進める。
今回の話に関しても当たり前過ぎる話です。
ですから、
真新しさの欠片も無い話なので
飛ばしてもらっても結構ですよ。

こうして当たり前と思しき動きを
連綿と日々続けていると、

とりわけ日頃の業を始めとした
継続や努力というのは
とても地味な動きですから

何時しかその当たり前の意義や
意味を見失ってしまうんですね。

「想いは相互作用で成り立っている」

と、いう理解している筈の基本概念を
知らぬ間に忘れ始めてしまい、
それのみに留まらずあろうことか

「これだけ自分は想っているのに」

と、云う承認欲求を強く抱いたり、

「どうせ自分なんか」

と、自己憐憫に溺れてしまう様な事が
間々起きるものなのです。




想いの対局に位置していて
相互作用を引き起こしているのは

「念」です。

ですから、
前項で述べた様な状態となるのは
特段恥ずる事でもないですし、
必至な事象とも言えます。

かと言って、そのまま放置をして
反省をしないという選択肢は存在しないので、
ここで思考しないといけないのは

「何を忘れてしまったのか」という点です。

そう。貴方は想いも、
想いを載せる事もちゃんと覚えていた筈です。

ですが、その先の「紡ぐ」という
最終工程を忘れてしまっていたのですね。

想いは「送る」「受ける」だけでなく、
「紡ぐ」を行って初めて完遂となります。

想いを「糸」だと想像すれば分かり易いです。
一本の糸先を相手に渡し、今度は
その糸先を相手が貴方に持ってきてくれる。

そのままではただの返却となってしまうから
糸先を「結わいて紡ぐ」のです。

肝心なここの部分を忘れていたから
念に溺れてしまったりするのですね。
想いは紐で終わらすのではなく、

「結び糸」

に、しないといけないのですよ。

だから縁起物には
結び糸が
付き物なんやで
想いは紡いで
なんぼやからね

2025年6月14日土曜日

手にした香りは欺きの防(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




五感という感覚は非常に優秀な
高性能センサーであると
以前から口にしていますが、

ほんの少しの認識の違いで
簡単に忘却してしまう事があります。

その忘却点を如何に薄く済ませるか。

また、偏り過ぎてしまう感覚の中で
ついぞ忘れてしまいがちな認識を
如何に濃くさせるか。

ここが視野を拡げる上での
重要なポイントとなり、

尚且つ、見た目で欺かれない為の鍵と
なってきます。

例えばですが、

とても美しい森と清流の動画を観た際、
視覚と聴覚に注力をする結果として

綺麗や素敵といった面の感覚は
手に取る様に分かる反面、

「水」や「森」の匂いを忘却します。

そこには確かに匂いが存在する筈ですが
映像からは一切感知出来ませんし
そういうものだと認識もしていますから、

嗅覚というのを「忘却」する。

水や森の匂いを知らなかったら別ですが、
既知のものだったとしても

想像の中で疑似認識が可能にも関わらず
それすらも忘却して美しさに見惚れる。




ここで起きている事は、
美しさを届けたいという撮影者の意図に

「流されている」とも受け取れますし、

自身から率先して美しさのみを
「受け取り」に向かっているとも言えます。

ここでは意図の善し悪しの問題ではなく、
疑似認識の無さが問題となってきます。

見た目に誤魔化されてしまう時というのは、
こういった感覚の隙間を突かれます。
これが本来のスピリチュアルで云うところの

「霊的な視野狭窄」です。

前述の場合ですと、
感覚を失っている状態。

逆に、
大幅な増幅を促すパターンもあります。
最も分かり易いのが
料理の映像やサンプルです。

先程とは相反して匂いや音や味覚に至るまで
視覚からの情報で疑似認識が出来ますよね。

その結果、お店であれば実際に食べたり、
通販などであればお取り寄せをしたりする。

端からそのつもりであれば
問題が無い事ですが、
徒にその感覚を刺激されて
欺かれてしまったりするのだけは
避けたいものですよね。




そうならない様にする為に、
常に疑似認識の存在に意識を向けたり、
その強弱や有無に注力を注ぐ。

この努力をする事も
「五感のフル活用」と呼べます。

ただ茫然と眺めていたり
聴いていたりするだけでなく、
そこから派生する部分に焦点を合わせる。

よく映画やゲームなどで
クリーチャーや汚れ塗れのイケメンが
出てきたとして、
恐いやカッコよと思うと同時に

「臭そうだ」と、疑似認識が出来るか。

一見すると天邪鬼な感じに思えますし
それだと何も愉しめないと考えがちですが、

視点が複数に増えて
認識する視野が大幅に拡大されますから、
愉しめないどころか
制作側の意図的なフェイクや

見せ場や伝えたい意思や意図なども
自ずと視えてくるので愉しみは激増します。

実生活に於いても、
見た目で欺かれない感覚が身に付きますから
おいそれと騙されたりする事は減りますよ。

何せ、相手が隠しておきたい部分が
透けて視えてしまうのですからね。

本来のスピは
こうやって
実戦で使って
善くする事が
本分なんやで

2025年6月10日火曜日

道標はムスビイトの様に(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




この仕事をしていて、
いや。

こういう体質なので
昔から色んな所で向こうの世界の事や
霊の事などを完全否定する人と
出会ったり話したりする機会があります。

子供の頃は嫌も応も無く
完全否定されるがままで、
意見を言う事すら儘になる事はなく

寧ろ、意見を言えば
その先に待っているのは
矯正や修整という感じの罵倒や
迫害と言っても差し支えない程の
冷めた視線でした。

大人になるにつれ
自ら率先してこの手の話をする事は
殆ど無くなっていきました。

ショックだからとかではなく、
世に出回っている話とか
興味を持っている人の話が
自分のそれとだいぶ懸け離れている事が
多すぎたからです。

その実、体質を小馬鹿にする人や
相も変わらず完全否定する人も居ますが、

経験というのは人の器を
大きくするものなのだと実感も得ています。




実際に完全否定する人と話す際、
今となってはこちら意見を
無理に押し付ける事もしないですし、
ムキになる事も無いです。

そういった思考が大半だというのも
理解をしていますからね。

ですが、
「はいそうですか」と、
流される事も無いです。

相手さんの意見をしっかりと聞いて
僕なりに理解した上で、
こちらの話も聞いて貰います。

但し、抽象的な話は一切しません。
自身の中の確かなものに則った話のみをします。

それは、
本来のスピリチュアルに沿った話ですし
先人の知恵や最新の技術や情勢を踏まえた
科学的な知見でもあれば、
合理的で理に適っている話などが大半です。

その中で必ず出す話の一つが、
「他界」です。




完全否定するのは結構だけれども、
では何故、逝去した際に

「離界」ではなく「他界」と言うのか。

この世界から離れるのだから離界で良い筈。
それを態々「他の世界へ行く」と
表現するのは何故なのか。

これについての意見を聞きます。

様々な答えがありましたが
これ迄で一番多かった解答は、

「昔の人は知識が薄かったから」でした。

確かに。なるほどと思える解答です。

けれども、それであるならば
他の世界は無いという事が
現代人は証明できているのですか。
と、いう点を突きます。

でなければ、答えとしては薄いですし、
単に先人さん達が馬鹿だからという話であれば
それは敬意が薄いという点に於いても
差別的意識が強いとも言えてしまいます。

同じ様な解答をした人でも
「仮説なのだけどね、」と、
前置きをした人も居ました。

このタイプの人とは至極普通に
愉しく意見交換が出来ました。




面白いものですよね。
僕も思考をする際は

「仮説を立てなさい」

と、皆さんに対して津々話をしています。

揶揄される様な体質の僕と、
現実主義の方との思考回路が同じなのです。

ここの中間に触媒として存在しているのが
「相手への想い」であり「思い遣り」です。

そして、これが一つの結論を指していて、
現実的な思考でもスピリチュアルな思考でも

「行き着く先は同じ」

と、いう形そのものを指し示すのですね。

意見の違いや主義や主張の違いなどは
何処にだって現われます。
ただ、それを原理主義的に押し付けるのか
単に流されて終わるのか

それとも、互いに理解する努力をした上で
別の道であっても共に前を向いて進むのか。

たったこれだけの違いなのです。

そこに強固な俗欲が介在させるから
形としておかしくなっていき、
結ばるものも結ばらなくなる。

これが結わえる様になるのが、
次の段階である「フェーズ4」です。

何かにつけてカテゴライズする理由が
実は存在しないという基礎に
気が付ける様になれれば、
生きるのはもっと愉しくなりますよ。

どう足掻いても
ステップアップ
できないのが
貧乏神なんやで

2025年6月9日月曜日

考える前に動く(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




相手を想って動く事の難しさを
しつこい位に話をしています。

難しいと聞くと、
どうしても簡単な方法は無いものかと
考えるのが常というものです。

実際に、簡単な方法が
有るか無いかで言うと方法はあります。

と、言いますか、
方法そのものは簡単過ぎるくらいに
簡単なのですね。

僕が散々話している事が
その方法なのです。

ただ、それを極限まで難易度を
上げてしまっているのは、

動く前にゴチャゴチャと
余計な事を巡らせて足止めをしている
貴方自身です。

思考を巡らせて分かるものであれば
動く前にちゃんと考える事が大切です。

けれども、
頭を巡らせたところで分からないものを
幾ら考えようとしたとしても、

考え方が分からなかったり
考える思考力や理解力が追い付かなかったら
そもそも答えが出せないのですから、

それは考えているのではなくて
ただ言葉を脳内ループさせているだけであり
単なる「作業」をしているだけになります。




答えが出せないものを続けていると
徒に疲れが溜まるだけですし、

「言い訳に言い訳を連ねる為の作業」

と、なっていきますから
急速に足取りが遅くなっていき

「何もしない」という結果となるのです。

ですが、それだと理解をしている人しか
何も出来ないという結論となります。

それは非常にナンセンスですし、
全く面白くないですよね。

その点を回避させて
誰もが実行に移せる為の簡単な方法が

「考える前に動く」なのですね。

万物は
「肉体」「幽体」「霊体」という素体が
合わさって構成されています。

この内の肉体的行動の場合でしたら
動く前に考える必要が出てきます。

肉体的行動というのは、
俗欲をベースとした行動です。
普段から皆さんがやっている
何でもない動きの事ですね。

これとは別に、
「幽体的行動」や「霊体的行動」
というのがあります。

これらは感情や想いを基礎とした動きを指し、
向こうの世界の理を芯に据えた動きとなります。

現世の理ではなく、向こうの世界基準なので
一見すると理に介さない様な動きです。

この行動の場合は考える前にまず動き、
先に「感覚」を肌身で覚えます。

その事後に改めて考える。
こうする事によって理解度が数段増します。




何故なら、
向こうの世界の理に則った動きなのですから、
それを補完させるに余りある様な
「知識」「経験」があれば別ですが、

そうでなければ、
考えようにも考えられないものだからです。
けれども、そこに肉体は存在するのですから
行動自体は可能です。

自分よりも先に相手を想ったり
正しく全き思い遣りに繋がる様な動きは
総てこれに該当します。

では、実際にどうやるのか。

色々な場面に於いて
自分の中で足止めを施す思考が
出てくる瞬間がありますよね。

例えば、徳積みでも話しましたが、

コンビニでゴミが落ちているとします。
それに目を向けた貴方は拾おうとする。
その瞬間に

「自分の家じゃないし」とか
「お店の人の仕事だから」とか

そういう思考が巡り始めて
拾おうとした自分の事を足止めします。

それをガン無視すれば良いだけです。

似た様な事が挨拶でも言えますね。
挨拶をされたら普通に挨拶を返せば良い。

それが出来ないのは何故なのか。
やれないのは何故なのか。
下らない疑心暗鬼となる前に動く。

その後の事はその後で考える。
日頃から練習や訓練という経験を
積んでいなければ

「事前に分かる事なんて実は物凄く少ない」

という事に気が付ければ、
この動きは容易に出来ますし
僕の言ってる「簡単」の意味も分かりますよ。

事前よりも
事後に分かる物事を
確実に紡いで
実とするのが本来の
スピリチュアルやで

2025年6月8日日曜日

気を入れる(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




普段の生活の中で病気や怪我
それに限らず縷々様々な理由で

「元気が無くなったり」
「気が滅入ってしまったり」
「何だかヤル気が出ない」

などという時や、
特に理由も何も無いけれど
消化的な意味合いで

「とりあえずやる」

みたいな時が間々あると思います。
これらの状況でついぞ忘れてしまうのが

何のためにという思考
つまり、「目的」です。

この目的というものを失念してしまうと
動きや業の軸となる柱が
消えてしまっている状態となりますので、

全般的に"冴え"が無くなります。
この冴えというのが「活力」です。




何故、この状態だと活力がなくなるのか。

万物というのは、
「何のため」という目的を持って動きます。

知らず知らずの内でもこれは例外無く
働いている行動概念です。

人ほど複雑ではないにしろ
動物も植物もその他万物は
この概念に沿って行動をしています。

にも関わらず、
単に自身の為に動くという
「自分本位状態」に陥ると

前述した概念の破綻を自身で起こします。
これを「概念崩壊」と、言います。

この概念の芯に据えられている要素が

「思い遣り」であり、
「想いの力場」です。

自分の為にと思考した瞬間から
これら要素が薄れていき、
同時に念を主軸とした「念の力場」の
構築が始まります。

行動の礎となる概念が崩壊し、
不活化する要素の「念」が増幅していくので
「活力」が薄れてしまうのですね。




どうにもこうにもヤル気が出ない時や
気が載らない時というのは、

自身でも気付かぬ内に

「自分本位に陥っている」

というサインなのですね。

こういう時に「気を入れる」のが
非常に重要となるのですが、

単に気合いを入れたところでは
何の解決もしません。
空回りしてしまうのが関の山です。

では、どうするのか。

周りの存在のためという目的を有して
想いの力場を発生させるのですから

ハッキリと何のための先にある
「相手」を意識する事が必要となります。

ただ漠然とした想像や
自身のみで完結させる様な気合いでは
念を発生させるだけとなるので、
行動が続かなくなるのです。

応援されると
力が湧くやろ
あの原動力を
考えれば
分かる事やで