皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
様々な事を考えながら文章を
日々書き認めています。
内容に関しては一貫しているので
そこはあにきの脳内曝け出し
と、いう感じで良いのですが、
最近思うのは、
遠くの方々が読んでくれてるのだという
「想いの繋がり」
「想いの遣り取り」
に、関する点です。
これはブログですから、
色々な情報がアナリティクスで見れますし
トラッキングしています。
とは言え、ここは
単に副教材として書いているだけです。
トラッキング結果に合わせて
内容を変える等の忖度は一切していませんし
参考にすら使っていません。
ですが、やはり見ていると面白いので
定期的に閲覧をしておりまして。
そこで気になったのが「エリア」で、
本当に色々な地域や市町村の方が
観てくれているんですね。
北海道室蘭市の方、士幌町の方、
青森県三沢市の方、青森市の方、
山形県山形市の方、福島県いわき市の方、
岩手県岩泉町の方、奥州市江刺の方、
群馬県前橋市の方、栃木県小山市の方、
茨城県日立市の方、
東京都千代田区の方、新宿区の方、
新潟県村上市の方、山梨県甲府市の方、
静岡県浜松市の方、愛知県名古屋市の方、
三重県四日市市の方、
兵庫県宍粟市の方、明石市の方、
広島県広島市の方、東広島市の方、
愛媛県宇和島市の方、新居浜市の方、
島根県松江市の方、佐賀県佐賀市の方、
今月のみに絞り込んで書いてみました。
明らかに会った事がある人以外であろう
と、思しき方々に限定しても
これだけの範囲です。
あにきと話した事が無ければ
複雑怪奇な内容過ぎて
読解するのも一苦労だろうに。
特別何かの遣り取りや直接のお話を
行っている訳ではなくても、
「繋がる」
と、いう業は立ち上がる。
「想いの遣り取り」に、関しても
何も直接アクセスする事全てが
遣り取りではないです。
例えば、
今回の投稿を目にして
「自分の事だ」と、喜溢れれば
それは既に想いの遣り取りの渦中です。
こういった感情の共感共有
つまり、「愉しみ」が基本となり
実生活や現実社会の中での心持ちを
豊かにさせて
「決して自分は一人ではない」
と、実感せしめて正の螺旋へと導く事が
本来のスピリチュアルの在り方です。
前々から述べてはおりますけどね、
「愉しむ」のも
「繋がる」のも
「想いの遣り取り」も
何も難しくはないですし
誰でも出来るものなのですよ。
こうして現実に目の当たりにすると
嫌でも分かるものです。
大袈裟に誇張して偉そうに踏ん反り返るのが
スピリチュアルではないです。
誰の傍らにも有って何時でも使えるのが
本来のスピリチュアルですからね。
こうして想いは
共有できるし
意識は具現化
するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「伝えるべくを伝える」
「知る必要がある事を伝える」
「知る必要がある人に伝える」
言わずもがなのneed to knowです。
組織運営の鉄則の一つなので、
stand aloneが主な動きの業界では
一考するとあまり関係の無い事の様に
思えてしまう原理原則なのですが、
実はとても重要な事になります。
先を知るというのは一歩間違えると
その対象者の人生のみならず
対象者と関わりのある存在をも狂わせます。
適確な言葉で伝えようが
抽象的な言い回しであろうが
そこは何も変わりません。
自分が分かるからと言って
何でも伝えようとするのは禁忌です。
なので、「確実な基準」と、いうのを
設ける様にしないといけないのです。
中途半端に能力を使っている人は
「分かる」という優越感と
「伝えられる」という俗欲に流されて
必要以上の物事を伝えてしまいます。
但し、
それが正しい情報に該当するかと言うと
疑義が生じますし、
確実に間違った情報であると断言出来ます。
何故ならば、
俗欲に流されている情報ですから
想いよりも念が優先されている状態であるので
思い遣りとは真逆の力場の産物だからです。
こうなってしまうと、
聞く側のみならず話す側も先を狂わせます。
それでは何も宜しくないので、
確固たる基準を設けるのです。
大きく分けて三つありまして
「役割」と「格」と「基軸」です。
「役割」と、いうのはその人の人生に於ける
お題目の様なもので、何をして何を学ぶのか。
どうしてそれが必要なのか。
と、いう様な目標目的ですね。
なので、役割に沿わない話や
役割を逸脱しかねない話は禁忌となります。
「格」と、いうのは「霊格」の事です。
霊格は8段階に分かれており、
どの段階に属しているかで
凡その理解度が変わってきますので、
伝えようにも伝わらない話は無意味となります。
また、間違った解釈をする危険性を伴うので
順を追うか端から話さないかを
適宜見極める必要があります。
「基軸」と、いうのは対象者の芯が
想い基軸か念基軸かの見極めです。
念基軸である貧乏神であったり
限りなく貧乏神に近い存在足り得る場合は、
やはり曲解が生じる上に
その周りにいる存在への誤った方向での
影響が大きすぎるので禁忌となります。
もしくは、場合によってはブラフを流します。
ブラフと言えども嘘は一切話しませんが、
当たり障りのない内容を
意図的に伝えるという意味です。
大まかにはこの三点です。
この中に対象者の素直さ度ですとか、
知見の深さや認識力の高さを鑑みて
段階を踏んで教えていくというのが、
本来のスピリチュアルでは必要になります。
その能力が大きければ
その分責任も
大きくなるんや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
ここを読まれている方々の多くは
「相談を受ける」と、いう形で
人の心内をほじった経験があると思います。
他愛のない事からそれっぽい事まで
何かしらの相談ですね。
その結果、
「嫌な思い」をされている。
何で嫌な思いをしたのかという点については
以前にも投稿しているので割愛しますが、
早い話が「真面目に答えすぎ」なのです。
言い換えれば、
ほじくる相手の求めを見極められなかった
「自分のミス」です。
相手のニーズに応じて
最小単位の内容で納めるのが本来の真面目です。
ニーズ未満であれば「手抜き」ですし
ニーズ以上であれば「過剰」となります。
これらを経験の中で覚えていけるか、
最適化していく事が出来るかが鍵となります。
ここを読まれている方々は
本来のスピリチュアル的に言うと
玄人さんが主です。
なので、敢えて手厳しい話をしています。
玄人に対して
馴合いの優しさを発揮しても仕方ないです。
そんなものは糞程役には立ちませんからね。
話を戻しますが、
真面目というのは「想い」が基軸の業です。
けれども、度が過ぎてしまうと
意識の方向が内側に偏ってしまいます。
そこで強まるのが
「伝えたい」「分かってほしい」
「(自分は)分かる」
と、いう様な強い俗欲です。
これに流されてしまうが故に
想い基軸の業だった筈が
自分から「念」基軸の業へと転換させてしまい
結果として、
念の力場を発生させたり
恨みを買ったりして嫌な思いをするのです。
この様な変貌を自前でさせてるのですから、
「自分のミス」となるのです。
本来のスピリチュアルとしては、
これが正しい見解です。
真面目というのが決して悪ではないのは
譲る事の無い事実。
問題はバランスなのです。
人は必ず偏りを持っています。
それは聞く側も話す側も同様です。
そのバランスを制御させる事が
本来のスピリチュアルでの真髄となるのですね。
知見を得ているなら何でも伝えるのではなく
「伝えるべくを伝える術」を持ちましょう。
あるものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
何をする上でも自分を知る事が
重要となってきます。
ですが、この「自分」という存在は
皆さんが想像している以上に奥行きがあり
中々に掴みがたいものでもあります。
己の事なのだから己が一番理解している。
そう考えて当然なのですが、
「燈台下暗し」なる諺にもあるように
自身の事であるからこそ
視えていない部分も多々あるのですね。
この視えていない部分を
如何に理解をしようとするのか。
また、年齢や環境に沿って
津々変化をしていく肉体や幽体を
如何に捉えていくのかが、
本来のスピリチュアルを実践する上で
非常に大きな課題となってきます。
動けていたものが動けなくなる。
考えられていた事が考えられなくなる。
出来なかった事が出来る様になる。
善しも悪しきも日々風向きの様に変わるのが
自分という存在なのですね。
勿論ですが、この自分を善しとする方向へ
誘うのは何でもない自分の努力です。
その中でも、成功だけでなく必ず失敗をする。
その失敗に大小はあれども、
人での例外は全く無いのが現実です。
つまり、
「誰でも何かしらやらかす」と、いうこと。
そんな不完全で魅力的な存在が自分なのです。
日毎に変わるのですから、
常に視続けていないといけない。
そして、
理解した「自分」というのは
その瞬間から「過去の自分」となるのです。
いつまでも今の自分が最新の状態であると
思う事自体が
理解から遠ざかる思考なのだと
気が付けるかどうかが鍵となるのですね。
自分から動かんと
自分すら分からん
っちゅーことやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に対して心配や感謝をします。
当たり前の事過ぎて
普通に考えてみれば話題にする事自体が
おかしな話なのですが、
この当たり前の所作の中に
落とし穴があったりするものです。
ご自身が心配や感謝をする場合ではなくて
される立場となった際や
これらをしてる人を視た時の事で
少し考えてみましょう。
心配や感謝というのは、
言葉だけを取ると聞こえが非常に良いです。
それは同時に聞こえが良いので
無条件で自身を良く見せるために
「至極使い勝手が良い所作」
とも、言い換える事が出来ます。
実際に、貧乏神やその眷属たる貧乏神気質と
呼ばれる存在になればなるほど、
この所作を濫用してる事が多いです。
そして、
その所作には必ずと言える程に
「主語の抜け落ち」が
発生しています。
「誰の為」と、いう最も重要な点が
すっぽりと抜け落ちているのです。
しかし、心配や感謝の言葉は述べる。
どんな所作でも大切なのは、
「誰の何に対して述べる言葉なのか」
と、いう点です。
これらが抜けているという事は、
その存在にとっての主語
つまり、言葉や意識の方向は
全て「当人」という事になります。
考えてみて下さい。
貴方や貴方の周りが
何かしら大変な思いをしたりとか
一生懸命に頑張った経緯があって
それを形にしたからこそ
心配や感謝を受ける筈なのに、
その努力や苦労の全ても
自分の俗欲を満たす為だけに利用する。
哀しくなるほどまでに
利己的な思考回路なのが、
貧乏神と呼ばれる存在です。
そこに気が付けないのは、
貴方にとっても貴方の周りにとっても
負の効果でしかありません。
普段の生活の中で、
人の一挙手一投足に対して
「よく視てよく聴いてよく考える」
この動きが
如何に理に適う業(おこない)であるか。
日頃からこういった点で
想いを向ける事や思い遣りの有難さが
深々と身に沁みてくるのが
本来のスピリチュアルを実践する上での
特効ですからね。
機能するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「善くさせたい」
「運気を上げたい」
「幸せになりたい」
何でも良いのですが、
自己の改善を目指している際に
皆さんが高確率で忘失しがちなのが
「自分を変えていく」
と、いう考え方であり動き方です。
それまでの自分を変えないで
状況だけを好転させたいと
考えている内は、
決して好転も改善もしないのが
自分という存在です。
何故ならば、
既存の自分に問題が生じていたから
思う通りに動けなかったり、
看過し得ない出来事を
引き起こしていた訳ですから
当然と言えば当然の流れです。
問題があれば改訂を加える。
どんな物事に於いてもそれは定石で、
理論然り
書物然り
アプリケーション然り
都度アップデートや
オーバーライドをしていますよね。
自分達の創りし物ですら
そういった動きをしているのですから、
自分自身も当たり前に該当するものです。
にも関わらず、
何も変えようとせずに好転を望むなど
傲慢不遜の極みとも言えます。
問題が無いと思考しているのは
自身のみであり、
「自身が是とする意識や思考の内に
何かしらの不合理が生じていたからこそ、
好転を望む様になった」
と、いう現実を嚴に受け止めて
それまでの自身の思考や動き方を反じて省みる。
この流れを幾重にも繰返し
まさに反復反芻を都度行う。
生ける内は元より、死しても尚
不完全な存在であるのが我々なのですから、
固定化に甘んじれる程の余裕などは
無いのですからね。
常に変えていかなあかん
っちゅう事やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
現世の中での私達には
「想いを基軸とする業」が
重要なものとなる旨の話を
事ある毎にお話をしていますが、
「想い」というものは、
そこに含まれる「愛の理解度」によって
この意味合いに
変化が生じる場合があります。
自分の中では「想い」だと
言い聞かせていたとしても
それがあくまで己の内で
完結している内容の場合、
ここに発生する愛の理解度は
低いものとなります。
理由としては、
相手との繋がりが希薄となるからです。
自身では想いとしている感情でも
一方的である以上は
そこでの愛とは相手に絡んだものではなく
単に己を納得させる為だけの言い訳に
過ぎないからです。
心や身体の痛みを知って
それを乗り越えたり
または、その努力をせずに
自身の中だけで完結させている
「完結させようとしている」
感情や感覚というのは
想いという相互作用の産物ではなくて
「自己満足」や「自己肯定」と言った
一元的指向性の強いものとなります。
つまり、
想いと感じているものが
実は「念」であったり、
もしくは、
少しの加減で「念」へと変異する
と、いう現象が発生します。
これらは、
嫉妬や承認欲求や支配欲などの
「俗欲」として表されます。
想いとは
「相まる心」と書きます。
相手と心を通わせている。
心を通わせる努力をしている。
そこで初めて生まれるのが
「想い」なのです。
前段にて記載をしていた内容ですと
「己のみの心」となります。
こうなりますと、
相手ではなく己に重なる心となるので、
「忌」となります。
相手の事はそっちのけで、
自身の方だけに目を向けていて
勝手な解釈をしている訳ですから
それは忌まわしい事象へと
繋がって当然ですし、
まさに「念」たるものと言えるのです。
想いや念のこういう部分を
理解してないと
念想の天秤で
エライ目に
あうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
個々人に於いて様々な場面で
「会話」
と、いう業が繰り広げられます。
この会話というものは、
誰もが触れ得る事の出来る
動きの一つです。
最初に伝えておきますが、
スピリチュアルの立場では
口頭や文面のみならず
目くばせなどのジェスチャーによる
コミュニケーションや
心内での遣り取りなども
「会話」となります。
例えば、
病床の方への遣り取りや
墓前などで御先祖さんとの遣り取り、
動物や植物等との遣り取り
夢の中での遣り取りなど
物質的側面や物理的側面だけでなく
非科学的側面や精神的側面の遣り取りも
全て紛う事無き「会話」
と、するのが本来のスピリチュアルです。
さて、皆さんこの会話の中で、
相手によって意義の有無を感じられる事が
あると思います。
心の充実感の有無と言った方が
分かり易いかも知れません。
これは何故に起きるのでしょうか。
幾つか要因がありまして
その代表格と言えるのが、
「基軸」と「格」です。
「基軸」と、いうのは
自分達が何を芯に据えて会話をしているか
という根幹部分の要因となります。
平たく言うと、
「想い」なのか「俗欲」なのかです。
「格」と、いうのは所謂「霊格」です。
霊体のレベルですとかリテラシーであると
思って頂いて構いません。
これらが複雑に絡み合って
会話の意義の有無を決定付けます。
同じ会話でも人によって感覚の受取りが
大きく異なってしまうのは、
本来のスピリチュアル的に言うと
この為です。
この中でも
「有意義な会話」
と、いうものを幾つ発生させ、
幾つ消化出来るかが、生き易くする上で
現実を愉しむ上で、
必須の構成要素となってきます。
敢えて俗な言い方をするならば、
運気を上昇させる上でという意味ですね。
有意義な会話は、
「個々人の性格や感情」が土台となり
その上で
「双方の格の高さのバランス」と
「想いの力場」の構築を触媒にして発生します。
ここの中身が少しずれていたり力場の構築が
負の力が中心の「念の力場」となると
そのサイズによって意義性に欠けたりします。
にも関わらず、勇を用いて切り上げたり
転進など何らかの改善策を行わずに
遅疑逡巡でいたりすると、
高確率で宜しくない方向へと進む訳です。
もし、何だか色々と上手くいかないと
思われている方がいらっしゃったら、
日頃の会話を見直してみて下さい。
格は自己判断が出来ずとも、
その相手は何を基軸としているのか。
自分は勇を用いてハッキリとした物言いを
相手にしているかどうか。
そして、その無意義な会話の数が
有意義な会話数と比較すると
勝っているのではないか。
この辺を自身にて鑑みるだけでも
状況改善に繋がります。
そして、会話とは
肉体を越えて幽体の繋がりを
実感出来る非常に簡単な業の一つです。
貧乏神に踊らされたり、
自身の俗欲に振り回されていたりして
苦しみからの脱却を図りたいのであれば
こういったセルフチェックを実行する事が
幸せへの道標となりますからね。
思考停止して他力本願となると、
善い自分は遠退くだけですよ。
関係改善を
したい時なんかも
有意義な会話を
目指すのが
近道になるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
何かの業をした後に幸せを感じたり
感じ取ったりする事があります。
この幸せを
「幸福感」と、言います。
幸福感は業の流れや目的、
その内容によってサイズが
大きく変動します。
小さくても大きくても
1つの幸福感として帰結するのですね。
幸福感はサイズを問わず
ほぼ統一に幸せを感じられます。
但し、そこの幸せに
「徳」と、いうものが絡むか絡まないかで
その先の流れが変わってきます。
「徳」と、いうのは形が様々です。
周りが知らぬ間に一人で完了させる徳もあれば
周りに示してから完了させる徳もあります。
どちらも徳なので
選り好みをする様なものではないのですが、
さも「やっています」と、
アピールをする形の徳ですと
自己顕示欲や承認欲求が足を引っ張る
なんて事が多々起きます。
その流れとなりますと、
大量の恨みや念を徒に引き寄せてしまい
徳の効果よりも、
恨みの効果の方が蓄積してしまって
ご自分の状態が
増悪(ぞうあく)する結果となります。
これは本当に多いです。
本当の意味での幸せを噛み締めたり、
幸せを呼び込める人というのは、
他者や周りの存在の幸せを
自身の幸せと認識出来る人の事を意味します。
人の不幸は蜜の味だと
下種な心情が勝っている状態ですと、
結局は自分で自分の脚を
引っ張る流れとなります。
どんなに小さい幸せだとしても
仮に周りが理解しがたい事だとしても
如何に周りの存在の幸せを自身の幸せとするか
その「周り」というのを
可能な限り「万物」にまで範囲を拡げる。
ここに本来のスピリチュアルが指し示す
「幸せ」というものが存在します。
小難しい様ですが、詰まるところ
「独りよがり」にならなければ善いのです。
思い遣った先にある「幸せ」は、
一人では決して得られない代物であり感覚です。
それを幾つ集められるかが、
鍵となってくるのですよ。
念想の天秤や
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
様々な癒しがあります。
マッサージの様な肉体に触れる癒しとか
映像や絵画の様な
目で見て感じ取る癒し、
音楽などの耳で聴きとる癒し、
アロマの様な匂いを嗅ぎ取る癒し
美味しいものを食べて
満足を得る癒し。
五感に直結しているもしくは、
それらを複合的に感じ取るものが
基本的な癒しの形となります。
これらの癒しというのは、
肉体を通じて幽体にも影響を与えます。
幽体の流れというのが整ったり、
肉体内での幽体の納まりが整ったり、
幽体から溢れている感情色が安定したりと
色々な効果を発揮してくれます。
幽体が整うと肉体にも影響が露出します。
逆に言えば、
肉体が整っても幽体のバランスが崩れていたり
納まりが悪かったりすると
せっかく整った肉体も
時間を掛けずに崩れ易くなったりします。
幽体の整いは「想い」が基本となります。
ここでの想いは自身のだけでなく、
対象者が要る癒しであるならば
その施術者の想いも必須の要素となります。
しっかりと癒された筈なのに、
どこか物足りなさを感じていたり。
しっくりと感じられなかったりする時、
自身や相手の「想い」と、いうのを
意識してみても宜しいかと思いますよ。
何とも言えない
独特のものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
霊視が出来るならば、
「行方不明者の捜索に
協力をすれば良いのに」とか
「逃走犯の捜査に
協力をすれば良いのに」など
度々言われたりする事があります。
確かにその通りで、
実際にいくらでも協力をしたいのですが
それは、オーダーが有った場合の話です。
非常に歯痒いのは、
分かっていても教えられない事実です。
行方不明となったご親族やご家族を
必死になって探している方々に、
どうやって話しますか。
大切な人が突然居なくなってしまって
不安や悲しみや言葉にならない様な
辛さを抱えている人に対して、
特段のご依頼も頂いていないのに
結果ありきの話を
どうやってするのですか。
霊視というのは何でもかんでも
分かるものではありません。
そこまで便利な能力ではありません。
そこまで確定的な能力でもありません。
ピンポイントで探し当てたり
非常に有益なヒントとなる事を
見出したりする事は確かにあります。
だからと言って、
それをこちらから率先して
お伝えが出来る程に周知され
認められいる能力でもありません。
人の喜びに関する内容ならいざ知らず、
人の死に纏わる事や
徒に心を傷付けかねない様な内容を
いけしゃあしゃあと言えますか。
人としての気持ちや思い遣りがあるならば
「教えたくても教えられない」
と、いう事の方が多いのです。
どこか利便性や有用性の方ばかりが
目に留まりがちですし、
夢を見られがちなスピリチュアルや
霊的な能力ですが、
実際にその能力を扱う者としては
常に葛藤を持っていたり
ある意味では苦しみの方が
強かったりするものなのですよ。
現実は決して華やかではないです。
なかなかに心を
抉られる時は
多いんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
自然霊に対する一般的な認識ですと
神様扱いとされていますが、
実際のところは位置付けが
かなり異なります。
俗に言う神様よりももっと身近で
親しい存在が自然霊です。
何せ、狭間を介して現世の中に
身を乗り出しているのですから、
この段階で所謂神仏とは
同じではないです。
ただ、人の作りし世界の中で
人智を越えた存在である事に
変わりはないので、
そういった意味合いでは
神さんと呼んでも遜色ないのも事実です。
そんな自然霊ですが、
彼等は常に現世について学んでいます。
人についてではなくて、
「人を含めた現世」についてです。
一見すると管理する側の様な立ち位置で
考えられてしまいますが、些か異なります。
確かに、自然霊が管理をしている側面も
有るには有りますが、
それはあくまでも現世という領域を
彼等自身の立場に於いて学ぶ渦中の
一環でしかありません。
そして、
彼等が現世について学ぶ中の一つに
「人との繋がり」
と、いうものが存在します。
自然霊とは
一度も人に転生した事の無い霊体です。
そんな彼等が人という歪な存在を学ぶ。
その学ぶ中の一つが「繋がり」です。
如何に想いという要素を用いて
肉体を得て俗欲を纏う存在と繋がれるか。
動物や植物、虫やその他の構成元素では
経験し得なかった本能的でも直感的でもない
複雑な繋がりを肉の身体を持たずして
学んでいく。
それが彼等の目的の一つです。
何故なら、彼等の次の転生は人なのですから。
うちらは
人をやってるんやで