皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
霊を視るのに必須な事として
「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」
の、3項目があります。
この中で何かと軽視し易いのが
「生きている存在を視る」です。
霊を視たり感知するのに
どうしても死者の事ばかりを
考えてしまう人が多いですが、
死者は元々「生者」なのですよ。
動き方も考え方も
狭間の世界の住人であれば、
必ず生きていた時の状態を踏襲します。
また、死者と生者の最大の違いは
「肉体を纏っているか否か」です。
霊を感知したいからと言って
見えぬ者を無理に見ようとしても
それは却って盲目になるだけです。
それよりも眼前の生者に対して
注力をすれば気付く点も多くなるので、
視認率は格段に上がります。
人で例えると、
人=霊で霊=人です。
つまり、「生者=死者」と、言えます。
この単純な概念を忘れているから、
人は恐ろしい程に
「生者を軽視」してしまいます。
それが故に、
見た目や言動のみに流されて
肝心の「本質」を見抜けない。
ここで示している本質というのが、
皆さんが「気付き」と呼んでいる点です。
見ている様で視ていない。
聞いてる様で聴いていない。
これらを如何に減少させるか。
その為に必要となってくるのが、
「生きている存在を視る」
と、いう根本的な動きなのですね。
例えば、
眼の前に居るご家族を視て
どれだけの情報を得ていますか。
日々ちょっとした変化や
違いが起きている事に気付いていますか。
その御家族にはペットの犬猫なども
含んでいるのですけど、どうですか。
単一目線、単一行動で済ませていると
気付きという名の情報は
ほぼ入ってきません。
単調な言葉や単一な視覚では
得られない情報の中に
視えざる存在を感知するのに必要な
「本質」が詰まっています。
それらを補完させるのが、
前回記載した五感であり
以前にお話をした万物への認識なのです。
生きている存在を「視る」事で
物理的に情報を得る感度を高めて
上記の必須要素と併せて相互補完をする。
幻想逃避な霊感なるものに頼っても
ほぼほぼ視えないのは
現実的な情報取得の手段に
重きを置いていないからに過ぎません。
ちなみにですが、
生きている存在を軽視したままで
視えてくる霊は
それを「是」としている者のみです。
つまり、悪霊などだけになりますので、
加護する存在などに触れ得るには
程遠いものとなりますからね。
これ読んで
くらくらしたり
眠くなったり
頭痛がでたら
すまんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
霊を視るのに必須な事として
「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」
の、3項目があります。
この中で理解に乏しくなるのが
「五感の研ぎ澄ませ」です。
僕と話をした事がない方は、
霊を視るのに霊感が必要だと
認識されていると思います。
ハッキリしておきますが、
霊感などという感覚は存在しません。
と、言いますか、
元来誰でも持ち得ている感覚なので
敢えて「霊感」という言葉を設けて
特別化させる必要が無いのです。
そこに何かを感じ取れるのは、
「視・聴・嗅・味・触」
この五つの延長線上の感覚でしかなく
全てはこの五つに起因します。
霊を感じ取る際に
どんな言い方をしていたところで
起因すべき初手の感は五感です。
「何かが視えた」
「何かが聴こえた」
「何かが匂ってきた」
「妙な味がした」
「何かに触れた」
これらがきっかけになりますよね。
いや、何かを感じたんだと思う方も
居るでしょうが、
その“何か”はどうして分かったんですか。
冷静に思考すれば理解出来ますが、
その“何か”とは後手なのです。
その前の初手が必ず存在する。
つまり、その“何か”を認識する前に
いずれかの五感が反応して
貴方に感覚として得させているのですね。
そこを追究せずに放置した状態で
由としているから「五感」に対する認識が
ピンと来ないのです。
これを「怠惰」と、言います。
自分の感覚なのに謎にしておいたまま
正しく霊を視るのは難しいです。
そのままでは必ず自身の俗欲に流されて
事実認識が出来ずに幻想へ逃避します。
それでは貧乏神へ堕ちてしまうので
根幹を成している五感を研ぎ澄ませて
初手の感覚を正しく得るのが必須なのです。
五感を研ぎ澄ませると言うと、
何か瞑想的なものを
想像されるかと思います。
然しながら、
必要なのはそこではありません。
もっと単純で良いのです。
「自分が何をしているのか」
「自分が何を感知したのか」
これらを一つ一つ認識する
その努力を維持継続すればいい。
人は高性能センサーである五感を
恐ろしいほど大体で使用しています。
おまけに感知したものを謎のままとするから
記憶にも残らずに既知の知識ともならない。
そんな状態なので
「霊感」という幻想に逃避する。
例え、目に映らない存在であっても、
何かしらの痕跡を必ず遺すのですから
それらを分析解析出来る五感を
日頃から可能な限り
養ってあげれば良いのです。
「謎を謎のままにしておかない」
という努力の事ですね。
いくら瞑想をしようが滝に打たれようが
普段の感覚がバカになっているならば
その場のハリボテで満足して終了です。
「いつ、何が、どこで、
誰が、何故に、どうして」
事ある毎に五感を基にしてこれらを追究する。
その先にあるのは何かというと、
「自身の感覚を信じ切る」
と、いう最も必要な心情です。
霊を視るというのは、
五感つまり肉体で得た情報を
幽体にダウンロードして視るのです。
そこには「信に徹する」という
絶対的な要素が必要になります。
何故かと言うと、
肉体があるからこそダウンロード時に
俗欲が邪魔をするからです。
当たっているかどうかなどの俗欲ですね。
これを払拭するには
圧倒的な知識と経験が必要なのです。
そして、それは普段の生活の中で
如何様にも向上させる事が可能です。
その中枢にあるのが我々の持つ
「五感」なのですね。
ですから、五感を研ぎ澄ませる事が
霊を視る事に必須な条件となるのです。
これ読んで
くらくらしたり
眠くなったり
頭痛がでたら
すまんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人を信じると言っても
なかなか難しいものです。
信じたのに上手くいかなかったとか
裏切られたとか。
言いたい事は山ほどあるでしょうし
云わんとしている事も理解は出来ますが、
それは信じたのではなく
「信じているフリ」を、
していただけだから失敗をしたのです。
貴方が信じる以前に、
貴方は信じてもらえる様な
「振る舞い」や「業」をしていたのか。
そこが抜け落ちているのですから
上手くいきようがありません。
ですから、「フリ」なのですね。
この思考回路を「自分本位」と言います。
こうして話すと分かるのですが、
「自分も信じている」
ではなくて
「自分が信じているのに」
で、留まっています。
つまり、最初から最後まで
自身のみで完結してしまっているのです。
そこに「相手から」や「相手の為」という
想いが全く存在しておらず、
この時の「相手」とは、
ただ自身を正当化させる為だけの存在として
扱っているに過ぎません。
それなのに、
相手から信じてもらえないもクソも無いのは
火を見るよりも明らかですね。
信じるのであれば、
まずは信じてもらえる業を心掛ける。
相手の為に
相手を信じ切る努力をする。
この想いを軸に据えた動きが出来なければ
人を信じるのは高難度のままですからね。
人じゃなくても
同じ論理で
成り立つんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
霊を視るのに必須な事として
「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」
の、3項目があります。
この中で恐らく一番難しいのが
「万物への認識」です。
ふとした時に人は人だけを認識します。
視界に入っていたとしても
その他の存在を忘れてしまいがちです。
この感覚を極力薄くさせるのです。
無くす事は不可能なので薄くさせる。
自分が周りにいる存在と同じで
現世に居る“一存在”であって
種や種別だけが違うという認識を
可能な限り当たり前の状態にする。
と、いう感じです。
これを話すと「自然と一体化」などの事を
口にしてくれる人が多いのですが、
その中での「自然」というのは、
動植物で止まっている人がほぼです。
それでは万物ではなくて
「科学的知見での生物」です。
認識すべきはあくまでも「万物」ですから、
鉱物や空気、火や水、人工物も含みます。
それら総ての中での構成要素の一つが
「自分」なのだという認識を持つ。
少なくとも
「持つ努力をする」という意味です。
本当に視たいのであれば、
この感覚は絶対条件となってきます。
普段すっかり忘れている当たり前の感覚を
どれだけ認識する事が出来るかで
視え方も視える世界も変わります。
少なからず「狭間の世界」を
正確に視たいのなら必要になります。
間違ってしまいがちなのは、
万物への感謝をする
という事では無いという点です。
この手の説明をすると直ぐに
認識=感謝と解釈する人が多いのですが、
それは大きな誤りであり
考え無しの馬鹿な動きですし、
あまりに宗教的観点が強すぎます。
認識だと言ってるのであって、
そこには善い点だけが存在しているではない
というのを忘れてはいけません。
死に直結する様な怖い点もありますからね。
貴方達も善い面と悪しき面の両方を
持ち合わせていますよね。
それを理解する事無く感謝に直結させるのは
あまりにも利己的な思考であり
「逃避」と言えるものです。
以前にも投稿をしましたが、
その場で一分間息を止めてみて下さい。
当然ですが苦しいですね。
そのまま止めておけば死ねます。
これが空気という存在です。
水を一滴も飲まずにいたら死ねますね。
これが水という存在です。
料理に火は不可欠ですが、
服に引火したら死ねますね。
これが火という存在です。
あまりに身近に存在する万物の一つであり
その存在の親さ故に
すっかり忘れている善悪の二面性。
それらを全て含めた存在と
自分達は一緒なのだという認識を持つ。
この独特で基本的な感覚が
これまで視ようとしなかった視界や
視えてこなかった視界を押し広げてくれて
視たい世界を自然に視える様に
してくれるのです。
そこに広がるのは、
悪霊だけとか生霊だけとか人だけとか
そういった狭く隠遁な世界ではなくて
今視えている世界よりも遥かに広くて
念想が溢れている世界ですからね。
眠くなったり
頭痛がでたら
すまんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分が何かしら動く際には
目的というのが必要となります。
どんなに小さい事だとしても
善し悪しを問わず
目的無き動きというのは
存在し得ないと言えます。
何の為に自分は動いているのか。
その動きについての
意味を理解しているのか。
そんなことをイチイチ考えるなど
本当に七面倒臭いのですが、
そこを失念して手段が目的へと
変わったりしてしまうと
俗に言う「嫌な事」が起きるのですね。
さて、
この目的に沿った動きの中で
大切になってくるのが
「響き」
と、いうものです。
この「響き」とは、
自分の動きの効果表現でもあり
受容する側のきっかけともなるものです。
相手に「響かせる」
相手から「響く」
を、実感する事によって
目的が成就に向かっていくのですね。
例えば、僕が業(おこない)として
このブログを書いていますが、
その目的は教わる人の為の
あくまでも副教材です。
と、同時に。
僕に会った事が無いとしても
少なからず頑張っている人の為にでも
なれば良いなと考えて書いています。
頑張っているというのは、
この先のフェーズに向けて頑張っている
という意味であって
一般的な頑張りとは少し違いますけどね。
「選別」とも言えますね。
そういう目的ですから
教わっている人以外ですと
読まなくなる人がまぁ殆どなのですが、
その中でもコッテリと読まれてる方々が
居てくれるのですね。
この方々にはきっと
言葉では言い表せない何かが
「響いた」のだと思います。
これが目的から生じる響きであり、
前述した「何か」というのが
「想い」なのですね。
要するに、
僕の想いを受け取ったという事です。
こういった流れを普段の業の中で
常に感じる事が出来る様に努めるのが
本来のスピリチュアルの真髄の一つです。
なんて
本来は有り得ない
ものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
何事に於いてもそうなのですが、
真面目過ぎるが故に
欲に駆られてしまう。
と、いう事があります。
あにき風に言うのであれば、
「霊的な視野狭窄」
と、いうのがこれに該当します。
どの様な事も真剣に
真面目に取り組む事自体は
全然良いのですが、
貴方が行っている
その取組みの目的や物事の真髄を
しっかりと理解しているのか。
また、理解をした上で根詰め過ぎないで
それを行えているのか。
ここで変に集中し過ぎてしまうと
猪突猛進的な状態となってしまったり
「決め付け」という様な
悪手を犯してしまう事があります。
真面目さはとても大切ですが、
どんな時でも行き過ぎは
宜しくないです。
不真面目でも真面目が過ぎても
俗欲に駆られてしまう事が多々あります。
一見すると相反するものに思えますが、
これらは「目的逸脱」という点で
繋がっているのです。
真面目さも度が過ぎれば
視野狭窄に陥って目的を見失います。
その際の貴方は目先の俗欲に
心を奪われてしまっている状態です。
これは別に
スピリチュアルに限った話ではありません。
どんな事にだって当て嵌まる話です。
例えば、
健康の維持が目的だった運動が、
痩せてきたという実感を得たが為に
もっと絞りたいという俗欲に駆られてしまい
身体を壊してしまう。とか。
感覚を掴む目的の小さい幸せ探しが、
いつしか「探す」という手段を
目的としてしまっていて、
感覚そのものを見失っていたり。とか。
日常の中にこの落とし穴は
信じられないくらい数多存在します。
それを防ぐ為に、
まずは愉しむ事に注力をする。
その中で、どうしても俗欲に躍らされて
感情の揺らぎが出てくるので
そのタイミングで「真逆の思考」を使うのです。
嬉しい時でも哀しい面をそっと置いておく。
怒っている時でも楽しい面をそっと忍ばせる。
こういった俗欲の制御は
とても難しいですが、
決して出来ないものではありません。
嫌な事が起きるのは
大抵駄目な自分が露骨に出てきた時です。
浮かれ過ぎ
怒り過ぎ
哀しみ過ぎ
楽し過ぎ
この時に目的を失念するので、
視野狭窄に陥って厄を発動させるのです。
真面目も良いですが、
まずは心から愉しみましょう。
そのくらいのラフさとフランクさくらいが
丁度良いものなのですよ。
真似をしなけりゃ
ええんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
「運気が良くない」とか
「調子が良くない」とか
「何かと上手くいかない」とか
「もっと良くしたい」とか
理由は様々あれど運気UPを望む人の
殆どが俗欲をベースにしています。
ここまでの話を聴いて
「それは宜しくないな」
「私は違うわね」
などと、思った人は
そこそこに危険な状態です。
何故かと言うと、
何をするにしても俗欲をきっかけとして
人は動くものだからです。
俗欲に溺れる事が駄目なだけであって
俗欲そのものは決して悪では無いです。
そこから目を逸らして
最後まで話も聴かずに悪と断定するのは
自身の駄目な面をも視ないと、
宣言しているのと同じなのですね。
そういった状態の方がやらかし易いのが
「即効性の希求」です。
「辛さや苦しさから逃れたい目を背けたい」
確かにその気持ちは分かりますが、
大元の問題を理解する事と
その改善に目を向けなければ
例え一時的な快方を得たとしても、
いずれまた同じ状態に陥って
症状は見るからに増悪していきます。
自身の状態が芳しくないのは
貴方が長期間に渡って俗欲に溺れながら
周りに流されて好き勝手に動いてきたツケです。
云わば、俗欲や貧乏神といった毒沼の中に
どっぷりと浸かってきた訳です。
解毒自体の即効性は約束出来るものですが、
その後の改善という点や
予防などという点については
即効性など望める事は無いのです。
それなのに即効性ばかりを希求するから
おかしな事に繋がっていくのですね。
何事に於いてもですが、
改善というものには「急がば廻れの精神」が
重要なものとなってきます。
「持っているだけで幸せになれる」
「視るだけで運気アップ」
「聞くだけで霊力増強」などなど
断言できますが、
そんなの決して有り得ない事です。
運気UPや改善というのは
貴方自身の不断の努力が実を結ぶものです。
よく視てよく聴いてよく考えながら
失敗を恐れずに自ら動いて得るものです。
あにきみたいな存在は、
貴方の努力を開始させたり後押しをする為の
きっかけに過ぎません。
楽をしたいあまりに、
縷々響いてくる喧しいまでの綺麗事には
悦という名の毒素は有っても
即効性や回復効果はありませんからね。
純度を上げる
それには自身の
努力が不可欠やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
俗欲というのはどこにでも存在して
誰もが持ち合わせています。
そして、現世に居る間は
決して消える事も消す事も叶いません。
そういう類の代物ですから、
教わる側のみならず
当然ながら「教える側」にも存在する訳です。
例えば、
貴方が様々な霊と話が出来るとします。
その霊からアドバイスを教えてもらって
誰でもいいですけど
相談者さんとかに教えたとしましょう。
この流れですと、貴方は単に霊の言葉を
人に伝えただけの云わば「仲介者」ですね。
偉くも何もありません。
それなのに、恰も自身の手柄としたら
さぁどうでしょうか。
こうなると俗欲に溺れた事になります。
何故ならば
アドバイスをしたのは霊であって、
貴方は口を貸してあげたに過ぎないからです。
手柄とするという事は、
どの霊からのアドバイスなのかも告げないとか
特段の理由も無く霊の存在を差し置いて
「自身が見定めたと偽る」
と、いう事ですね。
また、相談を持ち掛けた相手さんからの
「賞賛を全て真に受けても」
やはり先述と同様
俗欲へ溺れた事に繋がります。
これは、日常の中での習い事等でも言える
教える側の「基本的な俗欲」です。
習い事で教わる側の生徒さんが
日頃のお稽古の成果を
発表会などの場で披露しますね。
オーディションなどでも良いですね。
そこで、生徒さんが素晴らしい成果を
出したとします。
教える側たる師匠への賞賛もあるでしょうが、
ここで真に賞賛されるべきは
教え子たる生徒さんです。
努力し結果を出したのは生徒さんですからね。
にも関わらず、
師匠がその賞賛を全て真に受けて
自身の手柄としたらどうですか。
明らかにおかしな事になります。
生徒の努力を素直に認めて
自身は引き手に回り喜んであげる。
もし、この時に貴方の素直さ度が低いと
先程の様な俗物根性剥き出しな
愚行を取る事になります。
貧乏神化防止は常に自分との戦いです。
教える側とてそれは同じなのだという事を
肝に銘じて
日々の業を重ねていきましょうね。
親子間とか
家の中とか
どこにでも
こういう場面は
ままあるものやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分本位思考というのは
誰の中にでも存在します。
自分は気を付けているから大丈夫と
思っていても必ず存在します。
寧ろ、そう考えていると
制御が効かなくてエライ目に遭います。
それ程に身近なものであり、
切っても切れない俗欲が
自分本位というものです。
そんな自分の中の自分本位思考を
目で見て確認出来るのなら
これほど助かるものはないですね。
では、どうやってそれをやるのか。
難しく考える必要は全くありません。
ここを読めば良いのです。
ここというのは、
このクソブログ自体の事です。
難しいですよね。これ。
わざと難解に書いてる訳ではなくて
この方が「書き易い」だけです。
「読み易さ」という点に焦点を絞りこんだ
書き方も実際には出来ます。
ですが、最早その段階ではなくて
「濃い内容」に焦点を合わせた方が
皆さんの為になりますし、
濃くするのであれば投稿頻度も
増やす必要がありますから、
書き易さ重視にしているのですね。
こんな書き方が書き易いなんて
イカれてるとしか思えないでしょうけど、
昔取った杵柄としか言えないので
こればっかりは仕方ないです。
さて、何故この話が自分の中の自分本位に
繋がるのかと言いますと。
ここを最近初めて読んだ方の殆どが
難しいと思われた筈です。
実際、直接そういうお声も耳にしています。
ですが、それは最新の記事とかを
読まれているからに過ぎません。
バックナンバーを読めば分かりますが、
先程述べた通り直近の記事と比べると
段違いに読み易くなっています。
と、言いますか、
書き方そのものが今と違います。
とても入り易くなっています。
最初の記事から読めばいいのを
横着したのは何故ですかね。
こうして言われてみると
最初という基本を読みもしていないのに
難しいと断定するのは
些か違うのではないかと思いませんか。
そう思えたのであれば、
それが「貴方の中の自分本位」です。
書き手には書き手の思惑があります。
読み手はそこを読み取ってこその
読み手です。
これが書き物に於ける「気持ちの咀嚼」であり、
想いの遣り取りであり「思い遣り」です。
けれども、そこを横着という俗欲の型を
実行させたのは誰でもない貴方です。
「新しい情報が欲しい」
「気になるものだけ欲しい」
「全部読むのは面倒臭いから」
挙げたらキリがないですが、
横着の要因は概ねこんなところでしょう。
見事なまでの俗欲であり、
改めて言われてしまうと
呆れる程の自分本位思考ですよね。
敢えてディスった感じで話しましたが
この様に自分本位思考なんてものは、
誰でも抱えているものなのです。
ここでいちいちショックを受けるのではなく
はたとその事実のみを受け止める。
「私は大丈夫だった」とか
「そんな風には思っていない」とか
「書き方が悪い」とか
何やかんやと言い訳をして
「嫌な事実」から目を背けるのではなく
素直に「自分の中の自分本位」を受け止める。
このサイクルを日々繰り返す事が
駄目な自分の制御に繋がっていき、
愉しみを増やして運気を上げていくのです。
何事にも基本や基礎というものが存在します。
その土台なくして応用をする事は叶いません。
対人で言うところの、
「斜め読み」や「流し聞き」がこれに該当します。
ですから、
「よく視てよく聴いてよく考える」事が
大切になってくるのですからね。
これが理解出来ない
どうしても楽したい
自分は大丈夫
自分は悪くないと
思う人が
貧乏神になるんやで