皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
運気UPを考えるとなると
心を癒したり
落ち着かせたりといった
リラクゼーションを中心に
皆さん考えがちになりますが、
本当に大切なのは危機管理です。
何とまぁ大袈裟な...
と、思われるかも知れませんが、
運気UPというのは
嫌な事を回避させるという
意味なのですから
危機を回避させる事ですよね。
ですので、
危機管理というのは
全く以て間違っていないのです。
この危機管理の上で
非常に重要となってくるのが
普段からお話をしている
「よく視て」
「よく聴いて」
「よく考える」
この一連の所作となります。
これらを行う上で
意外にも忘れがちになるのが
「覚える」
という動きです。
よく視ても
よく聴いても
よく考えても、
その内容を覚えていないと
全く意味を成しませんし、
所作そのものを消失させます。
よく視たのなら、
よく聴いたのなら
よく考えたのなら、
それを確実に覚えておく。
覚えていないと、
その先にある「使う」という事が
出来なくなってしまうのですね。
つまり、
何をする時でも
「覚えようとして所作をする」
動き方がとても大切になるのです。
何となく視聴きするだけでは
絶対に覚えられません。
という事は、
「使えない」という事。
どんなに有効な手段や知識を
教わったとしても、
使えないのであれば意味が無い。
それは危機に直面する事を指します。
普段の見聞きや五感の全てというのは
その状況を如実に教えてくれてます。
そこの感覚を覚える様にしないと
何をやっても運気UPには
結び付きません。
感覚というのは、
感じ覚えると書きます。
何となくで済ませるには
勿体無い程の高出力センサーです。
そこをしっかりと覚える事は
危機情報を即座に得る
という事に他なりません。
よく視てよく聴いてよく考えるならば
そこに生じている感覚の全てを
覚える努力をしてみて下さい。
危険は確実に回避出来て
運気UPを実感できますよ。
済ませていると
善き事にも
気付けないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
生活をしていて、
なかなか調子が上がらなかったり
倦怠感が拭い去れない状態ですとか
過度のモヤモヤが続いていたりとか
とにかく疲れが取れない、
取れにくい...
そういう時があると思います。
病院へ行ってもテキトーな事を言われ
検査をしても何も出て来ない。
この手の場合の時、
必ずしもとは言いませんが
「会話不足」の場合が多いです。
誰との会話かというと、
「気の置けない相手」です。
要は、気兼ねなく表も裏も無く
何でも話せる人。
友人かも知れないし、
子供かも知れないし、
それは人によって変わります。
何故にそういう会話が不足すると
肉体へ影響が出てくるのか。
普段、我々の生活というのは、
想像以上に緊張感に溢れています。
会話という一点に絞ってもそうですが
日々様々な人との会話というのは
一言で表わせば
「探り合い」です。
ご近所さんやお知り合い、
職場の人や取引先の人、ご親族、
どれもこれも探り合いです。
当たり障りない会話をしながら
当たり障りのない着地点で納める。
それが人間の社会通念ですので
これそのものは問題ではないのですが、
気にしない内に緊張感は
溜まっていきます。
例えば、
楽しそうに話してた井戸端会議の後で
何やかんやと見苦しい文句を言うのは
この緊張感の反動です。
こうした日頃の緊張感は
日常レベルであればちょっとした
リラクゼーションで解れます。
お風呂に浸かるとか、趣味とか
好きな事をするとかアロマとか
人ぞれぞれ色々あるでしょ。
ですが、色々な事情で
それらが出来ない叶わない場合が
生じたりします。
そうした場合にその緊張感は
解消される事無く蓄積を続けます。
そして、ある一定の量を超えると
小手先のリラクゼーションでは
どうにも解消が出来なくなる。
そもそもリラクゼーションすら
しなくなります。怠くて。
そうなると、肉体に影響が出てきて
病気や怪我を引き起こします。
この流れの中で、
気の置けない相手が存在している人は
ほぼ必ずその人との会話を
日頃から愉しんでいます。
寧ろ、それがリラクゼーション
だったりする事もあると思います。
日常の中で何かしら会話をしていて
それが緊張感を
増幅させているにも関わらず
気の置けない相手との会話であれば
例えどんな会話であっても
リラックスが出来る。
何故かというと、
余計な事を考えなくていい程に
相手の事を想っているからです。
「(互いを)信じ切っている」
という意味ですね。
これを「想いの力場」と言います。
そういう人は身の回りに
多くは存在しません。
精々多くても2人くらいです。
では、もし、その人達との会話が
愉しめない状況に陥ったとしたら。
まぁ、結末は視えてきますよね。
先述の通り、肉体を壊します。
ですから、
どうにも具合が上向かない場合は、
少し目線を変えて
会話をしているかどうかを
考えてみて下さい。
恐らくですが、話していない事に
気が付ける筈ですよ。
尚、貧乏神という存在の場合は
この真逆でして
綺麗事の中でしか安らぎを得られません。
なので、気の置けない相手
という存在そのものが
居ない存在なのです。
信じるという事を放棄した存在が
貧乏神ですから
想いよりも「念」の中でしか
生きられないのですね。
これを「念の力場」と言います。
つまり、貧乏神は会話で緊張感を
緩和するのではなく、
自身の自尊心を振り撒く事で
誤魔化すのです。
会話で緊張して会話で解す
人は何とも不完全な生き物ですよね。
不完全なんやから
完璧主義が
貧乏神の入口
言うんも何となく
分かるやろ
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
縷々様々な感覚を養う上で
重要となってくる要素は多々ありますが
その中でも
「想像する力」というのは、
欠かせない素養の一つです。
想像というのは、
ある一定の知識に基づいて
心の中で形を作る意識の一つです。
物、人、風景、動植物、色、
匂い、触感、味覚、音、
万物に於ける総てを再現もしくは
疑似生成させる力が、
「想像する力」です。
何故に、これが感覚を養う上で
重要となるのかというと、
「意識」の一つだからです。
意識というのは、
その方向性と具体性が
より現実に近いものとなった時に
物質化が始まります。
物質化を進める為には
先述した「感覚」が必要なのですが、
その感覚というのは
「想像」の中で具体性を
増幅させる事が出来ます。
言い換えるなら、
想像の中でないと具体性を増し難い
という意味です。
例えば、
眼の前にある物というのは
肉体の眼で視認出来てしまいます。
視認が出来る反面、
過ぎ去っていく風景と同様に
自身の中に確固たる”物”として認識せずに
スルーしてしまいがちなのですね。
「心に留めない」とか
「真剣に向き合わない」
と、いう表現が近いと思います。
これですと、
意識の方向を定めるのが難しく
見てる様で視ていない状態ですから
肉体的な感覚は持ち得ても
幽体的な感覚は知り得ずに終わります。
つまり、
あにきの話している”感覚”というのは、
「肉体的な感覚+幽体的な感覚」
の事を意味しています。
で、この二つの感覚というのは、
自身の想像の中でないと
具体性が増す事はありません。
肉体的な感覚と幽体的な感覚を
想像の中で「融合」させる事で、
本来持ち得ている
より具体性のある感覚を
身に付ける事が出来るという意味ですね。
「意識の具現化」を実践しているお客さんは
何となく意味が分かる筈です。
余談となりますが、
この想像する力というのは、
あくまでも一定の知識に基づいた力です。
要は、現実的な知識(情報)でないと
意味を成しません。
よく、妄想と勘違いする人がいますが、
妄想というのは、
「何の知識にも基いていない
自分本位な思考による産物」であって、
想像とは全くの別物です。
想像する力には触媒として
「自分を信じ切る力」が必要となりますが、
妄想にはそれが不必要です。
ここまでお話しすると
はたと気が付く人も居ると思います。
そう、
貧乏神は「妄想する人」が多いです。
要は、想像する力を育てる事で、
必然的に貧乏神化防止に繋がります。
そして、その想像する力を育てれば
各種感覚を養う事になります。
簡単に言うと、
様々な事をよく考える様になる。
それは現実をよく視定める為の
目利きする力を養うという事に
繋がりますので、
運気UPという形となるのですね。
余談が長くなりましたが、
想像する力というのは、
感覚という物を通じて
自身の中で万物を画一化させるのに
とても重要だということ。
貴方が肉体と幽体を
得ているのですから、
万物に於いてもそれは同じです。
その万物を意識する際に
同様に肉体と幽体を画一させないと
それ以上のアクションを行うのは
難しいと思いませんか。
えらい難儀やけども
もう既にそれを
セッションや
秘密結社で
実践してるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想い。
特に相手への想いというのは
至る場面で必要となりますが、
意外と見失いがちになるのが
己が事、
自分自身の事をする時です。
誰でも何でもいいです
相手が眼の前に居る時に、
相手への想いを抱くのは
何も難しい事ではないですよね。
ターゲットが鼻先に居るのですから。
では、自分が自分の事をしている時は
どうですか
炊事、洗濯、家事全般、食事、睡眠、
学習、運転、仕事、娯楽...etc
自分の事というのは
数えきれない程に滅茶苦茶あります。
相手が眼前に居ない事の方が
圧倒的に多いのですね。
そういう孤立した状況下で
如何に相手を想うか。
想定した相手の為に動けるか。
それをきちんと意識できるか。
途切れる事無く想えるか。
相手への想いの有無によって
己が事の中身が変化します。
例えば、ダイエット。
理由はどうあれ
自分の体形が気になるから
ダイエットを考えるのですよね。
そして、実行をする。
その実行をしている際に
自分の意識はどこへ向いているのか。
相手への想いはどこへ向いているのか。
自分が気になるだけでは、
なかなか続かないのがダイエット。
苦しいですからね。
でも、頑張ってやったとして、
結果が出ない場合も多々あります。
やり方があっていないとか、
間違っているとか
技術的な側面の話や
肉体的な側面の話を
ここでするつもりはないです。
そういうのが
間違っていなかったとしても
問題が無かったとしても、
どういう訳か
結果が出ない事があります。
こういった場合、
想いの欠如が原因だったりします。
ちょうど1年前に
これについて話しました。
愛情欠落(バランスブレイク)です。
まさに、これが起きているという事。
自分の意識はどこへ向いているのか。
相手への想いというのが
置き去りになっていれば
それは自己の悦に浸っているのと
何ら変わりませんから、
ただ、頑張っている風の自分の姿に
溺れているだけの状態です。
それでは、結果も出てきません。
こういった事は全て己が事の時に
発生しやすいのですね。
先述しましたが、
日常というのは
一人の方が圧倒的に多いですから。
こういう事に気が付かない状態となると、
普段の生活時も似た状況となってきます。
ありとあらゆる場面で、
バランスブレイクが発生する、
もしくは、
している状態や状況となってしまう。
過去に自分が出来ていた
相手を想うという事や、
相手への想いというのは、
あくまでも過去の状態です。
一秒でも過ぎればそれは過去です。
それが何の問題も無しに
整然と今も引き継がれている事は
ほぼ無いのです。
ですから、
常に意識の方向を意識したり
相手への想いを自己確認する必要がある。
これが、
自分は出来ていると思っている人ほど
出来ていない。
相手への想いを想像以上に
向けていないという状態です。
そこに気が付けば戻れますが、
気付けなければ堕ちるだけです。
人は生き物です。
常に変わり続けるものですよね。
想いはそこへ遵ずるものです。
であるのですから、
想いも常に動き続けます。
それを阻害する自己の俗欲もあります。
静観していられる程
想いというのは落ち着いてませんよ。
貧乏神化は
始まるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「常に冷静」にというのを
皆さん意識をしていると思いますが、
これは
「落ち着いて思考する」
「落ち着いて行動する」
という意味でもあります。
という事は、
日頃からお話ししている通り
普段の考え方や感情の扱い方だけでなく
行動も含むのですから
普段の所作の中にも
冷静に繋がる改善点がある
という意味にもなります。
例えばですが、
どんなに感情を意識したり
考え方を意識していたとしても
思考よりも先に反応してしまう様な
行動に於いては、
事前ではなく事後に気付いて
訂正ないし修正を施す必要があります。
分かり易い点で言いますと、
「誤字脱字」です。
誤字脱字というのは
事前にどうこう出来るものではなく
全て事後に気が付けるかどうかの代物です。
その誤字脱字というのは、
事前に意識して改善出来るのであれば、
軽い方ですが
意識していても改善が出来ない場合は、
何かを言い訳にしている可能性があります。
よくあるケースですと、
自身の忙しさに甘えた集中力の欠如、
もしくは意識の散漫です。
文字を書くというのは、
意思を伝えるという所作です。
早い話が礼儀なのですから
その中で、「確かめる」という行為が
必然となってきます。
けれども、その時点で
「忙しいから...」というのを言い訳に使い
おざなりにしている自分がいる。
その結果、心の内は気にしているのに
誤字脱字が治らない。
つまり、自身に甘えるという
駄目な自分を見つめていないので
認めてもいなければ
理解もしていないのです。
こういった、
自身のちょっとした所作の中にも
駄目な自分というのは潜んでいて
それが行動という形で露見するものなのです。
その言葉の通りに
自分を見直すのも
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
知識と言うのはとても大切です。
スピリチュアルや霊的な世界を
語ったりする業界というのは
今昔を問わず、
どうしても精神性や感情論の方へと
逃避してしまいがちであり、
それを是としている輩が
多いのが現実です。
与える側も受け取る側もという意味です。
ですが、
本来は確固とした知識に基づいて
話すべきジャンルであって、
そうでないと成り立たないのが
本質でもあります。
予知や予期、予言というのが
実際に存在していますが、
これらがその最たる例で
無知のままですと
どんなに濃ゆい内容の
予知予期予言も
その本質や真髄といった
根幹の内容を引き出す事は
無いと言っても過言ではありません。
そして、その知識というのは、
業界の知識だけではなくて
平たく言うと「叡智全般」です。
要は、人類がこれまで培ってきたもの
それに伴う知識と
個々人が学習して得てきた知識、
触れ得て知り得てきた総ての知識です。
自身が可能な限り得ているその知識を
フル活用しながら提供するのが
本来の在り方であり
少なくとも与える側や教える側は
そうでなくてはいけません。
簡便に言えば、
「現実を見ろ」
ということ。
理想に偏ってては駄目なのです。
自分達が生きているこの現世は
「この現実の中」にあります。
ロマンとしての陰謀論も
希望としてのディストピアも
理想としてのユートピアも
語る分には良いと思います。
けれども、それらは全て
この現実を踏まえた上にあります。
つまり、
現実を見ないと成り立たない
そういう可能性が非常に高い
虚構に近いのです。
それを如何に現実に引き寄せるかは
現実の知識を使い熟せた上での話です。
なので、各種科学的な知識も必要だし
非科学の知識も必要となるという事。
詰まるところ、
予知予期予言というのは、
予測の上に成り立つものであって、
そこを越えるものを視たとしても
表現する言葉すらも充てられないから
結局は与太話となってしまうんですね。
ですから、受け取る側も同様に
知識を持っていないといけませんし、
有無も無く盲信するとなると、
それは思考停止を意味しますし
それは破滅を意味します。
いくらぶっ飛んでいたとしても
現実に沿っていて
知識が伴っているのか
そこを視定められる様にならないと
元来のスピリチュアルや
霊的なものには近付けられませんからね。
早い話が馬鹿(自分本位)では使う事も
聞く事も無理ということ。
本来は
現実をより一層
現実たらしめる為の
叡智の表現法なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
前向きな思考というのがあります。
ポジティブシンキング。
「前向きに元気に頑張っていこう」
あにきもちょいちょい言ってるし、
誰でも簡単に言えてしまうし、
大抵の人が「前向きに前向きに」と
お話をしてくれてると思うのですが、
この前向きというのは何ぞや
という話ですね。
前向き思考というのを
「楽観的な視野でとりあえず動こう
やってみよう」
みたいな解釈でいるならば
決して間違いではないので
それはそれで善いのですけども、
「考える」
という点を忘れてしまいがちです。
楽観的と言うのは、
考えないという意味ではないです。
寧ろ、考えるからこそ
楽観的に捉える事が出来るのですね。
「楽観的=楽」でもないし
「楽観的=あほ面」でもないです。
例えば、
夕飯を済ませて洗い物をしますね。
疲れている時とか、
「めんどくせ...朝に洗うか...」
と、なりそうな事もあると思います。
けれど、ここで考えます。
「でも、朝一で洗い物はウザい...」
「忙しさ倍増は嫌だな..」
ここで、それでも楽を取るならば
前向きではなく欲に負けた事になるので
完全なる後ろ向き、
ネガティブシンキングですね。
こうして考るから、
「やっぱし今洗おう」
「神速で済ませちゃおう」
となって、やっつける訳です。
これが
の、実践ですので、
まさに前向き思考という事ですね。
この様に、ちゃんと考えるからこそ
前向きになれるのです。
そして、前向きというのは、
明るい場面が常という訳ではないです。
寧ろ、その逆の場合が多いです。
けども、
「明るく元気に前向きに!」
みたいな使い方をするし、
「前向き」という言葉の響きも相まって
使用場面が何だか明るい場面だと
勘違いを引き起こしがちなのですが
ほぼほぼ、真逆の暗い場面や
欲に負けそうな場面での使用が
圧倒的に多いです。
つまりですね、
前向き思考というのは
ちゃんと意識をして、しっかりと考える
という基本的な所作が出来てないと
なかなかどうして難しい思考なのです。
その証として、
貧乏神に前向き思考が居ないのも
こうやってちゃんと考えると
納得でしょ。
言葉ってのはね、
感覚的に捉えるだけでなく
その意味を分析して理解する様にしないと
その言葉の指し示す
全き力を引き出す事は
不可能ですからね。
しっかりと
考えなあかんで
っちゅーことやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
あにきは常々から
「よく視てよく聴いてよく考える」
という動き方を推奨していますが、
その中でも「よく聴く」というのは、
意外とネックなのですね。
聴くというと、どうしても耳に
意識を傾けてしまいます。
当然ですね、聴覚ですから。
けれども、それだからこそ
ネックとなってしまいます。
聴くだけでしたら良いのですが
理解する為には物足りません。
耳に意識させるだけですと、
自分が口を閉ざしてしまう人が
結構多いんですね。
「聴かなきゃ(集中)」
みたいな感じです。
気持ちは分かりますが、
これでは馬鹿の一つ覚えです。
木を見て森を見ずというやつで、
聴くという一心になっていて、
話という大義を見失っている。
つまり、聴くという事は
相手に話をさせないといけない。
自分がだんまりを決め込めば
相手は話をしてくれません。
有利な立場にいる時の交渉事なら
それでも良いのですが
普段の会話でのそれは
ハッキリ言って何も得られません。
如何に相手に話をさせるか
気持ち良く言葉を出してもらえるか
心の内を打ち出してもらえるか
要は、よく聴く様にするならば
こちらから話をして引き出してあげる
「努力」が必要なのです。
話過ぎても駄目。
黙り過ぎても駄目。
自分であれば、どういった状況なら
話がし易いかを考えながら
言葉を選んで口にする。
そして、
相手が話し始めたと同時に考える。
何を考えるのかはセッションや
レクチャーをしてる方なら
理解してる事なので割愛しますが、
こういったテクニックが
少なくとも必要となってくるのです。
どんな時でも、どんな場面でも
冷静にそれを駆使する。
その為には様々な要素を同時併用させる
ですからね、
「聴くと言われたからお耳に集中」
と、認識している人は
話が聴けないし、
意味も理解出来ないのですよ。
聴き上手
あの手この手の
引き出しが
必要なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「無表情の人」
「過度に表情を出す人」
どちらが幸せを呼び込めると
思いますか
どちらも大して呼び込めません。
無表情の人、過度に表情を出す人
どちらを見ても、
嫌悪感を抱くからです。
つまり、その手の人は
恨みを買いやすいという事です。
何か精神的な疾患が原因で
というのは勿論別ですよ。
疾患が要因でという人は、
何かしら見分けが付きますからね。
そうではなくて、
あくまでも自分本位な理由で
という意味である事ですね。
例えば、
家族で旅行に行ったり
レジャーに行ったりしてるのに
楽しい感じではなくて
無表情だったり仏頂面だったり
明らかにご家族の中でも
浮いていたりする人。
何か話を聞いている時、
大して感情を揺さぶられていないのに
イチイチ大袈裟に反応する人。
逃げの笑顔を使い過ぎていて
場面を問わず笑顔を作ってしまう人。
直ぐに泣く、直ぐ怒る、
直ぐに笑う、直ぐにしかめる
これらを使う人のどれにも
共通しているのが
「場面の見極めが出来ていない」
という点と、
「そもそも話を理解していない」
という点と、
「何も見てない聞いてない」
という点です。
表情を豊かにしようとは
誰もが簡単に言いますが、
過度に振る舞っても意味がない。
では、何が必要なのかと言うと、
「感情の制御」と
「理解する努力」です。
その上で場面に応じた表情を駆使する。
場面に応じたという事は、
社交辞令的なものも含みます。
人には付き合いというものが
存在しますからね。
真面目な話をしている時に
笑っていたら変でしょ。
ちゃんと理解もしていないのに
大袈裟に反応していたら
「理解してくれたんだ」と、
相手に間違ったメッセージを
与えてしまうでしょ。
理解していないのが
後々に判明したら一気に
恨みを買う羽目になります。
それでは面白くないです。
なので、話をする時は
「よく視てよく聴いてよく考える」
徒に表情を作るのではなくて
その場に応じた
真面目な表情を「出す」様に心掛ける。
当然ですが、
真面目な表情と
無表情は同じではないですからね。
間違ってもそれを混同しない事。
ちゃんとされてる方なのに、
どういう訳か嫌な事が多いとか
何だかパッとしないとか
上手くいかないとか
そういう方はこれが出来てない人が
本当に多いです。
会話やコミュニケーションを軽視して
軽薄な気持ちでその場の雰囲気に流され
自身は簡便な表情に甘える。
そんな楽をして幸せを掴めるほど
生きるというのは単純でもなければ
簡単でもないです。
もっと、その瞬間瞬間に向き合って
心底疲れるのが本来あるべき姿です。
疲労感無くして運気が上がるほど
現世は甘くないという事ですよ。
こういう面を
ちゃんと指摘
説明するものだと
思うんやけどね