皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
前回のお話しの中で、
対象を感覚的にイメージする際に
こちら側の「想い」が必要。
と、記載をしましたが、
ここの部分をもう少し深堀します。
想いと念は相互作用の間側にあります。
どちらを基軸とするか
又、割合の違いは有れども基本的には
「誰でも両方を保持している」
と、いう意味です。
その中に
「感知作用」というものがあります。
感知をする際の反応を示す作用ですが、
想いと念ではこれが異なります。
想いは想いと念を捉える事が出来ますが、
念は念を捉えるのみとなります。
厳密には念も想いを感知するのですが、
感覚的にイメージを構築する術としての
基軸とさせるには弊害が多すぎるのですね。
念というのは、言わずもがな「俗欲」に
カテゴライズされる代物です。
俗欲というのは、業のきっかけとなる
非常に重要な要素の一つですが、
同時に
「自己の判断を阻害させる」
要因の一つでもあります。
重要となるのは、ここでの目的です。
「対象を感覚的にイメージさせる」
と、いうのが目的である以上、
自身の中で
「信に徹する」必要が出てきます。
ですが、念つまり俗欲を
基軸としてしまうと、
・信に徹する事自体が揺らいでしまう
・俗欲基軸の対象のみを捉えやすい
これらの点が突出してしまい、
正常なイメージ構築が
成し難くなるのです。
例えば、
「私は凄いんだ」という様な
自己顕示欲や承認欲求が強めの人が
相手を捉えようとしても、
自身の基軸たる念を否定する様な相手は
最初から排除してしまいますから
とても冷静なイメージ構築など
成すことが出来ません。
都合の良い相手のみを選ぶという
貧乏神の特性を思い出せば理解出来ます。
逆に、想いを基軸としている場合は
仮に相手が念を基軸としていても、
その距離感の掴み方を理解しているので
想いを基軸としている相手と同様に
冷静なイメージ構築が出来ます。
(実際に距離を取るのはこの後です)
霊視とは、
自身の全感覚を使用して
如何に具体性のある
「構築」や「分析」を行えるか。
それが総てとなる業です。
ご都合主義の俗欲を基軸として行える程
軽薄なものではありません。
感覚1つを得るにしても、
それは同様の事が言えます。
自身の栄誉や名誉の為の行いなど
単なる妄想や愚行であるとしか
言いようがありません。
これを回避させる為には
どう考えても想いを基軸とする以外に
方法が無いのですね。
この流れを肌身で理解出来ると
感覚もちゃんと掴めます。
基軸の造り
なんやで
何事も基礎が
重要や
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
前回投稿した内容の中で
「霊視」について触れました。
霊視をするには
「視ようとする意気込み」が必要ですが、
それ以外にも色々と必須な事があります。
その中でも、捉え方が大切です。
何を捉えるのかを一口に言うなら
「想い」又は「念」です。
肉体を捉えようとすると、
霊視というものは出来ません。
あくまでも肉体を介さずに
幽体や霊体を用いて
対象となる存在を覗くのが霊視です。
霊視での対象は「人」と思われがちですが、
物や空間や事象など
全般的に至るのが霊視です。
その対象に向けて幽体や霊体を用いて
視る訳ですから、対象側に関しても
幽体や霊体を目標とします。
肉体を介さずに視るのですから、
対象に於いても肉体を目標としたら
出来る筈もありません。
幽体や霊体と言ってもなかなか難しいです。
ですが、想いや念であれば
薄っすらでも理解は出来ると思います。
対象となる想いや念を「捉える」と言っても
どうやって捉えるのか。
対象を感覚的にイメージします。
イメージする際に、
こちら側の「想い」が必要になります。
つまり、
善い感覚でイメージを構築しないと
霊視をする事は叶いません。
何故なら、念を用いるとなると
俗欲が基軸となるからです。
俗欲=肉体ですから、そもそもが霊視と
なり得ないのですね。
想いを基軸として
対象を自身の内側に構築する。
その上で、対象の念想を感じ取ります。
この時、幽体や霊体を目標としているので
実際の現実の肉体とは差異が生じます。
ですので、
断片的な映像でしか受け取れません。
その映像にこちら側で脚色をするのです。
望遠鏡で撮影した星々の画像も
スペクトル等の情報を基にして
色付けをして公開されています。
あの工程に似ています。
要するに、
視れたところで現実での知識や
経験や理解力や分析力、
認識力や想像力が伴わなければ
具体性が全く構築されないのです。
非科学の能力ではあるものの
科学的な知見も必須となるのが
本来のスピリチュアルの形ですからね。
一方向に凝り固まった
脳みそをしていると
本来のスピなんか
理解すら出来へんで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
視えない存在が視える。
そういう能力を持っている人に
多く見受けられるのが、
「悪霊への偏り」です。
私は視えるのよ系の人が
意気揚々として話す時、
大抵の場合、悪霊限定だったりします。
本来のスピリチュアルですと、
悪霊も善い霊も普通に視えます。
狭間をうろうろしている霊というのは、
善い霊が圧倒的に多いです。
つまり、「霊=善い霊」だと、
認識する方が普通という形となります。
にも、関わらずその逆を標榜するには、
何かしらの原因があるのだろうと、
捉える方が建設的です。
単に霊をよく知らないので、
分からないから悪霊だと断じている人は
「霊=悪霊」と、決め付けたりします。
これは致命的な知識不足です。
自身が悪霊候補の貧乏神気質なので
善い霊を意図的に排除して、
悪霊を態々引き寄せてしまうという流れを
自ら作っている事もあります。
これは、論外となりますが、
皆さんの想像以上に多いパターンです。
自身が視えるという能力を特別視しており、
優越感という俗欲に溺れてしまっている。
以前に投稿をしました、
「特別の検索」の成れの果てですね。
人から煽てられようが、
もてはやされようが、
視える程度など何ら特別ではありません。
視ようとすれば誰だって視れます。
それが、常時なのか稀なのか
以前にお話をした視え方の云々は別として
視るだけでしたら
誰だって視れるものなのです。
視たいという意気込みと
本来のスピリチュアルに対する全き知識、
万物に対する思い遣りとそれに対する理解。
これらを自分サイズで得る努力をしていけば
必ず視える様になるのが
「霊視」と呼ばれる能力です。
物凄く割愛して書いているので
あっさりとした内容となっていますが、
その実はかなり濃いものとなります。
そうそう簡単ではないのは確かです。
科学的知見も必要ですし、
非科学的要素も必要ですし、
社会常識も必要ですし、
個人としての論理的認識も必要です。
知識力、判断力、理解力、想像力、認識力、
それらを総合的複合的に使って
思考回路を形成していく。
気の遠くなる様な話ではありますが、
その過程の中でついぞ唐突に
視える様になってたりします。
感じられる様になった人は
分かると思いますが、
特別だと思おうとしても
特別感など実感出来ない程に普通の筈です。
そのくらいにありふれた能力が
視えるという能力なのです。
備わっている
普通の能力
なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
本来のスピリチュアルを
実戦で使うという点を考える時、
お化けつまり霊の事ですが
彼等の事が視えないから使えないし、
使う努力すら出来ない。
と、考えられる方も居るでしょう。
けれど、
それはかなり視野が狭いです。
霊とは何かを思考すれば
答えは必ず出てくるものです。
霊とは
「肉体を得ていない存在」です。
生きている者が
死去した後の存在のみと思いがちですが、
元々肉体を得ていない存在も居ます。
自然霊がここに該当します。
皆さんが大好きな龍神などですね。
要は、幽体と霊体のみで構成される存在が
霊という事になります。
今回の話は本来のスピリチュアルを
実戦で使う、若しくは使う努力をする
という話ですので、
分かり易い様に人に絞ります。
人でいう場合の霊とは、
端的に言うと死後の姿となります。
生まれてくる前の姿とも言えますが、
ここでは敢えて死後に限定します。
スピリチュアル=霊的
だからと言って、霊でなければいけない
という思考がそもそも間違いなのだと
気付けない様では、お話になりません。
単に肉体の有無が霊との
表現的な境目なだけであって、
存在としては人=霊という事になります。
なので、本来のスピリチュアルを
使う、ないし使う努力をするのであれば、
生きている人に対して
行えば良いだけの話です。
総ての存在は生きている間から
霊となった後の姿や、
その片鱗を必ず表します。
それを踏まえますと、
善い霊の場合も悪い霊となる場合も
様々な特徴が何かしら表れているので、
それを如何にキャッチするのかが
本来のスピリチュアルにとって
重要な点となるのですね。
如何に縷々行われている人の業を観察して、
自身に転嫁させる事が出来るか。
自身への戒めへと繋げる事が出来るか。
手始めは人だったとしても、
総ての存在に該当する訳ですから
人以外の存在を観察しても同じ事が可能です。
受肉している存在でこれらを反復反芻して
学習を積み重ねていきながら、
目に視えない存在の事を意識の中に登らせていく。
己を含めた眼の前に居る存在にすら出来ない者が
目に視えない存在に対してなど
何も出来る事はありません。
視える存在の想いを受け取る。
感じ取る。
これが使う努力の指標における最低限度です。
なので、
いくら自分で努力していると
自己評価しても、
ただの独りよがりの自分本位ですから、
努力しているという事には
決して繋がらないのですね。
本来のスピは
使い熟せない
ものやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「よく視る」
と、いう業を皆さん日頃から
鋭利努力されていると思いますが、
この業の際に、
一体何を視ていますか。
人を視ていますか。
善い点を視ていますか。
悪い点を視ていますか。
1つの物事や事象に絞り込んでいても
「よく視る」というのを
熟す事は不可能になります。
ありとあらゆる物事をよく視ます。
人、物、植物、動物、空気、水、
動き、流れ、事象そのものなど。
自分を含めたあらゆる面に
ピントを合わせて視る事でもありますし、
俯瞰で客観視する事でもあります。
そして、この業で大切な面は、
「よく視た後」となります。
視たその場で
何かを理解出来る事もありますが、
大半の場合は、
何一つ理解出来ないと思います。
特にやり始めですと尚更です。
けれども、
この積み重ねがデータとなって
後々に驚くべき効果を発揮します。
その時の為に、一つ一つの情報を
様々な角度から視て集積し、
自身の中で補完させていくのです。
都度答えを出したくなるものですが、
そうではなくて
自分なりの仮説を唱えていくのです。
何故なら、よく視たからと言って
その場で正答を出せる程
貴方は経験が豊富ではないですよね。
このよく視るという業は、
欲深き完璧主義を
「自身の中で制御するための業」
でもあるのです。
ですから、
よく視た後はデータの整理と
反省を必ず繰り返す事が必須となります。
その業自体が、
貧乏神化防止に繋がりますし、
思い遣りを理解し後々に
自身が使える様になる為の
楔となりますからね。
その後の動きを
思考しながら
精査せな
ただ見ているだけに
なるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
私達は想いも念も、
常に与えつつ受け取っています。
実のところ
これは相手の如何を問わないのが
普通でして、
人は人のみにしか通じ合えないと
思っているのであれば間違いです。
自分以外の万物に対して、
想いや念を与えているし
受け取っています。
この万物の中には霊的存在も含まれていて、
肉体を得ている存在だけではなく、
自然霊なども含まれているという点が
重要となってきます。
そして、想いや念というものは、
受け取るだけが全てではありません。
どうしても
受け取る側に注力してしまいがちですが、
同時に与える側である事を
忘れてはいけません。
運気というものを思考する際に、
受け取る側のみに着目している事が
多いかと思います。
例えばですけど、
神社やパワースポットなどに出向いて
何をしていますか。
見渡してみると
何かを貰う事に注力している人が
殆どなのではないですか。
実際のところですけど、
自分達も相手さんに与えているという
実感を持たなければ
得たいと講じている「想い」を
受け取る事は不可能であると
考えた方が間違い無いです。
貰う事ばかりに注力している時、
自分は何を相手に与えているのかを
考えた事はありますか。
それは「念」です。
貰いたいというのは欲している訳ですから
「欲」そのものです。
欲を剥き出しにしている相手に、
貴方は希望通りの事を示しますか。
まずやらないですよね。
それは、霊的な存在も一緒です。
欲という念には想いではなく
「念」で返します。
その点は、人よりも遥かにシリアスです。
普通に考えて何かを欲するのであれば、
まずは自身から同等のもの若しくは、
それに遵ずるものを与える。
でなければ、
道理や筋道というものが通りません。
これが、常々申し上げている
「善くなりたいのであれば
相手を最優先に捉える」
「自分は後回しにする」という
思い遣りの流れです。
想いを芯に捉えて動くというのは
これが基本系となるのですよ。
運気を上げるには
程遠いんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
どうにもモチベーションが
上がらない時とか、
気の進みが宜しくない時など
何かを待っているよりも自身から
率先して動いて変化を付ける様にします。
その方が確実に善い方向へと
進ませる事が出来るのですが、
実際には何をすれば良いのかを
知らない場合が多いと思います。
この時に使い熟せると良いのが
「愉しむ」
と、いう業です。
人によって愉しみは様々ですが、
要点となるのは
想いが載っている点となります。
その中でも一番手っ取り早いのが
「会話」です。
人が発する言葉には想像以上の力が
宿っています。
仮に声として発言をしていなくても、
文字だけだったとしても
そこには力が宿ります。
善い方向であれば「想い」が
悪い方向であれば「念」が
必然的に積載されるのが言葉であり、
「会話」なのですね。
モチベーションを上げたい訳ですから、
当然に使い熟したいのは
想いを含んだ言葉による会話です。
では、想いを含んだ会話とは
一体どういったものなのか。
文章で表わすのであれば、
「知的な文言を使用した
笑みを浮かべる事の出来る遣り取り」
と、なります。
簡便に言うのであれば、
ただ馬鹿笑いするだけの
下賤な話ではなくて、
どこかしらに思考を巡らせる笑い話。
詰まるところ、
「頓智の効いてる会話」ですね。
真面目一辺倒では堅過ぎて駄目ですし
かと言って、
砕け過ぎてたら馬鹿過ぎてダメ。
絶妙なバランスで繰り広げられるのが
頓智な会話です。
適頃に脳みそを稼働させつつ、
自然と笑顔が湧き出てくる。
そんな会話を自分から仕掛けてみるのです。
文字のみだろうが、声のみだろうが、
対面であろうが、
相手をほっこりさせる為に自分から仕掛ける。
その結果として、自身のモチベーションを
「上げてもらう」のです。
自分一人ではどうにもならない場合に、
どなたかしらの相手さんを頼って
愉しむを使い熟し相思向上させる。
そして、いつお世話になるのかは
分からない訳ですから、
普段よりそれを想定して思い遣りを持った
接し方に努める様にする。
勇を用いて伝に務めるの形とも言うべき
実戦型の業の一つとなります。
同意義なんやで
せやから
自分は後回しや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
前回お話をしました
「痛みの咀嚼」をある程度理解して
実行出来る様になりますと、
穢れを見極める事が出来る様になります。
これを
「穢れの分別(ふんべつ)」
と、言います。
自身の中の穢れ、要は駄目な自分ですが
これを自分で見極める事を指します。
自分の事だから簡単だと
思ってしまいがちなのですが、
自分の事だからこそ
中々難しいのです。
人は楽をする生き物です。
楽を‟したがる”と表現した方が
合っていますね。
様々な苦痛や苦悩、苦難を体験して
そこから「想い」を得る為に
現世へと生まれてくる事が
人の持つ共通目的の一つです。
その中で、肉体を得る事で俗欲を獲得し
この世で頑張っていく過程で、
辛い事に対する緩和剤として
使いすぎれば毒物として
「甘え」というものを持っています。
これは俗欲そのものとも言えます。
この甘えは取り去る事が出来ません。
だからこそ
人の判断を狂わせるのですが、
この甘えがあるからこそ
自分の中の駄目な自分を見極める
と、言った一見すると楽勝とも
思える様な業の難易度が高くなるのです。
穢れの分別の初歩の歩で必要なのは
「見て見ぬ振りをしない心掛け」
です。
言われたら簡単と思える事ですが、
これがかなり難しいものでして。
その場面場面での判断は出来たとしても
何せ自身の事となると、
更に難易度が増すからなのですね。
どのくらい難易度が増すかと言うと
例えば、
「ご自分の身体を直視して下さい」
どうですか。
難易度が上がったんじゃないですか。
そのくらい見て見ぬ振りをしないのは
難しいのですよ。
ここで言い訳をすれば甘えに完敗です。
如何に言い訳をせずに
甘えに対して打ち勝つ事が出来るか。
これにより穢れの分別が始まります。
直視して
認める事が
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
以前より複数回お話をしておりますが、
万物には
「穢れ」
と、いうものがあります。
これを人に当て嵌めた場合の形容として
「駄目な自分」
という表現を用いています。
この駄目な自分ですが、
様々な場面にて露出してきます。
何故かと言いますと、
「善い自分の対となるもの」だからです。
つまりですが、
仮に善い自分が100あるとしたら
駄目な自分も100存在する。
自身で容易く認められる駄目な自分など
浅い領域に転がっている
とても小さな駄目な自分です。
言い換えるならば、
さして口にしても自身が傷付かない程度の
駄目な自分という事です。
これも穢れは穢れですが、
本当の意味での穢れはこのサイズではなく、
もっと自身の深層部分に存在する
表に出したり口にしたりするのを憚る様な
サイズ感の駄目な自分を指し示します。
このレベルの駄目な自分を
自身にて認識をするには、
それなりの条件が必要となってきます。
その内の一つが
「痛みの咀嚼」です。
様々な痛みをよく理解しているか
という点の表現となります。
ここでの「痛み」とは、
想いや念から発する事による
「感情の苦痛」を意味します。
自身の受けた痛みのみならず、
自身が直接与えた痛み
間接的に与えてしまった痛み、
これら自身に起因する痛みに於いて
表面的な認識ではなく、
深層部に至るまでの理解をする努力を
自身で講じてきたか。
また、それに基づいた上で
自分以外の存在の痛みについて
理解する努力を行っているか。
これらの総合的な業が
「痛みの咀嚼」です。
単に辛いというだけでなく、
その立場を置き換えた理解を示す事が
痛みの咀嚼を得る上での鍵となります。
例えば、
虐められた...辛い。
ではなくて、
何故に虐められたのかを
虐められた側の存在が
どこまで考えられるか。
虐めた側の心情をどこまで理解出来るか。
これが痛みの咀嚼です。
よく一般的に言う様な「許し」とは違います。
別に許容とか寛容などの話ではなくて、
自身を含めた存在を俯瞰で見つめて
その実の痛みをどれだけ感情的とならずに
理解する事が出来るか
というのが、主眼となる業です。
物凄くキツイとしか言い様のない業です。
ですが、これを実行する勇気が無いと
駄目な自分の本丸を認識して、
その先へ進ませるというのは
ほぼ無理と言えるほど難しくなりますし、
この痛みの咀嚼による結果得られるものが
「思い遣りの源泉」となりますから、
それほどまでに、駄目な自分を認めるのは
困難を極めるものなのですね。
ちなみにですが、
痛みの咀嚼は三途の川を渡る際に
念想の天秤で測られる達成条件の一つです。
無事に浄土へ行けるかどうかの
条件の一つという事ね。
出来てないのが
痛みの咀嚼
なんやで
300投稿目や
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
欲を基軸にして
行動している人の特徴の一つに、
「喧伝」
が、あります。
その名の如く、広めたりする事を
指し示すのですが、
何を広めるのかと言いますと、
「自分自身」です。
場の中や話の中で、自分が分かる事や
自分の方が優れている事、
それが仮に自分の事では無かったとしても、
さも自分の事の様に言い広めたり
言い包め様としたりする行為です。
これは、
想いを基軸としている人からすると
目の当たりにした際に、
苛つきや怒りを覚えてしまうと思います。
ここで注意すべきは、
この喧伝の「捉え方」です。
何も分析をしないで喧伝に乗ってしまえば
貴方も同じ貧乏神の貉ですし、
かと言って無視を極め込むと
喧伝そのものが過剰となっていくか、
後々に悪役として風評被害を受ける筈です。
これはこれで面倒臭いですね。
そこで自分の意識の方向を考えます。
喧伝というのは「誘導」です。
この場合、相手は貴方の意識を
自分側に引っ張っている状態ですね。
貴方からすると、
苛々や怒りを覚えるという事は
意識の方向が「外側」に向き始めている
と、いう事になります。
漫然とそのままにしてしまうと
まんまと流されて終了です。
ですから、
意識の方向を「内側」へと切り替えます。
ここで使うのが「真逆の思考」です。
真逆の思考はこの場合で言うところの
「怒りの鎮静化」を促すと共に、
話の切り替えのきっかけにも使えます。
無視もできない、話にも乗れない
ならば話を切り替えてしまえばいい。
怒の逆は、「喜または楽」です。
それを基にした話へと切り替える。
一気に切り替えられる場合もあれば、
自然誘導させて切り替える場合もあります。
どちらを選択するのかは
時と場合によると思いますが、
勇を用いて一気に切り替える方が
なんやかんやで後々が潤滑となりますから
あにきはそちらをお薦めします。
話に乗らずに笑顔で切り替えて
変り者扱いされた方が
運気は下がらずに済みます。
どうせ貴方の事なんて気にしてませんから
バシッと遊んであげましょう。
嫌われたって
痛くも痒くも
ないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
色々な物事を努力する中で、
意識をしていなければ
ついぞ忘れてしまう動きが
「繰返し」と
「継続」です。
読んで字の如くですから、
いちいち説明は要らないもの
の、筈なのですが、
ある程度定期的にこうして口にしないと
完全に失念してしまうもの
でもあります。
何かを読んだり聞いたりすると
その場では分かったつもりになりますが、
実際にその知識は使う事によって
若しくは、積極的に使う努力を試みないと
その身に記憶させる事は出来ません。
使う事や使う努力というのは
一度や二度程度の行動を指し示すのではなく、
何度となく繰返す事により
形と成っていくものです。
そして、その繰返しを継続させる事により
肌身に沁み込ませていき記憶させる。
この渦中で、いつの間にか
「意識する」
と、いう業を忘失してしまうのですね。
気が付いたら呆然と繰り返していたり、
何の為という当初の考えすら忘れてしまい
日常に漂流するだけの「癖」となる。
結果、日々の時間の中に溶け込んでいき
いつの間にか繰返しも継続も終えている。
その状態の中で、
善くならないと嘆いていたり
またやってしまったと口ずさんでみたり
愕然とされたところで、
それを聴かされる方が悲しくなるだけです。
善くなれる人と言うのは、
この繰返しと継続を意識してやれています。
何故かと言うと、
「不出来な自分」を認めているからです。
やらないと忘れる。
意識していないと忘れる。
意味を考えていないと忘れる。
兎にも角にも続けないと必ず忘れる。
一過性の達成感や
一時的な歓びに身を寄せて
悦に浸る事が如何に体たらくで
何も生み出さないかを、
不出来な自分という形に置き換えて
理解をしているから熟せるのです。
そして、意識ある繰返しと継続は
新たな発見をも、もたらします。
そこに気が付く事が出来るから、
また引続き繰返し継続させる。
日々刻々と過ぎる時間を
無駄にするかしないかは貴方次第です。
下らぬ言い訳を饒舌に語るよりも
意味のある寡黙な業を目指しましょう。
継続も
意識してやると
愉しいもの
なんやで